しるべの記し

教会音楽家でクリスチャン・エッセイストのしるべです。
イエスさまの十字架を「道しるべ」として歩んでいます。

たいへんなことになってます

2020年05月24日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
実は、本を出すことになりました

いや、いや、本と言っても小冊子で、気軽に皆さんにお渡しできるようなものです。
「今日も生かされて」シリーズが評判よくって、私も本にしたいなぁ・・って思ってはいたのですが、
(クリスチャン・エッセイストにもなったし)、でもでも、結構細かいこととか面倒くさいタイプで、
苦手なもんで、ネットで調べて紙の見本を取り寄せたりしたのですが、放置していました

でも、周りの人たちが、「ぜったいにやりましょう」ってな応援
ってことで、あと4回分書き足して、全10回にしました。
それを今、校正していただき(すごいチェック力がある頼りになる「チェッカーズ」誕生
それに、レイアウトをしてくださる有力な助っ人たち~

しるべは、もうみなさんに「ついていきます)状態で、エッセイを生み出した親としては、もうみんなに子どもを
育てていただこうという感謝の思いだけです。
ありがとう

「葬式に配る」と言ったら、怒られました

当たり前のことが

2020年05月24日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
 「当たり前のことが」

当たり前と思っていました。「医療が受けられるのは当たり前」「欲しいものはすぐに買え
て当たり前」「どこにでも出かけられるのは当たり前」「おしゃべりだってランチだって当た
り前」「礼拝に出席できるのは当たり前」「一緒に歌うのは当たり前」。
当たり前のことができなくなって、初めて当たり前の大切さがわかりました。当たり前のことが、実は幸せ。
当たり前が当たり前でないと気が付いた時、改めて考えました。この地上で最もあり得ない
ことと言ったなら、自分の命を捨ててまでも、人々の救いのために、十字架にかかって死なれたイエス・キリストの贖いの出来事は、決して当たり前のはずはないのだと。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(Ⅰヨハネ3:16a)

他人の命を救うために自分が身代わりに死ぬようなことは、決して当たり前のことではありません。「神さまだから当たり前」、このことをそんなふうに軽んじてはいませんでしたか?
真剣に向かい合うことが少なく、当たり前のように信仰生活が過ぎていませんでしたか?
今は「感染への不安」「命を失うことへの恐怖」「先が見えない苛立ち」の中にあるかも知れません。しかしわたしたちは、これまで当たり前であったことが、実はそうではないということに、気が付き始めたのです。

「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(b)

こんなこと当たり前にできるはずもありません。できないことをイエスさまはしてくださったのだということを、改めてわたしたちは真剣に受け取り、今こそ主に感謝し従い、互いに仕え合いたいと思うのです。