浄土真宗の信は
唯、仏願の生起本末を聴聞するうちに「我」のない信に至る
有り難し…南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派の総長を長く務められた豊原大潤師が語ってくださった話です。
ある祝賀の会合で話されたのです。お祝いの言葉を述べられた後に、
「私は、耳が遠くなり、自宅にいても家族の話がろくに聞こえず、まったく孤独な毎日です。そのようななかでも、ひとりでにお念仏を称えている、お念仏申すばかりの生活です。 ありかたいことに、自分か称えるお念仏だけは聞こえるのです、耳元でお念仏が響いてくださる。これが尊い、ありかたいことです。私か称えさせていただいているお念仏をいただきながら、お念仏のなかに生活させていただいています」
亡くなったら旅に出て行くとよく聞いたりします。
だから、お棺の中に杖やわらじ等で故人に旅装束をしたりします。
しかし、念仏申すものは、阿弥陀如来の本願力により、命が尽きた刹那に仏さまの浄土へ往生させていただく。
それを「往生即成仏」と申します。
旅は只今がお浄土への旅であります。
仏教讃歌「真宗宗歌」の3番には「浄土(みくに)の旅を共にせん」と歌わせます。