浄土真宗の信は
唯、仏願の生起本末を聴聞するうちに「我」のない信に至る
有り難し…南無阿弥陀仏
浄土真宗本願寺派の総長を長く務められた豊原大潤師が語ってくださった話です。
ある祝賀の会合で話されたのです。お祝いの言葉を述べられた後に、
「私は、耳が遠くなり、自宅にいても家族の話がろくに聞こえず、まったく孤独な毎日です。そのようななかでも、ひとりでにお念仏を称えている、お念仏申すばかりの生活です。 ありかたいことに、自分か称えるお念仏だけは聞こえるのです、耳元でお念仏が響いてくださる。これが尊い、ありかたいことです。私か称えさせていただいているお念仏をいただきながら、お念仏のなかに生活させていただいています」
有り難いお話でした…合掌
「年寄り」
友が訪れて
「年寄りは気難しい」と怒っていた
私がお茶を注いで
「私たちも年寄りよ」と微笑むと
「自分より上の年寄りのことよ」
と真面目に言った
年寄りは
上の世代の人を
年寄りだと
思っているらしい
(香川県琴平町 宇野愛子 77)
自分は若いつもりでいるからね…(笑)
亡くなったら旅に出て行くとよく聞いたりします。
だから、お棺の中に杖やわらじ等で故人に旅装束をしたりします。
しかし、念仏申すものは、阿弥陀如来の本願力により、命が尽きた刹那に仏さまの浄土へ往生させていただく。
それを「往生即成仏」と申します。
旅は只今がお浄土への旅であります。
仏教讃歌「真宗宗歌」の3番には「浄土(みくに)の旅を共にせん」と歌わせます。
法話会で講師の声が聞こえない。
補聴器を付けてるけど、声が小さかったり滑舌の悪い方だと全然聞こえない。
だいたい7~8割は聞こえないかな…↘
いい話でも届かないのは残念!
でも、自分の称える念仏の声が聞こえるのは有り難い。
「何かをしよう」
何かをしよう
みんなの人のためになる
何かをしよう
よく考えたら自分の体に合った
何かがある筈だ
弱い人は弱いなりに
老いた人は老いた人なりに
何かがある筈だ
生かされて生きているご恩返しに
小さいことでもいい
自分にできるものをさがして
何かをしよう
一年草でも
あんなに美しい花をつけて
終わってゆくではないか
(坂村真民 )