長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくり世界史 第7回『ローマ共和国誕生』

2010年10月19日 22時43分42秒 | ざっくり世界史
 どうもこんばんは、そうだいです。
 いやぁ、終わりました、終わってしまいました、10月のアトリエ公演が。今月の公演は、私にとって本当に重大なものとなりました。
 どう重大なのかは昨日までさんざん言ってきたのでもう言わないのですが、そういった嵐のような日々がひとまずは終わりました。今はどことなくほっとしたような、心にぽっかり穴があいたような気持ちになっています。
 ほんとに、今回ばかりはまわりの人たちにかなりのムリを通してしまいましたよ! 迷惑かけたね……
 もちろん、昨日ですべてが終わったわけでもなんでもないのですが、正直なところ、まずはゆっくりと休みたい。

 さて、ふと落ち着いてみると、何かを忘れているような……あれ、今回のブログのタイトルって、なんだっけ。
 ……え?「ざっくり世界史」?
 あぁあぁあぁ!! しまった、完っ全に忘れてたよ! そうそう、ヨーロッパ帝国の歴史を追ってるシリーズがあったんだよね! 芝居の公演中にはこれをやろうっていう。
 今月にかぎって、やれるわけがなかった……
 毎日の更新もとどこおるような状況の中で、のんびりと歴史の世界にひたれるほど、私も超人ではなかったのです。平々ぼんぼ~ん。

 つぅことでまぁ、まるまる1週間くらい遅れちゃったけど、久しぶりに始めてみっか、ヨーロッパの歴史へのタイムトリップ!

 1ヶ月前にやった「ざっくり世界史」シリーズなんですが、これは、ヨーロッパにおける「帝国」の歴史を少しずつ時間の流れにそってひもといていき、最終的には、そうだいが愛してやまない「神聖ローマ帝国」がどうしてそんなに素晴らしいのかを説明してみるまでいってよう、という企画でした。
 先月は6回までやりまして、時間でいうと紀元前16世紀から紀元前509年まで進めてきました。1000年分よ! 進めるよねぇ~。それでまだ「帝国」の「て」の字も出てきてないんだもの……道は遠いぜ。
 たぶんに伝説的な要素も多かった古代のローマ王国だったのですが、今回あたりからボチボチ現実の歴史らしいにおいがしだしてくるんですね。
 物語は、最初のローマ王国が崩壊した紀元前509年からふたたび始まります。

 その年、戦争好きだったローマ王国7代国王タルクィニウス=スペルブス(傲慢王)とその息子の横暴に耐えられなくなったローマ国民は、遠征によりタルクィニウスが不在だったタイミングで蜂起し、そのまま彼をローマから追放してしまいます。
 このクーデターの指揮をとったのは、それまでタルクィニウスの側近として長らくつき従ってきた貴族(パトリキ)のルキウス=ブルートゥスでした。
 国王としての権力を拡大しようとしていたタルクィニウスは在位中に、ローマ国内にいる有力なパトリキの多くを殺害・処分していましたが、ルキウスの兄弟もその例外ではありませんでした。
 しかし、ルキウスだけは、おろかなフリをしてタルクィニウスのお気に入りになって生き延びていたのです! 役者だぜルキウス。ちなみに、ルキウス=ブルートゥスの「ブルートゥス」はタルクィニウスにつけられた名前で、なんと「アホ」という意味なのだそうです。それがルキウスの活躍によって名誉ある名前となり、「ブルートゥス、お前もか」と言われる人物も登場してくるわけなんですが、それはまだまだ450年ほどあとのお話。はてしねぇ!
 さて、そんな苦労人ルキウスなんですが、クーデターとその後の活躍は「アホ」とはほど遠いあざやかさでした。
 まずは、強力な権力を持っていた「国王」という存在をすみやかに廃止し、それに代わる「執政官(しっせいかん コンスル)」による政治を開始したのです。
 コンスルとは、現代の日本での国会にあたる「民会」の中で、選挙によって2人選ばれるローマの最高権力者です。あの塩野七生大先生の言葉を借りれば、「総理大臣兼防衛大臣兼統合参謀本部長」ということになります。ま、要するに政治と軍隊の両方を指揮できる、普通に言う「王様」や「将軍様」とおんなじ権力を持っているわけなんですね。
 ただし重要なのは、「任期が1年」であることと「2人いること」。
 実は、選挙で選ばれていたのはそれ以前の「ローマ国王」もそうだったのですが、いったん国王になるとその強大な権力は死ぬまでその1人だけのものでした。
 その危険さをまさに身にしみて感じていたルキウスは、最高権力を時間持ち回りでさらに常に2人で分け合うという制度にしたのです。
 またルキウスたちは、外国の侵攻や疫病の流行、はたまた内乱の発生などの非常事態に対応するために、執政官が指名できる臨時の「独裁官(ディクタトル)」という官職も設定しました。
 これは文字通り、決断を迅速にするために1人ですべての権力を行使できるという執政官以上の役職なんですが、そのために任期は、さらに短い「就任から半年間」になっています。
 そんなわけで、国王の追放後、ローマの初代執政官にはルキウスと、タルクィニウスの息子に妻を手込めにされてしまいクーデターに参加したコッラティヌスというパトリキが選出されることとなりました。(厳密に言うと当時は「プラエトル」という職名で「コンスル」ではなかったのですが、権力の内容はまったく同じです。)

 これが! あの「ローマ帝国」のもととなった前段階の国家・ローマ共和国の誕生です。

 世界史の教科書などでは「共和制ローマ」や「古代ローマ共和国」と表記されることが多いのですが(18世紀と19世紀それぞれに「ローマ共和国」という別の国家が生まれているため)、「共和制ローマ」ってもったいぶって言うのも、わざわざ「古代」をつけて古くさくするのもあんまり好きじゃないんで、この「ざっくり世界史」では、「ローマ共和国」で通させていただきます。ほんとにざっくり……

 さてさて、こうやって成立したローマ共和国だったんですが、これで追放された戦争好きなタルクィニウス王が黙っているわけもなく、タルクィニウスと同種の民族であるローマ周辺のエトルリア人諸国家の動きも不穏だ(ローマ国民自体はラテン人)……
 これから起きるであろう共和国の危機をどうやって打開していけばいいのか?

 ローマ共和国、誕生した瞬間から、なかなかキビしい状況となっております……どうする、どうなる!?

 
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そうだいのざっくり世界史 第6回『ローマ王国のたそがれ』

2010年09月14日 01時56分42秒 | ざっくり世界史
 どもども、こんばんは~。そうだいです。 
 いや~、終了してしまいました、9月公演。5回の舞台、無事にゴールしました。しかし、休む間もなく来月10月の公演に向けた稽古が始まります! 良かったことも反省点もひっくるめて、また明日からがんばってくゼイ!
 今日はまぁ、いい公演だった!とハッピーな気分でいきたかったんですがね……残念なことに、先月のブログでも好きだ好きだと言っていた、シンガーソングライターの鬼束ちひろさんが暴行を受けていたというニュースを知ってしまいました。やだねぇ! せっかく、いろいろな点で新しいステージに向かっている最中だと思っていたのに。世間の眼なんか気にしないでがんばれ!なんて無責任なことはとてもじゃないけど言えないんですが、まずはゆっくりとお大事にしていただきたいですね。応援してますから!

 さぁ今回はいよいよ、舞台公演中のために組んでいたプログラム「ざっくり世界史」第1部の最終回です! 目標は「ヨーロッパ帝国の伝統をさぐる」というものだったんですが……結果はごらんの通りのありさま、帝国の「て」の字にもたどりつけませんでしたぁ! ドロンジョ様、お許しを~。
 紀元前753年についに誕生したローマ王国。順調にイタリア半島中西部で国土を拡大していくのですが、次第にある問題に直面していくことになります。
 それは、古くからイタリア半島中部に広く生活していた先住民族・エトルリア人とのかねあいという微妙なものでした。微妙だけど、これが難しいんだ!
 先日も申したように、もともとはラテン人が中心になっていたものの、国力の拡大を至上命題にかかげていたローマ王国は、周辺の他国民や外国人も意欲的に自国に吸収してゆくのですが、当時圧倒的な人口の多さで繁栄していたエトルリア人もその例外ではありませんでした。また王国は、要領よくエトルリア人の持っていた水道などに代表される先進建築技術も学びとっていきました。現存はしていませんが、首都ローマを囲んで防衛する、高さ10メートル・幅4メートルの城壁が史上初めて建造されたのもこのころです。当然ながら、吸収するにつれて、王国におけるエトルリア人の比重はどんどん大きくなっていきました。
 そして、建国から150年がたとうとしていた紀元前7世紀末期ごろ、ついにエトルリア人が国王に選ばれるようになったのです。ローマ出身の人間以外が王になるというケースは以前にもあったのですが、今回のエトルリア人国王即位の意味はだいぶ違ったものでした。
「もしかしたら今回ばかりは、ローマ王国がエトルリア人に飲み込まれるんじゃ……?」
 ローマ王国内では、次第にエトルリア人とそれ以外のローマ国民とのあいだでの対立が表面化していきました。わかりやすい戦争という形ではない、ローマ王国とエトルリア人との、乗っ取るか乗っ取られるかの静かな闘いが繰り広げられていったのです。結果として、元老院に大きく根を張ったエトルリア人勢力のために、代々国王はエトルリア人が選ばれるという状況になっていきました。
 そしてエトルリア人問題が持ち上がってからおよそ100年後、ついに大事件が発生してしまうのです。そのころ、中国は国々の分裂した春秋時代で、日本は東日本が縄文時代で西日本が弥生時代といった状態。インドでは、ブッダが人間から仏様になっていました。最近、マンガで仲良くコンビを組んでいるブッダとイエス様なんですが、ブッダの方がイエス様より500年ほど年上だったんですね。ブッダさん大先輩!
 紀元前535年、ローマ王国で第7代ローマ国王にエトルリア人のタルクィニウス=スペルブスが即位します。「スペルブス」とは後につけられたニックネームで、「傲慢」という意味。つまり、タルクィニウス傲慢王と言われるようなキャラクターだったわけなんです、このお人。
 もう最初から飛ばしてます。タルクィニウスは、元老院内の反対派の貴族を皆殺しにして王に即位しました。そして戦争による国土拡大を重視した政治をおこない、しょっちゅう首都ローマをあけてはみずから戦争に出かけるという血の気の多さだったのです。
 そして紀元前509年。この年、タルクィニウス王のドラ息子が、ローマ王国の有力者の娘を手込めにするという事件が発生します。その結果、娘は親族達にタルクィニウス一家への復讐を頼み込んで自殺してしまいました。
 怒った多くのローマ国民は立ち上がり、タルクィニウス王の遠征中に首都ローマの城門を閉ざし、王の一族を討伐して王もそのまま追放するというクーデターを決行します。
 帰るあてを失ったタルクィニウス王は結局、近隣のエトルリア人国家に亡命しますが、ローマには復帰できないまま異国で死亡するという最期をとげます。
 この事件にはエトルリア人問題は一切関係無かったのですが、結果としてエトルリア人の国王が追放された以上、ローマとエトルリア人諸国との関係は険悪になってしまいました。
 さて、自らの手で王を追放したローマ国民は、「国王」を頂点におかない、新しい政治体制をつくる必要に迫られることとなります。これによって、約250年続いたローマ王国(王政ローマ)はあっけなく消滅しました。さぁ、自ら変革を求めて蜂起したローマ国民が選んだ、次なる国の形とは? そして、この時点ではまだイタリア半島中西部しか支配していなかったローマが、いかにして地中海世界、そしてヨーロッパの覇者となる「帝国」に変貌してゆくのか!?
 盛り上がってまいりました! でも、第1部はここまで! 続きはたぶん、来月の舞台公演期間中だね!
 第1部はちょっと地味だったけど、第2部はハデだぞ~。有名人ももりだくさん! アレクなんちゃら大王とか、クレオなんとか女王とか、カエサなんとかとか。
 お楽しみはこれからだ! 待ってろよ、「神聖ローマ帝国」~!! でもまだ紀元前~。
 
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そうだいのざっくり世界史 第5回『若さハツラツぅ?ローマ王国』

2010年09月13日 01時42分01秒 | ざっくり世界史
 こんばんは! そうだいです。いやぁ、今日もやったねぇ、舞台本番。お客さんは盛況だったし、ずいぶんと楽しんでいただけていたようで良かった良かった! いよいよ明日が公演最終日です。いままでの回よりももっといい回になるように、明日もやったるでぇ!
 今日は時間に余裕があったので、久しぶりに映画館に行って、公開中の『東京島』(監督・篠崎誠 主演・木村多江)を観てきました。これはねぇ……なかなかいい作品でした。ものすごくおもしろかった!とか感動した!という感じではなかったのですが、観ていていろんなことがグルグル頭の中を駆けめぐって、とても刺激のある映画でしたね。自分としてはやっぱり、ストーリー展開が特に気になったのかしら……桐野夏生さんの原作がたまんなく読みたくなりましたね! ストーリー以外にも役者とかスタッフワークとか気になる点のやたら多い映画だったので、また改めて検証する回をもうけてみたいと思います。私のように原作をまだ読んでいない方は、あらすじやパンフレットなどからの前情報は一切頭に入れないで観ていただきたい! けっこうぶっ飛んだ展開ですから。同じ回を観ていた知らないカップルのうちの彼女さんの方は、「なに~、この映画~?」と連呼していました。まぁ……そんな映画だわ。

 さてさて、今日も一発行ってみようか、悠久のヨーロッパ史へターイムスリーップ!
 紀元前753年、19歳の若き国王ロムルスをいただいた新王国が、イタリア中西部の七つの丘に形づくられた土地に誕生した。その名はローマ!!

 ってことなんですが、できたてローマ王国の特徴はズバリ! 男子校かと見まごうばかりの若さと男臭さだったのです。
 もともとはロムルスのあだ討ちに参加した、古いアルバ・ロンガ王国の体制に不満を持っていた人々が集結してできた国家です。しかも、ロムルスは国家を経営するにあたって「武力」というものを重要視していました。ロムルスは建国するにあたって、約2000人のローマ王国兵を編成しました。たった1つ、ローマという町しか支配していなかった人口3000人ほどの王国にしては異常な兵の多さです。それだけ若い男が多かったということなんでしょうが、この状況は同時に、王国の危機ともいえる大きな問題をはらんでいたのです。
 それは……女の子がほし~いっ!! という切実なものでした。
 当時、町1つという規模の都市国家が乱立するイタリア半島中部にあって、人口の多さはそのまま国家の強さに直結する重要なファクターでした。
 いくら強い兵士がいたとしても、人口が増えないのでは我がローマ王国に未来はないっ!
 若き王ロムルスは、王国発足直後に大ばくちとも言える大作戦を仕掛けてしまいます。
 なんと隣町の国に、「うちで祭をやりたいんですが、踊り手の女子がいないんです。年齢は問わないんで、そちらの女性のみなさまにヘルプで来てもらえないでしょうか?」ともちかけ、踊りに来た女性を既婚・未婚を問わず全員自分達の嫁にしてしまうという暴挙に走ったのです。男子中学生の妄想か!?
 さらった女性達には紳士的に接したらしいのですが結局、隣町の国とはあったりまえのように戦争となりました……でも、ローマ王国は勝っちゃった。まぁ、若いですから。
 これは極端な例なのですが、とにかくローマ王国は「強く大きい国になる!」という信念を強く持った国家でした。さまざまな点で型破りだったのです。
 まず、なんと国王は選挙制! 王国の中で財産がある、親族が多いなどといった有力な人物は終身制で貴族(パトリキ)に選ばれ、その貴族が100名集まった元老院(セナトゥス)での選挙により、その時もっとも人望のある人物が国王に選ばれる(任期は死ぬまで)という制度が採用されたのです。つまり、国の最高権力者はあくまで国王ですが、元老院の貴族達も相当に重要な権力を握る、ということになります。
 これは、国王の子がどんなダメ人間であれ次の国王になる、というまわりの都市国家とはまったく違ったやりかたでした。要するに、常にもっとも能力の高い国王がい続けるということにより、王国が内部崩壊を起こす可能性を下げるというものだったのです。うーん実用的。紆余曲折はあるのですが、この「元老院制度」は、実に15世紀まで続けられていくことになります。2000年以上も残っていくのよ、奥さん! スゲくね?
 しかもこの制度に参加できる人間は、財力や政治力さえあるのならば、どこ出身だろうが誰でもOKという、当時としては驚くべき特徴がありました。
 しつこいようですが、当時は町単位の大きさの国が当たり前の時代でした。つまり、「その町の人間」しか「その国の政治」には参加できないというのが常識だったのです。
 その中にあって、「ローマ市民だけじゃない! よそ者だろうが、昨日まで敵だった国の者だろうが、実力さえあるんだったらすぐに政治に参加できるし、ひょっとしたら王様になれるかも知れないんだゼ!」というキャッチフレーズは、ローマ王国にまわりの地域の人々が集まってくる強力な求心力となりうるものでした。
 同時に、ローマ王国は常に軍事力の増強もおこたらず、じょじょにではあるのですが、隣町を征服したら次はまた別の隣町と、戦争に勝利していくことによって国土を拡大していきます。しかも、征服した国の有力者のうちの幾人かは必ずローマ王国の元老院に迎えるという、小にくたらしいまでのアメとムチ。とにかくローマ王国は、征服した者達を征服するだけにとどめず、利用できる部分は自分の肉体に吸収するという柔軟性をもってのぞんでいたのです。これはのちのちのヨーロッパ帝国を考える上でも欠かすことのできない「伝統」の1つだと言えるかと思います。
 まぁそんなこんなで、若きロムルス王の創り出したローマ王国は、人口の増加と戦争という2つの車輪をガラガラと回転させることによって、イタリア半島中西部で拡大していくこととなったのでした。さぁ、そんなローマ王国の行く末やいかに? 次回、第1部最終回!

 ……ということで、やっぱりローマ帝国までは行けなさそうです……いいんだいいんだ! はしょってスピードを速めたって意味ないもーん! いつかやれたらいいんだよ。それまで死なないようにがんばるぞ!
 
 
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そうだいのざっくり世界史 第4回『YAT安心!ローマ王国』

2010年09月12日 01時56分59秒 | ざっくり世界史
 こんばんは! そうだいです。いやぁ、今日もやりました、舞台本番。2日目も無事に終わりました。観に来ていただいたお客様には喜んでいただけたかしら? 今日は、大学時代以来の親友にも観に来てもらったんですが、彼からのさしいれで素晴らしい柄のTシャツをいただきました。とても素敵なTシャツだったのですが、そこにプリントされていたもののことについては、また後日に語らせてもらいたいと思います。親友君、どうもありがとう! これ、ほしかったんだぁ!

 さて、今日もいってみようかぁ、古代ヨーロッパの世界へターイムスリーップ!
 時は紀元前771年。およそ400年の平和をたもってきたアルバ・ロンガ王国に風雲が吹き荒れた。国王とその弟とのあいだに大抗争が勃発し、国王派が敗北して弟が王座を奪う事態となったのだ。
しかし、「兄貴の血筋の男子は皆殺しにせよ」という弟王の厳しい命令にもかかわらず、生まれたばかりの、兄貴の孫にあたる双子の兄弟は川に流される処置がなされた。担当した兵士が幼い兄弟をふびんに思い手心を加えたためだったのだが、果たして、兄弟の行く末やいかに!?

 という展開だったんですが、かごに入れられた兄弟はアルバーノ山地から北の土地にドンブラコと流れてゆき、なんということか! 森に流れ着いてそこに住んでいたオオカミに助けられます。オオカミのお乳を飲んで生き延びた兄弟は、通りすがりの羊飼いに発見されて保護されました。羊飼いは、オオカミのお乳(ルーマ)を飲んでいた兄弟ということから、それぞれ兄をロムルス、弟をレムスと名づけて2人を育てます。
 時は流れて紀元前753年。元気な19歳(数え年)の若者となった兄弟は、ひょんなことから自分達が、実はアルバ・ロンガ王国の王子だったという衝撃の事実を知ってしまいました。
「俺達は羊飼いじゃなくて王子だったのか! しかも、今の国王が俺達を追放した張本人で、俺達のお祖父ちゃんは20年近くもそいつに幽閉されているんだって!? ゆ……許せん!」
 ロムルス・レムス兄弟は、現代の19歳にもまさるとも劣らない若さで突進していきます。弟王に不満を持っていた羊飼い仲間を呼び集めて、一気にアルバ・ロンガ王宮に乱入して弟王を殺してしまいました。殺気に満ちた双子の兄弟たち若者集団に対して、弟王は兄貴から王座を奪って20年たとうとしていたお爺ちゃん……なんか日本の『忠臣蔵』のような、哀れな最期ではありました。
 さて、幽閉されて約20年! やっと孫たちによって解放されたヨボヨボの兄貴王は、当然のごとく正統な王位継承者である孫たちに国王の座を譲ろうとしますが、なんと双子兄弟はこのおいしい話を断り、アルバーノ山地の北西に位置する、自分達が羊飼いとして育ってきた7つの丘に囲まれた土地に新たな国を建国したいという提案をします。自分の恩人の言うことですから、兄貴王は惜しみつつも孫たちの新王国設立を許可し、ここに、アルバ・ロンガ王国とは違ったまったく新しい王国が建国されることとなりました。
 おそらくですが、ロムルス・レムス兄弟は、400年間の慣習やしがらみにがんじがらめになっていた古くさいアルバ・ロンガ王国にはなんの魅力も見出さなかったのではないでしょうか。それよりも、自分達の住み慣れた土地で、誰にも縛られることなく効率的なルールを考え出してゼロから新しい国を創り出していくというやり方のほうがスッキリしてていい!と判断したのでしょう。うーん、さすがは若者。わかりやすいです。
 ロムルスとレムス兄弟の行動は、ごらんの通りに非常に若々しく男臭いものなんですが、それゆえの悲劇も建国の直前に起こってしまいました。
 さっそく故郷の地に戻り、都市国家を建設する兄弟だったのですが、どこを国の中心地にして城壁を築くのかで意見が対立し、そのあげくに決闘になってしまい、兄ロムルスが弟レムスを殺すという結果になったのです。
 若い……なにも殺さなくても。と私も最初に感じたのですが、よく考えてみると、身勝手なお祖父ちゃん兄弟の喧嘩のために運命の非情なとばっちりを受けて育ってきたロムルスとレムスのことです。2人が仲良く1つの国の王となるというヴィジョンには、もともと2人とも懐疑的だったのではないでしょうか。ともあれロムルスは、建国直前というグッドすぎるタイミングで弟をほうむり去り、若い力を結集したこの7つの丘に囲まれた土地に自分の名前にちなんだ国名をつけて、その国の初代国王に即位するのでした。
 はい~、それこそが! 「ローマ王国(王政ローマ)」だったんですねぇ。
 「ローマ」! やっと出てきました、この名が! でも、「帝国」はまだなんですよ……帝国じゃなくて王国なんです、この時点では。具体的に初代国王ロムルスがどんな王国を築いたのかについては、また次回にということにしましょう。

 「YAT安心!」って、進行が遅すぎて全っ然、安心できねぇよ……ていうか、あと2日で劇団の公演、終わっちゃうよ! そのあとはまた普通の日替わりブログに戻るつもりなんだから、それまでに「帝国」までいけんのか!? う~、不安。 
 
 
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そうだいのざっくり世界史 第3回『アルバ・ロンガ王国』

2010年09月11日 07時12分35秒 | ざっくり世界史
 おはようございます、そうだいです。昨日は劇団の9月公演の初日だったのですが、無事に満員盛況のうちに1日目を終えることができました。昨日はそれ以外にも色々なことがめまぐるしくありまして、非常に印象深い日になりました。さて、今日のお芝居はどうなることやら!

 さてさて、今日も今日とて、ヨーロッパの「帝国」の歴史を好き放題なやり方で見ていく時間を始めますよ~! そんなことを言ってもう2回終わってるのに、まだ帝国の「て」の字も出てこない……いや、大丈夫です。確実に進んでることは進んでるから。

 紀元前13世紀中ごろ、エーゲ海地域で勃発したトロイ戦争のために滅亡してしまったトロイ王国の王族将軍・アイネイアスは、妻子を連れてイタリア半島中西部・ラティウムに亡命することに成功します。そして、そこに住んでいた民族・ラテン人の族長・ラティヌスの保護を受けることになったんですね。
 ハイ、現在ではブラジルなど中南米の熱いサンバのイメージが浮かぶようにもなった「ラテン」という言葉のおおもとは、このイタリアのラティウム地方に住む人々ということだったんですね! そして、そのラテン人たちのリーダーがラティヌス。まぁつまり「日本人のリーダーが日本太郎」みたいなもんで、ラティヌスさんはほとんど実在の人物というよりは、ラテン人の神様に近い存在のようであります。ギリシア神話のゼウス様みたいなものですかね。
 さて、トロイ国王の娘婿でもある高貴なアイネイアスはラティヌスのお気に入りとなり、本妻の他にさらにラティヌスの年ごろの娘をめとって、ラティウムのアルバーノ山地(ローマの南東)に王国を建国します。これが「アルバ・ロンガ王国」です。
 この王国を立ち上げるにあたり、アイネイアスは自分ではなく、義父のラティヌスを初代国王にかつぎあげます。さすがは堪え忍ぶ流浪の生活を送っていたアイネイアス。現地の有力者をたてるそのやり方は非常にそつがありません。郷に入っては郷に従え。
 そのうえ念の入ったことに、のちに義理のお祖父ちゃんラティヌス、苦労人の親父アイネイアスの跡を継いでアルバ・ロンガ王国の3代目国王になったトロイ王家の血を引く息子アスカニオスは、「自分よりラティヌス爺ちゃんの血を引いている弟の方が王にふさわしいよ。」と言って、素早くアイネイアスの後妻の息子である母ちがいの弟・シルウィウスに王位をゆずってしまいます。ああ、この父にしてこの子あり。アイネイアスとアスカニオス。ヨーロッパ史上に残る、空気の読める親子です。まぁ、そのあまりの欲のなさから、このあたりの歴史ウソっぽくない? と言われてもいるわけなんですが、なにしろ今から4000年以上も昔のことですから! そりゃ半分くらいは、ねぇ。
 そんなこんなで、アイネイアスとラティヌスの血を引いた国王が代々続いたアルバ・ロンガ王国だったんですが、建国からおよそ400年がたった紀元前8世紀に大事件が起こります。
 ところで、この紀元前8世紀はどんな時代だったかといいますと、中国では周王国が衰退し、『論語』の孔子先生などが活躍する春秋(しゅんじゅう)時代が始まっていました。日本はちょうど縄文時代に弥生時代がフェイドインしてきたところ。だいたい九州地方は稲作の弥生文化でそれ以外はまだ縄文文化、といったところでしょうか。
 話をアルバ・ロンガ王国に戻しまして紀元前771年、国王とその弟のあいだで壮絶な兄弟ゲンカが発生し、弟は兄貴を王座から引きずりおろして幽閉し、兄貴の血を引く男の子孫はすべて殺せという非情な命令を兵士にくだします。
 その時、敗れた兄貴王には生まれたばかりの双子の孫兄弟がいたのですが、あまりにふびんだと考えた兵士は、兄弟を直接には殺さずに、川に流してしまいます。まぁ、普通は死んじゃいますよね。
 ところがどっこい、この双子の兄弟は生き延びた! そりゃそうです、この子たちに死んでもらっては話が終わってしまいます。なぜならば、彼らこそが後のローマ建国の祖なのですから!

 あいかわらず、車だったら絶対に後ろからクラクションを鳴らされるであろう、でんでんむしのようなのんびりスピードで、以下次回へと続く!

  
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