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大和ミュージアム・進水式展~戦艦「大和」の進水

2014-11-23 | 海軍

大和ミュージアムで開催中の「進水式展」からです。
ここは「大和」ミュージアムなので、戦艦「大和」の巨大模型ががホール中央に
どどーんと鎮座しております。



展示室内部は写真撮影不可となっていますが、こちらはOK。



子供が立ち入り禁止のスクリューのところにいるような気がしますが・・。



大鑑巨砲に寄せる日本国民の信頼は計り知れないものでした。
「大和」は勿論その存在すら国内に秘匿されていましたが、
「長門」「陸奥」の巨砲が太平洋に向いている限り日本は大丈夫、
とたとえば兵学校の生徒なども信じきっていたといいます。



向こうにいる3人のグループは一人がコケイジャン(白人系)です。

前回は気づかなかった搭載機。
尾翼の1/200って、もしかして縮尺率?



水上機が艦橋を向いていますが、カタパルトから発射するときも
この向きなんでしょうか?



以前来たときも

「この大和の模型に乗っている人の制服がおかしい」

ということについて突っ込んだことがあります。
たしか海保の制服を着た人が乗っていたのですが、
これは・・・・海保でも自衛隊でも、旧軍でもないし、
もしかしたら、駅員さん?

さて、現在行われている「進水式展」では、勿論のこと
「大和」の進水に関する資料もありました。



まず、現存する「大和」進水式のアルバムです。
くれ海軍工廠造船部部員のために編纂されたものであるとのこと。



これは、「大和」を建造している船渠、つまりドックの山側、

「大和」の艦首と向かい合うような形で設置された進水式台。

進水式台は呉海軍工廠造船部長・庭田尚三海軍造船少将が設計した
総ひのき造り、純白のキャンバスをはり廻らせた社殿風の立派なもので、
この進水台で「大和」という名前の命名、及び支鋼切断が行われました。



海軍機関学校卒の超エリート技術者たち。
眼鏡装着率が高い気がします。 

これは上写真の進水台の下で撮影されたもので、
前列左から3人目が、
戦艦「大和」設計主任であった牧野茂海軍造船中佐、
6人目が、造船部長庭田少将
2列目右から3人目がこのアルバムの寄贈者であった
高橋正徳海軍造船中尉です。



「大和」進水記念の風鎮。

風鎮と言われても殆どの方はピンと来ないかもしれません。
床の間に掛ける掛け軸の錘にするものですね。

この風鎮をデザインしたのは、進水式台の設計も行った庭田少将。
勿論絵も庭田少将の手によるもので、多才な人だったんですね。
これは有田焼で(おそらくこれも深川製磁が製作したと思われ)
進水式のときに関係者に配るために500セットが用意されたのですが、
まだその時点では艦名が何になるかの情報がなく、「大和」「武蔵」
になるだろうという予想のもとに、奈良県(大和の国)にある橿原神宮、
東京都(武蔵の国)にある千代田城二重橋の絵が対に描かれました。

ごく少数の関係者に配るつもりだったのですが、秘密保持のため
それも許されず、竣工後、直接の工事関係者にのみ

「皇紀二千六百年の記念」

と背面に記して配られたそうです。



風鎮と同じく、進水式記念のために作られた湯のみ。
正面には庭田少将が設計した進水台の絵が描かれ、
背面には「進水記念 呉海軍工廠」と記されています。
湯のみの蓋の裏には造船部のマーク。

勿論この湯のみも、配ることを許されませんでした(T_T)



建造写真のアルバムから。

13年8月30日
造船船渠上家第一、二、三、柱及合掌山手移動前ノ姿

とあります 。



造船船渠上屋(大屋根)建造写真アルバムより。
戦艦「大和」は昭和12(1937)年11月4日に起工され、建造が始まりました。

建造秘匿するため、船渠(ドック)両側の鉄骨に
トタンやシュロで編んだムシロがぶら下げられました。

これで海側や陸側の平地からは中を窺うことができなくなりましたが、
山側の宮原地区の民家や道路からは丸見えであることが判明。

そこで昭和13年になって、大屋根を作ることが決まりました。

施設部の建築技術者が、風速60mにも耐えられる構造で設計し、
造船部が建築工事を担当し
第3船台で鋲打ちをして組み立ててから取り付けられました。

外部に工事を発注するわけに行かなかったからですね。




昭和13年8月31日
上家工事一、二、三柱及合掌組合セ完了セルモノヲ
山手予定位置迄 約27m移動ス

ワイヤカムの上にさり気なく置かれた小さな帚にご注目~。
いちいちこんな部分を帚で掃いていたってことですね?

それに、27m動かしたとかなんとか、これも逐一
写真に残して記録する(しかもアルバムにまでして・・)。

余談になりますが、韓国が言っている慰安婦の連行とやらもですね、
もし軍が主導して何十万人も連れて行ったのなら、
日本軍がその何の記録も残さないない、なんてことはありえないんですよ。

こんなことを言うと「皆証拠は隠滅した」って言うんでしょうけど、
一人や二人の証拠ならともかく、そんな大々的なものなら隠滅するにも
限度というものがあるでしょう?

日本人の記録魔ぶりを舐めたらあかんよ。



さてそれではこの辺で、「大和」の進水式についてお話しします。

「大和」は、前にも説明したように、「注入進水」、即ち船渠に

海水を注入する方法が取られました。
約4万トンの巨体だから、ということですが、姉妹艦の「武蔵」は
進水台を滑り落ちる「進水台進水」を行っているので、
この決定の基準は今ひとつ分かりません。

しかし「大和」の船体の甲鉄の重量は余りに大きく、
海水注入して曳船で外海に引き出すこの方法は、
ドックをさらに1m掘り下げなくては行けませんでした。

また、揚重機能力の向上、側壁の階段の削除、機密保持のため
目隠しの塀、4分の1部分には新たに大屋根が設けられました。


この写真は呉工廠で初めて進水式を行った「扶桑」のものです。
大正3年進水の、国産初の超弩級戦艦でした。

以降、大型艦艇は同じ造船船渠で建造され、進水します。



「大和」の支鋼が切断された瞬間。

昭和15年8月8日、「大和」進水の日、市街では防空演習が行われ、

市民には外出禁止が言い渡されていました。

支鋼切断を行うのは平時であれば賓客の夫人などですが、

このときその儀式を行ったのは呉工廠長の砂川兼男でした。
写真の赤い毛氈の台の奥にいるのが砂川です。


「大和」は、最大満潮時に進水しています。
建造時から重量バランスを計算され、進水時には

「機関部搭載と2基の主砲未搭載のアンバランス」

を解消するため、前部に3千トンが注水され、
バランスを保ちながら曳船でゆっくりと引き出されていきました。

庭田少将の進水式の様子を描いた「戦艦大和建造秘話」からです。


午前8時過ぎ、御名代久爾宮殿下が、ご乗艦の「常磐」から
極めて非公式に工廠桟橋にお着きになった頃、にわかに港内に黒煙、
白煙立ち昇り海面を覆うて煙幕が展長せられ、
これは何事かと思う間もなく殿下には、公式のご資格となって
自動車で式場にお成りになり、午前8時20分、司令長官日比野中将のご案内で
玉座にたたせられました。
工廠長砂川中将(以下略)のみ参列してお迎え申し上げ、海軍大臣代理として
司令長官は

本艦を大和と命名す

という命名書を小声で読み、型のごとく工廠長から造船部長の私に
進水命令が下され、進水主任の芳井造船中佐の号笛指揮により
進水作業は開始せられましたが、滑水式の進水とは違って

【一】用意

【二】纜索(らんさく:船をつなぐための綱)張り合わせ
   前後左右の繋留索の固縛を解いて、各索に十人充ての作業員が
   綱を持つ

【三】曳き方始め 港務部長が静かに曳船に曳き方を命じ、
   艦首の纜索に張りがかかるのを見て進水用意よしと工廠長に報告

【四】支鋼切断 式台上の支鋼を金斧で切断すると、渠頭に設備してある 
   「ギロッチング・シャー」の支鋼がゆるんで、重い刃先が
   その下を通してある張り切った紅白の艦首纜索を一挙に切断する 

の順序によって、軍艦大和は、静々と折から展張せられた煙幕の中を
渠外に向かって曳出されたのでした。
勿論軍楽隊の演奏もなく、ただ薬玉が割られて七羽の鳩が舞い上がり、
五色の紙吹雪だけが圧搾空気で吹き出されて景気を添えたのが
せめてものはなむけでした。 



進水前に行われた、砲塔積み込み作業の写真です。
写真前方の第1主砲塔は、内部艤装中。

砲塔中央の隔壁手前には、15m測距儀(日本光学、現ニコン製)が
装備されます。
写真手前の第2主砲塔は、給弾室まで搭載完了です。

「大和」最大の機密がこの46センチ主砲の搭載と配備です。
 主砲塔各部の艤装終了後、小屋掛けされ、主砲塔の大きさを機密にして
進水は行われました。

山本五十六が「何人たりともお見せすることはできません」
といって主砲を見るのを断られたって話もありましたねそう言えば。

 

艤装中の「大和」。
写真左奥艦首部分には船腹が視認できないようにする簾をかけ、


(加古) 
(衣笠)   (間宮)
             
                     

           (鳳翔)     
            

 

こんな風に周りに艦艇をカムフラージュのために配置していました。
 



「大和」の重量配分は船殻28.3%、甲鉄および防御鈑33.1%で、

「陸奥」「金剛」に比べて船殻重量は小さく、甲鉄重量が大きい 

重防御艦

です。
VH鋼鈑は進水前には4枚だけ付けられ、残り60枚は
進水の後に取り付けられました。



最大中央の断面図。
赤い印は、舷側のVH鋼鈑取り付けの箇所。




ここになぜか、呉工廠製の手鏡が展示されていました。
兵器の材料で鏡を作ってしまいましたー、な製品です。
海軍工廠もNASAみたいなことをやってたんですね。



信管魚雷の部品として試験開発中にして将来益々
用途増加の望あり、とあります。

「大和」の遺品も展示されていました。



「大和」の長官公室にあったサイドテーブルだそうです。
公室とは聯合艦隊司令長官が、来客接待や作戦会議に使用した部屋です。

「大和」が昭和17年2月に聯合艦隊旗艦になってから1年間、
司令長官山本五十六海軍大将が「大和」の公室を使っていました。

このサイドテーブルは、戦局悪化と共に可燃物を艦内から運び出したため、
こうして元の形で今日残っているのです。




この黒板は、戦艦大和の第19分隊長が使用していたものです。
鹿児島県甑島海域で昭和22年操業していたカツオ船の船員が、
波間に漂っているこの黒板を発見しました。

船員はこれを持ち帰り、その後ずっとこの黒板は

宮崎県日南市のある焼酎倉で使用されていました(おい・・)



第19分隊とは、発電機や各種ポンプ類など、主機関である
蒸気タービンの運転に必要な補助機会を担当する分隊でした。

分隊長が実際に指示、連絡事項を記すために使っていたものです。

それにしても、不思議なことが二つあります。


まず、三年近く波間に漂っていたのに、この黒板はほとんど
その後の使用に耐えるくらいダメージがなく、裏書きされた墨字が
全く褪せていないこと。

そして、第19分隊のあったのは大和の左舷中央の最も船底の部分でした。
19分隊の乗員は間違いなく全員死亡したと思われるのですが、
大和の船体が海底で折れるように崩壊したとき、本来ならば
決して見つかる筈のない船底にあったこの黒板だけが浮かび上がり、
そうして平成26年の現在、ここに存在しているということです。




(次回は戦艦「武蔵」の進水式)