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栄光無き天才飛行家 リンカーン・ビーチェイとその時代

2014-11-10 | 飛行家列伝

ヒラー航空博物館の展示を元にお送りしている、

「飛行機黎明期の華麗なる飛行馬鹿たち」

ですが、その無謀なお馬鹿さんたちの中でも彼、
リンカーン・ビーチェイは
最も当時成功をおさめ、
センセーショナルな話題を集めた人物でした。

ここで、ざっと彼の業績を挙げておきましょう。

●ストール(失速)からの回復方法を偶然編み出す

●逆さま飛行した最初の人物

●ビルディングの中を飛んだ最初の人物

●落ちているハンカチを翼端で拾い上げた

●宙返りを最初にした

●テールをスライドさせた最初の人物(故意だといわれている)

●「木の葉落とし」といわれるマニューバを最初にした

●というか、アクロバット飛行そのものを発明した人間

●垂直降下を最初にした

●ナイアガラの滝の上を飛行し、

 「世界の8番目の奇跡」と讃えられる

●カーティス、ライト兄弟、エジソンに
 「世界最高のパイロット」と言われる


●米国史上最も多くの観客を集める


飛行機がまだ動力を得たか得ないかのころ、写真のような原始的な飛行機で
これらのスタントをやってのけたというだけで十分彼の偉業は伝わります。

1911年と言えば、前回お話ししたグライダー発明家のモントゴメリー教授が、
自作の「エバーグリーン」で飛行中墜落して死んでいる年でもあります。

いかに彼の技術が傑出していたかということであるのですが、
加えてかれは、冒頭写真でも十分伝わるように、まだ20代の、
しかもとびきり魅力的な美青年で、そういったエンターテイメント的要素もあって
絶大な支持を得たのでしょう。

さて、ビーチェイの話の前に、またいつものように寄り道になりますが、
ここヒラー博物館に展示されていた航空黎明期の乗り物に付いて、
もう一つだけお話ししておきます。



飛行機じゃないだろ?船だろ?
と皆が思うこの機械。

昔はこれを飛ぶと信じて真面目に作った人がいたということらしいです。
というか、どうやって飛ばすのか想像すらつかないんだが。 




向こう側に見えている、もしこれが赤ければ、マン・レイの
「恋人たちの時間」の唇みたいな物体は、
フレデリック・マリオットというイギリスの発明家が飛ばした

Hermes Avitor Jr.です。

マリオット


ちなみにこの日本人が「エルメス」と読んでいるところのHermesですが、
アメリカでは「エルメ」と言わなくては通じません。
なぜかと言うと、本場フランスの発音に準じて、同じだからですね。
フランス語では語頭の「H」、語尾の「S」はいずれも発音しません。
日本では語尾はともかく「S」を発音することに誰かがしたらしく、
世界のどこにも無い「エルメス」というブランド名で呼んでおります。

それはともかく、この場合はイギリス人の命名なので
「ハーメス」と読むのが正しいでしょう。
ヘルメスはローマ神話の「神のメッセンジャー」です。




1868年に飛ばされたこの飛行体は無人で、つまりこれをもってハーメスは

「アメリカで飛ばされた最初の無人飛行体」 

という称号を得ました。
 


ハーメス模型。
エンジンは1馬力の蒸気です。
内部は水素が充填されました。

 





このときの実験の写真が連続で残されています。
いい大人が何やってんだ、ってかんじですが、何しろこれが
アメリカ発の無人飛行隊初飛行。歴史の一瞬でもあったのです。



この実験の成功に刺激され、空を飛ぶことを志した人物の中には
他ならぬモントゴメリー教授もいました。





さて、リンカーン・ビーチェイの話に戻りましょう。

この、カーティス・プッシャーに乗って、超人的な飛行技術で有名になり、
名声とともに大変な富を得たのが、ビーチェイでした。

彼は1887年、サンフランシスコに生まれました。
幼少の頃は、彼が後年スターパイロットになることなど想像もできなうような
ぽっちゃりした無口な少年だったそうですが、実はこのころから
その大胆でスリルを不適にも楽しむような資質は備わっていたと見えます。

フィルモアストリートというのはサンフランシスコの、
ゴールデンゲートブリッジのあるサンフランシスコ湾から市内に向かって
縦にたくさん伸びている通りの一つですが、
(最近はお洒落なブティックやカフェが集中するにぎやかな通りでもある)
この辺りの道に例外無く、常にアップダウンが激しい部分があり、
場所にもよりますが、車で降りるのも怖いような坂です。

この坂を子供の頃の彼はこの通りを、
ブレーキも付いていない自転車で下ったそうです。



長じてかれは飛行機整備士としての職を得ました。
後に彼は自分が乗るために飛行機の設計もしていますから、
おそらく整備士としても優秀だったのだとは思いますが、
実は自分が操縦するチャンスを狙っていたのです。

1911年、彼が24歳のときにそのチャンスは訪れました。
彼が整備していたロスアンジェルスの航空ショーのスターパイロットが怪我をし、
そのピンチヒッターとしてかれが操縦を任されることになったのです。

その飛行で、彼の操縦する機がまっすぐ上昇して3000フィートの上空に達したとき、
機はいきなりストール(失速)し、落下しながらスピンを始めました。
一度こうなったらこの体勢から生きて帰ってきたパイロットはいません。

ところが彼は今までのパイロットが誰もやったことのないことをやってのけました。
機をコントロールすることでスピンから機を立て直し、無事に着地させたのです。

それからというものビーチェイはスーパースターへの道をまっしぐらに歩みました。
僅か4年の、しかしどんな王侯貴族も得られはしないだろうと思える栄光と名声の日々を。



その人気は留まることを知らず、全米の人口が9千万だったころ、1700万人が
わずか一年の活動期間の間に飛行演技を見たと言われています。



ナイアガラの滝を飛んだのも、その名声を確固たるものにしました。
アメリカーカナダカーニバルの主催は、ナイアガラの滝上空を飛んだものに
1000ドルを懸賞金として出すという広報を出しました。
滝の上空を飛ぶなぞ、いまや観光でもやっているくらいですが、
当時の影響を受けやすい飛行機では、
そのこと事自体危険極まりないチャレンジでした。

このとき、ビーチェイはカーティスの複葉機で15万人の観客の見守る中、
しかも小雨の降る天候を押してこの飛行に挑戦、みごと成功させました。
滝の上を何度も旋回し、水面の6メートル手前まで急降下で近づき、
そのあとは近くの橋の下をくぐるというサービスぶりに聴衆は湧きました。



その他、走っている列車の屋根にタッチさせたり、ハンカチを拾わせたり。
先日お話ししたざーますマダムのブランシュ・スコットの所属していた
カーティスの飛行チームと行ったフライトでは、
優男のビーチェイは女装し、スコット嬢のふりをして
墜落しそうな体勢からリカバーする演技までやっています。


最初にも書いたように、彼は 飛行アクロバットの
技を編み出した最初の人間でした。
その名声と栄光を見て同じ技に挑戦したパイロットはたくさんいましたが、
当時の飛行機でそのようなことができたのは結果的に彼だけでした。
つまり、彼の真似をしようとしたパイロットは全て失敗して死んでしまったのです。

第二のビーチェイを夢見てあまりに多くのパイロットが事故死したため、
ついには彼に飛行させることを禁止すべきだという世論までが出たといいます。
死亡したパイロットの中にはかれの親友もいました。
このことはビーチェイにとって非常なショックだったらしく、
この事件をきっかけに彼は一度は引退を決意します。

彼はその活動期間の4年の間に三回「引退」しているそうです。



このころ、彼の名声は留まることなく、その飛行は芸術であるとされ、
ライト兄弟の弟、オーヴィルやエジソンが、飛行機開発者、
そして科学者の立場からも否定しようがないその飛行技術を
手放しで称えたといわれます。

彼自身は一時引退中の身で全米を講演して回り、
自分の飛行技術の解説をしたり、

「いつの日か我々は誰もが飛行機に乗ることができるようになる」
「今は無理だが、そのうち大西洋も横断できるようになる。
誰もやらなければわたしがやる」

「飛ぶことはすべての人々にとって普通の出来事になる」
「戦争においても空が中心となるだろう」

このような予言をして人々を驚かせていました。

彼の言ったことは今日すべてその通りになっています。
彼の予知能力が優れていたのではなく、これは航空界に身を置く彼、
音をたてんばかりに発展していく科学技術の進歩を肌で知っている彼にとっての
「常識」とでもいうべきことで、彼のようなスーパースターが口にしたからこそ、
初めてその言葉に世間の人は耳を傾けたということにすぎません。


そのころ彼は、アメリカ合衆国にもっと航空への投資を増やすように働きかけ、
政府に見せるための個人的なデモンストレーションを企画しますが、
彼の招待に対し、内閣からエキジビジョンを見に来たのはたった二人でした。

普通のやり方ではダメだと悟ったビーチェイは荒っぽい手に出ます。
これはほとんど「伝説」の類だそうですが、そのまま記します。


ある日、ホワイトハウスの執務室にいたウィルソン大統領は、
遠くから彼の居室めがけて徐々に近づく飛行体に驚きます。
それは轟音と共にまっすぐこちらに向かって向かってくる飛行機でした。
驚きと恐怖で見開かれた大統領の目と、飛行機を操縦していたパイロットの目が
お互いをしっかり認識したと思った瞬間、飛行機は操舵を上昇に転じ、
大統領はその翼に書かれた「BEACHEY」という文字をいやでも認識しました。

ホワイトハウス上空を蹂躙するように彼の飛行機は町一帯を縦横に駆け、
ワシントンの記念塔から、地面に向かってほぼ垂直にダイブしました。
まるで、翼に書かれた彼の名前を大統領に読んでくださいといわんばかりに
そちらに向けながら・・・。

そして空を見上げている議員たちに翼を振って挨拶しました。
(つまりかれは飛行機の意思表示である『バンク』を最初にした人物です)
そして、エンジンが止まったようになった飛行機はまっすぐ墜落していきました。

「大変だ!リンカーン・ビーチェイが事故死したぞ!」

大慌てで陸軍病院から救急車が事故現場に駆けつけました。
しかし、そこには手も足もピンピンしたビーチェイが

「事故?事故ってなんだ?わたしはいつもこうやって着陸してるんだが」

とニヤニヤしながら立っていたのでした。
そして、

「今の飛行でわたしが爆弾を落としていたら
はたしてワシントンはどうなったかな?

さあ、よくわかっただろう。
軍に航空機を導入する時がやってきたってことを」


とダメ押しの一言。
航空機の発展を推進していた各関係者は彼の行為を絶賛し、
多くの議員は、空軍力の必要性を認識させてくれた彼に感謝し、
航空に関する政府のポストを彼に用意することを提案したのですが、
そのときすでに世界の博覧会などでの出演が決まっていた彼は
それに就くことを断りました。

それまで彼の飛行パフォーマンスを「クレイジー」「危険すぎる」
などと非難していた層は、例外なく政府が彼のことをこうやって認めた途端、
その口をつぐむことになります。
国内の有名飛行士はこぞってビーチ-の強力なリーダーシップを支持し、
新聞はかれを「マスター・オブ・ジ・エアー」と称えました。



こんな彼にはたったひとつ、十分予想されることですが欠点がありました。
「女性」です。

若くてハンサム、比類なきスーパースターであるパイロット。
今や名声も富も、そして世間の尊敬も20代にして手にした男に、
女性が群がってこない方がおかしいというものですが、案の定
このミラクルなタフガイには、女性が熱狂的にすり寄ってきました。

「港港に女あり」ではありませんが、彼は各飛行場、
というか各主要都市ごとにそういう関係の女性がいたといわれます。
今と違って、1900年初頭のアメリカでは、深い関係になるためには、
まず男性から「結婚の申し込み」をしなくてはなりませんでした。
ビーチェイはそのためにベストのポケットに

いつも求婚用のダイヤの指輪を忍ばせていた

と言われます。
つまり、いい女!と思ったら、ダイヤをポンと渡して「メリーミー」。
これで即女性ゲット、みたいなことをあちらこちらでやらかしており(笑)
自分はあのリンカーンの婚約者だと自称する女性が
ネイションワイドに存在していたということらしいです。

これ・・・どうするつもりだったんでしょう。

いつも命ギリギリで生きている人間の刹那的な熱情であったと解釈すれば、
この多情と性急さは、肯定はしませんが決して理解できないことではありませんし、
最終的には「本当に結婚するつもりで婚約した」相手も
いたにはいたらしいのですが。

ともあれ彼は若くして独身のまま死んでしまったことで誰も不幸にせず、
誰も争わず、ただ全米の「婚約者」たちが偽りの未来の夫を失っただけだった、
という意味では本人にとっても不幸中の幸いだったと言えるのかもしれません。



さて、そのリンカーン・ビーチェイの死はあっけなくやってきました。
その実にお粗末な事故は、生前の彼の最大にして最後の失策と言ってもよく、
この死に様があまりにあっけなかったせいで、生前の栄光がほとんど
帳消しになってしまった感さえあります。

1915年、ビーチェイの故郷であるサンフランシスコで展覧会が行われました。
彼はそのために自作の新しい単葉機で臨んだのですが、
いつもの背面での宙返りの際、彼は突如自分のミスに気が付きました。
高度がたった2000フィート(600メートル)しかなく、
それをするには高度不足であったことに。



しかし、彼がそれを悟った時には彼の機はまっすぐサフランシスコ湾に突入し、
衝撃で彼の単葉機の両翼は飛ばされていました。

海面に突入した機体は、最終的に約9メートルの海底に、
彼の体もろとも突き刺さり、そのまま浮かんでくることはありませんでした。

彼を救出するために戦艦オレゴンから16名のダイバーが派遣されました。
皮肉とでもいうのか、彼はかつてオレゴンを模した模型の船に
航空爆撃のシミュレーションを行ったことがありました。

捜索開始三時間後引き上げられた機体からは、
彼の体がシートに座ったままで発見されました。
遺体には抜け出そうともがいた痕跡があり、彼が墜落によってではなく、
溺死したことが倍検によって明らかになりました。


全米はその死を悼み、大統領は弔電を打ち、陸軍のハップ・アーノルド中佐
(あれ?この人、確かナンシー・ラブの大西洋横断移送を邪魔した人ですよね)
葬儀の司会をし、ある飛行家は彼の好きだったピンクのバラを事故海域に投下し、
・・つまり人々は一時、大々的にセンチメンタリズムに浸りました。


その後、全米を大恐慌が襲い、次いで第一次世界大戦が起こります。
そこではビーチェイの言葉通り航空機が投入され、
人類は史上初めて航空戦を行うことになるのですが、人々はもはや、
それを最初に予見した人物の名前をこの戦争の影で思い出すこともなかったのです。

そして、それから12年後の1927年、リンドバーグが大西洋横断に成功し、
空が新たなヒーローを迎えて人々が熱狂するころには、
この黎明期の天才の名は、人々の記憶から完全に失われていたのでした。

リンカーン・J・ビーチェイ
1945年3月14日 サンフランシスコ湾にて墜落死
享年28歳と11日


合掌。