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「フィアレス」プラムサテンのフライトスーツ 〜ハリエット・クインビー

2025-02-14 | 飛行家列伝
 
今日はまず、スミソニアン航空博物館の展示から、
黎明期の飛行家のファッションを取り上げます。

飛行機が発明され、航空ブームが巻き起こると、
製造業者は、より機能的なヘルメット、手袋、スカーフ、
その他安全のためのアクセサリーなどを飛行家のためにデザインしました。

航空ファッションにも世間の関心が高まり、雑誌や新聞は
「アヴィエート」aviateのための服装について、
パイロットだけでなく、乗客についても取り上げ始めました。

人それぞれ、手持ちの衣服を組み合わせて間に合わせる人もいれば、
トレードマークとなる特別なフライングスーツを作る人もいました。

自らの経験をもとにパイロット自身が衣装をデザインすることも多く、
フランスの飛行家、ユベール・ラタム(Hubert Latham)という人は、
飛行中に飛行機の木製部分から破片が折れることによるダメージを考慮し、
フェンシングで使用されるキャンバス地の裏地付きスーツを提案しました。



ちなみにラタムは二度英仏海峡横断に挑戦した飛行家でしたが、
彼の死因は飛行機事故ではなく狩猟中水牛の角に突かれたことでした。
享年29歳。合掌。

■ レザージャケット



レザーのフライングジャケットを着用したイギリスの飛行家、
クロード・グラハム=ホワイト(1879−1959)
レザーは高価でしたが、保温性、耐久性、不浸透性から
初期の頃より飛行服の素材としてパイロットに好まれてきました。

レザージャケットの便利な点は、普通の服の上にさっと羽織れば十分で、
着陸時にコートが油で汚れていても、飛行機を降りて、
彼らを賞賛する人々に挨拶する前に脱ぐことができることです。

■ エディス・バーグのホブルスカート


ハート・O・バーグ夫人エディスは、ホブル(hobble)スカート
というファッションを「生んだ」とされる人です。

この写真でバーグ夫人の横にいるのはあのウィルバー・ライト
彼女の夫、ヒューバートがライト兄弟の欧州における代理人だった関係で、
「乗客として飛行機に乗った最初のアメリカ人女性」となりました。

写真で注目していただきたいのは、彼女のスカートの裾部分です。

飛行機に乗るわずか2分間のため、彼女は飛行中に
スカートが捲れ上がらないように、膝の少し下にロープを巻き、
飛行が終わってもそれを付けたまま現場を後にしました。
ついでに帽子も飛ばないようにスカーフで結んであります。

「ホブル(hobble)」とは「足を引きずって歩く」という意味があります。

このときバーグ夫人が飛行機を降りて歩く姿を見たフランスのデザイナーが、
これにインスパイアされ、この姿と日本の着物をミックスして、
ホブルスカートなるデザインを発表したのです。

この流行は、第一次世界大戦が開始すると急速に廃れました。
流石に戦争中はこんな罰ゲームみたいなスカートは履いてられませんよね。

実際に、これを履いていたせいで転んだり、逃げ遅れて
亡くなった「ファッションヴィクテム」の女性もいたそうですし。


写真では男性がスカートを指差しながら、

「ありゃなんだ?歩行速度制限スカートだろ!」

と揶揄しています。

飛行機に乗る女性にとっては「捲れ上がらない」という一点においてのみ、
非常に機能的だったということもできますが、ファッション的には
纒足とかハイヒールのような自由な行動を制限することによって生まれる何か
(セックスアピールとか)を狙っていたのかもしれません。知らんけど。

■フライトヘルメット




スミソニアンの説明によると、「ウォレン・ヘルメット」と言って、
W・T・Warrenというイギリスのパイロット&発明家が発明した
飛行用の保護ヘルメット断面図です。

素材は皮で、内部には鋼鉄のバネが仕込まれて衝撃を吸収します。
装着感を高めるパッドは馬の毛を使ってあります。



1912年、壁に頭突きして性能を実験しているウォレン本人。
後ろの笑っている人たちは皆パイロットらしいです。

この写真はとても有名ですが、間違って
「フットボールの練習」というキャプションが付けられたりしています。


「ブラウンヘルメット」

ブラウンヘルメットは厚手のフェルトと革でできており、
上部は額と後頭部を部分的に覆っています。

下部は革で覆われた厚さ3枚のフェルトで、
目の上に突き出ており、前方への転倒時に顔を保護します。
耳あてには穴が開いています。

防寒とそれほど強くない衝撃なら有効ですが、
衝撃吸収効果はウォーレンのヘルメットほど高くありません。

■フライトクローズ

「短時間用飛行服」

ファルマン複葉機に乗るL.D.L.ギブス中尉。
手袋はしていませんが、マフラーは必須として着用しています。

短時間飛行なので、コートは革製ではなく厚手の布製で、
厚手の毛糸の靴下を履いたロートップのブーツを履いています。

このギブス中尉ですが、どの軍隊所属かなど一切わかっていません。
(航空服だけで、制服姿の写真が残されていないので)
おそらくイギリス陸軍か海軍ではないかと言われています。

あるサイトによると、ギブスはファルマン飛行機のデモをスペインで行い、
その際、飛行機の準備が遅れたことに激昂した群衆が石を投げつけ、
ギブス中尉にナイフで襲いかかり、彼が逃げると、
残されたファルマンとそれを収納していた小屋を焼き払ったそうです。

その際、暴徒たちがスペイン語で叫んでいたのが、

Aviation is impossible!(航空は不可能)
Down with science!(打倒科学)
Long live religion!(宗教万歳)

だったとかなんとか。
うーむ・・・・きがくるっとる。



「水上飛行装置」

長時間飛行や水上飛行では、飛行服は暖かさが決め手となります。
ロバート・ロレインは、フライトの前に機内で写真に収まりました。
スカーフを首にしっかりと巻き、キャップのフラップを下げて
耳を寒さから守るだけでなく、エンジンの轟音を防ぎます。

手袋は必須で、コートの袖には手首に密着させるゴムがあるのが理想的。
ロレインはこれから水上を飛ぶので救命ベルトをしており、
コンパスとマップケースは膝に縛り付けてあります。

ロバート・ロレインイギリス陸軍少佐は、黎明期のパイロットで、
「ジョイスティック」という言葉を使い出した人物です。

ジョイスティックの「JOY」はご想像通り「喜び」という意味で、
飛行する喜びを込めたとかなんとか。

この写真ではイマイチですが、ロレイン少佐は大変なイケメンで、
女性にMM、引退後は俳優に転身、彼の死亡記事には

「ロバート・ロレインは今世紀で最もハンサムな
ロマンティック俳優の 1 人として記憶されるだろう」


と書かれたそうです。

これなら納得のイケメン

■ 女性用フライトスーツ


スカートが捲れて困るなら、スカート風のズボンにすればいいじゃない、
ということで登場したこのようなフライトスーツ。

分厚いツィード生地でできています。

写真はマチルド・モアサン(Matilde Josephine Moisant、1878- 1964)
アメリカで2番目に飛行機の操縦免許を取得した女性です。

左胸に卍(左まんじ)のマークをつけていますが、
これは普通にグッドラックチャームでナチスとは全く関係ありません。
左のイラストは、右の写真を元に描かれたものですが、卍のチャームは
いらぬ誤解を招くことを恐れたのか微妙にぼかしてわかりにくくしています。



本日の主人公、ハリエット・クインビー(右)とは知り合いでした。
ちなみにクインビーが免許取得第1号です。


1929年、ブランシュ・スコットのフライトスーツ。


「プラムサテンのフライトスーツ」

生前のハリエット・クインビーのトレードマークは、
プラム色のサテンのフライトスーツでした。
1911年の新聞には次のような記載が見られます。

ハリエット・クインビー嬢のプラムカラーのサテンでできた飛行服は、
ブラウスとニッカーボッカー、そしてモンクフードという組み合わせです。

ニッカーボッカーの内側の縫い目はボタンで閉じられており、
ボタンを外すとウォーキング・スカートになります。
ブラウスは長い肩の縫い目でカットされていて、脇の下で留めます。

そして、クインビー嬢が履いているのはハイトップレザーのブーツ。

これはクインビーのマネージャー、A・レオ・スティーブンスが
彼女のフライトを宣伝するために発行したポスターのコピーです。

ファッションの細部が気になる女性読者に向けて、
大変詳細にスーツの縫製について説明までしています。

■ ハリエット・クインビー

アメリカ人女性として初めてパイロット免許を取得したのが
このハリエット・クインビーです。

彼女は1875年ミシガン州の貧しい農家に生まれていますが、
最後まで自分の出生地を、カリフォルニアの裕福な家庭の出身で、
アメリカとフランスで十分な教育を受けたと人々に思い込ませていました。

彼女には上品な美貌が備わっていたので、人々は容易くそれを信じました。

若い時田舎から都会に出るなり雑誌記者として職を得たのも、
おそらくはその美貌が大いに実力を底上げたからに違いありません。

サンフランシスコでは、サンフランシスコ・クロニクル紙など
数紙の新聞に寄稿していましたが、そもそも記者という職は
当時、女性が参入することの少なかった分野でした。

しかも彼女は当時最先端だったタイプライターを最初に使ったり、
まだ車が珍しい頃に黄色い車を乗り回したりと、
同業のジャーナリストの中でもいつも目立っていたと言います。

そして彼女はニューヨークに進出して記者としてのみならず、
ドラマ評論や脚本を書いたり、写真を撮ったりしました。

なんか映画にも出ているという(後ろは多分サンフランシスコ湾)

美しく整った顔立ちのクインビーは、
自分の人生は必ず成功すると信じて疑いませんでした。
自分の才能と機知、そして美貌を武器に、
当時の女性が夢にも思わなかったことを成し遂げたと言えます。

美しき異端者であった彼女は社会の慣習を進んで無視し、
結婚よりもキャリアを選んで、彗星のように人生を駆け抜けました。


宣伝のモデルにもなりました

彼女が航空の世界に足を踏み入れたのは、
写真家、文芸・演劇ライターと名乗り活動していた35歳のときです。

イベントで航空に魅了され、飛行を学ぶことを決意したのですが、
そのころは航空の世界にまだ女性がおらず、今なら
希少価値の点でも自分は一躍有名になれると計算したのかもしれません。


モワサンとマドモアゼル・フィフィ

彼女はそのとき見事にレースで優勝したパイロット、
ジョン・モワサンに飛行を教えてくれるよう頼んだのですが、
レッスンが始まる前に、モワサンは飛行機の墜落で亡くなりました。

猫かわいい

John Moisant’s Flying Cat 
– History’s Most Renowned Feline Aviator flew the English Channel to Dover 猫が気になった方のために

普通こんなことがあれば、ためらったりしそうなものですが、
クインビーは全く怯みませんでした。
ジョンの代わりに弟アルフレッドに操縦を習い始めたのです。

モワサンの妹であるマチルドと親しくなったのもこのときでした。

■ 英仏海峡横断成功

タバコを吸い、車を所有し、飛行機を操縦し、一人で世界中を旅し、
おまけにプロの作家とか写真家を名乗る女性。

彼女は多くの崇拝者をいつも従えていたそうですが、
世間的に当時は過激な女性とみなされていました。

颯爽としていながら女性的なイメージ。
小柄で色白な彼女のあだ名は「ドレスデン人形アヴィアトリクス(Aviatrix)」
(女性飛行士のこと)「陶器の人形」「緑の瞳の美女」などでした。

彼女が自らデザインしたプラム色のサテンの飛行服は、
過激と言われながらもすぐにファッション・トレンドとなっていきます。



当時1回の航空ショーでパイロットは1,000ドルもの収入を得ることができ、
レースの賞金となると10,000ドル以上が手に入りました。

操縦免許を手にするなり、クインビーはエキシビション・チーム、
「モワサン・インターナショナル・アビエーターズ」に入り、
2万人近い観衆の前でスタテン島上空を夜間飛行して1,500ドルを稼ぎました。

プラム色のサテンブラウスにネックレスを光らせ、
ハイヒールのレースのブーツにタックインしたズボンを履いた彼女は
大会やレースに出場するたびに観衆を魅了していきます。

航空ショーに参加するかたわら、彼女は一連の記事で自分の冒険を語り、
一方で民間航空の経済的可能性を熱心に宣伝し、
飛行が女性にとって理想的なスポーツであることを宣伝するなど、
ジャーナリストとしての使命にも燃えていました。

1911年、世界的な名声と富を目標に、クインビーは
女性では初めてとなる英仏海峡横断に挑戦しました。

濃霧の中、ブレリオ単葉機でドーバーからカレーへの飛行を開始した彼女は
「前がまったく見えず、下の水面も見えず・・・
私にできることはただひとつ、コンパスを見続け」

て、無事に海峡を渡ることに成功したのです。

しかし、彼女は不運でした。

この二日前にタイタニック号が沈没したため、
本来大々的に報道されるべき彼女の偉業は新聞の一面を飾れなかったのです。

■墜落死

彼女は現在でも当時の最も有名な女流飛行家とされていますが、
飛行家として活動したのは、わずか一年でした。

英仏海峡横断成功を世間から無視されて、失意の中、
それでも飛び続けた彼女は、1912年7月1日、
海峡横断から3ヵ月も経たないうちに、悲劇的な最後を迎えるのです。

それはボストン湾で行われた航空大会での事故でした。

70馬力の新しいブレリオ単葉機で飛行していた彼女は、
非常に危険なアウトサイドループ(バント)を完了しようとして
ミスにより機首を下げてしまい、操縦不能に陥ります。

3の部分で失速

このとき同乗者が機外に放出されたため、機首はさらに下がり、
明らかに緩い安全ハーネスを付けていたハリエットも放り出されました。

ハリエットと同乗者は300メートルの高さから墜落し、
ボストン湾の浅瀬に落下してどちらも即死でした。

救出されるクインビー

皮肉なことに、乗員を失った無人の機体はその後水平になり、
ほぼ完璧な無操縦着陸で地上に戻ったといいます。


Harriet Quimby: Pioneer aviator tragically killed.

「フィアレス」は、ドン・ダーラー著のクインビーの伝記のタイトルです。

生前、彼女は色褪せない不滅の存在になることを望んでいましたが、
その短い生涯で、「恐れを知らず」成し遂げた数々の功績により、
それは実現したといってもいいでしょう。




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