「大江和上の講義録より」
太陽は常に全世界の生きとし生けるものに向かって照らして、
地上のものに芽を出させ、花を咲かせ、実を実らせている。
このように、念仏を称えているのは念仏者の声であるけれども、
名号が行者の信後の上に相続として生き生きと出てくるよろこびの声となり、
称名となって現れ出てくるのである。
教行信証信巻「証大涅槃の真因」とあり
…光(名号)には、さとりを開く因(種)が込められているとのお示しです。
「大江和上の講義録より」
太陽は常に全世界の生きとし生けるものに向かって照らして、
地上のものに芽を出させ、花を咲かせ、実を実らせている。
このように、念仏を称えているのは念仏者の声であるけれども、
名号が行者の信後の上に相続として生き生きと出てくるよろこびの声となり、
称名となって現れ出てくるのである。
教行信証信巻「証大涅槃の真因」とあり
…光(名号)には、さとりを開く因(種)が込められているとのお示しです。
地球に引力あり
田舎には自然力あり
都会には魔力あり
阿弥陀如来に本願力あり
~本願力~
衆生がお浄土に往生(往相)するも、
穢国に還って利他教化(還相)するも
往生の因も果も、行も信も、
すべては本願力のはたらきによってあたえられる。
「広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す」
(教行信証)
ホテルや宴会場でのバイキング
あれもこれもと欲張っていると
「なにこれ、エサ?」みたい…
ゴチャゴチャプレートになって
ついつい食べ過ぎ↗
だからあまり好きじゃない
料理長が私のすべてを知り抜いた上で
栄養のバランス・量を考えて
楽しく食事出来るように
出して下さるのが一番いいです。
料理長のお仕事は阿弥陀さまに是似たり…
定善とは、精神を集中統一して修する息慮疑心(そくりょぎょうしん)の善行。
…思いをとどめて(息慮)、心を一つに集中する(凝心)
先日の日曜礼拝の当番の折、お勤めは正信偈繰り読みだが
途中で、自分が今どこを読んでいるのか分からなってしまった。
正信偈を拝読しながら何を考えていたのか?
ぼけてしまったのか?
何とも情けない話
定善修し難し
今年は全国各地で記録的な大洪水が各地で発生し
多くの人が亡くなり、多くの被害が出ていますこと
心よりお見舞い申し上げます。
あれだけの大量の豪雨であるのに
海は微動だにせずすべて川の水を受け入れる
親鸞聖人は阿弥陀さまの世界を海に喩えられ、
どんなに罪深い者であろうと
差別なく全てを受け入れお救い下さる。
私もその一人なり
「海」といふは、
久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、
逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、
本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と
成る。
これを海のごときに喩ふるなり。(教行信証)
「父の言葉」
少年のころ 父は晩酌をしながらつぶやいていた
「ふつうがいちばん」
「ふつうが難しい」
少年に その言葉は 寂しく悲しく響いた
夢と希望が胸に あふれていたから
少年は七十になった 父の言葉をかみしめ
ふつうに生きることが 夢と希望になった
(~朝の詩より~愛知県大洲市 土井義彦 70)
若い頃は、未来に向かって自分で未来を切り開いて行こうという思いいっぱい
そんな私が聴聞によって自分自身を知らされ
当たり前と思っていたことが
当たり前ではなく
「有難い」(ある事難し)ことと知らされる
そんな有難き今を生きる。
讃岐の庄松というお同行がおられました
庄松さんがおかみそり(帰敬式)の時、
庄松さんが終わって
門主が次に移られようとした時、
庄松さんはご門主の袖をつまみ
「兄貴、覚語はよいか!」と問いかけた!
という、その後、
ご門主は庄松を部屋に呼んで
「先ほどは確か、覚悟は良いか、と言われたが、そのたの後生の覚悟はどうなのか?」すると
庄松は、阿弥陀さまを指して
「あっちに聞いてくれ!」言われたという
…私が救われるのは
私が信心することでもなく
私が自分を整えるんでもなく
愚か者のこの私を
如来さまの「必ず救う」とのお喚び声に
信順するのみであります
お救いは阿弥陀さまのお仕事でありました。
他力の信心
他力というものがあって
信ずるのは自力であります
他力の信心とは
信心そのものが他力であり
他力によって信心をたまわる
他力廻向の信心なり
自分の心を捨てるところに
他力の信の心がひらかれる
「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」
(一念多念文意)
「他力と申すは行者のはからひのちりばかりもいらぬなり」
(親鸞聖人御消息)