長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第6回 『しろうと革命おニャン子クラブ』

2011年05月13日 23時05分04秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 みなさん、どうもこんばんは~。

 最近、自分のふともものふとさが右と左とでちがっているような気がしてならないそうだいに応援のお便りを送ろう!
 ※募集は終了いたしました


 前回にもふれたように、1983年という年は「モモコクラブ」という大人数のアイドル(の卵)をまとめあげるシステムを発明したアイドルグラビア雑誌『Momoco』が創刊された重要な年だったのですが(11月)、くしくも同じ年の4月、のちの「おニャン子クラブブーム」の誕生を考えるうえでモモコクラブ以上に大切な役割をになうこととなる伝説の深夜番組が放送を開始しました。

 それが、フジテレビで毎週土曜日の深夜0:45~3:30ぐらいに放送していたお色気情報バラエティ番組『オールナイトフジ』です。
 この番組は本当になにからなにまで伝説ずくめといった感じで、放送時間帯に「ぐらい」とあるように、番組の終了時間が「あんまりはっきり決まっていない」という異例の生放送番組でした。資料によると、どうやら最長では夜明けの5:30まで放送していたこともあるらしく、その時は日曜日早朝の番組を編成していたスタッフさんにかなり注意されたそうです。
 若き日の片岡鶴太郎、とんねるず、ウッチャンナンチャン、松村邦洋らといった、のちの「東京お笑い界」の看板となっていくみなさんが大暴れしていたことでも有名で、1983~91年にかけて放送された全404回の平均視聴率は3.5%で最高7.2%! 深夜番組ですよ!? ところでみなさん、片岡鶴太郎さんがかなりイケイケのお笑い芸人だったってこと、知らない人はいません……よね?
 バラエティ番組としての伝説エピソードは、1984年に発生した笑福亭鶴光のさしがねによる当時アイドルだった松本明子(18歳)の「おではじまる4文字発言事件」や、翌85年に発生したとんねるず石橋貴明(24歳)の「1500万円のTVカメラをノリで破壊事件」などが特に有名です。
 深夜番組とはいえ、これらの事件は松本さんのバラドル転向のきっかけとなったり、とんねるずの「危険でおもしろい兄ちゃん2人組」というイメージを決定づけたりと、『オールナイトフジ』の世間への影響力は絶大なものがあったのです。
 そういった破天荒な部分もありつつも、この『オールナイトフジ』は、「女子大生ブーム」の仕掛け役といった側面も持ち合わせていました。ここが大事なとこなんだ!

 番組では「お色気要員」として、常に10~20名のしろうと現役女子大生(短大生も含む)を番組アシスタントとしてスタジオにまねいており、彼女たちを「オールナイターズ」というグループとしてあつかっていました。
 基本的には完全なド素人だったオールナイターズなのですが、番組の中では全員レオタード姿になってダンスを披露したり、アダルトビデオの紹介コーナーを恥ずかしがりながら進行したりしてお色気パートを積極的に担当しており、まったく場慣れしていない、しかもある程度の知的教養のある娘さん達が本気で恥ずかしがりながら番組を進行していく姿は、プロのタレントさんには出せないおもしろさやいやらしさがあって番組の人気を大いに底上げしていくこととなりました。まさに、TVにあえて「しろうとさん」を出演させることの良さを最大限に利用したわけだったのです。

 そんなこともあって、しろうとだったはずのオールナイターズはみるみるうちに視聴者(もちろん同年代の男性がメイン)の人気を集めていき、『オールナイトフジ』が生放送される土曜日にはフジテレビ社屋(当時は新宿・河田町)の外に出待ちのファンが詰め寄せるといった状況になっていました。
 当時のオールナイターズと番組のフィーバーぶりを物語るものとして有名なのが1983年の「池袋サンシャインシティ生中継事件」で、サンシャインシティ噴水広場に仮設された会場からの中継となった回には、ビートたけしなどの大物ゲストが出演していたこともあって深夜にもかかわらずなんと約1万人ものファンが大集結するという事態になってしまい、観客と番組側とのあいだで乱闘が起きたりオールナイターズが移動時にもみくちゃにされたりと現場は大混乱に。結局、スタジオ以外の場所から『オールナイトフジ』が放送されたのは後にも先にもこの回だけとなってしまいました。

 こういった「女子大生ブーム」にのっからない手はない! とばかりに1984年に番組の中から結成されたのが、オールナイターズからの選抜3人組アイドルグループ「おかわりシスターズ」でした。
 片岡鶴太郎の命名によるなんとも不思議なグループ名なのですが、楽曲や3人のキャラクターはいたってオーソドックスな正統派アイドルグループ路線。もともとが20~21歳の女子大生であるということもあってか、番組のボルテージや若さはあまりひきずっていないまさに「シスターズ」といった感じの3人組でした。
 余談ですが、私はこのおかわりシスターズの中でも特に人気のあった山崎美貴さんの出演していた舞台を偶然にも去年拝見しており、その時には美人だなぁとは思っていたもののまさか元アイドルだったとはつゆしらず。そのお芝居では落ち着いたあたたかみのある役柄を好演していらっしゃいました。
 
 こうして自前のアイドルグループを持つ程までに発展した『オールナイトフジ』だったのですが、あまりの人気番組ぶりになんと国会から「待った」がかかってしまいます。
 お達しの内容は例によって「青少年への悪影響をおよぼす番組づくりはいかがなものか。」というもので、この論議が持ち上がったのは1985年のはじめだったのですが、その年の3月いっぱいをもって『オールナイトフジ』の番組内容はお色気要素をいっさい廃した「健全なバラエティ番組」に路線変更していきます。
 『オールナイトフジ』自体はその後も1991年まで人気深夜番組として存続してゆき、オールナイターズの設定もいちおうアシスタントとして残っていくこととなるのですが、「アイドルグループ史」に重要な足跡を残した番組としての『オールナイトフジ』はこの1985年3月をもって幕引きとなっており、おかわりシスターズも同じ3月に東京・厚生年金会館でおこなわれたコンサートをもって涙の解散とあいなっています。約1年間の活動期間の中でおかわりシスターズがリリースしたシングルは4枚でした。ほんとにいっぱしのアイドルグループだったわけですよ。

 だが、しっかし!!

 ここまでの大人気となった『オールナイトフジ』の遺産をおいそれと手放すわけにはいかない……

 『オールナイトフジ』と、それを世に問うたフジテレビが開いてしまったパンドラの箱。それは「しろうとっぽい肩の力をぬいた軽さ」!
 1980年代前半、まだNHKには負けていたものの、視聴率で民放キー局5社中トップとなっていたフジテレビが標榜したキャッチフレーズは、

「軽チャー路線」!!

 うわ~、もうこれ、まんま1980年代っぽいですよね! まさにポップ、まさにI☆I☆KA☆N☆JI。ひえ~。

 要するに、部屋のすみっこにあることが当たり前になってきたTVを観る人が要求しているものが、わざわざ入場料を払って映画やコンサートを観る人のそれと本質的に違うということを初めて意識したのが、この時代の番組づくりだったんじゃないかと私は思うんですね。
 真剣な人々の注目に耐えうる姿を見せつけるプロフェッショナルな仕事よりも、だら~んと寝そべり、「この子とデートしてぇなぁ~。」や「こいつバカだなぁ~。」などとつぶやきながらTVを観ることを許してくれるスキありまくりのしろうと芸!
 もちろん、とんねるずや当時のフジテレビの看板バラエティ番組『オレたちひょうきん族』(1981~89年)でメインをはっていた多くの芸人さんの現在を見ていただいてもわかるように、最終的に生き残るのは「しろうと芸のように見える仕事もできる周到なプロフェッショナル」だったわけなのですが、とにかく当時は視聴者にとって距離感がほぼない「近所のかわいい女の子」や「近所のおもしろいおじさん、お兄さん」のかもしだすアドリブっぽい空気感がもてはやされる時代だったのです。

 実際、『オールナイトフジ』で導入されたスタジオ演出に「フロアサブ」といったものがありました。
 これは簡単に言ってしまうと「TV画面にたまに映りこむことを計算に入れてあえてスタジオのすみに設営された番組調整ブース」のことです。
 本来TVに映ってはいけないはずの、スタジオにいるタレントにCM指示を出したり時間進行を調整したりするスタッフがなぜわざわざスタジオのカメラ近くにたむろしているのか? しかも、『オールナイトフジ』だって本当に番組の進行をコントロールしていたのは、他の番組と同じようにスタジオとは離れた場所にある「調整室」のスタッフだったというのに?
 これこそまさにプロが考案した「しろうとっぽいグダグダ感」をだす演出の最たるもので、タレントの発言に同じスタジオでワハハと笑うスタッフの声がまじったり、逆にタレントのほうが裏方であるはずのスタッフのことを堂々と番組でイジったりする。画面には生放送の進行上でのトラブルにおたおたするスタッフ、カンペを出すスタッフが映ったりする、つまりはスタッフまでをもひっくるめて「番組の出演者」とすることで、これまでの堅苦しい「節度をわきまえた各方面のプロたちによる番組を提供しております。」というスタイルから脱却した(ように見える)エンタテインメントの新境地を開拓したわけなのです。

 とにかくまぁ、今まで日本のTV界に築かれていた「お上品さ」や「格式」といった堅苦しいパッケージを徹底的に解除し徹底的に笑うというのが1980年代に時代を象徴する「軽さ」を構築したフジテレビの戦法だったのです。
 これをお笑いの世界で後押ししたのが『オレたちひょうきん族』で、これまでザ・ドリフターズが確立してきた「作り込まれたコント」覇権にいどんでいった闘いの歴史はつとに有名です。

 そして! この風潮の「アイドル」方面軍の総司令を担当したのがなにをかくそう「おニャン子クラブ」であり、それを世に送り出したのが、毎週平日夕方5時から1時間放送していたアイドルバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』だったというわけなのです。
 きた! やっと来ました、おニャン子クラブ。

 おニャン子クラブとはなにか? これはもう、パパッと言ってしまえば「オールナイターズ」の「女子高生ヴァージョン」です。
 1985年のはじめに『オールナイトフジ』が「お色気路線」を維持できなくなることが決定的となったとき、番組スタッフは盛り上がっていた「女子大生ブーム」を引き継ぐ次なるブームの担い手として、そこからちょっと低年齢化した中高生をターゲットにした、女子高生のしろうとアイドルをプロデュースする計画にうつることとなりました。
 迅速な行動力を発揮した『オールナイトフジ』スタッフは、その年の2月からオールナイターズやタレント志望の女の子たちの中からメンバーを選抜して、本放送から離れた夕方の時間帯に『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』という特別番組を2回ほど単発で放送、「イケる!」という確信を得た末に、4月1日から現役女子高生アイドルグループの結成を目的にすえたオーディションバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』の放送を開始したのです。うおお~!

 とまぁこういった感じで、「おニャン子クラブ」というアイドルグループは、『オールナイトフジ』のオールナイターズのシステムをそのまま継承しそれをさらに発展・拡大させたフジテレビ肝いりの企画だったわけなのです。
 まさに、これまでのアイドルグループの歴史においては存在しなかった「TV局専属」にして「しろうと感がウリ」というダブルの、いやさ、「メンバーが3人や4人にとどまらない大所帯」というトリプルの意味で新しいグループが誕生することとなったわけなのです。

 このように、あくまでもおニャン子クラブというシステムはフジテレビという会社が戦略的にプロデュースしたものであったのですが、その中でも特に「おニャン子クラブの生みの親」と言われるようになったのが、『オールナイトフジ』と『夕焼けニャンニャン』の放送作家にしておニャン子クラブのほとんどの楽曲の作詞も手がけていた「放送業界の鮫」の異名をとる男・秋元康でした。秋元さん、1985年時点ではまだまだ若い29歳。やるわねェ~!
 なんとまぁ高校生時代からすでに放送作家としてのキャリアをスタートさせていたという秋元さんは一方で1981年から作詞家としての活躍も始めており、早くも翌1982年には稲垣潤一の初期の代表作とも言われる『ドラマティック・レイン』(「どら~まてぃ~~~~~~~っっっく……れいん!」のやつ)の作詞を手がけて名をなしていました。本人も語るように、決して秋元さんのみの単独プロデュースであるわけではないおニャン子クラブだったのですが、番組づくりや楽曲といったさまざまな面でこの若きカリスマが圧倒的貢献をみせていたことは間違いないでしょう。

 そして、もう1人「おニャン子クラブブームの仕掛け人」として忘れてならないのが、おニャン子クラブのほとんどの楽曲で秋元作詞とタッグを組んでいた作曲家の後藤次利(つぐとし)です。
 彼も大学生時代から若くしてプロのミュージシャンたちのツアーやレコーディングに参加するベーシストとして活躍しており、作曲家としての活動を始めるのは30代になったばかりの1983年ごろから。3人組アイドルグループの「ソフトクリーム」や「おかわりシスターズ」の楽曲のほとんどを作曲しており、有名なところではあの「一世風靡セピア」の作曲もやっていました。そいやっそいやっ!!

 秋元康と後藤次利という80年代を代表する黄金タッグ。1985年4月の『夕焼けニャンニャン』放映開始をきっかけに幕を開ける史上最大の「しろうと大革命」を巻き起こした両巨頭としておおいに記憶されるべき存在です。
 (ちなみに、おニャン子クラブの先輩にあたるおかわりシスターズのA面楽曲の作詞は秋元さんではありません。)
 まぁ、そうでなくても2人はファンのみなさんのあいだでは「おニャン子クラブの主要メンバーを嫁さんにしている人」という、忘れようにも忘れられない共通項があるわけなんですけどね! 2人ともホントにやるわねェ~!!


 ということで、具体的におニャン子クラブがどんな革命を80年代のアイドル界とTV界にもたらしたのかは、字数がかさんできたのでまた次回でございます!
 ひっぱるねぇ~。でもこれだけ大事だということなんですよ、おニャン子クラブ。みなさまには、がんばってもちっとだけおつきあいいただきたいと……

 この「アイドルグループ史」、今月中に2011年までには行きそうに……ない、かナ~!?
 続くよね~!!

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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第5回 『おニャン子クラブ誕生前夜』

2011年05月11日 23時20分20秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どんもだんも~、そうだいでっす!
 今日はね、「私の携帯電話が徳永英明なみのこわれかけになってきてイイ感じ」という話題を最初にやりたかったのですが、朝めざめてニュースを読んでいたら非常に興味深いお話があったので、そっちのほうを紹介させていただきたいと思います。


「2年後にAKB48終わってる」指原莉乃の爆弾発言で騒然(Yahoo!JAPANニュース 5月11日の記事より)

 アイドルグループ「AKB48」の指原莉乃(さしはら りの 18歳)さんがTV番組で「AKBは2年後に終わっている。」と発言し、収録スタジオが騒然となった。「AKB」が終わってしまうと芸能界で生き残れないため、「危険物取扱者の資格を取りたい」というのだ。
 この発言を巡り、ネットでは指原さんのことを「ネガティブ指原」などと呼ぶようになっている。
 出演した2011年5月10日放送の日本テレビ系トークバラエティー『踊る!さんま御殿!!』の中で、

「今はAKBという名前があるから番組に出させてもらっているが、将来、いつか絶対に(番組に)出られなくなると思っている。」

 などと告白した。
 司会の明石家さんまから「芸能の仕事をいつまで続けるのか?」と質問されると、

「2年後に私は20歳になるんですけど、たぶんAKBは終わっているんですよ。」

 と衝撃発言。スタジオ全体が騒然となった。
 AKBが終わるというのは解散するということではなく、人気がなくなってしまうということ。現在「AKB」は人気絶頂でゴールデンタイムを含め数多くの冠番組を持っているが、それもやがて無くなると指原さんは推測する。
 番組ではまず、デビュー10年にして初めて『さんま御殿!!』に出演したグラビアアイドルの折原みかさん(27歳)が発言した。初登場の夢を叶えるため10年間ずっと自分は努力してきたが、後輩のタレントは「オバカキャラ」だけで注目され何度も出演している、などと愚痴った。
 努力の中身は、麻雀、財テク、FXを勉強し、筋トレに励んだこと。「ジャンドル(麻雀アイドル)」を目指せばTV出演の機会が増える、などと考えたからだ。
 指原さんは共感。「AKB」の人気はいつまでも続くわけではないし、「AKB」に頼っているだけでは番組からのオファーはなくなってしまう。芸能界で生き残るには何らかの資格や特技を身につけなければいけない、というわけだ。
 ねらいは危険物取扱者。「危険物取扱者アイドル」の道が開けるかもしれないということらしい。


 ……言っちゃいましたね! っていうか、個人的には指原さんよりも折原さんの話のほうが非常に興味深いです。なんか、まんまそんなことを『ピューと吹く!ジャガー』の「かりそめのヒロイン」こと高菜さんが考えるエピソードがあったような気が……

 私もつい最近まで、わが『長岡京エイリアン』で一連のこんな感じの「アイドルの歴史をチラ見する特集」をやってみようかと思いつくまでには、「アイドル」というものは人気商売なのかな? という程度の認識しかなかったので、そんなアブない発言を自分からぶっちゃけちゃっていいんですか!?と、そのころの私ならば単純にびっくりしていたことでしょう。
 ただ、こうやっていろ~んなAKB48への道をつくりあげた先人たちの軌跡をたどってみると、今はこう感じてしまいます。

 そんなこと、あ~ったり前じゃないですか。

 これはねぇ、人間が「私そのうち、死ぬんですよネ!」と発言してまわりの人たちがワタワタするようなもんだと思うんですよ。AKB48でなくても、全盛期を迎えたアイドルが2年後に終わっているのは自然の摂理なんです。
 AKB48がはたして今現在の状況をもって「全盛期」を迎えているのかどうかはわからず、まだまだこれからアイドル史上前人未踏の領域に入っていくのかも知れないということはあるのですが、少なくとも2年後には「今の形態の、今のメンバーの」AKB48は終わっているだろうと、私も思います。

 要するに、指原さんが具体的にどんな状況を思い描いて「終わっている」と言っているのかはわからないのですが、解散していなくても、メンバーの1人1人が今以上に有名になって活躍していたとしても、AKB48が2年前とほぼ同じアイドルグループであり続けるのは不可能だ、ということなんじゃないかと。
 ソロもグループもひっくるめて、「アイドル」というものは人気商売である以上に、「お客さんの期待する姿の自分をみせ続ける商売」なんじゃないかと思います。
 はきはきと健康的な発言をする陽気なアイドル、どことなく陰のある表情が魅力的なアイドル、水着グラビアで男性を幸せな気分にさせるアイドル、信じられないくらいおバカな発言をして周囲の人々を笑わせてくれるアイドル……
 いろいろあるわけなのですが、どのアイドルも「自分」は心身ともに捨てているお仕事です。もちろん、ちゃんと楽しみながらそれをやっているという方がほとんどなのでしょうが。

 そして、「自分を捨てる」という行為は普通の人には何年間も続けられるものではありません。才能の活かせなかった人は自分からあきらめるか世間に飽きられて芸能界を去って行くし、才能を活かすことのできた逸材は「自分のやりたいことをやって人を魅了する」アーティストに脱皮していくわけなのです。山口百恵さんなんかもう、生き仏さまみたいになってるでしょ。グラビアアイドルで有名になった人が「服を着ていく」パターンも、たぶん別に「水着の仕事がイヤでしょうがないから。」という単純な理由だけではないはずなんです。

 てなわけでね、今いるAKB48のみなさんは、多くは指原さんも含めてアイドルから別の何かに変身していくはずです。これは人間が成長するのとおんなじことで、それを止めることは無理であるハズです。15歳の子どもが何年経っても15歳のままでいるのって、その子がどんなにかわいくても気持ち悪いでしょ!?
 その時、グループ名の「AKB48」が残っていたとしても、中身はまったく別の存在になっていることでしょう。2001年の「モーニング娘。」と2011年の「モーニング娘。」を同じアイドルグループだと考えている人はいませんよね。

 結論として、指原さんの発言は特に衝撃的なものではなかったということですな。
 ただ、指原さんがそういう発言をするキャラクターであることをアピールしたことと、AKB48が主要メンバーのそういう発言を許容する時期にきたということはおさえておきたいですね。
 いよいよ、次の段階に入る時がきたって感じですか~!? もりあがってまいりました。

 この「ざっくりすぎるアイドルグループ史」を始めたあとにこういう話題が出てくると、なんかタイムリーでいいですなぁ~。指原さん、ありがとうございます! やっぱ今月にこの企画を始めといてよかったわ~。ちゃんと終わるかどうかはまだわかんないけど。


 さてさてい! 今回はいよいよ、1980年代を代表するアイドルグループとなった「おニャン子クラブ」の章に入っていきたいと思います。てえへんだぁ~い!!

 え~、なにかと「AKB48の原型」と語られることの多いこのおニャン子クラブなのですが、実際にその通りではあるものの、

 中身はもう、ずえ~んっずぇん!! 違う!

 それはねぇ、時代がちがうとかメンバーのかわいさがちがうとかいう当たり前のところなのではなくて、グループのおおもと、本質が違っているんです。
 こりゃもうね、同じ「空を飛ぶ」という共通点しかないワシとトンボぐらいの違いなんですよ。

 かいつまんで言いますと、おニャン子クラブは「メンバーがしろうとであること」をウリにした史上初のアイドルグループでした!

 まずおニャン子クラブの話をする前に、同じクラブでも違うクラブの話から始めなければなりません。

 前回にもちょっとだけ触れましたが、1983年11月に新人アイドル・菊池桃子(15歳)をイメージガールとしたアイドルグラビア雑誌『Momoco』(学研 1994年1月号まで)が創刊されます。
 すでに人気を集めていた学研のアイドル情報誌『BOMB』の姉妹誌としてスタートを切った『Momoco』だったのですが、雑誌内でももっとも注目されていた企画コーナーが「モモコクラブ」でした。

 「モモコクラブ」とは、自薦他薦しろうとデビュー済みを問わず、とにっかくアイドル級にかわいい女の子の情報を投稿してもらい、『Momoco』編集部が「この子は将来ビッグアイドルになる!」と認定した子に「桃組出席番号~番」という通しナンバーをあたえる、というものだったのです。
 この「モモコクラブ」は、雑誌の1コーナーながらも「アイドルの卵が見られる」ということで大人気となり、実際に工藤静香さんなど、のちにおニャン子クラブの会員になっていく方も何人か紹介されていました。
 モモコクラブから有名になっていったソロアイドルとしては、第1回ミス・モモコクラブ・グランプリとなった西村知美(1985年に15歳でデビュー)、第2回グランプリの畠田理恵(1986年に16歳でデビュー のちに「寝ぐせ竜王」羽生善治と結婚引退)、畠田さんと同時期にデビューした酒井法子(15歳)や円谷優子(16歳 「特撮の神様」円谷英二の孫娘)といった方々がいらっしゃいます。

 モモコクラブは、その人気が盛り上がってきた1986年10月~87年9月にそのまんまのタイトルの『モモコクラブ』(TBS)という持ち番組も放映しており、畠田・酒井・白田あゆみ(16歳)・伊藤美紀(15歳)らの放映期間中でのソロ歌手デビューを後押しするなどして、1987年にピークを迎えた菊池桃子に続けとばかりに展開されていく『Momoco』勢ブームの基盤となっていきました。
 個人的には、やっぱりこの中では西洋人形のようなかれんな容姿と聴く人の深層心理を見抜くような低音とのギャップが印象的な畠田理恵さん(活動前期)がいちばん好きですねぇ。

 こういったかたちだったため、「モモコクラブ」は決してまとまった活動をするアイドルグループではなかったのですが、5人や10人にとどまらない人数の人材を企画内の「桃組出席番号」形式でまとめていくという新しいくくりかたが、『Momoco』創刊の1~2年後、1985年に結成される大人数アイドルグループ・おニャン子クラブに導入された「会員番号」形式のモデルとなったことは言うまでもないことでしょう。

 いろんな要素が集まって誕生した史上初の「しろうとアイドルグループ」おニャン子クラブだったわけですが、本格的な母体となったフジテレビ関連の話題と、その後の栄華物語はまた次回~。
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第4回 『アイドルグループの試行錯誤 おニャン子以前』

2011年05月09日 23時04分38秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 んど~ぉもっ、そうだいです。
 ドわたくしごとで恐縮なのですが、今日は弟の大学入学式があったようです。ゴールデンウィークがあけてからやっと大学に入学するなんてねぇ。とてつもない年に大学生になったもんですよ。
 ちょっと、「おめでと~う。」なんて言いながら気楽にあいさつに行ける距離ではなかったので私は電話ですませたのですが、ぜひとも弟なりのおもしろおかしいみのりある4年間をおくっていただきたいものです。
 弟よ、なにか困ったことがあったらなんでも聞いてちょうだい。なんの役に立つかはわかんないけどできるかぎりのアドバイスはするよ。こんな外道な兄で申し訳ないが、遊びに行った時はなんか料理つくって!

 そりゃ外道ですよ……こんな大変な時代なのに、30年前の時代のことばっか考えてるんですからね。「道を外れている」という以外にいったいどんな表現があたるというのでしょうか。
 とかなんとか言っておきながら、平然と「アイドルグループ史」を続けていくというこの人生オフロード車っぷり。

 道なんてものは自分の前にはない。自分のうしろにできてるものだけが道なんだ。

 ひあ~もうコレ絶対に誰か先に言ってるよ! はずかし~。 


 あ、さて。

 前回までは1970年代のアイドルグループ、っていうかキャンディーズとピンク・レディーの両巨頭を中心につづってきたわけなのですが、いよいよ今回からは次なる1980年代に入っていきたいと思います。私そうだいが生まれた年代ですよ~。

 そして! 1980年代のアイドルグループといえば。もう間違いなく「せーえーらっ、ふっくっおっ!」のあのクラブを抜きにして語ることはできないでしょう。
 2011年現在に「この世をば 我が世とぞおもふ もち月の……」とみずからの全盛を謳歌しているAKB48の直接の原型とも言えるようなこのクラブなんですが、80年代に入ったからといってすぐここにとりかかるわけにはいかないんだなぁ。

 かのクラブが結成されたのは1985年のことなのですが、ピンク・レディーの(その覇業のわりには)静かな退場があった1981年からその時期までの4~5年のあいだにも、アイドルグループというジャンルの絶え間ない歩みは続いていたのです。
 結果として、みなさんもご存じの通り1980年代のアイドルグループの成果は「おニャン子クラブ」に結実していくわけなんですけども、この流れも80年代前半のさまざまな試行錯誤があった末に生き残った1形態がそれだったということなのであって、決して「あっ、コレだ!」という感じで突然変異のように1985年におニャン子クラブが誕生したのではなかったということなんですね。

 っつうことで、今回は1980年代前半、85年のおニャン子クラブ結成にいたるまでに「アイドルグループ」の世界で繰り広げられたさまざまなこころみの内のいくつかを追ってみたいと思います。
 そういえば、1970年代に現れては消えていった無数のフォロワーグループたちを見ても思ったんですけど、こうやってわたくしごとき馬の骨が3~40年たった未来から見渡してる記録って、当時に起こったことのほん~の! ごく一部でしかないのよねぇ。まさに歳月の経過というものを感じてしまいますね。


 1980年代前半。
 かつて史上空前の国民的ブームを巻き起こしたアイドルグループ(デュオ)「ピンク・レディー」は、前回にもふれたように1979年の後半から活動の場所をアメリカに移しており、その間隙をつくかのように、翌1980年からはかつてない規模でのソロアイドルブームが幕を開けることとなりました。

 まず先陣をきったのは、1980年の松田聖子(18歳)と河合奈保子(17歳)! でっけぇな~、しょっぱなから。
 1980年はいろんなことがあったねぇ。まず松田さんは1月のラジオ出演が初仕事となっており歌手としてデビューしたのは4月のこと。河合さんは「西城秀樹の妹オーディション」に合格し6月に歌手デビューしました。
 そしてその一方では、3月に俳優・三浦友和との婚約を正式に発表したあの山口百恵サマ(21歳)が、もはや伝説となった感のある10月の東京・日本武道館でのファイナルコンサートをもって芸能界を去っていきます。ピンク・レディーの翌年解散が発表されたのは、その直前の9月のことでした。
 まぁ、百恵サマは1976年にあの阿木燿子・宇崎竜童夫妻の手がけた諸作を発表し始めたころからすでに「アイドル」ではない「山口百恵」というジャンルの唯一無二の体現者にメタモルフォーゼしてしまっていたわけなのですが、1980年はまさに、ある時代の終わりと新しい時代の幕開けをヴィヴィッドに伝えるアニバーサリーなイヤーとなったのです。私、ここの文章だけなんかルー大柴さんみたいになっちったね。 

 それから、次にアイドルの歴史を語る上で欠かせない年はというと、やあっぱり! 1982年ですよね。
 まずはなんと言っても、中森明菜(17歳)、堀ちえみ(15歳)、松本伊代(16歳)、小泉今日子(16歳)らといった「花の82年組」と呼ばれるソロアイドルのみなさまがデビューしたという重要な意味合いがあります。
 言わずもがなですが、今わたしが挙げた名前は、「花の82年組」の方々のほんとにごく一部でございます! キョンキョン殿下がブレイクするのはもうしばらくしてからなのですが、多くの方々はデビュー当初から次のアイドル界のトップをになうホープであるとして大いに注目をあびていました。

 重要なのは、単純に1970年代にくらべて男女ともにアイドルの人数が思いっきり増加した(男はたのきんトリオとかシブがき隊とか)。そのことによって、世の同年代の中高生達が大いに感情移入できる「ヴァーチャル恋愛学校」がTVの世界に形づくられていたことです。
 つまり、自分達の現実のクラスが鏡にうつっているかのようにTVの中のアイドル達を見る、そのことによって自分に似たアイドルを探したり友だちに似たアイドルを探したり、はたまた自分の好きなあの子に似たアイドルを探したりしてワイワイ楽しむという虚構のエンターテインメントができるほど、男女ふくめた「アイドル」の世界が拡大していった、ということに他なりません。まさにそれは、かつての日本芸能界にはなかった娯楽の提供でした。アイドルはもしその歌声や芸につたなさがあったとしても、それを十二分におぎなってあまりある「視聴者の美化されたアバター」という魅力を持つことになったのです。
 といっても、っつうか、だからこそ、アイドル1人1人の「生身の人間としての現実の」恋愛沙汰は余計な邪魔でしかなかったんでしょうね。因果な商売だよ……
 ま、とにかくおぼえておきたいのは、あるアイドルとあるアイドルの人気争いという構図だけでない、そういうひとつのコミュニティのようなふところの深さを持った「アイドル界」ができあがったということは、デュオやトリオ以上の人数規模を持ったアイドルグループが誕生するのももはや時間の問題だったということなんですな。
 学生時代のクラス規模でいちがんとなってやる学園祭の準備とかって、一種異様な高揚感がありましたよね。あのへんの時空魔力がブラウン管(表現が古い)から全国に解き放たれる時が来たんです。ビューティフルドリーマーですよ、まさに。

 話の流れがおニャン子クラブよりになってしまいましたが、また時間を戻します。
 「おニャン子」以前のアイドルグループの模索を見る上でも1982年近辺は見るべき部分が多くありますので、ちょっと時系列でならべてみましょう。

1981年
 10月 田原俊彦の妹役でTV出演していた松本伊代(16歳)が、『センチメンタル・ジャーニー』で歌手デビュー
 ※1981年のデビューだが、当時の日本レコード大賞などでの新人歌手の選定が「9月」で区切られていたため、翌1982年に各新人賞を獲得
 同月 渡辺プロダクション・スクールメイツから抜擢された女性2人組(17・19歳)がその松本伊代のバックヴォーカルをつとめ、のちに「キャプテン」というユニット名を持つこととなる
 ※キャプテンと命名したのは当時の松本さんのマネージャーで、理由はキャンディーズにあやかって「キャ」ではじまる名前にしたかったかららしい

1982年
 3月 堀ちえみ(15歳)、小泉今日子(16歳)、デビュー

 5月 中森明菜(17歳)、デビュー
 同月 ヤマハ・ポピュラーソングコンテストで、名古屋在住の現役大学生デュオ(のちの「あみん」)が『待つわ』でグランプリ獲得
 
 7月 あみん、『待つわ』でデビューし同曲が1982年最大のヒットを記録する
 同月 伝説中の伝説テクノアイドルグループ「スターボー」が『ハートブレイク太陽族』でデビューするが、商業的にはほぼ黙殺

 12月 大人気バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の中で結成された企画ユニット「わらべ」のデビュー曲『めだかの兄妹』がリリースされる
 同月 3人組アイドルグループ「ソフトクリーム」がデビューする

1983年
 2月 スターボー、1stシングルでのテクノ路線をきれいさっぱり消して普通のぶりっこアイドル路線としての2ndシングルをリリースするが……後の祭り

 4月 写真週刊誌『フォーカス』がわらべのメンバー・高部知子(16歳)の「喫煙中の姿を撮影した」とされる写真を掲載し(いわゆる「ニャンニャン事件」)、その影響により高部はわらべを脱退

 5月 ソフトクリームの楽曲が2nd『すっぱい失敗』から作詞・森雪之丞(28歳)、作曲・後藤次利(30歳 プロベーシスト・のちのおニャン子楽曲を担当)の組み合わせになる

 11月 学研のアイドル雑誌『BOMB』の姉妹誌『Momoco』が創刊され、雑誌のイメージガールとして菊池桃子(15歳)がデビューする(女優・歌手としてのデビューは翌年)

 12月 デュオとなったわらべが2ndシングル『もしも明日が…。』をリリースし、同曲は翌1984年最大のヒット曲となる
 同月 あみんが活動を休止する(発表されたシングルは4作、オリジナルアルバムは1作のみ)


 ね~? いろいろあったでしょう。
 話をアイドルグループのほうに持っていきたかったのでずいぶんと偏った年表になってしまい申し訳ないのですが、ここで注目したいのは5組のグループです。


・あみん(1982~83年・2007年~)
 ※岡村孝子(20歳)と加藤晴子(19歳)のデュオ
 ここを「アイドルグループ史」で語るのはちびっとキビしいですよね……確かに、容姿や境遇からしてアイドルではなく地方大学生の雰囲気を強く持った2人ですし、さだまさしを敬愛する岡村さんの曲調もアイドルの世界とは隔絶した空気感をたたえています。
 しかし、実質1年半という短すぎる(最初の)活動期間となってしまった原因が、『待つわ』の大ヒットによって普通の大学生だった2人に一気に押し寄せた全国規模の熱狂的人気の重圧だったり、岡村さん以外の作詞・作曲による楽曲の展開というアイドル的活動をあみんに望んだ所属事務所とセルフプロデュースアーティストを志向する岡村さんとの意見の相違だったりしたということで、ひとつ「アイドル」という世界の爆発的広がりが他の世界にも影響を与えてしまった例として見ておきたいと思うんですが、どっすか!?
 みなさんもご存じの通り、岡村さんは1985年からソロ活動を開始して日本を代表するシンガーソングライターになっており、2007年からは加藤さんと共にあみんとしての活動も再開しています。

・スターボー(1982~84年)
 ※17歳の3人組テクノユニット・1stシングルは作詞・松本隆、作曲・細野晴臣という超豪華「はっぴいえんど」布陣
 え~、「太陽系第10惑星スターボーからやってきた宇宙三銃士」という設定でしてね……まぁみなさん、まずは「スターボー」で検索して動画を見てみてくださいよ。
 もう、私ごときの日本語では、そのグループの生み出す「空間ブラックホール効果」のすさまじさは表現できません。
 「このグループが評価されなかった時代のほうがおかしい。」とは言いません。だって、21世紀になってしばらくたった今でさえスターボーに追いつけてないんですからね。
 余談ですが、私そうだいは今回の『ざっくりすぎるアイドルグループ史』のために、1970年代から2011年現在までの代表的なアイドルグループというものをだいたい200組ほどリストアップしており、ひととおりざっと調べ終わってからこのブログを始めているのですが……それらの中でもダントツでもっともインパクトがデカかったのが、このスターボーでした。1980年代のニッポンって、ほんっとにとてつもない国だったんだね!

・わらべ(1982~85年)
 ※15歳の3人組ユニット「のぞみ、かなえ、たまえの3姉妹」という設定(のちにデュオとなる)
 「ニャンニャン事件」の「ニャンニャン」というのは、わらべの1stシングル『めだかの兄妹』の歌詞からとったあてつけみたいな皮肉たっぷりの隠語なんですけど、今じゃあもうすっかり「チョメチョメ」に比肩されるH用語になってしまいました。
 わらべの結成された『欽どこ』が当時のお化け番組だったことが、楽曲の大ヒットとともにこの事件の深刻さの度合いも大きくしてしまったということで。芸能界が良い面と悪い面、どちらでも極端なふれ幅を見せる世界なのであるということを改めて認識させる出来事でした。
 しかし、1983年の最大ヒットが『待つわ』で1984年の最大ヒットが『もしも明日が…。』って! バブル時代前夜の不思議なおセンチ感がありますねい。

・キャプテン(1982年~)
 ※当初は松本伊代や麻生真美子のバックヴォーカルをつとめており、1987年から「Be-2(ビーツー)」に改名して単独活動を開始
 あくまでバックヴォーカルとして結成された2人組なので、独立したアイドルグループとして考えるのはなかなか難しいのですが、スクールメイツの伝統を継承したとびっきりの笑顔と身のこなしは、時にセンターにいるソロアイドルよりも目立っていました。
 そりゃ後年、いとうあさこさんにもマネされるわ。ビートたけしの激励を受けて現在に至るまで活動を続けているというエピソードも素晴らしいです。
 キャプテンの2人が主人公になった小説とかドラマができたら、たぶんすっごくおもしろいと思うなぁ! アイドル版『まんが道』みたいな。


 さてさて、かくして運命の1985年へと向かうわけなのですが、上の流れを見ていただいてもおわかりのように、それまでの80年代アイドル界はまさに「ソロアイドル」のほぼ独占状態。「アイドルグループ」のほうは1970年代に完成されてしまった感のある「キャンディーズ型」や「ピンク・レディー型」の巨大さのためにいまひとつ新しい形態を見いだせない時期が続いていました。

 そういった産みの苦しみへて「スッポン!!」と爆誕したのが「おニャン子クラブ」だったわけなのです。
 なんといっても、今回紹介したアイドルグループの中でそこへの突破口となったのはソフトクリーム(1982~85年)。特に重要なのはここから本格的な作曲活動を始めることになった後藤次利さんのポップな曲調ね!
 15歳の3人組で森雪之丞による歌詞もソフトH路線。まさにおニャン子クラブの原型か? といった感じなのですが、ここから始まる道のりは、また次回のココロだ~。
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第3回 『アイドルグループ覇をとなえる ピンク・レディー』

2011年05月07日 22時46分12秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どもどもど~も~どおも~。そうだいです。
 あの、ゴールデンウィークまだ終わってなかったのね。まあいいや、どっちでも! 頭ん中がアイドルグループウィーク真っ最中の私には関係のないことです……


 え~前回は、日本における本格的なアイドルグループの先駆となったキャンディーズのことをつづってみました。
 さまざまな部分部分での原型はすでに出そろってはいたものの、それらすべてが一つに合体して「キャンディーズ」という結晶となったことは、まさに奇跡と言ってよい出来事だったわけです。
 また、どこまで偶然でどこまでが必然だったのかは探るだけ野暮という感じがするのですが、最初から完成されていることの多いソロアイドルにはなかなか出せない「成長の過程・リアルタイムのサクセスストーリー」を思い切ってさらけだす! この未完成ささえもが、やりようによっては大きな魅力になるということをアイドルグループは発見してしまったのです。「プロらしくないグループが次第に経験をつんでいき、メンバーが互いに切磋琢磨して有名になり、大衆の喝采をあびるエンターテイナー集団になっていき、そして……解散。」まぁ~劇的なストーリー展開の連続なわけでございます。

 そんなわけで、のっけからかなりポンポンと現代に通じる法則を見つけてしまったキャンディーズだったのですが、今回とりあげるのは、当時からなにかと比較されることの多かった、それでいて活動の方向性や音楽性がまったく対称的な位置にあったあの超有名すぎるデュオでございます。

 その名は……ピンク・レディー!!

 キャンディーズの活動期間は1972~78年でそのブームが盛り上がったのは1975~78年のこと。それにたいして、ピンク・レディーの活動期間は1976~81年で最盛期は1976~78年とされています。
 ほぼカブってますねぇ。しかし、当時の世間の実感として、キャンディーズとピンク・レディーがファンの取り合いをしたり血まなこで人気を競ったりしたような印象はうすかったのではないでしょうか。

 まずなんといっても、キャンディーズとピンク・レディーとではファンの性別や年齢層がまったく違っていました。同世代の異性(男の子)へのほのかな愛情を日常のなにげない行動で隠したりそこからチラリと見せたりするしぐさを見事に歌詞世界に込めていたキャンディーズ。そのファンとなるのは、むろんのことその意味を読みとることのできる同世代の男子たちでした。
 しかし。ピンク・レディーに夢中になったのは、とにっかくピンク・レディーのパフォーマンス、当時のアイドルはあんまりやらなかった「押しの一手で聴く者を圧倒するパワフルなヴォーカル」、恋愛ソングのルールにとらわれない「ストーリーよりも映画的な情景・キャラクター描写のあざやかさに魂を賭けた歌詞世界」、なにはなくともテンションのあがる「テンポよくリズム感あふれる曲調」、そしてうら若い2人の娘さんが激しくガニ股になったり前後左右に揺れたりする「革新的だが思わずおぼえたくなってしまう親しみのあるダンス振り付け」、これにイチコロになった人なら全員! だったんですねぇ。
 つまり、ピンク・レディーの魅力を感じ取ることに、年齢や性別という違いはあまり障害にならなかったのです。これはとんでもねぇことですよ……ある意味、アイドルデュオでありながら「アイドルのファン=若い男子」というリミッターにとらわれることのない「国民的アイドル」になることができた史上初の存在ということになります。うひょ~。

 こういった戦略の結果、ピンク・レディーがどのような歴史を日本芸能史上にきざむことになったのか。ちょっと、ピンク・レディーの「ピ」の字も生まれていなかった1971年から順にたどっていくことにいたしやしょう。


 時に1971年。尾崎紀世彦の『また逢う日まで』が日本レコード大賞を受賞し、その作詞を手がけた阿久悠(あく・ゆう 34歳)の名が本格的に世に出ることになります。
 翌1972年に阿久は、かつて1966年にデビューシングル『こまっちゃうナ』でブレイクしたものの、「アイドル」という概念のない時代だったために「かわい子ちゃん歌手」とかたづけられて不遇をかこっていた歌手・山本リンダ(21歳)の新曲の作詞を手がけ、のちに名コンビとなる若き作曲家・都倉俊一(24歳)と初めて組んだ20thシングル『どうにもとまらない』でみごと、山本リンダの再ブレイクを呼び込むこととなります(この第2次ブームは1973年まで)。『狙いうち』もこの時期のコンビ作ですよ。まさに大人のセクシーな女性に変身したリンダさんに、当時の男性のみなさまはみんなまとめてこまっちゃったわけなんですが……まさか、のちにあれほどまでに高校球児たちの純真な汗と涙にマッチする曲になってしまおうとは。
 作詞家として確固たる地位を築いた阿久に続けとばかりに、都倉俊一も1973年にデビューした山口百恵(14歳)のアイドル時代の楽曲のほとんどを担当してその才能を発揮していきました。

 さてさて、前おきはそのくらいにしときまして運命の年となった1976年。
 後のピンク・レディーこと未唯(18歳)と増田恵子(19歳)のデュオが、TVの公開オーディション番組『スター誕生!』で合格します。
 こんなことは言わずもがなかと思うのですが、『スター誕生!』とは芸能事務所のエージェントやら音楽業界のプロやらが、全国からはせ参じた歌手・アイドル志望の素人さんの歌を聴いてスカウトできる人材かどうかをジャッジするという当時の超人気番組で、かつては「花の中3トリオ」(桜田淳子・森昌子・山口百恵)もこの番組をきっかけにデビューしており、阿久悠も都倉俊一も当然のように審査員として出演していました。

 合格した2人を「歌って踊れるアイドルデュオ」として売り出すとした芸能事務所は、作詞・阿久悠と作曲・都倉俊一に加えて、一連のダンス振り付けにこれまでザ・タイガース、ザ・ピーナッツ、桜田淳子などの振り付けを手がけてきたベテラン・土居甫(はじめ 40歳)をまねき、アイドルグループどころか、「アイドル界全体」に革命的な新風を巻き起こし、さらには日本歌謡界に覇を唱えることとなる運命のアイドルデュオを誕生させます。
 あとはもう、読んで字のごとく、下のと~おり。


1976年 未唯と恵子、「ピンク・レディー」として『ペッパー警部』で歌手デビュー・その他シングルは『S・O・S』

1977年 発表シングルは『カルメン‘77』、『渚のシンドバッド』、『ウォンテッド』、『UFO』
    (『UFO』はアイドル初の日本レコード大賞を受賞)

1978年 発表シングルは『サウスポー』、『モンスター』、『透明人間』、『カメレオン・アーミー』
    『サウスポー』がアイドル初のオリコンチャート初登場1位となる    
    (『S・O・S』~『カメレオン・アーミー』はオリコンチャート9曲連続首位、『ペッパー警部』からは10曲連続ミリオンセラー)
    人気絶頂をむかえたが、年末のNHK『紅白歌合戦』出場辞退が物議をかもす

1979年9月 本格的にアメリカ進出(1980年5月に撤退)

1980年9月 解散宣言(夏には応援テーマを担当する予定だったモスクワオリンピックが日本不出場になったりしていた)

1981年3月 東京・後楽園球場でのラストコンサートをもって解散

2010年9月 期間限定復活でない本格的な「解散やめ!」宣言を発表(期間限定の復活はそれまで3回あった)

2011年3月 本格的に活動再開(まことに失礼ながら、2人とも50代なかばなんだぜオイ!!)

※アイドル初のシングル累計枚数1000万枚アーティスト
※オリコンチャート通算首位獲得期間63週(1年4ヶ月!)は日本記録
※アイドルグループとしては2006年11月にモーニング娘。に並ばれるまでシングル9曲連続首位はトップだった


 まぁ~大変なもんですよね。
 オリコンチャートでは、あのキャンディーズがチャート首位に輝いたのは『微笑(ほほえみ)がえし』のみでした。レコード売上げという観点だけからアイドルの価値を判定するわけにはいかないのですが、その点ではピンク・レディーは先輩を完全に超えることに成功したアイドルグループでした。

 しかし、ファンの熱い声援に送られて去っていったキャンディーズに比べて、どうにもすわりのよくない(第1期の)終焉のむかえ方をしたように見えるのは、やはりピンク・レディーというあり方を選択してしまった必然だったのでしょうか。
 まず、ピンク・レディーはデビュー時から「完成されたアイドル」としてあり続けることをみずからに課したグループでした。ピンク・レディーにしか創りだせない独自の世界を提供することに徹したために、本人達は「アイドルになっていく成長物語」といった舞台裏を見せる戦略はとらなかったのです(最近に至るまでよくある、本当の2人を描いたというふれこみの「まんがピンク・レディー物語」みたいなものはあったようですけど)。
 つまり、どんなに大きなブームを巻き起こしたとしても、人々がピンク・レディーの世界に飽きた瞬間にあっというまにすべてが消え去ってしまうということ。老若男女ひっくるめての大ブームというものは、なかなか「まわりがどうなろうがオレはファンでいつづけるぞ!」というコアなファンを残さないものですよね……

 もちろん、そんな空気は百も承知でネクストステージを目指して決断されたアメリカ進出だったと思うのですが、単純に日本にいるファンにとっては「ミイちゃんとケイちゃんが……なんか遠い。」という距離感しか生み出さず、お留守になった日本では「松田聖子レックス」やら「河合奈保子ザウルス」やらといった巨大ダイナソーがバッコするソロアイドル白亜紀が現出。もはやピンク・レディーの帰国を喜ぶフィーバーは起こるべくもなかったということでして……
 結局、ピンク・レディーは「ピンク・レディーであること」がいちばんしっくりくるスタイルであったわけで、「海外で活躍する国際派アーティスト」であったり「しんみりした大人のバラードも唄う」といった変容はあまり2人には期待されていなかったのです。

 んがっ、しかし!
 あの熱い時の流れの中でピンク・レディーが巻き起こした旋風は、それを経験した人々すべての心の奥底に、そして誰よりもミイちゃんとケイちゃん2人の生きざまに大変なケミストリー(化学変化)をおよぼしてしまっていました……
 もはやあの2人は、永遠にアイドルであり続けるというのか。
 正直な話、10代の現役アイドルグループが栄華をほこっている2011年に「ピンク・レディー本格復活!」との報を聞いた時には「カンベンしてよ……」と思ってしまったのですが、今現在でも元気いっぱいに、ひょっとしたら20代のころよりも完璧に『カメレオン・アーミー』(振り付けが最難!)をおどれている2人と、なんといっても子どものような表情にかえってそれに熱狂するお父さんお母さんがたくさんいる光景には圧倒されてしまいます。いやぁ、こういう形での時間の超越を見ちゃうと無条件に感動しちゃうなぁ。


 こうして、1970年代なかばに誕生した「アイドルグループ」というジャンルは、早くも第2のスター「ピンク・レディー」の圧倒的ブームによって「ソロアイドル」を喰いまくり日本歌謡界さえも呑み込んでしまう恐るべきポテンシャルを発揮してしまいました。
 さぁ~、そんなピンク・レディーの(いったんの)終焉とともに幕を開けた次世代・1980年代。これからのアイドルグループはどうなっていくというのか。

 その前に整理しておくと、1970年代はアイドルグループに関していえば、まさに「キャンディーズ型」と「ピンク・レディー型」のどっちかを選択したフォロワー(ぶっちゃけ……まねっこ?)しか生存を許されていないようなまだまだ未開発な状態でした。
 しっかしまぁ、雨後の竹の子のように似たような3人組かデュオがワンサカ出る出る!
 ただはっきり言って、どの1組として「本家」を超えることはできませんでした。オリジナリティは大事よ。

 すべてを挙げるわけにはいかないのですが、いちおう最低限おさえておくべきそれぞれのフォロワーを紹介させていただきましょう。

・キャッツ★アイ(1977~78年)ピンク・レディーの亜流デュオ
 2人とも19歳 かたわれが失踪したため活動休止 アイドルグループ史上初のパンチラ衣装路線 デビュー曲『アバンチュール』

・トライアングル(1978~80年)3人組 キャンディーズの正式な後継グループ(解散宣言後の本家と一緒に活動)
 活動初期のグループ名はまんま「キャンディーズJr」
 のちにメンバーの小森みちこが1983年に日活ロマンポルノに主演 デビュー曲『トライアングル・ラブレター』


 まぁ、こういった感じでアイドルグループの1970年代は過ぎ去っていったのでした。
 80年代はどうなっていくのかな!? 相手のソロアイドルも強敵ぞろいですぞ~!!

 次回は1980年代前期のアイドルグループのもようにうつっていきたいと思いま~す。
 セーラー服までには……たぶん、行けない!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第2回 『アイドルグループのあけぼの キャンディーズ』

2011年05月05日 23時20分34秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 こ~んばんはっと。そうだいでございます。はい~、ゴールデンウィークももう終わりでございますね。私はゴールデンウィークもなにウィークもなく普通にお仕事で過ぎ去ってしまいました……来年は連休らしくどっかに行きたいですなぁ!

 昨日、仕事が終わったあとにいつものように牛丼屋さんに行ってね、丼もののついでに冷や奴をたのんだんですよ。ベロがもうおっさん……
 そしたらね、いつもはテーブルにあるはずのしょうゆがない。
 あれ? さすがにそのまま冷や奴を食べるわけにもいかんしなぁ、と思って店員さんにしょうゆをたのんだら、持って来てくれたのはしょうゆさしではなく、お弁当に入っているようなしょうゆ袋。

 なるほど……たまたまきれてたわけじゃなさそうですね。これも震災の影響なんですかねぇ? たしかに、タダのしょうゆをダーダー使うお客さんもいるでしょうから、節約するとしたらしょうゆさしをかたづけるのはいい策ですね。
 それはいいんだけど、定食屋さんでちまちましょうゆ袋をあけている姿はそうとうに情けない! もうしょうゆを必要とするメニューはたのみません。
 冷や奴はねぇ、ちょっとだけしょうゆをさすのがいいんですよ。ほんの少しだけ、うつわにしょうゆが残らないくらいがいい。それだけの塩分があればいいんだから、今度からはテーブルソルトを持ち歩くようにしようかな。


 さあさあ、誰よりもうっている本人が驚愕するほど枯れた始まり方になってしまいましたので、さっさとアイドルグループの話題に入ることにいたしましょう。年とったなぁ、おれも……

 前回は、日本で初めて女性の人気歌手に「アイドル」という呼び方が使われるようになった1971年の前。それ以前に活躍していた「アイドルグループの原型」となる方々を見てきました。
 「容姿の魅力」、「グループとしての活動」、「ヒット曲」などといった要素は出てきましたが、これらの条件をすべてかねそなえた本格的なアイドルグループはまだ登場していません。
 では、1971年という同時期にデビューしたため「新3人娘」と呼ばれた天地真理、小柳ルミ子、南沙織をはじまりとして、麻丘めぐみ、浅田美代子、そして「花の中3トリオ」こと桜田淳子、森昌子、山口百恵と、綺羅星のごとき才能が続いて爆発的にポンポン誕生したソロアイドルの世界にたいして、アイドルグループの世界はどうだったのかというと……?
 アイドルグループという形態ができるまでには、ソロアイドルをしのぐ人気を得るために長い時間を必要とした、言っちゃえば「スターらしくない準備期間」もひっくるめての成長物語があったのです。

 アイドルグループ誕生への道のり、それはそのまま、1970年代に活躍した3人組女性トリオ「キャンディーズ」大ブレイクへの道のりにほかなりまっせん! 出た~キャンディーズ。
 ここで強調しておきたいのは、1971年以降、鳴り物入りでデビューするのが当たり前だったソロアイドルとちがって、キャンディーズがデビューと同時に大人気のアイドルグループになったというわけではなかったということです。
 苦労人だよキャンディーズ!

 まずグループとしてのキャンディーズが結成されたのは1972年。日本のTV文化の草創期から多くの伝説的タレントを輩出してきた(ザ・ピーナッツもそう)芸能事務所・渡辺プロダクションは、すでに1963年の時点で自前のタレント養成学校「東京音楽学院」を創立しており、全国各地に校舎をおいて数多くの俳優・歌手の卵たちを育ててしていました。カラーTVの放送が始まるのが1966年なんですからね。すでにその前からのちのちのTV界の隆盛を見越していたというのか……先見の明だねい。
 そして、そこに在籍していた研究生の中でも特に才能の抜きんでていた男女で構成された特待生グループ「スクールメイツ」の中から選ばれた伊藤蘭、藤村美樹、田中好子の3人(当時16~7歳)が「キャンディーズ」を結成したのです!
 余談ですが、現在ももちろん存続しているスクールメイツ、その活動は誰もが1度はご覧になったことがあるはずです。あれよあれ、フジテレビの『ドリフ大爆笑』のオープニングとエンディングで、けだるく左右に揺れているドリフターズのうしろでめいっぱい踊ってるチアリーディングのみなさん。彼女たちがスクールメイツなんですよ! 元気いっぱいのなんともいえない独特の空間を作りだしていますね。
 さあ、そんな将来性たっぷりのキャンディーズ、最初の活動は?

 NHKの歌謡番組のアシスタント(進行助手やコーラス)。

 うむむ……まぁ、この時点でのキャンディーズを「アイドル」と呼ぶのはむずかしい、かなぁ!?
 実は「キャンディーズ」というグループ名を命名したのもその歌謡番組のプロデューサーでして、どうやら番組のマスコット兼お手伝いに3人が選ばれた、というだけの話だったようなのです。

 しかし、このチャンスを逃したくない3人はがんばった。
 その結果、グループとしてのキャンディーズは継続していき、翌1973年にはあのザ・ドリフターズの超人気お笑い番組『8時だヨ!全員集合』のアシスタントとなり、積極的にコントにも挑戦していきました。「アイドルだから」「歌手だから」という垣根がそれほどなく、かわいいのにおもしろいこともやるという、ソロアイドルにはなかなか出せない特別な存在感を発揮したキャンディーズはじょじょに人気をあげていき、ついに結成からおよそ1年半たっての歌手デビューにこぎつけることができたのです。

 1973年に発売された初のシングル『あなたに夢中』以来、メインヴォーカルを田中好子(スーちゃん)にして活動していたキャンディーズだったのですが、それから2年後、年長でお姉さん的な存在となっていた伊藤蘭(ランちゃん)をメインヴォーカルにしてみた5thシングル『年下の男の子』から本格的にブレイクするようになってきます。有名ですよね、『年下の男の子』。
 そして1976年には9thシングル『春一番』でさらに大ヒット。全体的に距離感の近い歌詞世界と、明るくておぼえやすいメロディ! 4年前にはイス運びをやっていた3人が、ここにきてなみいるソロアイドルと互角かそれ以上の人気を獲得する歌手グループに成長したのです。
 ここにきて、ついに日本に「本格的なアイドルグループ」が誕生しました。見のがしてならないのは、最初から「アイドル」になっている場合がほとんどだったソロの世界と違って、アイドルグループの世界にはキャンディーズの時代から、アイドル志願の女の子の集まりが本物のアイドルグループになっていくという「成長物語」が密接につながっているということです。自分の応援している女の子達が人気を得て一人前のアイドルグループになっていく。このストーリー性が斬新だったわけですね!
 そういったあたりの物語は、キャンディーズが活躍していた時代から30年以上の時がたった今現在でも、TVの中や全国のライブ会場で繰り広げられていますよね~。
 ところで私そうだいがティーンだった時には、女性アイドルグループではなく野郎のロックバンドでよくそういう展開が見られていたような。「ビジュアル系」とかいってたころ。自分が応援しているバンドがどんどん有名になってくのって、うれしいんだけどうれしくないんですよね~! わかりますよね、この感じ~?

 さて、アイドルにはブレイクがあれば終わりもあるもの。それはアイドルにかぎらず『平家物語』の昔からの人間界の常なのですが、キャンディーズの「終わり」もまた、日本の芸能史上に残るストーリー性あふれるものとなりました。

 1977年7月、キャンディーズは日比谷野外音楽堂でのコンサート中に突如「解散」を宣言。その時のランちゃんの発言「普通の女の子に戻りたい!」はつとに有名です。
 ところが、メンバーの解散の意志はどうやら所属事務所のあずかり知らぬところだったらしく、年内解散を望んでいたメンバーとなんとかもちっと働いていただきたい事務所は交渉に交渉をかさね、結論として「解散宣言」の半年以上あととなる翌1978年4月をもって活動終了ということになったのでした。それだけ大スターになってたってことなのね!

 日本の芸能史上において、「解散興行」というものがコンサートのかたちで行われたのは、1975年に引退したザ・ピーナッツがお初だとされています。
 国民的人気の女性デュオとして活躍していたピーナッツもはや30代。1975年に入って2月に引退を宣言したあと、円満に東京など4都市での「さよなら公演」を終了させた2人は4月に芸能界を引退しました。

 それにくらべてもなんとも型破りなキャンディーズの「解散までの長い活動期間」だったわけですが、それがひょうたんから駒、結果としてキャンディーズのさらなる人気爆発につながったことは間違いありません。
 「もうすぐ俺達の前からいなくなっちまうんだぞ!」という切実なファン(主に3人と同世代の男性)の想いは思わぬ高揚感をセールスにも影響させていき、解散直前の1978年2月に発売された17thシングル『微笑(ほほえみ)がえし』はグループ最大のヒットとなりました。

 そして伝説の4月4日。東京・後楽園球場での解散コンサート「ファイナルカーニバル」、球場には5万5千人ものファンが集結してさらに場外にも同じくらいの人数のファンが押し寄せていたんだからとんでもない。警察動員は当たり前の史上空前の一大イベントとなりました。
 芸能人が後楽園球場でコンサートを開催するという例は1968年のザ・タイガーズがはじまりだったのですが、女性アーティストでの最初だったこのキャンディーズも、まさに歴史に名を刻むアイドルグループとなったのです。

 こうして、まだまだ20代前半という若さでありながらいったんは芸能活動を休止した3人ですが、その後1980年にランちゃんとスーちゃんは女優として活動を再開、ミキちゃんは1983年にいったんソロ歌手として活動したあとに結婚引退しています。その後の3人のことはみなさんもよくご存じですよね~。


 今回のことでちょっとパソコンを見ていたら、キャンディーズのファンだったと思われる方のこんなコメントが目に入りました。

「2歳下の私はまさに『年下の男の子』だったのに、2年後には貴女を越えてしまうことになります。それがとても悔しくて哀しい。」

 うおお~。ファンの想いがいっぱいにつまった素晴らしい言葉だと感じました。死別の重みと愛情のあたたかさ。
 「アイドル」という存在は「ファン」という存在なくしては語れませんね。

 キャンディーズの後楽園コンサートを報じたメディアとそれを見聞きした世論は、キャンディーズの人気のすごさもさることながら、3人の解散に号泣した10万人ちかい若者男性の様子に少なからず批判的な感情をもっていたようでした。
 しかし! そこがファンなのであり、アイドルなんだなぁ~。「国民的歌手」でない新たな存在がそこにはあったと言えるでしょう。


 さ~ってさてさて、そんな感じで日本に誕生した「アイドルグループ」だったわけなのですが、最初のキャンディーズの存在が巨大すぎたため、意地悪な言い方をしますと、この時点ではアイドルグループという「ジャンル」はまだ確立していませんでした。
 つまり、アイドルグループがジャンルになるのかどうかは、キャンディーズに伍する人気を獲得した後続グループが現れるかどうかにかかっていたわけなんですね。

 当然ながら、1970年代なかばのキャンディーズのブレイクにあわせて早速いくつかの類似グループは生まれたわけなのですが、比較的目立つのは1974年に香港から来日して活躍した白人の双子デュオ「リンリン・ランラン」(コンセプトはなぜかインディアン)や、1975年のザ・ピーナッツの引退後に彼女たちの後継としてデビューしたやっぱり双子デュオ「ザ・リリーズ」(現在も活動してます!)くらいで、時代を切り開く新要素をもったグループはなかなか現れ……

 いや! 現れた!! 1976年にあの2人が。今年になって再び復活しているあの2人が。まさに彼女たちがモンスター。
 まぁ、デュオがグループなのかってところはむずかしいところなんですが、絶対に無視できないところなので次回はこの2人をとりあげま~す。

 ゆっふぉ! でれででっでっでっ、でれででっでっでっ……
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