しるべの記し

教会音楽家でクリスチャン・エッセイストのしるべです。
イエスさまの十字架を「道しるべ」として歩んでいます。

主の名を呼び求める者は救われる

2020年05月29日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
神さまは人を造られた時、霊と魂を持つ者として造られました。
しかし、ほとんどの人々は、欲望を満たすことばかりに思いを費やして、その結果が魂を枯渇させることに気付かないでいます。ですから、どんなに表面的には満たされた生活をしていたとしても、心の奥底にある孤独感と空虚感が消えることはないのです。
 旧約聖書の「コへレトの言葉」とは、「伝道の書」とも言うように、伝道者たちの言葉が集められているものです。そしてコへレトとはソロモン王であったという説もありますが、その中の一つにこんな言葉があります。

「コヘレトは言う。
なんという空しさ なんという空しさ すべては空しい」
(コヘレトの言葉1:2)

栄華を極め、豊かな知恵に満たされたソロモン王でさえも、このような空しさの中に生きていました。パスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない。」と言いました。わたしたちの心の穴は、神さまに頼る以外は、埋めることができません。
だからこそ、今、わたしたちに大切なことは、「主の名を呼び求める」ことなのです。

      「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒言行録2:21)

次の主日は「聖霊降臨日記念礼拝」です。2000年前のこの日、主のもとに集まった人たちの上に聖霊が降り、そしてその日が「教会の誕生日」となりました。
新型コロナウイルス感染防止のため、わたしたちはこの礼拝を皆で集まり、教会でお捧げすることはできませんが、それぞれの場で祈り賛美して礼拝することによって、そしてその中で真剣に主の名を呼び求めることで、一人ひとりの上に、聖霊が豊かに注がれ、わたしたちは教会につながる群れとなることができるのだと信じます。
一人ひとりの教会の友の顔を思い浮かべながら、共に主の名を呼びましょう。


たいへんなことになってます

2020年05月24日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
実は、本を出すことになりました

いや、いや、本と言っても小冊子で、気軽に皆さんにお渡しできるようなものです。
「今日も生かされて」シリーズが評判よくって、私も本にしたいなぁ・・って思ってはいたのですが、
(クリスチャン・エッセイストにもなったし)、でもでも、結構細かいこととか面倒くさいタイプで、
苦手なもんで、ネットで調べて紙の見本を取り寄せたりしたのですが、放置していました

でも、周りの人たちが、「ぜったいにやりましょう」ってな応援
ってことで、あと4回分書き足して、全10回にしました。
それを今、校正していただき(すごいチェック力がある頼りになる「チェッカーズ」誕生
それに、レイアウトをしてくださる有力な助っ人たち~

しるべは、もうみなさんに「ついていきます)状態で、エッセイを生み出した親としては、もうみんなに子どもを
育てていただこうという感謝の思いだけです。
ありがとう

「葬式に配る」と言ったら、怒られました

当たり前のことが

2020年05月24日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
 「当たり前のことが」

当たり前と思っていました。「医療が受けられるのは当たり前」「欲しいものはすぐに買え
て当たり前」「どこにでも出かけられるのは当たり前」「おしゃべりだってランチだって当た
り前」「礼拝に出席できるのは当たり前」「一緒に歌うのは当たり前」。
当たり前のことができなくなって、初めて当たり前の大切さがわかりました。当たり前のことが、実は幸せ。
当たり前が当たり前でないと気が付いた時、改めて考えました。この地上で最もあり得ない
ことと言ったなら、自分の命を捨ててまでも、人々の救いのために、十字架にかかって死なれたイエス・キリストの贖いの出来事は、決して当たり前のはずはないのだと。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(Ⅰヨハネ3:16a)

他人の命を救うために自分が身代わりに死ぬようなことは、決して当たり前のことではありません。「神さまだから当たり前」、このことをそんなふうに軽んじてはいませんでしたか?
真剣に向かい合うことが少なく、当たり前のように信仰生活が過ぎていませんでしたか?
今は「感染への不安」「命を失うことへの恐怖」「先が見えない苛立ち」の中にあるかも知れません。しかしわたしたちは、これまで当たり前であったことが、実はそうではないということに、気が付き始めたのです。

「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(b)

こんなこと当たり前にできるはずもありません。できないことをイエスさまはしてくださったのだということを、改めてわたしたちは真剣に受け取り、今こそ主に感謝し従い、互いに仕え合いたいと思うのです。


宗教改革と感染症

2020年05月18日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
「宗教改革と感染症」
詩編46:2

新型コロナウイルスの災いは、たいへんな社会不安を巻き起こしています。これまでも教会は何 度となくこのような危機に立たされた歴史がありますが、ヨーロッパにおいて宗教改革という、教 会の新しい息吹の中で、「ペスト(黒死病)」という大流行が起こった時、キリスト者たちはいった いどのような信仰的土台の上に立たされたのでしょうか。 14 世紀の中頃から、アジア・ヨーロッパ全土を襲ったペストは、ヨーロッパの全人口の4分の 1から 3 分の1を死に至らしめました。1527 年の夏、マルティン・ルターがいたヴィッテンベ ルクをも襲い避難命令宣言が出されたのですが、ルターはこれを拒否して町の病人や信徒のため、 その地に残ったのでした。宗教改革者たちは感染症にも、大いなる勇気をもって闘ったことがわか ります。 一方でペスト流行が宗教改革の原動力のひとつとなったとも言われています。

「数百年をかけて欧州社会が変わり始め、中世から近世への変化が起きました。当時はキリスト 教のローマ教皇の全盛期でした。教会がすべての権威を持っていました。ところが、そのローマ教 皇が祈ってもペストは治まらない。医学を担当していた神父たちもぜんぜん治せないわけです。 人々が不満を持ち始め、その後の宗教改革へとつながっていきます。このように 100 年、200 年 かけて、中世ヨーロッパ社会がペストの大流行により大きく変わっていったのです。」 (加藤茂孝・元国立感染症研究所室長インタビュー2020/5/1朝日新聞デジタルより抜粋)


宗教改革のさなかにペストが大流行したのではなく、ペストが流行したことが宗教改革の爆発力 につながったというのです。いずれにしても感染症の苦難の中で、人類は神さまから「何かをつか んで立ち上がりなさい」と語りかけられています。新型コロナウイルスのはびこるただ中、今わた したち教会は、神さまから何を守り、何を変えていかなくてはいけないかという選択肢を導かれて います。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」愛の御声に耳を傾けましょう。

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦(とりで)。 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編 46:2)

新生讃美歌 538 番「神はわがやぐら」は、この時期にルターによって作られた曲と言われてい ます。どんなにかこの賛美によって多くの人たちが死をも恐れぬ信仰の力をいただいたことでしょ う。 ♪

しるべの「肩書」

2020年05月03日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
皆さまにお知らせいたします

しるべは5月1日をもちまして、「教会音楽家」「クリスチャン・エッセイスト」になりました
今までと何も変わらないけど、わけあって、そーいう「肩書」にしました。     

まぁ、教会での働き、巡回しながら神さまのメッセージと弾き語りをする、神学校でキリスト教音楽史を教えるなどは「プロ」として
これまで活動している「教会音楽家」って、ことです。
しか~し
「クリスチャン・エッセイスト」・・・と言っても、本出版してない
それで、「プロなの?」って言われたら、返す言葉はありません
しかし、文章書いて発信しているのだから(このブログでも)、「しるべはクリスチャン・エッセイスト」だと、胸を張って宣言いたします

皆さま、応援してくださいね

門番と詠唱者(歌い手)の働き

2020年05月03日 | 教会音楽家 クリスチャン・エッセイスト
    
歴代誌上9:17-38 
 
新型コロナウイルスの感染により、会堂に集まることが閉ざされてしまった今、わたしたちは当たり前のように共に守り、繰り返されていた礼拝がそうではなくなってしまい、賛美も縮小されてしまいました。歴代誌上9章から、どんな時にも神さまへの働きのための誇りと準備を怠らなかった奉仕者の姿を学びたいと思います。

歴代誌は、神殿を中心とした礼拝の民としてのアイデンティティのもとに歴史を見直し、新しい民としてスタートするために書かれた書です。バビロンの捕囚から解放された民たちと神殿で仕える者たちのその職務についてあらためて詳細が記されています。その中に、それまでの歴史の中に書かれていなかった者たちが登場します。それは「門衛」「詠唱者(歌い手)」です。
「門衛」は、神殿警備の職務を担った人々です。彼らは212人で、全員がレビ人で、みなエルサレムの神殿の近くに住んでいましたが、その中に「歌い手」という神殿における賛美を務める人々がいました。彼らは音楽以外の奉仕はすべて免除され、一日中、賛美の務めをする人々でした。「彼らの一族は主の宿営の門口を守る者であった。」(9:19b)とあるように、賛美をする「歌い手」たちも、その「門衛」の一員であったことが分かります。「歌い手」は賛美によって敵や誘惑から守る役割を担っていたのです。
捕囚後エルサレムに帰還したレビ人である「門衛」たちによって、800年以上受け継がれた職務は捕囚期間中も常に継承され続けたこと、日々の鍛錬とひとつひとつの誠実な職務への働きに驚きを覚えます。彼らはたとえ目に見える神殿を失っても、主に対する信仰が失われることはなかったというのです。「門衛」「歌い手」たちは日々神殿を守るための働きに誇りを持ち、いつでも力が発揮できるよう、準備を整えていたのでした。

わたしたちも封鎖、閉塞された日々の中ではありますが、どんな時でも「主がお入り用なのです」(マタイ21:3b)という言葉に耳を澄まし、隣人に仕え、自分のやるべき職務に誇りを持ち、毎日の積み重ねによっていつでも教会を守り、信徒を守る準備を備える「門衛」「歌い手」になろうではありませんか。
もちろん病や弱さの中で力を保ち続けることさえも困難な方もいらっしゃることでしょう。(私もその一人です)でも、その方たちには、祈りがあります。奉仕者を支える祈りです。その祈りがあったからこそ、バビロン捕囚の苦しみの中、神殿も失って迷子になってしまいそうな人々を、信仰を支え、奉仕への力へと導かれていったことは、歴史が証明しています。