長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第11回 『ロックなアイドルグループにしてくれ』

2011年05月25日 23時04分49秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どうもこんばんは~! そうだいです。みなさん、今日はいい日になりましたか?

 今日は私、1日お休みをとって東京に2本のお芝居を観に行きました。演劇を観たのは1ヶ月ぶりくらいでしたかね。
 観たのは、お昼から中野の劇場テアトルBONBONでやっていた劇団・張ち切れパンダ第3回公演『醜い蛙ノ子』(作・演出 梨沢慧以子)と、夜に駒場のアゴラ劇場でやっていた城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第10回公演『メガネ夫妻のイスタンブール旅行記』(作・演出 山内ケンジ)でした。

 いや~。どっちも素晴らしかった。特に『メガネ夫妻』には本当に参ってしまいました。
 つい前回のブログで『ブラック・スワン』に「変な映画の本物のおかしさがない」という主旨の不満をぶちまけていた(おもしろかったんだけど)私なのですが、まさかその舌の根も乾かないうちに「本物の不条理」のすごみをこれでもかと魅せつけてくれる作品に出逢うことができるとは……私は本当に運がいい。
 ここまで確信犯的に現実の世界とボタンのかけ違った世界を創造できる方をさして「狂ってる」と言うのはあまりに失礼なのですが……普通じゃないね。
 『メガネ夫妻』の今日25日の夜の回をご覧になったお客さんのみなさんと役者のみなさん、あの回でゲラゲラとやかましく笑っていたの、私です。がまんしようにも、役者さんの一挙手一投足がすべてどこかでずれている異次元ホームドラマを眼前にしてどうにも耐えきれず……ほんとに失礼いたしました。
 あ~ほんとにおもしろかった。昼も夜のどちらも定員7~80名の大きくない会場だったのですが、平日にもかかわらず両方とも満員。大変けっこうなことです。
 『醜い蛙ノ子』もおもしろかったですね。決して大笑いできるテーマの作品ではないのですが、それだけになにかの再生と人間の強さを感じさせてくれるエピローグがとってもきいていました。しんみり感動。「肉親」や「きょうだい」って、矛盾まみれ愛憎まみれであたりまえなのよねぇ。

 『醜い蛙ノ子』は終演間近なのですが、『メガネ夫妻』は今月いっぱいまで上演しているようです。
 こういう時にねぇ、2回目3回目とまた観に行ける余裕と経済状況を手に入れたいんですが……時間とお金は両立はむずかしい! 今の私はどっちもねぇけど。
 城山羊の会! 城山羊の会! 私個人の感覚としましては、『ブラック・スワン』の数百倍おもしろかったよ~い。笑いすぎて観てるだけで体力使いました。


 さ~てさてさて、それでは久しぶりに「ざっくりすぎるアイドルグループ史」を再開することといたしましょうかね。
 もうなぁ……始めてしまった以上は終わりまでやらなきゃいけねぇんだよ。ちょっと休んだだけでもゴールは遠ざかっちまうんだよ。このシリーズだけは未完に終わらせるわけにはいかねぇんだ!!
 現在の時間では、かの1大イベント「AKB48総選挙」もおっぱじまってますしね。一刻も早く2011年にたどり着かなければ!

 そんなガタプス状態のタイムマシンのごとき「アイドルグループ史」、今回は1980年代後半の「おニャン子クラブ以後」の世界の続きです。
 おニャン子クラブの革命によって「守るべき聖域の多い純粋なアイドル歌手」というものが存在しづらくなった時代がはじまり、それと同時に、

「人気があるのであれば誰でもどんな世界ででもアイドルになれる新時代」

 が開幕したわけなのですねぇ。

 で、前回はバラエティ界やセクシー界、はてはプロレス界などさまざまな場所で活躍することになったアイドルグループを紹介したのですが、今回はその当時最大のムーブメントとなっていた「ロックバンド界」で活躍したアイドルグループ、的な存在をあつかってみたいと思います。
 ロックバンドブーム! 「ロックバンド」って、なかなか定義が難しいんですけどねぇ、この「アイドルグループ史」では、音楽性はおいといて範囲をめいっぱい広くした「電気の必要な楽器を演奏しているバンド」ってことにしましょうか。ざっくりにもほどがあるよ!
 まぁ21世紀に入って10年くらいたった今現在、TVの世界でロックバンドやロック出身の有名人が注目されるのは当たり前だし、さらにはその中に女性がいるのもなんの珍しさもないことになっています。いきものがかりとか、チャットモンチーとかねぇ。

 さかのぼれば、日本の歴史で最初に「ロックバンド」のような存在がブームになったのは、1960年代前期の「エレキブーム」だったようです。
 ブームの主体となったのは、やはりザ・ビートルズやベンチャーズといった洋楽バンドで、歌謡曲や演歌が「日本の歌」のほとんどだった当時の国内に、このブームを牽引する決定的なバンドが誕生することはなかったようです。
 続いて2度目に盛り上がったのが、1960年代後半にエレキブームの勢いを受け継ぐようにして発生したグループサウンズ(GS)ブームで、「ロックバンド」でなく「グループサウンズ」と呼ばれていた、ザ・タイガースやザ・スパイダースなどといった国内バンドがはじめて日本のヒットチャートをにぎわす時代が到来しました。バンドは基本的に男性のみで組まれているのが通常で、日本における「男性アイドル」のはじまりは間違いなくここだったでしょう。
 まさに、エレキブームでエレキギターなどの楽器を聴いたり手にするようになった人々が、GSブームでみずから発信していく側にまわっていったという流れでありましょうか。

 そして、1970年代に入って日本の音楽界を席巻したのが、言うまでもなく今までさんっざんやってきた「女性アイドル歌手全盛期」であるわけなのですが。

 甘いものを食べていたら、しょっぱいものも食べたくなるのが人間ってもんですよね!

 女性のスウィートな歌声や歌詞世界が大ヒットしていくその表裏一体の存在として巻き起こったのが、1970年代の後半から80年代の初頭にかけての第1次バンドブームでした。
 だいたい1977年にデビューした世良公則&ツイストの1stシングル『あんたのバラード』のスマッシュヒットにはじまり、サザンオールスターズのデビューやソロ活動を開始した矢沢永吉の大ブレイクをへて、1982年ぐらいにいったんのピークをむかえるご存じ忌野清志郎のRCサクセションの活躍あたりまでをさすこのブームは、日本で「ロックンロール」がヒットチャートをにぎわすジャンルのひとつとなる最初の原動力となりました。
 ちなみに、日本で最初に大ヒットした邦楽のロックナンバーは、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(山口百恵ブームの立て役者でもある宇崎竜童がヴォーカル)の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(1975年4月)だったのですが、「歌」というよりも「音楽つきの語り」といったほうがいいこの曲は、当時はあくまでもそのスタイルの目新しさだけが注目される突然変異のようなあつかいになっていたようです。ちょっとだけ時代が早すぎた!

 んでんで。お話はようやっと、おニャン子クラブが大暴れした1980年代の後半に戻ってきます。
 80年代の前半は、多くのソロアイドルが乱立したこと、第1次のブームをつくったバンドがあまりにも個性的すぎたことなどが起因してなかなか後続のバンドが現れない状況が続いていたのですが、後半に台頭したおニャン子クラブの、正統アイドルにも増して甘すぎる「グダグダしろうと感」の氾濫が、逆にビターでプロフェッショナルで洗練されたロックバンドの再来を望む気運を高めていきます。

 その結果生まれたのが第2次バンドブームでして、これはだいたい、1985年に発生したHOUND DOG(10thシングル『フォルテシモ』)やREBECCA(4thシングル『フレンズ』)のブレイクに始まり、BOφWYやTHE BLUE HEARTSの伝説的活躍をへて、90年代初頭のUNICORNやJUN SKY WALKER(S)の全盛までくらいをさします。
 この第2次ブームをささえたと言われるのが、まさに「ロックバンド版スター誕生」といった感じの公開オーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS 1989年2月~90年12月)で、なんといっても、約2年の放送で総勢800組以上ものバンドが出場したというこの伝説的番組は毎週土曜日の深夜0時30分~3時にオンエアされており、ということは、あの「おニャン子クラブブーム」の母体となったフジテレビの『オールナイトフジ』の真裏だったということになります。
 うむむ……フジの「おニャン子」をTBSの「イカ天」が倒した。まさしく凋落した『ザ・ベストテン』のかたきを見事にうったという感じなのですが、『全員集合』VS『ひょうきん族』みたいな火花散るライバル関係はここでも展開されていたんですなぁ。

 余談ですけど、私が聴いてるラジオの話をさせていただきますと、深夜帯でのニッポン放送の『オールナイト・ニッポン』とTBSの『ジャンク』もおんなじ構図ですよね。私は今は完全に月~土で『ジャンク』しか聴いてませんけど。

 ピーク時の1991年にはなんと500組以上ものロックバンドがメジャーデビューしたという第2次バンドブームだったのですが、この潮流がそのままX-JAPANを経由して90年代後半に隆盛したいわゆる「ヴィジュアル系バンドブーム」と地続きになっていることは言うまでもありません。

 それでですね、問題はこれらのバンドブームの中に「アイドルグループ」に相当する存在は誕生したのか、ってことなんですよ。
 「アイドルグループ」というからには、まず女性だけでメンバーが構成されているグループでなくてはならないわけなのですが、そのことにふれる前に「ヴォーカルだけが女性」という編成のロックバンドについて。
 有名なところでは1970年代に活躍したサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカル・加藤ミカ)や後半に登場したシーナ&ザ・ロケッツ(ヴォーカル・シーナ)がいるのですが、女性ヴォーカルバンドで史上初めて本格的にヒットチャートをにぎわせたのは、先ほどにもあげた第2次バンドブームの火つけ役となったレベッカ(ヴォーカル・NOKKO)でした。そういえば昔、友だちといっしょに当時のノッコさんが主演していた映画『スウィートホーム』を観たことあったな。ひでぇ映画だった……なにもかも。

 ともあれ、レベッカの記録的ヒットでロックバンドの中でもひとつの形態としての市民権を確保したかたちの「女性ヴォーカルほかは野郎」形式なのですが、その後は以下のようなバンドが活躍していきました。

 ラ・ムー(1988~89年 『少年は天使を殺す』1988年6月)菊池桃子(20歳)ヴォーカルのファンクポップバンド
 WILD CATS(1988~89年 『あなたと、熱帯』1988年7月)本田美奈子(21歳)ヴォーカルのガールズバンド
 BARBEE BOYS(バービーボーイズ 11th『目を閉じておいでよ』1989年1月でブレイク)ツインヴォーカルの片方・杏子が女性
 PERSONZ(パーソンズ 4th『DEAR FRIENDS』1989年2月でブレイク)ヴォーカルのJILLが女性
 LINDBERG(リンドバーグ 2nd『今すぐ Kiss Me』1989年2月でブレイク)ヴォーカルの元アイドル渡瀬麻紀(結成当時19歳)が女性
 東京少年(5th『Shy Shy Japanese』1990年11月でブレイク)ヴォーカルの笹野みちるが女性
 JUDY AND MARY(7th『Over Drive』1995年6月ごろから本格的にブレイク)ヴォーカルのYUKI(結成当時20歳)が女性

 まぁ、ラ・ムーはご愛敬ということで……ロックバンドじゃないからね、ロックバンドふう菊池桃子だからね。ロックでもなくてファンクだし。「サラダせんべい」の「サラダ」ぐらい原型を見失ってますからね。あれは「サラダ油を使ってつくってるせんべい」って意味ですから。野菜ぜんぜん関係なくなってますから。なんか『銀魂』なみにツッコミが長くなってしまいました。
 ラ・ムーとワイルドキャッツは残念ながらヒットしなかったのですが、それ以外のバンドはかなりヒットチャートをワイワイ言わせていました。
 でも、アイドルと言うよりは、やっぱりある程度ごまかしのきかない歌唱力やパフォーマンス力が必要となってきますので、みなさんアイドルよりはキャリアを積みかさねた20代になってからブレイクしているという共通項があるのが興味深いです。これは女性男性関係ないことでしょうけど。
 私としましては、やっぱり上の中ではバービーボーイズがいちばん好きだなぁ。歌も楽曲もレベルが高いし、なんといっても何かの病気の発作なのかなってくらいにハイテンションな表情と身のこなしで唄って踊り狂う2人のヴォーカルがほんとに素晴らしいです。あれはなかなかコピーは難しいよ。

 ここまでが「ヴォーカルだけ女性のロックバンド」なわけなんですけど、第2次バンドブームの中には、ちゃ~んと「完全女性だけロックバンド」もあったんですよ!
 すなわち、これこそが正真正銘の「ロックバンド界のアイドルグループ」となるわけなのですが、わが「ざっくりすぎるアイドルグループ史」に残るべきガールズバンドは2組あります。


プリンセス・プリンセス(1983~96年)5人組ガールズバンド
 結成時は16~19歳 奥井香(16歳)のメインヴォーカル
 1983年にオーディションによって結成され、翌1984年から音楽活動を開始
 1984~85年にはアイドル色の強いガールズバンド「赤坂小町」として活動していた(アニメのテーマソングなどを唄う)
 1986年からバンド名を「プリンセス・プリンセス」にあらためる
 1987年4月にメジャーデビューし、翌1988年からブレイク 
 1989年1月に女性バンドとしては史上初の東京・日本武道館コンサートを上演する(過去にはザ・タイガース、山口百恵、美空ひばりなどが公演)
 代表曲は7thシングル『Diamonds(ダイアモンド)』(1989年4月)
 1995年10月に解散を宣言し、翌1996年1月から全国ツアー『ラストツアー 解散を遊ぼう』を開始
 1996年5月の東京・日本武道館コンサートをもって解散

SHOW-YA(ショーヤ 1985~98年・2005年~)5人組ガールズバンド
 結成時は22~24歳 寺田恵子(22歳)のメインヴォーカル
 日本のガールズロックバンドの元祖(プリンセス・プリンセスよりも先にメジャーデビューしていた)
 1987年ごろには作詞・秋元康、作曲・筒美京平の楽曲を唄っていたがパッとせず
 代表曲は8thシングル『限界LOVERS』(1989年2月 本格ヘヴィメタル路線を強調)
 1991年6月のベストアルバム発売をもってヴォーカルの寺田が脱退
 1998年に解散するが、2005年に寺田がヴォーカルに復帰して再結成
 プリンセス・プリンセスのメンバーや元バービーボーイズの杏子らとともに、現在も日本のガールズロックバンドを牽引している


 いやぁ、ここはおさえとかないと。
 まぁ、おんなじガールズバンドでも音楽性はまったく違うし、SHOW-YAのことを「アイドルグループ」だと思う人はなかなかいませんよね。ガールズバンドっていうか、レディースバンドだし。
 でも、日本において史上初の本格的ガールズバンドとなったSHOW-YAと、ガールズバンド史上最大のセールスと人気を獲得したプリンセス・プリンセスの存在は、日本での「ガールズバンド」の形態を確立する重要な役割をにないました。

 特にSHOW-YA、いいねぇ~。『限界LOVERS』と『私は嵐』は素晴らしいですよ。とにかく、当の寺田さんでも調子のいい時でないと出せないくらいに高い音域をあえて設定しているところがすごいわ。まさに崖っぷちに挑戦しつづけるロッカーの心意気がありありと見えます。ギターもうまいしねぇ~!
 ぜひとも、寺田さんの役を天海祐希さんで『ドラマ SHOW-YA物語』をやってほしいなぁ。いや、私が似てるって思っただけですけど。

 ま、要するに、「アイドル冬の時代」と呼ばれていた1980年代の末期にも、前回のみなさんもひっくるめていろんな「アイドルグループ」的なみなさんが音楽シーンやTV界をにぎわせていたということなんですね。
 そして、この模索の時代に始まった多くのジャンルの中には、本格的バンドやアニメ関連など、のちにさらなる成長をとげていくものも少なくないわけなのでありました。


 はい。それでは次回は、昭和の終わりと平成の始まりを同時に宣言することとなった1989年、そしてそれ以降に時間を進めていきたいと思います。

「えっ、あの大女優さん、昔はアイドルグループだったの!?」

 っていう方がいっぱい出てくる予定で~っす。ほんじゃまた。
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第10回 『アイドルグループの異世界との遭遇』

2011年05月21日 23時01分01秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どうもどうもこんばんは~い、そうだいです。いやはや、余震って、いつになったらなくなるんですかねぇ。最近は関東でもまた増えてきちゃったような。

 私はなんと前回に続いて、けっこう前に注文していたミリタリーブーツがやっと家に届きましてね。たて続けになっちゃった! でもうれしいですねぇ。
 ずいぶんと古い型のアメリカもののブーツです。デザインはシンプルですけどかなり存在感がありますね。最近は当たり前になってきているサイドジップもついてないから履いたり脱いだりに時間がかかるかかる! でもこの手間がいいんだなぁ。いや~、これでそろそろ私の中のブーツ旋風もおひらきですね。いいかげん暑くなってきたし。

 そんなブツを梱包から開けてニヤニヤ見入っていたら、つけていたラジオ番組でこんなやりとりがありました。

 今日も今日とてTBSラジオをつけっぱなしにしていたのですが、その中でもよくあるのがショッピングコーナー。まぁ「ジャパネットたかた」みたいなもんなんですが、その時に紹介されていたのは「ものすごくクッション性のいいウォーキングシューズ」。
 私もよく思い立っては15キロくらい歩いて翌日立てなくなるアホな人間ですもので、なんとな~く聴いていたのですが、よくショッピングコーナーで「クッション性」を伝えるために引きあいに出されるのが、「なまたまご1メートル上空から落とし実験」。
 シューズを紹介する明朗な声のお嬢さんは、どうやら番組の収録スタジオにシューズの底部分に使っている新素材のクッションパッドを持ってきていたらしく、


お嬢さん「はい! このようになまたまごを1メートル上から落としても~……(落とす間)ほら! ぜんぜんたまごが割れません!」

司会者 「うおお! すごいけど、ラジオに驚くほど向いてないね、この実験。」


 などといった定番のやりとりがあったわけなのですが、つつがなく商品の値段や電話番号などの読み上げが終わってコーナーもしめに入った時、ちょっと気になる発言がありました。


司会者 「××さん(お嬢さんの名前)、その実験に使ったたまご、ちゃんと自分でおいしく食べてくださいね、もったいないから!」

お嬢さん「アハハ、はい、今日は食べながら帰ります!」


 ブーツをながめてニヤニヤしていた私の顔が一瞬かたまってしまいました。

 なに、「食べながら帰る」……ということは、それって「なま」じゃなくて、「ゆで」なんじゃね?

 いや……ただ、その「食べる」っていう表現がひっかかっただけですからね。お嬢さんにとっては「なまたまごを食べる」って言い方もごく当たり前なのかもしれないしね。なまたまごを食べるってことがおかしいわけでもないし。

 でも、仕事先から食べながら帰るんだぜ。それが「なま」だったとしたら、お嬢さんがチュルチュルっとたまごをすすりながら歩いてるんだぜ。およそ21世紀の日本にあってはならないフードスタイルでしょう。
 せめてしょうゆでもないとキツいだろ……まぁ、もしかしたらラジオ局のお嬢さん用の楽屋にナベとコンロがあってお嬢さんはゆでるつもりだったのかもしれないけど。

 どうでもいいことにひっかかってしまった。でも、新商品のクッション性を疑うわけじゃないけど、「なま」よりも「ゆで」のほうが持ち運びも便利だし、なんてったって映像のないラジオ番組だしねぇ。
 ん? ということは、ぶっちゃけクッションパッドもたまごさえもそこに無くてよかったのでは?

 もしかして、そこには「お嬢さん」も「司会者」さえもおらず、そもそも「TBSのラジオ番組」も「それを聴いている私」もはじめからこの世界には存在していなかったという『マトリックス』的な『十牛図』的な衝撃的結末が巨大な暗い口を開けて待って……いたらおもしろいなぁ~、みたいな。


 さてさて、こんなふうにいい感じで頭がクラクラしてきたところで、めげずに今回も「ざっくりすぎるアイドルグループ史」を雄々しく始めてまいることにいたしましょう。

 おニャン子クラブの台頭によってさんざんひっちゃかめっちゃかにされてしまった日本のアイドル界ならびに音楽業界だったのですが、これによって、純粋に「容姿と歌声だけで人気を獲得するアイドル」というスタイルは維持することが難しい時代が始まってしまいました。
 つまり、TVを視聴する人たちの友だちやクラスメイトであったとしてもおかしくないような、非常に親しみやすく完璧じゃないところもあってそこがかわいいという「しろうと感を武器にしたアイドル」が芸能界を席巻するようになったのです。
 こうなってしまうと、TVの世界で重宝されるのはプライベートの話や番組での扱い方にやたら制限がある「本物のアイドル」ではなく、あっけらかんとした私生活の話もできてトークもおもしろくコントのようなお遊びもできる「アイドル的な魅力のあるタレント」でした。

 そのころの芸能界の風潮を指摘して、『オールスターものまね歌合戦』の審査員としても有名だった日本歌謡界の重鎮・淡谷のり子先生はこう言っておられたそうです。

「(あの独特の高音とイントネーションで)いまの歌手はねぇ、『かしゅ』じゃなくて『かす』。」

 先生、うまいことおっしゃいましたねぇ! もともと東北弁の美しい方でしたから。

 確かに、歌手としては諸先輩方から観ると「カス」ととられるレベルの人もいのたかもしれませんが、これはまさに「歌が唄えなくても別の魅力があればいい」時代が来たということになります。

 こういった流れにより、1970年代に始まり80年代初頭に大爆発することになったソロ・グループ含めての「アイドル歌手隆盛の時代」は、おニャン子クラブの活動によって事実上いったんの終焉をむかえることとなります。おそらく、グループとしてはおニャン子クラブ、ソロとしては1987~88年ごろに最盛期となった菊池桃子さんや酒井法子さんといった『Momoco』陣営ぐらいがラストだったのではないでしょうか。

 さて、この区切りをさして「アイドル冬の時代」なり「アイドル氷河期」と呼ばれる時代が始まった、という表現もよく使われるわけなのですが、それはあくまで「歌手に重点をおくスタイルが退潮した」というだけなのであって、「グラビアモデル界のアイドル」、「女優界のアイドル」といったように、歌手以外のさまざまな世界に「アイドル」が生まれるという時代の始まりだと言い換えれば、別に「アイドルと呼ばれる人々がTV界で絶滅した。」ということじゃないんですよね。極端な話、生きた人間がTV番組を観ているかぎり、男女をとわず「アイドル」という存在はいなくなりませんよ! ほんとに極端な話になっちゃった……

 そんなわけで、今まではアイドルが参入してこなかったような色々な世界にも、「それぞれのアイドル」が生まれるバラエティ豊かな時代がやってきました。
 1980年代、ソロ活動をする女性有名人の中でグラドルやAVアイドルのさきがけとなっていく人々が次々と現れたように、アイドルグループもさまざまな業界に出現するようになりました。

 ちょっとだけ、1980年代に特に活躍したそういった異世界アイドルグループの例をあげてみましょう。


クラッシュギャルズ(1984年8月~89年)女子プロレス人気ベビーフェイスレスラーのタッグ
 長与千種(20歳)とライオネス飛鳥(21歳)
 1976~79年に活躍した「ビューティ・ペア」(ジャッキー佐藤とマキ上田)以来の人気タッグコンビ(ビューティ・ペアも6枚のシングルをリリース)
 シングル8枚をリリースして当時のバラエティ番組にも積極的に出演し人気を集める
 1989年の長与の一時引退により解散するが、復帰後の2000~05年に「クラッシュ2000」として再結成
 
オナッターズ(1984年9月~86年9月)3人組 テレビ朝日の深夜番組『グッドモーニング』(毎週月曜日深夜0時半からの30分番組)のマスコットアイドル
 17~23歳 小川菜摘(22歳 言わずと知れたダウンタウン浜田雅功夫人)ら女優・モデル・タレントの集まったグループ
 フジテレビの深夜番組「オールナイターズ」を意識したネーミング
 1990年代前半に流行したセクシーアイドルグループの元祖
 番組内のコントで「地球をタタナイ病から救うセクシーヒロイン戦隊」として出演
 コントでお笑いもこなすふところの広さ
 シングル2枚をリリースするが番組の終了にともない活動終了

風間3姉妹(1987年)TVドラマ『スケバン刑事(デカ)3 少女忍法帖伝奇』(1986~87年)の期間限定歌手グループ
 主演の3姉妹を演じた浅香唯(18歳)、大西結花(19歳)、中村由真(17歳)が主題歌『remember』を唄いオリコン首位を獲得
 ※『スケバン刑事』シリーズは1985~88年に大ヒットしたフジテレビのアクションドラマで、3シーズンと2本の映画が制作された
 浅香唯はこのドラマ主演で大ブレイクし「アイドル四天王」の1人となる
 大西と中村はその後おもに女優として活動し、2人ともヌード写真集を発表している

BaBe(ベイブ 1987年2月~90年)女性デュオ
 近藤智子(19歳)と二階堂ゆかり(20歳)
 アイドルデュオというよりは、「バラドルデュオ」
 キレのあるダンスを得意とする
 色白の近藤と色黒の二階堂でバラエティ番組に強かった
 1990年の二階堂の結婚引退により解散
 のちにいとうあさこが二階堂のものまねをする
 代表曲『I Don't Know!』(1987年)

チャイルズ(1987年9月~92年)3人組アイドルグループ
 ラサール石井プロデュース 
 20~23歳 磯野貴理子(現・貴理 23歳)ら劇団七曜日(ななようび ピンクの電話やデンジャラスなどが所属していた)の劇団員
 5代目いいとも青年隊として活躍する
 3枚のシングルをリリースする
 ファミコンRPGゲームソフト『ラサール石井のチャイルズクエスト』も発売

レモンエンジェル(1987年10月~90年4月)3人組 深夜エッチアニメ『レモンエンジェル』のタイアップグループ
 16~18歳 桜井智(16歳)らの新人アイドルグループ
 ※アニメ関連ではあるが声優のアイドルグループではない
 伝説のアダルトアニメビデオシリーズ『くりいむレモン』のTV向け派生作品のテーマソングや声優を担当
 ※『レモンエンジェル』自体は、深夜とはいえTVで放送できるレベルのごくごく軽~いエッチアニメ
 パンチラ衣装などを使った軽~いセクシーアイドル路線
 深夜番組タイアップのためTV露出は少なかったが、5枚のシングルと5枚のアルバムを発表
 末期の1990年はメンバーの急病引退によりデュオとして活動
 代表曲『第一級恋愛罪』(イギリスの女性ポップグループ・バナナラマのカヴァー曲 すげぇタイトル!)
 桜井は解散後の1993年から本格的に声優として活躍

RaCCo組(1988年9月~89年)当時の人気AV女優の3人組グループ 「裸っ子組」の意味
 19~20歳 斉藤唯(20歳)ら
 AV女優界初の本格アイドルグループ
 2枚のシングルを発表するがさほど話題にならず
 メンバーの急病や交通事故による交替があいつぎ、斉藤の引退により解散


 まぁ~セクシー、バラエティ、アニメにアダルトと。実にいろんな場所でアイドルグループが活躍しましたね。ドラマ『スケバン刑事』のシリーズを通しての重要なキーマン「暗闇警視」役を演じられた名優・長門裕之さんのご冥福を心から祈らせていただきます。
 はっきり言ってしまうと、この中でいちブームを築くほど大ブレイクしたグループはさほどない(TVタレントとしての知名度はクラッシュギャルズは高かった)のですが、それぞれの世界ののちのちの展開を考えると、「アイドル」という存在がいろんな世界に散っていったこの昭和末期、80年代後半という時代は無視することはできませんね。成功はしませんでしたが、すでにこの時期からアダルトビデオ業界が女優のアイドル化を見越した展開を開始していたという事実はちょっとおどろきです。
 『チャイルズクエスト』、やったねぇ~ファミコンで! でも、あんなにハマッたところでチャイルズのファンにはついにならなかったなぁ。RPGがおもしろかっただけだから、アイドルの売り込み戦略としては失敗だったのでは……まぁ、ガキンチョだったから!

 さてさて次回は、そういった異世界との遭遇の中でも最大規模のブームとなった「ロックバンド」業界との出会い、そして激動の昭和から平成への移り変わりを追ってみることにいたしましょう。

 ……といきたかったところなんですが、実は私、22日の日曜日に恒例の「桜木町ハイキング」をやらかして、ついでに今話題の映画『ブラック・スワン』を観ようと思ってるの!
 なんで、それが予定どおりに敢行されたとしたら、次回は「ざっくりすぎるアイドルグループ史」はちょっとお休み、たぶん「桜木町と『ブラック・スワン』感想」あたりの日記になりま~す。

 いったん日本のアイドルグループはお休みということで、しばらくはナタリー=ポートマンと、うわさでは『ブラック・スワン』に出演しているらしいという懐かしのウィノナ=ライダー姐さんに夢中になりたいと思う所存です。
 楽しみだなぁ~オイ!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第9回 『おニャン子クラブじょーすいき 下』

2011年05月19日 23時50分32秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ど~おもこんばんは! そうだいです。みなさん、今日はいい1日になりましたか?
 私はもう、最近ほしくなっててしょうがなかった物がやっと家に届きましてね。やった~! うれしいですねぇ。
 実際に今回手に入れたのは、お試しの意味もあっていっちばん安い値段のものだったんですが、また余裕ができたらさらにランクアップしたやつに挑戦してみたいですね。いや、でもぶっちゃけた話そんなに質感にはこだわりがないんでね、安かったこれでも充分いいかもしんないなぁ。
 うっひっひ~。しばらくはずっと手元においておくことになりそうです。しかしほんとに安かったなぁ、これ。

 そんなブツを梱包から開けてニヤニヤ見入っていたら、つけていたラジオ番組でこんなやりとりがありました。

 私はもう、去年の夏に家からTVがヴァニッシュして以来ず~っとラジオ、特にTBSラジオ生活を謳歌しているのですが、TBSラジオで午前中といえばやっぱり『大沢悠里のゆうゆうワイド』ですよね。
 で、その中でも平日日替わりのコーナーがいろいろあって、たまたまその時やっていたのが「歴史(日本史)がオタク的に大好きなアイドル」こと「歴ドル」の方が進行していた歴史コラムのコーナー。
 歴ドルさんがわかりやすく日本史を解説していくという人気コーナーだったのですが、その回のテーマは「鉄砲」ということで。
 鉄砲といえば、もうあったり前のように出てくるトピックが天正3(1575)年5月に起こった長篠合戦ですね。最近は「設楽ヶ原(したらがはら)合戦」と表記した方がいいんじゃないの? という意見も出てきています。
 まぁその長篠合戦を通じて歴ドルさんは軽快に鉄砲の先進性を解説していたわけなのですが、そのしめくくりに彼女は、

「はい~、そういったわけで、長篠の戦いで武田氏は、鉄砲を有効に活用した織田・徳川連合軍に滅ぼされてしまったんですネ!」

 というまとめ方をしてしまったのです。
 ニヤニヤしていた私の顔が一瞬かたまってしまいました。

 ちょっと……ざっくりすぎやぁしねぇかい?

 案の定、その歴史コーナーが終わってCMに入り、CMがあけた瞬間にパーソナリティの悠里さんから訂正のアナウンスが。

「武田氏が滅んだのは長篠の戦いではなく、天目山の戦いでした。」

 うん……その表現にも意見はあるのですが、長篠合戦で確かに大敗を喫したものの、実際に武田氏が滅亡したのは7年後の1582年のことだったのね。「本能寺の変」と同じ年ですよ。
 そこは間違っちゃあいけねぇよ。だって私、ゲームの『信長の野望』で「長篠合戦以後の武田家」でプレイして何回か天下統一したことあるもんね。がんばれば立て直せたわけですよ、現実の歴史では立て直せなかったけど。
 うわさの歴ドルも、東日本の戦国史には弱いとみた。でも自分で「歴ドル」と言ってしまった以上、がんばって全国の歴史をフォローしなきゃいかんのですわ。大変な商売だねぇ!

 しかし、よりによって武田軍団を相手にミスをしてしまうとは……精神的な面では、武田軍は21世紀になった現在でも甲斐の国に健在ですからね。すごい土地ですよ。
 甲斐の国といえば、私は数年前に、かの地のある女性に多大な迷惑をかけてしまった思い出があります。こりゃもう、全面的に私がアホンダラだった! 甲斐御前(仮名)には誠に申し訳の立たないことをしてしまいました……いつかなにかの形で埋め合わせをしないと。それができないうちには私は死ねないと考えとります、ハイ。いや、御前、ほんとっす! マジ本気なんすって!!


 さてさて、今日も今日とて、人の仕事を「ざっくりすぎる」と言ってる場合じゃない「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きでございます。

 いよいよ全盛期を迎えることとなった1986年のおニャン子クラブだったのですが、向かうところ敵なしとみられていた彼女たちにも、確実にたそがれの時はせまってきていました。
 おニャン子クラブブームにたそがれをもたらすもの。それはなんと、「ブームに湧いていたはずの世間」からと、「自分達の中」からという意外な2ヶ所からやってきたのです。

 ちょっとその前に、おニャン子クラブにとっての本来の敵となるはずだった「他のアイドルグループ」の状況がどうだったのかをざっと見てみることにいたしましょう。

 すでに事務所に所属しているメンバーにまでプロらしくふるまわせないという徹底的な「しろうと路線」を選択したおニャン子クラブ。その結成は1985年のことなのですが、さかのぼってみれば、それを生むことになった『オールナイトフジ』発の「女子大生ブーム」は1983年にすでにはじまっていました。
 それに対抗するならば! と思ったか思わずか、時を同じくして1984年には徹底的に「プロのアーティスト路線」を意識した2つのアイドルグループが誕生します。
 共通点は、「入念な準備期間」と「巨額すぎる投資」! そして、「残念な結果」……


セイントフォー(1984~87年)4人組アイドルグループ
 デビュー当時は16~20歳 代表曲『太陽を抱きしめろ』(1985年)
 芸能事務所「日芸プロジェクト」とレコード会社「リバスター音産」が提携し40億円の巨費を投じて生み出したグループ
 本格的なアクロバットなどの激しいダンスパフォーマンスが持ち味
 デビューまでに2年の期間をかけたビッグプロジェクトだったがデビュー後は商業的にふるわず(オリコン最高15位)
 アイドル史上初のメガネキャラ(板谷祐三子)がいた
 浜田のり子と鈴木幸恵のツインヴォーカル体制
 1986年に、現在は主に声優として活躍している岩男潤子(16歳)が板谷の脱退にあわせて加入する
 レコード会社と所属事務所とのトラブルにより、シングルは1985年までの4枚しか発表できず
 1986年以降はライヴ活動が中心となっていた
 解散後は浜田・岩間沙織・板谷が女優として、鈴木は歌手として活動(板谷と鈴木は現在は引退)
 浜田・岩間・板谷の3人はのちになんらかの形でヌードを披露している
 岩男潤子は1994年から声優としての活動を開始しブレイク

少女隊(1984~89年)3人組アイドルグループ
 デビュー当時は全員15歳 代表曲『もっとチャールストン』(1986年)
 大手芸能事務所「ボンド企画」(松本伊代・本田美奈子・高岡早紀らが当時所属)が40億円の巨費を投じて生み出したグループ
 デビューまでに1年の期間をかけたビッグプロジェクト
 初期は都倉俊一プロデュースで、アメリカでのレコーディングなどをアピールしTV露出をあえて少なくする戦略だったが不調
 1985年からは秋本康プロデュースに変更し、普通のTVアイドル路線となりそこそこヒットする
 日本のアイドルとしては史上初めて本格的にアジアに進出する(1986年~)
 解散後はメンバーのうち安原麗子と愛田実歩の2人がヌードを披露
 現在は安原麗子のみが女優として活動


 まぁ、どのくらい正確な金額なのかはつまびらかでないのですが、どちらも「40億円の巨費を投じて誕生!」という情報がおおいに喧伝されていたグループでした。
 しかし、結果は上の通り。完全な失敗とは言えないし、それぞれが少なくないファンをもった一人前以上のアイドルグループだったわけなのですが、なかなか「40億円」という大看板に見合った成果をもたらすことはむずかしかったようです。
 もちろん単純にそれだけが原因であるわけでもないのでしょうが、セイントフォーへの巨額投資をうけもった「リバスター音産」と少女隊を生んだ「ボンド企画」、どちらも1990年代の前半に倒産してしまっております……
 あと、解散後に多くの元メンバーがヌードになっちゃってるっていうのも哀しい印象を強めているような。しかも総じてソロアイドルのヌードにくらべてインパクトが薄いというところもキツいですねぇ。

 ただ、それぞれにそれなりの記憶すべきポイントがあったことも間違いなく、セイントフォーはアクションパフォーマンスとダンスのクオリティがかなり高く、80年代中盤と言うことで典型的な「アラレちゃん」型巨大フレームだったとはいえ、「視力が悪いからかけている」という以外の「チャームポイント」としてのメガネっ子を発見した功績も素晴らしいです。また、1988年のソウルオリンピックにあわせてアジアでも大いに知名度の上がった少女隊のグローバル戦略も、アイドルにかぎらないのちのちの日本人アーティストたちの活動に影響を与えています。
 っていうか、この2グループの歌唱力とダンスはけっこうレベルが高いです! その点ではおニャン子クラブに数段の差をつけて上をいってることは確かなんですが。

 問題は、汗水ながしてがんばるアイドルがその時代に受け入れられたかどうか、なんですねぇ。
 結果として、80年代の「本格的アーティスト志向アイドルグループ路線」は、商業的にはおニャン子クラブ陣営の足元にもおよびませんでした。
 しかし、これはあくまでその時代がそうだったから。その後の時代に「しろうとっぽさ」と「アーティスティック」のパワーバランスがどう変動していくのか? アイドルグループの歴史はそのへんのせめぎあいの歴史でもあるんですなぁ。おもしろいねぇ~!


 さてさて、話を冒頭にもどしまして、そういった感じでなんなくライバルグループを駆逐したおニャン子クラブだったわけなのですが、そんな彼女たちにやってきた「終わり」とは?

 まず「ブームに湧いていたはずの世間」というところなのですが、これは別に、世間が飽きてきたという意味ではありません。むしろ、熱狂的なフィーバーだったからこその問題が発生してしまったのです。
 つまり、毎週平日の夕方に放送していた『夕焼けニャンニャン』が当時の中高生に絶大な影響を与えすぎてしまったために、放課後にまじめに部活動をやらずに帰宅、最悪の場合は部活をやめるまでにいたってしまう生徒が続出したのです。いや、ホント!
 さらに、それ以上に学校・家族・おニャン子などの多方面にわたる問題となってしまったのが、「私もおニャン子会員になる!」と思い立ってオーディションコーナーに無理くり出場してあとあとトラブルを起こしてしまう女子高生が増えてしまったことでした。
 これは大変な問題で、正式におニャン子会員に合格したのに、その後に親の許可をもらえなかった、学業との両立がむずかしいなどの諸事情によってろくに活動もできないまま「卒業」処分になってしまうメンバーも何名かいたほどだったのです。
 ちなみにフジテレビは、『夕焼けニャンニャン』放送開始以降に加入するおニャン子クラブ会員にたいしては、「学業との両立」を絶対条件としていました。つまり、その若さを考慮してか、学校を休んで芸能活動に専念するという選択は許されていなかったのです。ただし、『夕焼けニャンニャン』放送開始前に結成していた初期メンバー11名は前身の「オールナイターズ」からシフトしてきたメンバーもいたりしたので、すでに学校を卒業している20代の人も普通にいました。

 この問題は当然、学校やその子の家族にとっても一大事だったのですが、とにかく芸能人でない一般人とのあいだにいざこざを起こしたくなったフジテレビは純粋な「しろうとオーディション」だけに頼る方針の修正をせまられることになってしまいます。
 なんということか! おニャン子クラブは自身の人気が上昇しすぎてしまったがために、本来その人気の補給源となっていた「しろうとオーディション」を手ばなさざるをえなくなってしまったわけなのです。なんたる運命のイタズラ!

 結局、みるみるうちに『夕焼けニャンニャン』の人気に比例してもちあがってきた「青少年に良からぬ影響を与える番組」という評価も無視できないものとなってしまったため、フジテレビは「おニャン子クラブ」路線を1987年9月をもってそうそうにうち切り、「おニャン子クラブ出身のソロアイドルに各自がんばってもらう」路線に鞍替えしてしまうことになったのでした。ここらへんの変わり身の速さは、さすがは時代を先駆けたTV局。

 こういった経緯もあって、おニャン子クラブは全盛期を迎えた1986年のなかばを境に、「おもしろいしろうと」がメインだった前期メンバーから、「のちのちのプロ化を視野に入れてデビューしたソロアイドルの卵」がメインとなる後期メンバーへとじょじょに体質を変えていきます。
 そうねぇ、新田さん・高井さん・河合さんといったあたりの前期メンバーと工藤さん・W渡辺といった後期メンバーとでは、表向きは同じことをやっていたとしても見つめているその後のヴィジョンが違っていたかもしれませんね。
 工藤さんにいたっては、加入以前に「セブンティーンクラブ」というアイドルグループのメンバーだった経験もありますし、もしかしたらおニャン子クラブに対してなんらかの「復讐心」をもって加入してきたのかも……だったらおもしれぇなぁ!! シャアみたい。

 まぁそんなこんなで、「ブームに湧いていたはずの世間」からの思わぬ逆風を受け、そのためにみずから「自分達の中」に滅びの要因を生んでしまったおニャン子クラブ。
 1987年の8月いっぱいをもって終了したフジテレビの特別イベント「夢工場」(「お台場冒険王」の原型みたいなもの)にあわせて『夕焼けニャンニャン』も最終回を迎え、翌9月の東京・代々木第一体育館での解散コンサートをもってその活動を終了します。
 全盛期のわずか翌年にすぱっと解散ということで、大盛況のうちに「勝ち逃げ」していった感もあるおニャン子クラブだったわけなのですが、その後多くのメンバーは芸能活動の継続を選ばず、ソロアイドルとしての道をとった人気メンバーも、女優やタレントとして現在も活躍している方はいらっしゃるものの、「アイドルの歴史」の中でおニャン子クラブ以上の重要な役回りを手に入れた方はほとんどいませんでした。わずかに、1980年代末に「アイドル四天王」の1人として名をつらねた工藤静香さんだけが燦然と輝きをはなっていたのみです。

 でも、おニャン子クラブはすごかった!
 「歌唱力をおぎなって余りあるしろうとっぽさという魅力」、「大人数グループ」、「加入・卒業イベント」、「アーティスト志向からお笑い要員まで取りそろえたキャラクターの豊富さ」、「グループ内でのソロ・ユニット活動の展開」などなど……
 とにかく、まさに1980年代後半を象徴しながらも、同時に来るべきアイドルグループの新境地を切りひらいた伝説的グループだったと言えるでしょう。


 っつうことで、次回は80年代の終わりからいよいよ90年代初頭に入ってまいりますよ。
 おニャン子クラブの80年代とモーニング娘。の00年代とのあいだにはどんな時代があったでしょうかね~?

 っていうか、この「ざっくりすぎるアイドルグループ史」は今月中にどこまで行けるんだろうか!?
 できれば21世紀は、迎え、たい……
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第8回 『おニャン子クラブじょーすいき 中』

2011年05月17日 22時16分44秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どうもこんばんは~、そうだいです。
 最近は天気のいい日が続いていたんですけど、今日はまた崩れてきちゃいましたね。またこんな感じのゲリラ豪雨が多くなってくんのかなぁ~、夕方とか。

 先日、およそ2ヶ月ぶりに髪を切ってもらおうかと床屋に行きまして、そこのメニュー表を見たところ、カットやら顔そりやらシャンプーやらを全部やってもらう「フルコース」っていうのよりも、ちょっとお安めの「シャンプーセット」というのがありまして、急いでることもあったし顔そりなんかはいいや、と思ってそのシャンプーセットを初めて頼んでみたんですね。
 そしたら、「シャンプーセット」って、「フルコース」をちょっと簡略化した「セット」っていう意味じゃなくて、「シャンプー」と髪型の「セット」だけをやるコースだったのね……
 椅子に座ったとたんに頭にシャンプー液がかかって、「あれ、カットは? カットは?」と思ったんですけど言葉に出せず、「シャンプー」と「セット」がとどこおりなく終わった時には、
「そうそう、最初っから髪切ってもらうつもりなんてなかったんだよ、オレ! ハハハハ~……」
 という表情を顔にはりつけてお金を払ってお店を出ました。この小市民が!
 いいんですよいいんですよ、いいシャンプーだったし、ドライヤーとかマッサージもすっごく気持ちよかったからねぇ!

 ……ということで、今日は仕事もなかったので別の床屋さんに行って髪を切ってもらいました。もちろん、カットで!!
 なんで2日間かけて床屋に行ってるんだ、おれは。はじめから「フルコース」にしておけば……そうか~、そういや「セット」って、「整える」っていう意味もあったなぁ~などと、身をもって再確認。


 と、いうことで、今回も引き続いての「おニャン子クラブじょーすいき」なんでございますが、当時圧倒的な支持を得ていた邦楽チャート「ザ・ベストテンのランキングチャート」に出演できない事情があったおニャン子クラブがとった方策とは!?

 普通だったら、アイドルにとって出て唄うことがひとつの重要なステイタスだとまで言われていた大人気番組が、他局の番組なので出演できないとなってしまったら、単なる1番組の企画アシスタントグループで終わってしまうところだろうし、実際にそうした例はおニャン子クラブの前後にいくらでもあったわけなのですが、そんなハンディキャップさえも逆に自分達の武器にしてしまったのがおニャン子クラブのすごいところ!

 天下の『ザ・ベストテン』にたいして、なんとおニャン子クラブは「別流の邦楽チャートを権威化する」という真っ向勝負に打って出たのです。
 まさしくこれは、「音楽番組に出られないのなら、出られる音楽コーナーを自前でつくったらいいんじゃない!」というマリー=アントワネット魂。ケンカ売ったぁ~!

 前回にも申したとおり、『ザ・ベストテン』の総合チャートは「レコード売上げ」、「ラジオリクエスト」、「有線リクエスト」、「番組へのハガキリクエスト」の4種のランキングをもとに作成されるというものだったわけなのですが、お互いの影響パーセンテージの「さじ加減」は、毎週番組スタッフが実際に番組に出演してくれるスターの状況をみて裁定していたのです。
 であるがゆえに、TBSの看板番組である『ザ・ベストテン』はフジテレビ専属のおニャン子クラブを高いランキングに上げるわけにはいかなかったのですが、

「ちゃんと人気があってレコードも売れてるのに、出してくれないなんておかしいじゃないか! だったら私たちでもっと正しいランキングを発表しちゃおう!」

 と気勢をあげたのが他ならぬおニャン子クラブ自身だったのです。
 おニャン子クラブは自分達のレコードをリリースしてから『夕焼けニャンニャン』の中で「今週のランキング」というコーナーをもうけ、オリコンチャートだけをもとにした週間売上げランキングを発表していくという手段に出ました。

 オリコンチャート(1968年~)は、純粋に音楽ソフト売り上げ枚数のみを調査・発表していた邦楽ランキングで(レコード売上げ以外にカラオケランキングを導入したのは1994年、パソコン・着うた配信ランキングの導入は2006年から)、番組のしがらみにとらわれない「純粋な音楽ランキング」を味方に付けたかったおニャン子クラブにとってはうってつけの武器になっていたのです。

 結果として、1986~87年にアイドル界を席巻することになったおニャン子クラブを出演させることができず、かといって彼女たちにタメをはるようなフレッシュ戦力を見いだすこともできなかった(実力あるアーティストは山ほどいましたが)『ザ・ベストテン』はじょじょに勢力を失っていき、1989年に番組終了ということに。
 いっぽう、毎週毎週おもしろいようにレコードが売れていくおニャン子勢、そしてそれに大いに助力することになったオリコンチャートは旭日のいきおいで名を挙げていくこととなります。おニャン子クラブとの共闘がなかったら、あるいは現在のオリコンチャートの権威もなかったかもしれません。

 でもまぁ、『ザ・ベストテン』も災難でしたね。これはもう、一方的にケンカをふっかけられちゃったんですからねぇ。番組の内容がどうとかじゃなくてTV局どうしの都合で人気が低迷しちゃったんですから、実に無念なアクシデントでした!

 こうやって既存の勢力にうち勝つための武器をとったおニャン子クラブなのですが、やっぱり武器がどんだけ立派なものだったとしても、その武器をふるう「おニャン子クラブ」本人がへなへなだったのでは仕方ありません。
 だが、おニャン子クラブはすごかった。確かにプロのアイドル、プロの歌手としてはへなへななところもあったのですが、そのへなへなさを「柔軟性」と解釈して、次から次へと当時の若者たちを飽きさせないコンテンツを打ち出していったのです。
 これ! これがあったからこそほぼ2年間のおニャン子クラブの天下が維持されたわけなのです。もちろん、その立て役者の中でももっとも貢献したのが秋元康&後藤次利の楽曲づくりだったというわけで。

 「おニャン子クラブ」という「1つのアイドルグループ」だけで天下を2年間とり続けることは無理でした。しかも、おニャン子クラブは「アイドルっぽくないフレッシュ感」こそがウリである集団です。1グループだけでやったらあっという間に摩滅してしまうことは火を見るよりも明らか。
 そこでとられたのが、前回にもふれた「加入・卒業イベントの繰り返し」と、おニャン子クラブの中でも特に人気のあったメンバーをどんどんソロ歌手デビューさせていく作戦の両輪!
 加入・卒業イベントの話題性の豊富さは何度も言いましたが、それに加えて、主要メンバー1人1人のカラーを強くしていくソロデビュー作戦は、ファンのあいだでもあの子のファン、この子のファンというヴァリエーションの多様化をまねくことになり、1人っきりのソロアイドルにはなかなか出せないアイドルグループならではの「ファン層拡大の魅力」をいかんなく発揮させる効果をもたらしたのです。
 結果として、おニャン子クラブのシングルセールスの大ヒットに乗っかるかのようにクラブメンバーのソロシングルも軒並みオリコンチャートの上位を独占、首位をとるのもざらという「おニャン子会員にあらざるものは人気アイドルにあらず」な時代を現出せしめることとなったのです。その全盛期となった1986年の1年間では、オリコンチャートではシングル首位を獲得した46曲のうち、おニャン子クラブ関連の楽曲が30曲におよぶという盛況ぶりとなっていました。ちなみに、その年にそれらが首位をとっていた期間は52週中の36週。ひょえ~。

 でも今になってあらためて聴いてみると、

「唄ってる人がかわいいとは言え……これがいちばん売れてた当時の日本っていったい……」

 と首をかしげざるをえない曲も、ちらほら。まぁ、そんなこと言ったらおニャン子クラブにかぎった話じゃなくなっちゃうからね! そういう時代だったってことなんですな。

 そういうわけで、最終的にはおニャン子クラブは13人ものソロ歌手を生み出すことになりました。前回にふれた特に有名な9人衆も、解散後にソロデビューした生稲晃子さん以外は全員ソロ活動を並行しておこなっていたのです。
 国生さゆりさんの『バレンタイン・キッス』って、オリコン首位とってなかったのね(最高2位)。でも、今いちばん記憶に残ってるソロ楽曲って、首位をとったどれでもなくて『バレンタイン・キッス』ですよね。その時代その時代の人気って、おもしろいもんですね~!

 しかししかし、おニャン子クラブの攻勢は止まらない。おニャン子クラブ本体と各メンバーのソロ活動に加えて、とどめをさすように第3の形態としてくり出されたのが、

「ユニット活動」

 だったのです。「アイドルグループ内のアイドルグループ」とも言える「ユニット活動」はこのおニャン子クラブが史上初でした。まぁ、そんなことができる人数の余裕があったのもおニャン子クラブが史上初でしたからね。どんだけアグレッシブなんだ!

 おニャン子クラブが世に出したグループ内ユニットは、正式なもので3つありました。
 以下、ほんのデータだけ紹介させていただきますが、それに加えて、おニャン子クラブの活動末期である1987年夏に登場した「妹分的ポジション」の存在もまとめておきます。

うしろゆびさされ組(1985~87年)
 高井麻巳子(19歳)と岩井由紀子(17歳)のデュオ 代表曲『バナナの涙』(1986年)
 フジテレビのギャグアニメ『ハイスクール!奇面組』(1985~87年)にタイアップして結成された
 発表した6枚のシングル中、5枚がオリコンチャート1位になる
 高井の1987年3月での卒業(すでに在籍中の1986年からソロ活動をしていた)により解散
 高井は翌1988年まで歌手・女優として活動し秋本康と結婚して引退

ニャンギラス(1986年4~9月)4人組の史上初「色物」アイドルグループ
 発表したシングルがすべてオリコンチャート首位を獲得した史上唯一の女性アイドルグループ(キンキキッズやJフレンズなみ)
 ※まぁ、発表したシングルは2枚だけなんですけどね……
 リーダー格だった名越美香(なごや みか 20歳)のおニャン子クラブ卒業をもって解散
 名越は『風雲!たけし城』(1986~89年)に出演していたが結婚引退
 代表曲は1stシングル『私は里歌ちゃん』(メンバーでもっとも音程があやしかった立見里歌21歳がメインヴォーカルをつとめる)

うしろ髪ひかれ隊(1987~88年)「うしろゆびさされ組」の後継3人組グループ
 工藤静香(17歳)・生稲晃子(19歳)・斉藤満喜子(17歳) 代表曲『時の河を越えて』(1987年)
 うしろゆびさされ組の解散をうけて翌4月に結成され、アニメ『ハイスクール!奇面組』と続く『ついでにとんちんかん』(1987~88年)のテーマ曲を担当する
 1987年9月のおニャン子クラブ解散後も活動を続けるが、さすがに人気は失速した
 1988年5月のコンサートをもって、生稲と斉藤のソロデビューにより活動休止
 アニメ『ついでにとんちんかん』のタイアップはソロデビューした生稲晃子が後継 『麦わらでダンス』
 斉藤は1998年に結婚引退

アイドル夢工場(1987年の期間限定グループ)7人組・フジテレビ専属のアイドルグループ
 「ミスマガジン」の準グランプリ以下の受賞者で結成・おニャン子クラブの妹分 シングルは『アドベンチャー・ドリーム』のみ
 7~8月に東京・お台場と大阪・南港の2会場で開催された「コミュニケーションカーニバル‘87 夢工場」のマスコットアイドル
 夢工場イベント閉幕後の芸能活動は特になし


 はずかしながら、ここらへんなんですねェ~、やっと私そうだい自身の記憶がついてきはじめるのは!
 っていうか、残念ながらここでの私の認識は「アイドルグループおニャン子クラブの派生ユニット」じゃなくて、「アニメの歌を唄ってたおねえちゃんたち」なんですけどね。
 観てたなぁ~、『ハイスクール!奇面組』と『ついでにとんちんかん』。どっちも、天下の超人気マンガ雑誌『週刊少年ジャンプ』の当時を代表するギャグマンガだったのです。
 もちろん、その時の『ジャンプ』でいちばん人気があったのは言わずもがなの『ドラゴンボール』(Zじゃない! まだベジータもいない!)だったわけなのですが、ギャグ部門でのトップだったこの2作までをも味方につけちゃったんだなぁ、フジテレビとおニャン子クラブは。恐るべし!

 1987年、フジテレビは史上初めて、「NHKも含めた」在京TVキー局の中での視聴率トップを獲得しました。ついに民放がNHKをくだしてしまう時代がきた! 今じゃ当たり前ですけど、当時からしたら、ひとつの時代の区切りとなる大きな出来事だったのではないでしょうか。
 もちろんそれだけではないのでしょうが、おニャン子クラブの一連の大フィーバーがこの動きに大きな影響力をおよぼしたことは間違いないでしょう。

 おニャン子クラブ、天下を制す。

 しかし、ここで終わらないのがフィクションじゃない「人の歴史」ってもんなんですよね。
 さぁ~このあとどうなるおニャン子、どう動くアイドルグループ史!?

 激動の80年代後半は、まったじっかい~。
 わぁ~もう今月後半戦に入っちゃったよオイ!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第7回 『おニャン子クラブじょーすいき 上』

2011年05月15日 23時30分29秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 こぉ~んばぁーんわぁ~い。そうだいでございます。みなさん、今日も1日お疲れさまでした。

 いやぁ、今日も私の身のまわりは、ごく当たり前の天気のいい日曜日として時間が過ぎていったわけなのですが……

「ちょっとメルトダウンしちゃってました。」じゃないでしょ!? 「甘栗むいちゃいました。」じゃないんですから。

 こちとら、少年期まっさかりのころに『ゴジラVSデストロイア』を観て衝撃を受けた人間なもんでねぇ。
 「メルトダウン」ったらもう、そりゃーえらいことになると思いこんでたもんだったのですが、なんか「ちょこっとメルトダウン」ですんでいたようで。
 というか、もしかしたらこれからさらに「どえりゃーこと」になるかも……という状況は今も続いているんですね。

 でもそれなのに、世界地図で見たらほんのちょびっとの距離の場所にいる私たちは日常の生活を送ってるのね。
 もはや、なにかに批判的になったり悲観的になったりする時期は過ぎたというか……鈍感になりようもない不気味な緊張感の続いたこの日常。
 被災したわけでもないので、私の町はパッと見はほんとにふつうなんですが、ちょっと友だちのホテルマンと話をしたりすると、

「ゴールデンウィークはやっぱりヒマだったねぇ。だって今年は、このへん(東日本)に旅行にいこうかって考える人があんまりいないから。」

 こんなことを聞いたりもするんですよね。それでも、住んでいる当の私たちはほんとに普通なんです。仕事もあるし、娯楽もある。

 私なんかはほんとに「不思議」としか理解できなくて。そんな私でも敏感に感じちゃうのは、すぐに崩れるかもしれないそんな社会の中で、それでもまっとうに働いて食べて笑って生きていかなければならない、人間の「さが」というかなんというか。
 やっぱ、みんなで元気にはげましあって生きていくことしかできないのよね。
 被災地や原発の近くにいる人たちのことを思う「祈り」の力というものを今は信じます。
 フォースがあればなんでもできる! バカヤローッ!!


 こ~んな、世界史にバリバリ余裕で刻まれるような人類規模の大事件のまっ最中だっていうのに、私、「アイドルグループ史」なんてものをつづっております。
 え? そんなことしてる場合なのかって? それは100年か200年後の未来の人に聞いとくれっ!
 70を越えた金髪のおじいちゃんがストーカーをしてつかまるようなご時世ですからね。法を犯す気はさらさらありませんが、私も気持ちはロックでありたいのです。シェケナベイベ~。

 さて、今回はいよいよ「おニャン子クラブ」が80年代なかばに世に問うた「しろうとアイドルブーム」というものの盛衰の物語をおっていきたいと思います。
 全然関係ありませんが、「盛衰」という言葉は昔ふうに「じょうすい」と読むとカッコいいぞ! でも、あんまり使い過ぎるとなんにも知らない大人に「せいすいだよ。」ってバカな訂正をされるからほどほどにしよう。

 「軽チャー路線」を標榜するフジテレビの本格的な専属アイドルグループとして誕生したおニャン子クラブ。
 活動の拠点となったのは、毎週月~金曜日に夕方5時から放送していた生放送番組『夕焼けニャンニャン』で、内容は応募してきた女子高生の中から新たなおニャン子クラブメンバーを発掘していくというオーディションコーナーと、メンバーがとんねるずら当時の若手芸人とクイズやゲームなどをするというお遊びコーナーが中心でした。番組スタッフや出演タレントのほとんどが『オールナイトフジ』からシフトしてきたということもあり、生放送に慣れている周囲はほぼしろうとのおニャン子クラブを的確にサポートしていき、ここでの出演によってさらに人気と実力を上げたとんねるずは、そのまま自分達の冠番組『とんねるずのみなさんのおかげです』(あったり前のようにフジテレビ)を立ち上げていくこととなります。
 ここで大事なのは、こういった経緯もあったために、最初っからおニャン子クラブというアイドルグループの中身が「本物のしろうと」と「すでにタレントだった人」の混成部隊になっていたことです。
 番組が放送された期間は1985年4月から1987年8月の2年間あまりで、おニャン子クラブの解散コンサートは番組終了の翌月9月に東京・代々木第一体育館で盛大に挙行されたわけなのですが、その活動期間のあいだ、おニャン子クラブは常に新たなメンバーの加入と先輩メンバーの卒業というイベントがおこなわれていました。
 おニャン子クラブの構成人数は番組開始当初が11名、毎月のように新メンバーが増えていって最大時には30名前後。解散時には正式メンバーは19名だったようです。

 そんな中で、総勢50名もの娘さん達が正式メンバーの証である「会員番号」を取得していったわけなのですが、それだけ集まったらおんなじ若い娘さんでも、「おもしろいから遊んじゃお~。」と思う人もいれば、「あたしは絶対にここで有名になって独り立ちしてやる!」という野望を胸に秘める人もいたわけで。

 ちょっとここでですね、おニャン子クラブを代表するメンバーであると、私の独断と偏見のみでセレクトさせていただいた9人の方の情報をのせてみたいと思います。
 あの、何度も言いますけど、ここにあなたの好きなあの方がいないからって、怒っちゃいやよ! 字数の都合もあったので9人にしぼらせていただいた、というだけであります。


・新田 恵利 (結成メンバー~1986年9月在籍)結成時には高校生だった(17歳)、卒業後は歌手・女優
 ※1986年1月に『冬のオペラグラス』でソロデビュー
・国生 さゆり(結成メンバー~1987年3月在籍)結成時にはすでに高卒でタレントだった(19歳)、卒業後は歌手・女優
 ※1986年2月に『バレンタイン・キッス』でソロデビュー
・高井 麻巳子(まみこ 結成メンバー~1987年3月在籍)結成時には予備校生だった(19歳)、卒業後は歌手・女優、1988年に秋元康と結婚引退
 ※1986年6月に『シンデレラたちへの伝言』でソロデビュー
・河合 その子(放送開始直後に加入~1986年3月)加入時には専門学校生だった(20歳)、卒業後は歌手・女優、1990年に引退し94年に後藤次利と結婚
 ※1985年9月に『涙の茉莉花(ジャスミン)Love』でソロデビュー(おニャン子クラブ初のソロプロジェクト)
・岩井 由紀子(1985年6月加入~解散まで)加入時にはモデル事務所に所属していた(17歳)、解散後は愛称だった「ゆうゆ」に改名し歌手・タレント、1997年に結婚引退
 ※1987年3月に『天使のボディーガード』でソロデビュー
・渡辺 美奈代(1985年11月加入~解散まで)加入時にはタレントだった(16歳)、解散後は歌手・女優
 ※1986年7月に『瞳に約束』でソロデビュー
・渡辺 満里奈(1986年3月加入~解散まで)加入時にはタレントだった(16歳)、解散後は歌手・タレント
 ※1986年10月に『深呼吸して』でソロデビュー
・工藤 静香 (1986年5月加入~解散まで)1985年にすでにアイドルグループ「セブンティーンクラブ」として活動していた(15歳)、解散後は歌手
 ※おニャン子クラブ解散直前の1987年8月に『禁断のテレパシー』でソロデビュー、代表曲は1993年の『慟哭』(名曲ですね~。)
・生稲 晃子 (1986年6月加入~解散まで)加入時にはモデル事務所に所属していた(18歳)、解散後は歌手・女優
 ※おニャン子クラブ解散後は「うしろ髪ひかれ隊」メンバーとして活動、1988年5月に『麦わらでダンス』でソロデビュー


 いやぁ~錚々たる面々でございます。現在は引退されている方もいらっしゃるのですが、みなさんおニャン子クラブのメンバーとしても、1人1人のソロアイドルとしても当時は絶大な人気をはくしていたのです。
 ただ、ここで気をつけておかなければならないのは、上のように芸能界に残っていくメンバーだけでおニャン子クラブが構成されていたわけではない、ということ。
 むしろ、おニャン子クラブのメンバーだった方のほとんど大多数は、『夕焼けニャンニャン』で他の芸能人とやりあっている時点でも特定の芸能事務所に所属しておらず、解散した後はふたたび普通の学生生活に戻っていくという「本物のしろうと」だったのです。
 まぁ、だからといってそう簡単に普通の生活に戻れなくなってしまうのが芸能界の「魔力」なんではあるのでしょうが。

 つまり、アイドルグループとしてのおニャン子クラブは、実態は「本物のアイドルを生み出すための養成機関」だったということになります。
 ただ、時代や番組の要求するものが「しろうとっぽさ」だったため、おニャン子クラブは「一流のアイドルを育てる」というスタイルをいっさいとりませんでした。むしろ加入前、普通の高校生だった時のフレッシュさをどれだけ維持できるかが各メンバーひいてはグループ全体の魅力でもあったわけで、その点、「アイドルらしくなければらしくないほどいいアイドル」という、哲学的にものすごい矛盾をかかえたグループだったわけなのです。す、すごい……
 結局この方針のため、もともとずぶのしろうとで芸能界への執着も特になかったメンバーと、なまじっかすでに芸能界に入ったあとで加入したメンバーとのあいだに微妙な空気感の違いが生じていたこともあったようです。新田さんと国生さんの存在感のちがいなんかが、まさにそうだったのではないでしょうか。まぁ、新田さんもその人気のために卒業後は芸能人になっていますが。
 極端な例で言うと、工藤さんなんかはすでにおニャン子クラブに加入する前からアイドルだったんですからね! そんな彼女なのに、おニャン子時代にはそのへんを感じさせない「アイドルらしからぬしろうとっぽいおバカ発言」を持ち味としていたのです。やっぱり歌だけじゃなくて生き方も器用なお人なのね……

 まぁこんな調子で、おニャン子クラブは「アイドルグループ」という形態では確かにのちのモーニング娘。やAKB48の直接の大先輩となる存在ではあったのですが、およそ汗や悔し涙を流しながら、

「みんなっ、がんばっていっしょにトップアイドルめざそうねっ!」

 と誓いあうような、現代に通じるサクセスストーリーの似合うグループではありませんでした。どれだけぬるくやってラクに遊ぶかがおニャン子クラブの本領であったともいえます。そういう意味では、2011年現在に活躍するどのアイドルグループよりもはるかに革命的だったのかも!?

 そんなおニャン子クラブが残した数多くの足跡の中でももっとも大きかったのが、彼女たちの音楽業界での大暴れっぷりでした。
 「あるTV局のある番組でしか活動しない」というマイナスとしか思えない性質を逆手にとって、おニャン子クラブ、というかそれを武器にしたフジテレビは、当時の日本の音楽チャート業界にも革命をもたらす大勝負にうって出ることとなったのです。

 おニャン子クラブは、その「フジテレビ専属のアイドルグループ」という特質もあり、基本的には他のTV局の音楽番組には出演できないという制限が生じていました。もちろん、NHKの紅白歌合戦にも出場していません。
 それゆえに、1978年の放送開始以来、多くのビッグアーティストたちをまねいて「当時の日本でもっとも影響力の強いランキングチャート」を毎週発表していたTBSの超有名音楽番組『ザ・ベストテン』(木曜夜9時)にも、おニャン子クラブは出場できない宿命にあったのです。

 『ザ・ベストテン』の発表する総合ランキングは、音楽ソフト(当時はレコード)売り上げ枚数・有線放送リクエスト・ラジオリクエスト・番組へのハガキリクエストから各データを集めて決定するというものだったのですが、当然ながらランキングに入ったアーティストがスタジオに来て唄ってくれないと番組が盛り上がらないため、そのへんの事情もあってか、おニャン子クラブはあまりランキング上位に入ってこないという状況になっていました。

 しかし、時代の勢いというものは実に恐ろしいもので、「歌もダンスもあんまり上手じゃないけど、みんなでがんばってみま~っす。」という、おニャン子クラブの他に類を見ないしろうとっぽさがウケにウケ、レコードが売れた売れた!
 おニャン子クラブといえば1stシングルの『セーラー服を脱がさないで』(1985年5月)がつとに有名なのですが、こののっけから大ヒットを記録したレコード販売は快進撃を続け、3rdシングル『じゃあね』(1986年2月)からは、6作連続でオリコンチャート首位を獲得することとなります。
 いや~、なんといってもおニャン子クラブの恐ろしさは、その「時流を見きわめる眼のバッチリ感」ですね!
 その最たるものが『じゃあね』の大ヒットで、世間でいう卒業の季節に、自分達の最初の「卒業イベント」となる河合その子さんら2名の卒業コンサートを公演し(それ以前に卒業したメンバーもいたが、卒業コンサートという形式をとったのはこの時が初めて)、そこにこの卒業ソングの新曲をぶつけてきた戦略は、まさに一部のスキもないといった感じです。諸葛亮もビックリよ。
 また、『じゃあね』っていう曲がいいんだなぁ! 「お別れ」を徹底して明るく唄いあげるこの歌は、秋元&後藤タッグがおニャン子クラブの陽性を最大限にひきだしたベストワークと言っても過言ではない名品でしょう。

 「お別れ」はあくまで明るく! というと、どうしてもあのキャンディーズの『微笑がえし』(1978年)を想起してしまうのですが、思えばおニャン子クラブは、キャンディーズ以来ひさびさに登場した、

「成長と変身を魅力にもっているアイドルグループ」

 だったと言えるかと思います。それもおニャン子クラブの場合は、「メンバーの定期的な交替」という、さらにダイナミックでストーリー性あふれるものになっていました。
 まぁ~「新規メンバー登場!」やら「あのメンバーが……卒業。」といったイベントは、現在の芸能界でも尋常じゃない影響力をもったアイドルグループならではのビッグニュースになっていますよね。


 ぐぬぅ! また字数がかさんでまいりました。
 レコード業界その他におニャン子クラブが残していった大きな足跡などの、続きはまた次回っつうことで!
 は~、長い……
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