阿弥陀さまは光の仏さま
光は智慧のはたらきなり
智慧は私を目覚めせしむ
慚愧と歓喜の南無阿弥陀仏
~正像末和讃~
智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃を悟らまし
阿弥陀さまは光の仏さま
光は智慧のはたらきなり
智慧は私を目覚めせしむ
慚愧と歓喜の南無阿弥陀仏
~正像末和讃~
智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃を悟らまし
自分の顔は、ここにシミがあって、
目はこういう目で、鼻は…こういう顔してる
と鏡を通して見ることが出来る。
では、私の心の中を見る鏡は
自分で気づくか、誰から言ってもらって
ある程度は知ることが出来るかも…
でも、本当の自分の心の醜さや
自己中心的な心のありようを
知るのは至難の技
自らの事実にほとんど気付くことはない。
何かあると、わが身の不運を嘆き、
原因をどこかへ振り向ける私。
大悲の願船に乗ずる時
念仏のはたらきにより
我が身の程を知らされ
大悲によって心開かれ、心満たされ、
我が身の事実を引き受け
安穏なる世界へ往生す
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
浄土真宗のお流れを頂くものにとっては
恩徳讃が生活指針。
寝て起き、食事・仕事も…すべてが
ご恩報謝の生活であります。
~教行信証~
如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。
すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。
この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(意訳)
如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、
煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかない
すべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。
だからそこに疑いのまじわることはない。
この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とする。
密葬の時は檀家さん中心だったが
今回の本葬はまぁ…お寺さん数の多い事
臨済の各派、建長寺・建仁寺・永源寺等々の老師
お寺さんだけで150以上…
浄土真宗は私だけと
曹洞宗の友人が3名
あとはすべて臨済のお寺さんでした。
葬儀を終え、会食して帰って来ました。
まぁ…色々と勉強させて頂きました。合掌
友人の御尊父(27世住職)の本葬で
東京都瑞穂町「福正寺」に行って来ました。
法要前日、何人かで会食の折、
私の前に座っておられた老僧がおられ
会食の終わり際
誰なんだろうと知り合いの臨済の人に聞いたら
臨済宗永源寺派大本山(滋賀県)「永源寺」管長猊下です。
との答え、ろくな話はしなかった。