親鸞聖人の信心の世界を伺っていると
自身の心を追い込んで追い込んで究極の次元まで追い込んで
それを超えた世界に開かれた阿弥陀如来の救いの世界だと
”ふと”思ったりする。
愚禿悲歎述懐和讃に
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑ(え)に
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑ(え)に
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる
(意訳)悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるでヘビかサソリのようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじわっている。だから、その行はいつわりの行とと呼ばれている。
自分の心をヘビかサソリのようだとはなかなか思えないものだ。
だが、そんな私であっても、このままの心で救われる世界がどこにあろうか。
おさとりの崇高さ(法の深信)と自身の愚かさ(機の深信)のギャップが大きければ大きいほど慶びは深い。
それを教えて下さったのが親鸞聖人であり、尊敬もできるしついて行ける。
南無阿弥陀仏