ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「トップ・ガン」コーナー(presented by Cubic)〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-08 | 航空機

「ミッドウェイ」の搭乗員控え室、レディルームを利用した展示を
三部屋観たあと、こんなコーナーに出てきました。

トップガンコーナーです。
字の下にあるのが何かはこれを見終わったらわかることになっています。

1968年、ベトナム戦争で、海軍航空隊の搭乗員は、空戦記録において
キル・トゥ・ロス・レシオ(キルレシオ、撃墜対被撃墜比率)
2:1という数字しかあげられませんでした。

朝鮮戦争で12:1だった圧倒的な数字がここまで落ち込んだ理由は
空戦となった時、ミサイル万能論の時流に乗って機関砲を搭載していない
アメリカ海軍の航空機が、旧式のMiG17の機関砲にやられたことにありました。

この結果を重く見た海軍は、ミサイルのあり方を見直すとともに、
CNO(チーフ・オブ・ネイバル・オペレーション)は、
フランク・オルト大佐に報告書を提出させました。

世に言う「オルト・レポート」です。

オルト・レポート。

 

レポートの主眼は、空対空ミサイルの能力についての研究でした。

  1. 仕様通りに設計および製造された高品質の製品が提供されているか
  2. 海上および陸上の航空隊の戦闘機ミサイルは最適の状態で稼働しているか
  3. 戦闘員はミサイルシステムの能力を完全に理解し活用しているか 
  4. 空対空ミサイルシステムの修理は万全であるか

このレポートから浮かび上がってきた問題点の解決策として、海軍は

ネイビー・ファイター・ウェポンズ・スクール

つまり「トップガン」を設立することを決定したのです。

当時F-4ファントムIIの訓練を行なっていたVF-121を「たたき台」にして
カリフォルニアのミラマー基地にトップガンが誕生したのは、
1969年3月3日、奇しくも日本ではひな祭りの日でした。関係ないか。

 トップガンの生みの親、オルト大尉。

英語で調べても、彼の経歴は「トップガンを創設した」と言うことしか触れられておらず、
つまり特にこの人が軍人として秀でていたというわけではなさそうです。

たまたまその配置にいて、命じられた仕事を真面目にやり(オルトレポート)
その結果から対処法を考えたところ、(トップガン創設)それが大当たりしたと。

そんな気がします。

右側のを愚直に翻訳しておくと、

-レーダーで互いにコンタクトを取る

-角度 待ち伏せ

-太陽を利用する

-相互協力

-コミニュケーション

-素早く一人の敵(ボギー)をやる(KILL)

その他

-合流後#2を見失う

-#1がエネルギーを放出する

-タイマンでの空戦

-#1のむき出しのテイルパイプを攻撃

-燃料の状態

後半がどうもよくわからないんですが、おそらく
戦闘機パイロットならわかってしまうのでしょう。

トップガンの目的は空戦のマニューバや戦法そのテクニックなどを
ごく限られた優秀な搭乗員に教え、それを全体に広めることでした。
そのためトップガンはソ連軍のMiG -17や21のペイントをした
戦闘機を使って、空戦の訓練を行なっていました。

トップガンは、航空隊で最も優秀とされる搭乗員が選ばれました。
厳しい訓練を終え、卒業して元の部隊に戻ると、彼らは自らが教官となり、
自分の得た技術を部隊に伝え、全体の技術の向上をはかったのです。

これを聞いて、わたしは途端に思い出したことがあります。

自衛隊音楽まつりにおける、自衛太鼓の練習方法です(笑)

各部隊から一人、代表を太鼓の総本山である北海道の駐屯地に送り、
彼が学んできたことは彼が教官となって自分の部隊に伝授し、
そして全員がその技術を自分のものにしていく。

そうか・・・自衛太鼓は「トップガン方式」だったんだ・・・。

空戦における操縦の範囲とは、として、
通信やトラッキングなどの設備との関係を図で示しています。

 

最初の頃(1970年初頭)のトップガンのみなさんです。
後列真ん中のツナギを着た無帽の人物がオルトだと思われます。

前の四人はいかにもできそうな雰囲気の人ばかり。
右から二番目がマーベリック、一番左がアイスマンってとこですかね。

ちなみに当ブログでもちょっと煽ってみた「トップガン2」は、
なんとマーベリックが乗るのが今更のF-15だったため、

「なんでF35じゃないんだよ!」

と主にアメリカ海軍と空軍(と海兵隊)の間で騒然となってるらしい(笑)

ベトナム戦争時代のトップガンは、時代を感じさせるヒゲと長いもみ上げスタイル。
MiGを撃墜したトップガン、ヴィック・コワルスキ大尉(左)とジム・ワイズ中尉。

クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」で、イーストウッドは、
ベトナム帰還兵だったコワルスキーを演じましたが、この名前など
彼からとったのではないかとふと思いました。

こちらヒゲのないコワルスキとワイズ。
どちらが撃墜直後の写真かはわかりません。
二人がMiGを撃墜したのは、1973年1月12日のことでした。

1990年代にミラマーからネバダのファロン基地に移るまで使われていた
訓練支援用のコンソール。
このディスプレイを見ながら模擬空戦にあれこれとご指導するわけです。

今表示されているのは1980年代のある日レコーディングされた訓練です。

2005年にキュービックディフェンスアプリケーション社が寄付し、
それをきっかけにこの「トップガンコーナー」が作られたということのようです。

一番右は実際のコンソール使用中。
真ん中はブリーフィング中。
左の壁には敵機のシルエットが脳髄に刻まれるように描かれています。

1990年代にミラマーから移転したネバダ・ファロンのトップガン講義中。

これがファロンの海軍戦闘機兵器学校、トップガンのエントランスです。

アドバーサリー(敵役)F-18ホーネットを務めるトップガン。

 

キュービック社が提供したコーナーですので、でかでかと宣伝を。
モニターにはトップガンの歴史ビデオを放映していました。

 

ジョン・リーマンは共和党の議員で、レーガン政権下の海軍省長官でした。

老いたる「ミッドウェイ」を生き返らせて現場復帰させるという

「600艦隊構想」

を推し進めたのは実はこの人です。
ちなみに潜水艦建造の不具合を記載した書類を偽装したという件で、
あのハイマン・リッコーヴァーに引導を渡したのもこの人です。

海軍省長官としては異例の若さ(当時39歳)だったリーマン、
おそらくこの時にはトップガンの視察にミラマーに訪れたのでしょう。

もみ上げから見て(笑)ベトナム戦争時代の「ミッドウェイ」艦上戦闘機で
MiGを撃墜したとかそういうパイロットだと思います。

「ポッド」の中身がわかるように展示されています。
ポッドとは、飛行機に搭載する様々な目的の計器を収める入れ物で、

デジタル・プロセッサー・ユニット(DPU)

デジタル・インターフェース・ユニット(DIU)

パワーサプライ・ユニット(PSU)

トランスポンダー・ユニット

エア・データ・センサー(ADS)

などの種類があります。(説明略)

ポッドを調整製作する拠点はユマの海兵隊基地内にありました。

ポッドもキュービック社の寄贈したもののようです。

右の説明には、ミラマーからファロンに移転した理由が書いてあります。
新しいコマンド「ストライクU」と呼ばれる海軍航空機開発システムがトップガン、
そして「TOPDOME」空母早期警戒武器学校と同居することになったからとかなんとか。

トップガンが去った後のミラマーは海兵隊航空基地となりました。

近年、キュービック社のICADSというソフトウェアによって、
戦闘訓練計画を作成しアップロードすると同時に結果を示すことができます。
ビデオスクリーンから双方のラップトップで、情報を共有することができるのです。

部屋の大きさほどのコンソールが必要だった時代からIT化時代を経て、

もはやポッドはジェット戦闘機の翼の下から姿を消しました。

ステルス性のあるF-35のような最新の航空機の武器は全て内蔵され、
昔ポッドを翼に搭載していた姿は完璧に過去のものになりました。

もっとも先端の航空機用情報システムは小さなモジュールユニットとなり、
いとも簡単に航空機の内部に装備することができるようになっています。

 

 

 

アメリカ軍の軍事技術の発展とともに変わっていく訓練の姿。
キュービックディフェンスアプリケーションは、これからも
戦闘機パイロットがそのミッションに必要とする製品の供給と、
皆様が無事におうちに帰れるよう、粉骨砕身努力いたします。

 

最後はキュービック社のあからさまな会社宣伝でした(笑)

 


ライトアタック・レディルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-07 | 航空機

 空母「ミッドウェイ」、フライトデッキの一階下にある、
搭乗員の控え室展示、三番目のドアにやってきました。

AD/A1 スカイレイダー

A-4 スカイホーク

A-7 コルセアII

とその搭乗員に関する展示室ですが、わたしは

NAVY/MARINE LIGHT ATTACK

という表示に気がつきました。
はて、「ライトアタック」=軽攻撃とは?

調べてみると文字通り軽い飛行機での攻撃のことですが、
(それでは「重い攻撃」はあるのかな?)英語のwikiを検索してみると、
Light Attackは「武装偵察」=Armed Reconnaissanceと並べて

LAAR(軽航空機での武装偵察)

と四文字の言葉で表すことがわかりました。


ところでみなさん、コルセアIIのデビューについてですが、
アメリカ軍で
スカイホークの後継機を選定する段階で浮上した

「VAL 計画」 Heavier-than-air, Attack, Light competition

がそのきっかけになっていることをぜひ覚えてください。

「ヘヴィアーザンエアー」とは空気より比重が重いという意味ですが、
これは

「空気より少し重いけどとにかく軽い飛行機」

という意味で、コンペティションとついていることからもお分かりのように
このときアメリカ軍は次世代軽飛行機選定に先駆けてコンペを行なったのです。

しかしてこのときのアメリカ軍の要求条件はとは次のようなものでした。

「スカイホークの二倍の武器を搭載でき、
かつ艦載機として空母から発進することができること、
沿岸から最大で520~610kmの内陸部まで進出でき、
地上部隊を支援することができる」

その結果、各社からは以下の通り、

LTV(ヴォート)F-8 クルセイダーの胴体短縮型V-461A-6 

ダグラス A-4の発展型A4D-6

ノースアメリカン FJ-4 フューリーの発展型

グラマン イントルーダー艦上攻撃機の簡略化型

といった既存の機体の軽量化した案が出てきましたが、
最終的に採用されたのがLTV社案で、クルセイダーの短縮型。
これがのちの

A-7 コルセアII 

となったというわけです。

ですからこのライトアタックという称号は、コルセアII以前の
スカイレイダーとスカイホークには当てはまらないということになりますが、
いずれも軽量であったことからこのように括っているのでしょう。

スカイホークはあのエド・ハイネマンが、

「軽量、小型、空力的洗練を追求すれば自ずと高性能が得られる」
とのコンセプトに基づき、海軍側の見込んだ機体重量14tの
半分に満たない6.7tという小型かつ軽量な機体に仕上げた(wiki)

ことから、典型的な「ライトアタック」と呼んで差し支えないでしょうしね。

さて、それではドアの中に入っていきましょう。
長い廊下が搭乗員控え室に繋がっています。

かつてスカイレイダーの航空隊が「ミッドウェイ」艦上から展開していた
1958年8月から1959年3月までのメンバーの名前が書かれています。

10年ほど前、かつての乗員からなる協会が制作して寄付しました。

スカイホーク協会も展示に協力しました。 

廊下を少し行くと。搭乗員のロッカールームが現れました。
フル装備のパイロットがスタンバイ(冒頭写真)しています。

昔、岩国の海兵隊基地で、わたしはホーネットドライバーのブラッドに
まさにこんな感じの搭乗員控え室に入らせてもらったことがあります。
息子はほんものの耐圧スーツとヘルメットを付けてもらい、興奮気味でした。

無理かもしれませんが、自衛隊がもしここまですれば、
青少年の志願者が少しは増えるのではないかという気もします。

この部屋は「レディルーム3」と名付けられています。
かつて実際に使われていたレディルームの椅子を、これまた
海軍航空隊に実在したパイロットの名前入りの椅子を設えました。

椅子にはメンバーの名前が背中に、タックネームが背もたれの上部に、
大きくパッチされています。

中央に見えている「マイク・エストシン」は1967年4月26日、
空母「タイコンデロガ」から発進して火力発電所の攻撃に向かう途中、
地対空ミサイルの攻撃を受けて乗っていたスカイホークが撃墜されました。

当初彼のウィングマンの撃墜報告に基づいて戦死扱いになっていたところ、
ハノイから実は彼は捕虜になっている、という報告が上げられました。

しかしその後24年も経った1993年になって、やはりそれは間違いで、
彼が撃墜されていたということがようやく明らかになったのです。

気の毒だったのは被撃墜を認定した列機のジョン・ニコルスでした。
彼は実に四半世紀の間というもの、自分が撃墜認定を誤って、救助任務を行わず、
そのためエストシンを見殺しにしたと思い込んで
罪悪感に苛まれていたそうです。

エストシンは死後大尉に昇進し、ネイビークロスやフライングクロス、
パープルハートなどの各種勲章を授与されています。

ニコルスにとってわずかによかったことがあるとすれば、生きているうちに
自分があの時エストシンを見殺しにしたのではなかったと知ったことでしょう。


彼の左席の緑のカバーには名前とともに例の「POW MIA」という字が見えます。
エストシンは違いましたが、これは捕虜になった(POW )あるいは
ミッシングインアクション(MIA)未帰還となったパイロットのことです。

当時のアメリカはまだ公の場で喫煙することが許されており、
「ミッドウェイ」でもハンガーデッキ、フライトデッキ、そして
廊下以外では基本どこでも喫煙することができたので、
ブリーフィングルームのチェアにも灰皿が付いていたりします。

Fighting red cocks というのは現在はF/A-18Fスーパーホーネットの戦隊で、
ベトナム戦争時代はスカイホークとコルセアIIに乗っていました。

トレードマークはロードアイランドの戦う赤い雄鶏で、コールサインは
「ビーフ」と「ビーフ・イーター」を交互に繰り返すというものだそうです(笑)


デザイン的にはイケてませんが、艦上で目立つためのテープが貼られた
この派手なつなぎが着艦誘導係の基本スタイルです。

わたしは勝手に「うちわマン」と呼んでいるのですが、
(多分ラインマンとかいうのだと思う)着艦の際に目で見る誘導を行う係です。

かつての艦載機部隊パイロットの私物が記念として展示されています。
ヘルメットなどはおそらくアメリカ軍でも返却することになっているのだと思います

ヘルメット左の「サバイバルラジオ」は防水仕様になっています。
紙バインダーに挟まれているのは通信記号の色々。時代ですね。

A-4のコクピットにあったガンサイト。
これだけ単独で作られています。

これらの所有者であるかつてのA-4乗りオーウェン・ウィッテン氏が
2008年に亡くなったとき、家族がここに寄付した遺品のようです。

写真上段は現役時代のウィッテン氏。

 

コルセアII、スカイレイダー、スカイホーク「ライトアタック戦隊」の
スコードロンが使用していたオリジナルカップ。
真ん中のコーヒーサーバーは彼らにとって懐かしいものに違いありません。

このケースは海兵隊戦闘機隊の展示です。
説明ではいきなり、

「海兵隊航空隊は(海軍とは)違う!」

として、彼らの任務は

陸海の攻撃隊をサポートするためにそこにいること」

一言で言うと「クローズ・エア・サポート」です。
帆船時代に船に乗り込み警備を行っていた頃から海兵隊の存在意義は変わっていません。

スコット・マクゴーの「USSミッドウェイ アメリカの盾」の付記には、
「ミッドウェイ」就役から退役までの亡くなった乗員名簿がありますが、
ここにあるのは海軍と海兵隊の軽戦闘機パイロットの殉職者名簿です。

付記にはMIA(ミッシングインアクション)とされている死亡理由が、
ここではさらに細かくこんな記号で表されています。

AAA=Antai-Aircraht Artillery 敵機の銃撃

SAM=Surface- To-Air Missle 対空ミサイル

MiG=Enemy Aircraft MiGに撃墜された

A/C=Aircraft 航空機

DAP=Died As Pow 捕虜になり死亡

その他、事故などの原因を列記していきます。

Own Ordnance  搭載武器の自爆でしょうか。

Collosion 衝突

Fall / Deck Fall デッキから、またはデッキへの転落事故

Sea Inpact 海に墜落

Catapurt Mishap カタパルト事故

Landing Mishap 着艦時の事故

Terrain わかりません。機位を失い帰還できなかったか?

Malfunction 機体不具合

Unknown 実はこれが非常に多い

先ほどのスコット・マクゴーの名簿には、パイロットだけでなく
死亡乗員の名前とその死因が掲載されています。

死亡原因ではないですが、日本滞在中に病気で亡くなったらしく
「横須賀海軍病院」と書かれた人もいます。

切ないのは、ほんの時々「溺死」とか「オートアクシデント」があること。
艦上の車の事故とは、すなわち牽引車によるものではないのでしょうか。


ところで、湾岸戦争に参加した1990年代の殉職者理由には、

Flying Squad Fire

というのがありますが、もしかしてスカッドミサイルにやられた?

聖書の一節が書かれた写真盾は、「ミッドウェイ」乗員だった
アムサー・エドガー・セス・ムーア・ジュニアさんの家族が、
「ロスト・アト・シー」つまり海に落ちて行方不明になった際、おそらく
捜索に当たった第56戦隊に、彼の死後10年を記念し贈られたものです。

 

殉職パイロット名簿の下段にはこんな言葉が書かれています。

主よ、偉大な空の高みを飛んだ男たちを守り給え

嵐の闇の夜も、朝の光さす時もともに座し給え

嗚呼、我らの祈りを空に消えていった男たちに聞かせ給え

続く。

 

 

 


マグニフィセント・ライトニング「震電」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-07-05 | 航空機

以前、戦艦「マサチューセッツ」の内部にあるちょっとした航空機コーナーに
「震電」の模型を見たとき、後ろと前を間違えてしまったことがあります。

わたしの類稀なる機体音痴を棚にあげるわけではありませんが、
それくらいこの日本海軍が試作していた局地戦闘機は特異な形状をしています。

 

まずはスミソニアンが所蔵している「震電」の完全形をご覧ください。
博物館の説明によると、

九州飛行機 J7W1「震電」(Magnificent Lightning)

日本海軍のJ7W1「震電」は、第二次世界大戦中生産注文された戦闘機中、
唯一の「カナード(Canard)翼」を備えた航空機でした。

カナードはフランス語を英語読みしたもので元々の意味は明らかではありませんが、
航空設計関係者の間で使われるようになった言葉です。

 

日本ではカナードは前翼のこととされており、ウィキペディアの
「震電」の解説でも「前翼型」と説明されています。
カナードをもつ固定翼機には「エンテ(Ente)型」という呼び名がありますが、
このエンテというのはフランス語の「Canard」と同じく「鴨」を意味します。

わたしはフランスに行くと、デリやレストランでも、
フォアグラを取るために
肥育させた鴨の胸ササミの部分である

「マグレ・ド・カナール」

があると目の色を変えて注文してしまいます。
適度にさっぱりしていて美味しいんですよね。

というのは全く関係なくて、その飛ぶ姿が鴨に似ているから、
という理由でそう呼ばれているそうですが・・・ほんとかしら。

ところでこの白黒写真ではカナードもエンテも全くその存在がわかりません。

Wikiにわかりやすい「震電」のイラストがありました。
真上から見た「震電」のノーズに、小さな尾翼みたいなのがありますが、
これが「前翼」であり、カナードもしくはエンテと呼ばれるものです。

というところで、初めてスミソニアンの「震電」をご紹介するわけですが、
残念ながらこんな部分だけ、全く修復なしの状態で放置されています。

「震電」の躯体が転がらないように黄色い移動用を兼ねた展示ラックが
ちょうどカナードの生えていた部分を串刺しにしております(T_T)
前翼がまっすぐではなく若干弓形カーブを描いていたことがわかりますね。

博物館の説明です。

「カナード」とは、胴体の後部に主翼を取り付け、機体前部に
小さな翼を固定した航空機を表すためのことばです。

アメリカでは、カーチス-ライト社と陸軍航空隊とがカナード航空機、

Curtiss XP-55 Ascender (アッセンダー、上昇する者の意)

を使って実験したことがあります。

Ascender

しかし、J7W1「震電」はもっと進歩していました。

「アッセンダー」も「震電」も、いずれも革新的で珍しいものでしたが、
いずれも試作の初期段階に至ることはありませんでした。

スミソニアン別館にはこのような状態、「晴嵐」の翼の下に
庇護される雛鳥のような状態で置かれています。

それにしてもスミソニアン修復スタッフが「晴嵐」修復に
えらく力を注いだというのがこれを見るとよくわかりますね。

さて、従来型戦闘機の常識を覆す革新的な前翼型戦闘機は
空技廠(海軍航空技術廠)の技術大尉、鶴野正敬が考案したものです。

再びスミソニアンの解説です。

日本海軍の技術者の一員として、鶴野は既存の航空機よりも優れた性能を持ち、
連合国の航空機に対抗するための急進的なデザインを思い描きました。
当初から鶴野は、ターボジェットエンジンが究極の推進力になると信じていたのです。

基本的なコンセプトを証明するために、横須賀に拠点を置く空技廠のスタッフは、
木製のMXY6カナードグライダーを3機設計製作し、試験を始めました。

主翼のエルロンの内側に2つの垂直尾翼表面を持った後退翼機。(イラスト参照)
実験機のうち1機には小型の4気筒エンジンを搭載しました。

 

一連のテスト飛行は好結果だったので、試作の前段階に当たる
プロトタイプを製作することになりました。
製作を請け負った九州航空機にはそういったオーソドックスな航空機の
生産経験が欠けていたにも関わらず、海軍は九州飛行機に
高性能のカナード迎撃機を設計するように命じたのです。

なぜこのとき九州飛行機が選ばれたかというとその理由というのが

「九州飛行機が他に比べて暇だったから」

海軍は零式艦上戦闘機が既にデビューから時間が経ち、当然
敵からは研究され尽くしているだろうと考えていました。

零戦に変わる画期的な戦闘機を模索していた源田実軍令部参謀と、
同じ考えから「震電」を構想した鶴野大尉によって、1日でも早く
新兵器を開発しようということになったのでしょう。

スミソニアンによるとこうです。

専門性ではなく稼働できるかどうかが選択の決め手となりました。
より能力の高い企業はすでにフル稼働しており、
まったく新しい航空機の設計には対応できませんでした。
海軍は九州の設計スタッフを、鶴野を含む追加のエンジニアで
補強しなければなりませんでした。

全方面からその能力をディスられる九州飛行機さん、かわいそす。

しかし結局作業は1944年6月に始まり、2機の試作品のうち最初のものは
10か月後に完成しています。
ドイツから指導のため技師を招聘し、通常なら1年半はかかるところを
6000枚の図面を書き上げるのを半年で済ませてしまったのですから、
この点は大したものだと褒めて差し支えないでしょう。

この制作にあたって、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、
熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制に備えました。
その数は最盛期には5万人を超えたといいます。

 

「震電」のコクピット。

エンジンは胴体の後ろ半分の内側後方に取り付けられました。
星型の空冷式エンジンが動かす6枚翅のプロペラは機体の後部に、
ノーズの下に1つの車輪と支柱を、翼の下に2つの車輪からなる
三輪車の着陸装置が装着されました。

今日、この配置は一般的ですが、第二次世界大戦中は
ほとんどの戦闘機が尾輪を採用していたのです。

補助ホイールは各垂直フィンの底部に取り付けられました。
2つの補助装置を含むすべての5つの車輪は、収納式。
武装はノーズの中に4基の30 mm五式固定機銃。
これらの銃の重さは胴体の後ろでエンジンとプロペラの重さと
のバランスをとるのを助けました。
各銃は毎分450発砲することができました。

コクピット左側のレバー類。

「脚」とは車輪のことで、レバーには

下ゲルー中正ー上ゲル

と書かれています。
「中正」とはニュートラルのことでしょう。

 

戦争による危急の必要性から、異例のこととはいえ、海軍は
初飛行も行わないうちに「震電」の生産を現場に命じ、
2つの生産工場で毎月150台の機械を生産することが計画されました。

しかしエンジン冷却に問題が生じたこと、空襲による機材調達の遅れ、
および航空機業界のあらゆる部分で発生した全国的な混乱により、
「震電」は初飛行となる1945年8月3日まで空を飛ぶには至りませんでした。

昔、愛知の航空工廠で聞いた「零戦の部品を牛車で運んだ」という話ではありませんが、
この「混乱」の具体的な理由は、九州飛行機が疎開を行い、その際
部品の運搬を夜中に牛車で行なった、いうことなどです。

初飛行後、8月6日、そして9日、つまり人類史上二発の原子爆弾が
日本本土に落とされたその両日にテスト飛行が行われ、そして
それきり「震電」が空を飛ぶことはありませんでした。

鶴野大尉は終焉が近づいていることを感じたかもしれません。
しかし彼は慎重で、保守的なテストパイロットでした。
彼は「震電」が飛行中の計45分間、最後まで
ランディングギアを上げることはありませんでした。

そしてこの短いフライトで、「震電」にはいくつかの
深刻な問題が潜在していることが明らかになったのです。

日本のwikiはこのあたりを簡単にこう記しています。

1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。
続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し
三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

この「問題」とは、

飛行中プロペラの関係で期待が右に傾く

機首が下がり気味

エンジンの油温の上昇

降着装置が脆弱で荒れた航空路では使用できない

などで、しかもベテラン搭乗員がことごとく戦死していた当時、
未熟なパイロットにこの難しい「震電」が

果たして操縦できるのかなどという問題も残っていました。

 

ところで、レシプロエンジン機さえ問題多発だったことから、その実現性には
かなり疑問は残りますが、海軍は将来的に「震電」を「震電改」とし
ジェット機にするという壮大な構想を持っていました。

この計画を聞かされた技術者は、

「震電の発動機の配置からすれば、ジェットエンジンへの換装は
そんなに難しいことではない」

とその時思ったことを述懐しており、スミソニアンでもまた、

九州飛行機は戦争が終わったとき、設計のトラブルシューティングを行い、
ターボジェット推進バージョンの計画を進めていた。

と記述しているのですが、これは若干の買いかぶりというしかなく、
実際にはエンジンの開発は全くそんなレベルを視野に入れるまで進んでおらず、
というか当時の日本には耐熱金属を作るための希少金属が枯渇していたことから、
(というか日本はそのために戦争したようなもんですからね)
試作にこぎつけることは現実的には難しかったのでは、というのが後世の評価です。

 

スミソニアンに展示されている「震電」の胴体は最初の試作品です。

アメリカ海軍諜報部の技術者は日本でこれを解体し、1945年末に、
テストと評価のために他の約145の日本機と一緒にアメリカに送りました。

しかしJ7W1「震電」を誰かが操縦したという記録はどこにも残っていません。

 
それにしても、試作で終わってしまったため、コードネームを持たない
「震電」に「壮大な稲妻(マグニフィセント・ライトニング)」などという
曲訳にも程がある(笑)命名を行なったのは一体誰だったのでしょうか。
 
 
 
続く。

 


ブラッド・チット〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-04 | 航空機

さて、今日はイントルーダーなど、空母艦載機搭乗員の
サバイバルにまつわるレディルーム展示室の展示からお話しします。


航空機搭乗員は航空機事故や不時着に備えて、
対策するための装備を航空機に搭載しています。

ここには「パーソナル・サバイバル・ギア」としてこんな説明がありました。

航空機から脱出して海上あるいは敵の陣地に降下することになると
搭乗員は救出される、あるいは脱出できるまで個人でなんとかせねばなりません。

携帯サバイバルギアには、このような機能が求められます。

● 応急手当てができる

● 信号を送る&通信する

● 長期間生存が可能である

ここに展示してあるアイテムのほとんどはA-6イントルーダー乗員のものです。

上段左上から

搭乗員サバイバルのための用具とそのテクニック スタディカードセット

楽しくカードでサバイバルについて学ぼう、というものでしょうか。
遭難してからカードを見ているようでは間に合わないのでは・・・。

航空機、救命いかだ用食物 賞味期限1982年6月3日

中の食べ物がなんなのか一切書いていないのが不親切。
賞味期限がたとえ切れていても遭難したら食べるでしょうけど。

サバイバルナイフ

素っ裸でジャングルに放り出される体験型番組ネイキッド&アフレイドでも、
たった一つ持ってきてもいいガジェットにナイフを持ってくる人がほとんど。
サバイバルの基本です。

懐中電灯

頭につけることも(無理すれば)できそう。

下段左から

携帯トイレ

PIDDLE-PAKというのが商品名です。
エチケット的には必要なのかと思いますが、海上を遭難している時、
なぜわざわざパックに用足しをするのか、ちょっとわかりません。

まさか、飲(略)


サバイバルプラントの知識 スタディカード

これもカードで楽しく学べるシリーズです。
食べられる植物、食べてはいけない植物が図解になっていると見た。

乾電池

オリーブドラブの紙ケースに入っています。

超小型サバイバルの知識カードと鉛筆

鉛筆は案外あると便利かもしれません。

下段左から

エアマスク的なもの

カッター

救急救命マニュアル

アメリカ国旗

最後は使用に関して注意が必要です。
どこでもこれを出していいかというとそうでもなかったりします。

しかし、アメリカ人であることを伝えてなんとか助けてもらえそうなら、
その時にはこれを出してみましょう。

これは、右側の説明にあるように

BLOOD  CHIT (ブラッドチット)

というもので、イントルーダーの乗員は敵のテリトリーに飛ぶ際、
必ずこの布を身につけていました。

みなさん、「ブラッドチット」って聞いたことありませんか?
ほら、アンジェリーナ・ジョリーの旦那の。


それはブラッドピットや、と即座に突っ込んでいただきありがとうございます。

チットは小さなメモのことで、イギリス英語が語源です。

ブラッドチットは撃墜されたパイロットが、地上に降りたとき、
そこで遭遇する可能性のある一般市民に助けを求めるためのものです。

わたしはあなたたちにとって危害を加えるものではない
アメリカ軍の軍人であるが、もしわたしを助けてくれたら
わたしの国はあなたに報酬を支払う用意がある


というようなことが書かれているのが通常です。
ブラッドとあるのは、搭乗員の血液型などが書かれることもあったからでしょう。

日本軍ではその類いのものは一切用いられませんでしたが、
アメリカ軍は日中戦争であのフライングタイガースがこれを用いていました。

漢字だと我々には意味がよくわかりますね。

来華助戦 洋人 軍民一體 救護

「この外国人は戦争の努力を手助けするために
中国にやって来ました。
軍民は一体になって彼を助け、守るべきです」

こちら朝鮮戦争のブラッドチット。

日中戦争のブラッドチットには、当たり前のように

「わたしは日本人の敵です」

と書いてあったそうですが、この度は日本語でも記述があります。

わたしはアメリカ合衆国の航空兵です。
わたしの飛行機が撃墜されたので困っております。
しかしわたしは帰って、世界平和のために
また帰国のために
再び戦う覚悟です。
もしあなたが最寄りのアメリカ軍基地に
連れて行ってくだされば
あなたの為にもなるし、
アメリカ政府はあなたにお礼を致します。

お互いに助け合いましょう。

誰か日本人に作成してもらったのだと思いますが、
あまり文章力のある人ではなかったって感じ?

「困っております」とかはなんだか微笑ましい?ですが、
「あなたの為にもなるし」ってなんでそんな上から目線なんだ?
とムッとする人もいるかもしれません。

「お礼をするのであなたにもそれは利益になりますよ」
って言いたかったんだと思いますが。たぶん。

 

さて、ここにあるイントルーダー乗員の持っていたチットには、
漢字でこんな風に書かれています。

我是美國公民、我不會説中國話、我不幸要求幣我獲得食物、

住所和保護、請ニイ(あなた)領我到能給我安全和儲法送

我回美國的人那裡 

美國政府必大大酬謝ニイメン(あなたたち)

中国語ではとにかく謝礼を強調し、助け合いましょうとかはなく、
世界平和などには一切触れていないのが、なんとなくですが
中国人をアメリカ人がどう思っているかを表している気がします。


続く。

 

 


「POW MIA」あなたたちを忘れない〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-03 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」の搭乗員控え室展示を順番に見ています。

「イントルーダー」の記念展示室にあった「チェックオフリスト」。
スプリンクラーや換気バルブ、消火栓や消火ホースそれぞれの場所が
艦内での現在位置を表す番号で示されており、
それぞれは定期的にちゃんと稼働するかどうか点検が行われます。

これは本当にここにあったチェックリストらしく、最後にチェックした
1991年9月15日の日付と担当CPOのサインが確認できます。

「ミッドウェイ」はこの半年後の1992年4月に退役しました。

 

最初のレディルーム展示のあった「レディルーム#6」に入った時のことです。

入ってすぐのところにあるオーディオツァーの説明には、なぜか
「POW Story」(捕虜物語)として、
ベトナム戦争時に捕虜になったパイロットについての説明がありました。

さらに、レディルームの出口にはこのようなパネルがありました。

名前と階級の間にはパープルハートやネイビークロスなどの勲章が飾ってあります。

左のシンボルには、「POW MIA」「あなた方を忘れない」

まず「POW」は「Prisnor of war」戦時捕虜、そして
「MIA」とは「Missing in Action」戦闘中行方不明を指します。

監視塔と鉄条網、そして捕虜のシルエット。
これが戦時捕虜と行方不明者の家族会のマークとなっています。

ベトナム戦争で捕虜になったり、あるいは行方不明になって帰ってこなかった
兵士は、2017年現在で1,611人もいるのです。


ファントムIIに乗っていたパイロットも、多くが命を失いました。
右側に並ぶ名前は全てパイロットで、名前の横
KIA(キル・インアクション)
は空戦中に撃墜されたとされる人、

そしてPOWは捕虜になってそのままいまだに行方不明の人です。

この場合のPOWは、MIAも含み、

「捕虜になった、あるいは状況的に捕虜になったと考えられる」

人たちのことです。


アメリカ軍ではパイロットは全て士官なので、この名簿もその階級は少尉から中佐まで。

Lieutenant Commander (LCDR) 少佐 [O-4]
Lieutenant (LT) 大尉 [O-3]
Lieutenant Junior Grade (LTJG) 中尉 [O-2]

という「働き盛り」の階級が中心です。

数えてみたところ、1965年の4月から72年の8月にかけて
106名のパイロットが戦死あるいは捕虜となり、
二度と帰ってこなかったということになります。

さらに内訳は、

空戦戦死 64名、捕虜あるいは行方不明 42名

となり、戦死とわかっている割合が多いのに気がつきます。

 

ベトナム戦争は1955年から始まっていますが、
ファントムが運用されるようになったのは1960年からですから、
この飛行機は新兵器デビューするなり実戦に投入されることになりました。

また、前回お話ししたA-6イントルーダー戦闘機も1963年生産開始なので
戦時生まれの実戦デビューとなります。

イントルーダーのレディルームにはこのような展示があり、目を引きました。

レディルームには、かっこよさや強さを賛美するばかりでなく、
こんな「負」の展示もあります。

地上に激突して粉々に砕け散ったイントルーダーの機体の破片です。

イントルーダーを一目でそうと認識するアイコンでもある、
特徴的な「ツノ」型の燃料プローブがかろうじて原型をとどめています。


先日のF-35の墜落事故でわたしたちは改めて思い知ったばかりでもありますが、
航空機、特に戦闘機の訓練は平時戦時を問わず常に危険と隣り合わせです。

特に、戦争継続中に航空隊に編入されたイントルーダーパイロットに対しては、
何時間にも及ぶ全天候下での空戦技術や、低空での飛行、
数え切れないくらい繰り返される爆撃シミュレーションなどの訓練が
短い期間(通常1ヶ月だったといわれる)の間に集中的に行われたため、
当時150名以上の海軍と海兵隊のイントルーダー乗員が
その訓練中に事故による殉職をしたといわれています。

このイントルーダーの破片は、オレゴンの訓練場でクラッシュし、
バラバラになった二機の残骸です。(個別の事故によるもの)

どちらのイントルーダーも、事故発生時は夜間低空飛行での訓練中でした。

まるで紙くずのようになってしまったイントルーダーの破片がここにも。

詳しいことはそれ以上書かれていないので、この二機のイントルーダーが
同時に事故を起こしたのか(接触などで)、それとも別の事故なのかわかりませんが、
二機のうち一機のパイロットは生還し、もう一人は殉職したとだけ書かれています。

先ほどの展示に書いてあったように、確かに対MiG戦キルレシオ(撃墜比率)は
駆動性の高いと言われるMiGを相手に大変高かったわけですが、
イントルーダーの場合一度のクラッシュで乗員2名が失われるため、

彼我の戦死者の数はこちらが確実に多かったとされます。

先ほどのファントムII乗員の犠牲者名簿も、ABC順の記載なので判別できませんが、
同じ日付で亡くなった、あるいは行方不明になった二人は
同一の航空機に乗っていたという可能性もあるということです。

ちなみに今ちょっと名簿を探してみると、たとえば

1967年5月19日に未帰還になったスティア中尉とアンダーソン中尉、
65年12月29日に空戦戦死したローズスローン大佐とヒル大尉、
67年4月4日に空戦戦死したツェイラー大尉とマーチン少尉

というように、必ずと言っていいほど同一戦死日時によるペアができます。

 

次回は、航空機が撃墜された後、もし海上に着水したら?
というサバイバルについてお話しします。

 

続く。


イントルーダー・レディルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-01 | 航空機

 

ファントムII乗員のための最初の搭乗員控え室、
「レディルーム#6」という展示を見てからさらに進んでいくと、
別の部屋が現れました。

「イントルーダー・レディルーム」

言わずと知れたA-6「イントルーダー」部隊の搭乗員控え室です。
「intruder」は「侵入者」という意味なので、それを表すマークは
いかにも侵入を図ろうとする者の鋭い眼をデザインしたものとなっています。

ちなみに同型の電子戦型は当ブログでもおなじみ?「プラウラー」です。
今気づいたのですが、戦闘機が「侵入する人」電子戦機が「うろうろする人」、
「グラウラー」(噛みつく人)と、これ「変な人」シリーズだ(笑)

「ムーミン」に出てくるようなキャラが書かれたボードは
先ほど見た「レディルーム#6」の看板だと思われます。
どうしてここにあるのかわかりませんが、ムーミンの人は間違いなく
「ファントム」で、しかも『II』のマークがついていますね。

その横には「SDO」=Squadron Duty Officerの説明があります。

SDOは司令官の直属の代理ともなる役割で、
レディルームの中では、航空隊のジュニアオフィサーが割り当てられ、
24時間交代のローテーションで任務に当たることになっています。

入港時にはSDOは全ての航空隊員の動向を把握しており、
また空母内の各部署との連絡も取り調整を行うと言った具合です。

ワッチや他の任務についている各自についても全て確認し、
緊急時には全ての人員を必要に応じて招集する権限を持ちます。

それだけの任務を、交代でジュニアオフィサーが行うというのも
航空隊らしいといえばらしいですね。

さて、今度のレディルームは、一部をガラスで囲み、
かつてのブリーフィングの様子を活写する展示となっていました。

この展示にあたっては、改装の過程が写真で記録されており、
ビフォーアフターがわかるようになっています。

左下の白黒写真が、1980年代初頭ごろのこの部屋の実際の様子です。

 

直訳すれば「イントルーダーの飛行」という映画があったようです。
ウィリアム・デフォーは一番右かな?(若すぎてわからん)

調べてみると、日本では案の定

「イントルーダー 怒りの翼」

ってことになっておりました。何が怒りだよ。

Flight of the Intruder - Trailer

ベトナム戦争時代のイントルーダー乗りの話なので、
敵地に不時着してバディを担いで脱出、みたいな話もあるようです。

当時の映画評は低予算のためか散々だったそうですが。

ブリーフィングのデスクは下にオーディオなどのスイッチがあり、
本物であろうと思われます。

コカコーラを瓶で飲んでいるところが時代を感じます。
鉛筆は耳に乗せたかったのだと思いますが、うまくいかなかったようです。

搭乗員となっているのは、後ろの鋭い目の人を見ても
ファッションマネキンではなく、明らかにここ用に作られた人形ですね。

VA-115、ストライクファイター・スコードロン部隊の歴史は長く、
1942年にTBFアベンジャーの部隊として発足し、最初の戦隊章は
ウォルト・ディズニーがデザインしたことでも有名です。

ヘルメットにゴーグルをした天使が魚雷を投げているという・・。

ここで見学記をあげたこともある空母「ホーネット」の艦載機部隊として
沖縄、そしてレイテ島の戦いに参加したという部隊でもあり、
朝鮮戦争を経てベトナム戦争時代はこの「ミッドウェイ」をベースとしました。

その後、湾岸戦争で「ミッドウェイ」が「砂漠の盾作戦」「砂漠の嵐作戦」
に参加した時もここから展開し、その後はホーネットの部隊となって
その後「ロナルド・レーガン」艦載機部隊としてまた再び横須賀を定係港とし、
厚木、そして現在は岩国基地に移動しております。

非常に日本と縁の深い航空隊だということになりますね。

そのうちイントルーダーに乗っていたのは1970年代ということになります。

後ろの三人はマネキン出身らしく男前ばかり。
ホワイトドレスの部屋でサングラスをかけている士官は
ルテナント・ジュニアグレード、つまり中尉であります。

机の上にこれ見よがしに置かれている本はなんと

「LOST INTRUDER」

パーキンソン病を患った元A-6乗りの海軍軍人が、墜落した
イントルーダーをダイビングによって探すというドキュメンタリー。

 

中尉、カッコつけてるけどズボンが短いです!(笑)

奥にある「グリーニーボード」Greenie boardというのは、先日説明した、
LSOによる着艦の際の「評価表」というようなものです。

「フォックス」「ジッパー」(笑)「ボールズ」(笑)「カウボーイ」
「ノットソー」「パグ」(笑)といったようなふざけたパイロットのタックネームが
左端に書かれ、右に着艦の評価が色で表されます。

緑はOK。ちょっとした逸脱があっても修正ができた。

黄色は普通。理由のある逸脱をカバーできれば良い。

茶色はグレードなし。安全性に欠け平均以下の着艦。

ほとんどがグリーン(のはず)なのでグリーニーボード、というわけですが、
ちょいちょい茶色が混じってしまっている人もいるようです。

それ以外の色についても説明しておくと、

赤はウェイブオフ、つまり着陸していない。

自分の空母を間違えて降りようとしたパイロットに向かって、

「ウェイブオフ!ウェイブオフ!」

と叫ぶのでご存知かと思いますが、甲板にはタッチせず、
着陸態勢に入ってからなんらかの理由でやめて通り過ぎることです。

ゴーアラウンドという言葉も同じ意味ですが、海軍では必ずウェイブオフと言います。
日本語では着陸復行といいますがこの言葉が使われたかどうかは謎です。

海軍は戦争中も「ゴーへー」(ゴーアヘッド)とか、ナイスとか、
公に私に英語を使いまくっていたので、「タッチアンドゴー」は使ったようですが、
(元艦上航空機乗りの人が書いていた)着陸復行のことはなんといっていたのでしょうか。

ちなみにウェイブオフをする理由とは、

視界不良で滑走路が見えない
背風(テイルウインド)または横風(クロスウインド)
滑走路上に障害物や離陸機などがある

といったところで、成績的には「ノーカウント」です。
着艦をやめた航空機がその後どこに行くのか気になりますが。

そして、

青は着陸失敗(ボルター)

これはアレスティングフックが引っかからなかった場合。
着陸許可はLSOから出されますが、この場合は自己判断でタッチアンドゴー、
もう一度着艦をやり直すことになります。

例えばこのグリーニーボードの一番下の「パグス」パイロットは、
いきなりボルターをやらかして動揺したのか、再着艦(次のコマ)では
茶色の「ノーグレード」となってしまいました。(-人-)ナムー

また、

赤を緑でサンドウィッチは「完全なパス」、降りる様子もなかった
白はグライドパスを使った「コンピューターによる着陸」
このうち⚫️がついているのは夜間着陸となります。(点数高い?)

耐圧スーツにヘルメットのフル武装のパイロットは今降りてきたのでしょうか。
赤いシャツはORDNANCE、武器搭載などを行う係です。

こういう人たちがこの部屋にいたんですよ、という展示でした。
このような着艦の評価は、戦争中でも同じように行われたのでしょうか。

イントルーダーを作っているグラマン社によるポスターには、

「A-6イントルーダー。
パワーを知るものはごくわずかです。
そしてそれを手にする者も。

それができるのはグラマン社だけ」

みたいな?(曲訳です)

「ベトナム戦争空戦戦死者」「イントルーダー発進」

「チェリーストリートの少年たち-大学の狂気の純真さがベトナム戦争で無垢を奪った」

ほとんどがイントルーダー乗りだった作家ステファン・クーンツの作品です。
クーンツは司令官まで海軍軍人を務め、退役後コロラド大学で資格を取って
弁護士となりましたが、作家活動をはじめ、現在に至ります。

イントルーダーの模型自慢コーナー。
海軍のイントルーダー、海兵隊仕様(左下)、給油中、そして
一番右のは試験機でしょうか。

 NAVY/MARINES

と機体にペイントされています。

イントルーダーで使われていたコクピットの装備色々。

「高度計」「ウェットコンパス」(航空機用コンパス)

「攻撃角度のためのインジケーター」

「爆撃ナビゲーター用のradar slews tick」(ロック機能付き)

「”オールドスクール”のフライトコンピューターマニュアル」

離発着に関係する部品。

「『ロナルド・レーガン』のアレスティングギアワイヤ一部」

仕様&未使用のA-6カタパルトのカタパルトと機体を連結すもの」

「A-6Eなどのジェットエンジン”ブーマー缶”」

bumar canエンジンというのがわかりませんでした。

 

上左から:

「VA-15ブーマーズ」「52ナイトライダーズ」「VWA121グリーンナイツ」

「224ベンガルズ」

下段左から:

「VA-205グリーンファルコンズ」「VA-304ファイヤーバーズ」

「VA-95グリーンリザード」「VMSJ-2プレイボーイズ」

プレイボーイズはヒュー・ヘフナーの許可を得たのでしょうか。

実際のイントルーダーコクピットが再現されていました。

空母「キティホーク」にアプローチしようとしている
イントルーダーの爆撃手目線だそうです。

バニーちゃんがお酒を運んでいるマークのイントルーダー部隊。
これは海兵隊基地を見たことがある私に言わせると本物で、
実際に基地に掲げてあったものだと思われます。

ウェストパックということは、ミッドウェイが横須賀に定係していた頃ですね。

 

続く。