長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

70点、70点、うっさい!! ~映画『傲慢と善良』~

2024年10月11日 23時28分39秒 | ふつうじゃない映画
 へへへ~いどうもこんばんは! そうだいでございます~。

 いやぁ、先日ついに敢行してしまいました、山形~山梨の1泊3日往復車旅、片道500km!! 去年から始めている個人的な年1ビッグイベントだったのですが、今年は夏ではなく秋にチャレンジしました。
 ほんっとうに、心の底から! 生きて帰って来ることができてよかったな、としみじみ痛感しております……今年もすばらしい旅になったのですが、がっつり風邪ひいちった……
 これはやっぱり、今年のゴールデンウィークに山形の米沢市で行われた「上杉まつり」の川中島合戦再現イベントで上杉軍の足軽になった身でいながら、武田勝頼と因縁の深い新府城跡をのこのこ探訪してしまったがための祟りなのでありましょうか……いや、単にケチって高速使わずに一般道で行って疲れただけか。
 正直、行った初日の山梨のお天気は、一日中のぐずぐず雨という最悪のコンディションだったのですが、雨の中おとずれた新府城跡や武田八幡宮は非常にムード満点で絵になっていました。く、熊の気配がめっちゃ怖かった……
 宿泊した南アルプス市・芦安温泉の宿も、昭和中期の大型旅館の雰囲気を今に伝える、率直に言うと複数回の増築による通路のカオスな迷宮化が最高なところでございました。露天風呂に入ろうとしたんですけど、宿泊棟の1階に降りてから外通路を通って別棟に行って、そこから2階に上がってまた外回廊を通って露天風呂って、あんた……昔ながらの旅館は、高齢者に当たりが異常に厳しい! 歳とってからゆっくり泊まろうったってそうはいかないから、足腰が元気なうちに行っとけ行っとけ!
 帰りの日は一転しての好天だったのですが、「長野ナンバーのドライバーさんの交通法規順守の徹底ぶり」を身に染みて感じながら、結局まるまる一日かかって深夜に山形に到着いたしました。もうちょっと早く到着する算段だったのですが……大きな声じゃ言えませんが、制限速度で走る車って、山形じゃそんなに多くは、ね……ゴニョゴニョ。
 なぜか去年から始まった山梨県への温泉旅行、元気だったらぜひとも来年もやってみたいです。でもこれ、ほんとに体力をゴリゴリに削りますんで、体調管理には十二分に気をつけて、また1年これを楽しみにして生きていこうと思います。山梨、ほんとに楽しい!

 さてさて、それでここ数日、久しぶりに体調が最悪な日が続いてダウン(しながら働いて)いたのですが、やっとなんとか快復して余裕が出てきましたので、ようやく、かねてから観よう観ようと思っていた映画を鑑賞してまいりました。

 いやほんと、ここんところ『箱男』あたりから観なきゃいけないと思ってるエンタメ作品が渋滞しちゃってて! 早くひとつひとつ消化していかなければ……船越さんの『黒蜥蜴』2024も、録画はしたけどまだちゃんと観てないのよ……今年の秋はほんとに忙しい!! なんだかんだ言って師走までこんな感じになりそう。


映画『傲慢と善良』(2024年9月27日公開 119分 アスミック・エース)
 映画『傲慢と善良』(ごうまんとぜんりょう)は、辻村深月による長編恋愛ミステリ小説『傲慢と善良』(2019年3月刊)の映画化作品。原作小説は2019年度ブクログ大賞・小説部門大賞を受賞し、2024年10月時点で累計部数100万部を突破している。

あらすじ
 仕事も恋愛も順調に過ごしてきた青年・架。しかし長年付き合った彼女のアユにフラれてしまったことをきっかけにマッチングアプリで婚活を始める。そこで出逢った、控えめで気の利く女性・真実と付き合い始めるが、1年が経っても結婚には踏み切れずにいた。
 そんな折、架は真実からストーカーの存在を打ち明けられる。そしてある夜、「架くん、助けて!」と恐怖に怯える真実からの電話が。真実を守らなければと決意し、架はようやく真実と婚約するが、その矢先に真実が突然、姿を消してしまう。
 両親や過去の見合い相手を尋ね、真実の居場所を探す中で、架は知るよしもなかった真実の過去と噓を知るのだった……


おもなキャスティング
西澤 架 …… 藤ヶ谷 太輔(37歳)
 東京生まれの東京育ち。国産クラフトビールの製造販売業社長。容姿端麗で女性経験も豊富。かつての彼女である6つ年下のアユ(三井亜優子)は理想の相手だったが、早く結婚して子供を持ちたいと望むアユの願いを先延ばしにした結果、振られて別の相手と結婚された過去がある。30歳代後半になってからマッチングアプリに登録して婚活を始め、大勢の女性と会う中で真美と知り合ってなんとなく交際を始めたものの、心のどこかでアユを引きずっている。学生時代からの友人の美奈子に真美と何% くらい結婚したいかと聞かれて「70% 」と答える。

坂庭 真実 …… 奈緒(29歳)
 東京都内の英会話教室で働く事務員。
 群馬県前橋市に生まれ育った。2人姉妹の次女。大人しく自分の意見を主張するのは苦手。利発で大学進学を機に上京した姉(岩間希美)と違い、高校から地元の女子校に進学し、そのままエスカレーター式に系列女子大へ進学。卒業後は母の勧め通り群馬県庁の臨時職員として働いた。進学や就職については母親・陽子の影響が強く、自らで深く考えたことはなかった。大学の同級生や県庁の同僚が次々と彼氏を作り結婚していく中、真美は特に彼氏ができることもなく過ごす。母親のはからいで地元の県会議員夫人・小野里が運営する結婚相談所の世話になることになったが、相手の欠点ばかりに目が行ってしまい結婚には至らなかった。その後、いつまでも自分を子ども扱いする両親に耐え兼ね、実家を出て姉を頼り上京した。

美奈子 …… 桜庭 ななみ(31歳)
 架の大学時代からの友人。仕事ができ美人で気も強く、要領よく生きてきた女性。架との付き合いも長く、遠慮なく意見を言う。架に、過去に架の彼女だったアユと比べて真美に対して70点の気持ちしかないのなら結婚すべきではないと忠告する。

岩間 希実 …… 菊池 亜希子(42歳)
 真実の姉。母親・陽子の束縛を嫌い大学進学を機に実家の前橋から上京し、今は結婚して一児の母となっている。何かにつけて母親の言いなりである妹・真美に対していら立つこともあるが、真美をなにかと気に掛けている。

坂庭 陽子 …… 宮崎 美子(65歳)
 群馬県前橋市に住む、真実と希実の母親。自分の価値観を真実に押し付け、真実を何かと束縛しようとする。

坂庭 正治 …… 阿南 健治(62歳)
 群馬県前橋市に住む、真実と希実の父親。妻・陽子の言うことに大きく反対はせず、真実と希実の子育てを任せてきた昔気質な性格。

小野里 …… 前田 美波里(76歳)
 群馬県前橋市の県会議員の妻。結婚相談所を運営している。真実の母・陽子に依頼され、真実にお見合い相手を紹介する。

高橋 耕太郎 …… 倉 悠貴(24歳)
 真実が九州地方の七山市(架空の都市)で知り合う災害ボランティアのリーダー。

よしの …… 西田 尚美(54歳)
 七山の飲み屋「FUNNY NANAYAMA 」のママ。真実を居候として受け入れ面倒を見る。

架の親友・大原 …… 小林 リュージュ(35歳)
 大学時代からの架の親友。電子機器部品の卸業を経営している。40歳近くになっても未婚の架を心配している。

美奈子の親友・梓 …… 小池 樹里杏(30歳)

真実の見合い相手・金居 …… 嶺 豪一(35歳)
 群馬県前橋市で電子機器メーカーに勤めるエンジニア。2児の父。

真実の見合い相手・花垣 …… 吉岡 睦雄(48歳)
 群馬県高崎市で歯科医院に勤める独身男性。

真実の地元の友達・泉 …… 里々佳(29歳)
 真実の中学校時代の友達。前橋で偶然、真実と金居に出遭う。

三井 亜優子 …… 森 カンナ(36歳)
 かつて架の交際相手だった女性。


 きたきたきた~! 我が『長岡京エイリアン』いとしの辻村深月先生の小説を原作とする映画作品のご登場でございます。

 辻村先生は、畏れ多いことに私とほぼ同年代の方なので、どうしても「日本小説界の若手ホープ」という印象が離れないのですが、気がつけば辻村先生も今年でデビュー20周年を迎えるという押しも押されもせぬベテランとなり、それにともない、先生の小説作品を原作とする映像作品もかなり多くなってきました。でも、今でも「映像化!」という知らせを聞くとドキッとしてしまうんですけどね。やっぱりファンにとっては気になる話題というか……本質的に小説とは全く別の作品と割りきるべきなんですけどね。

 ざっとまとめてみますと、今回の『傲慢と善良』(以下、映画版は『ゴー善』と略)も含めますと、辻村先生の小説作品はこれまでに「TV 単発ドラマ1作(『踊り場の花子』)」、「TV 連続ドラマ4作(『鍵のない夢を見る』など)」、「実写映画5作(『ツナグ』『太陽の坐る場所』『朝が来る』『ハケンアニメ!』、『ゴー善』)」、「アニメ映画2作(『大長編ドラえもん のび太の月面探査記』『かがみの孤城』)といった形で映像化されています。いや~、気がつけばこんなにみごとな花ざかり。

 これらの諸作は、それぞれ制作スタッフが全く違う作品だし別々の味わいがあるわけなのですが、共通しているのは「出演俳優にかかる真剣勝負度の圧がすごい」ということではないでしょうか。

 これはもう、原作小説の生々しいまでの「登場人物が身を切ってる感」が、辻村ワールドならではの味わいにして魅力の核心というところが関係しているとしか言えないでしょう。つまり、辻村作品を原作とする以上、どうしてもそれに取り組む俳優の皆さんも、通りいっぺんに台本に書かれた役を演じるというだけでなく、俳優である以前に一人の人間として、嘘偽りのない「過去の自分」をありありとさらけ出した上で演じなければならない覚悟を要求されるからだと思うのです。若き日にこれからどうやって生きていこうかと悩む鬱屈とした自分、他人とのコミュニケーションに苦慮する自分、プロとして生きていくための覚悟を決めた瞬間の自分、こういう生き方で良いのかと道の途上ではたと立ち止まる自分……
 お話の面白さもさることながら、多くの人々の心をむんずと鷲掴みにする辻村ワールドの魔力の本質は、登場人物たちのそういった苦悩を通じて、読んでいる人に自身の過去を、大人になってとんと忘れ去ってしまっていた自分自身の姿、その時の空気のにおいや体温の高揚、肌の汗ばみまでをも鮮烈によみがえらせるような記憶喚起力にあると思います。まさに魔力! そして、それを引き起こす対象となっているのが小説の読者だけでなく、小説を原作とした二次作品の出演者にさえ波及しているというのが、映像作品の「真剣度」を異様に高めてしまう要因なのではないでしょうか。
 なんか軽いノリで辻村作品を映像化している例も観たいような気もするのですが、なかなかね……それはそれで原作ファンの反応が怖いような気もしますよね。読者も真剣そうだな~、辻村ワールドって! 私はどうなのであろうか……

 さてさて、そんなこんなで今回の『ゴー善』なわけなのですが、当初、あの長編小説『傲慢と善良』が映画化されると知った時、私は「また難しい作品を……大丈夫かな?」という不安が先に立ってしまいました。
 なぜなら、『傲慢と善良』は大部分が「いなくなった人を探す」お話であり、ただひたすらに「いない人の思い」を想像する旅に出る男の姿をロードムービー的に追う形式になっているからです。当然、最終的に男は相手にたどり着いて物語は終わりを迎えるのですが、その路程で殺人事件のような衝撃的な展開があるわけでもないし、いない人の過去に関しても、ぶっちゃけそんなに異常な出来事があったわけでもありません。

 ふつうなんです! この物語に登場する人物たちは、主人公の男女を含めて、み~んなごくふつうの人生を送っている人ばかりなのです。

 でも、この「ふつうの人生」の中でつまびらかにされていく人間同士のすれ違い、軋轢、対立、羨望、さげすみ、愛憎の濃密さときたら……ここ! この、死ぬほど大変なことでもないんだけど、地味にボディに効いてくるような細かい起伏が延々と続く人生のディティールを異様に高い解像度で描写しているところが、原作小説のものすごいところなんですよ! そうそう、ふつうに生きるって、こういう風にとてつもなく辛くて大変で、それでもたま~にステキな出逢いもあるからやめられないことなんだよなぁと、しみじみ感じ入ってしまうんですよね。

 この原作小説を読み進めていくと、タイトルにある「傲慢」と「善良」とは、別に対立する関係にあるものでもないし、作中で言及されてもいたジェーン=オースティンの長編小説『高慢と偏見』(1813年)のように、明確に超えるべき壁として立ちはだかる話でもないらしいことがわかってきます。つまり、登場する架と真実は、性別も家族環境も生き方もまるで違う者同士でありながら、自分自身の心にいつの間にか、しかもかなり昔から強固な価値観を持っており、それこそが表裏一体の関係にある「傲慢 / 善良」という共通の何かであることが明らかになってくるのです。そして、おそらくこれは、この小説に登場する人物全員どころか、読者も含めた現代日本人すべてに多かれ少なかれ根ざしているものなのではないか、という気配が次第ににじり寄ってくるという、何か、今まで日常生活の中でごくふつうに見えていたものが、ある瞬間から異様な違和感のある何かに見えてしまうような不気味な黙示録作品。それが小説『傲慢と善良』であると思うのです。
 私、この小説の読後感にいちばん似た感覚のあった作品って、コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』(2007年)なんですよね。お話は終わるけど、提示された「なにか」の気配は消えないという、この異物感。

 もちろん、この小説における架と真実のお話は、ひとつの物語として終わりはするんですが、現実世界にいる私達の「傲慢と善良」はどうなっているのか、この小説を読んだことで何かしらの変化は起きたのか、それとも何も変わらずに心の中に存在し続けるのか……小説の中から辻村先生が読者に押しつけがましく直接呼びかけるような文章は一文も無いのですが、こういう問いかけを球速160km 台で投げかけられているような気がしてくるのが、たまらない! でも、ここまでドカドカッと読者の心の柔らかいところに入りこんでくる人もそうそういないような気がするからこそ稀有な存在なのです、小説家・辻村深月って。家族よりも家族、母ちゃんよりも母ちゃん!! ちょっ、勝手に開けんなって!!

 ともかく、この小説『傲慢と善良』は、非常に読み応えのある作品ではあるのですが、その面白さが、果たして映像作品になる時に「伝わりやすいものなのか」というと、私はかなり難しいと感じたんですよね。しかも、登場人物同士が会話するパートとほぼ同じかそれ以上の分量で、主人公の回想や心中思惟が物語の大部分を占めているのですから、セリフに頼らない相当にハイレベルで繊細な演技力も主人公の2人には要求されるわけで。これを映画化とは……こりゃ大変な難物ですぞ!

 ほら~、ここまで字数を割いといて映画になった『ゴー善』の話にじぇんじぇん入ってないよ! ちゃっちゃと観た感想を言っときましょう。映画のほうの『ゴー善』についての私の感想は、


後半が全然ちがう話になっとるが……原作小説に挑戦した勇気はたたえたい。


 というものでした。面白く観ましたよ!

 そうなんですよ。映画『ゴー善』は、物語の中盤から展開と設定が、原作小説とだいぶ違ったものになっているのです。
 ざっくり言ってしまうと、失踪した真実のおもむいた土地が、原作の宮城県仙台市ではなく、北九州地方の「七山市」という町に変更されています。これは架空の都市で、実際に撮影された地名で言うと佐賀県唐津市の七山地区となるようです。
 原作小説では、真実は仙台市で東日本大震災の復興ボランティアに従事するのですが、『ゴー善』ではおそらく、2017年7月の「九州北部豪雨」いらい毎年のように発生している豪雨災害の復興ボランティアに従事するために、真実は七山におもむいたようです。
 この変更自体は、映画の制作時期にかんがみて、より今現在リアルに災害が起こっている九州に舞台を移したのではないかと想像がつくわけなのですが、問題は、この七山で展開される真実と架との再会の経緯が、はじめからおしまいまで原作小説とまるで違うものになっているというところです。

 具体的に比較していきますと(以下、後半の展開に触れまくります。注意!!)、


≪原作小説の時間の流れ≫
1、四月。真実が失踪してから約3ヶ月後に架がひとつの「結論」に達し、失踪いらい更新が途絶えている真実のインスタグラム投稿の最終記事にコメントの形でメッセージを伝える。
2、ほぼ同じ時期に、仙台でボランティア活動をしていた真実が架のコメントを読み、いったんの返信をするが具体的な再会時期は保留する。
3、さらにほぼ同じ時期(真実が架のコメントを読む前日)に、ボランティアの高橋青年が真実をデートに誘う。
4、七月。宮城県東松島市にある JR仙石線の無人駅「陸前大塚駅」(実在)で真実と架が再会する。

≪映画版の時間の流れ≫
1、真実の失踪に関して架がひとつの「結論」に達し、真実のスマホにメールを送るが、真実は返信せず九州の七山市におもむく。
2、七山で暮らしてからも真実はインスタグラムの投稿を続けており、架も投稿をチェックしている。
3、真実が七山で暮らして2年後。真実が地元の地域振興課に「地元産クラフトビール」の開発を提言し、提携先として架の会社を紹介する。
4、ほぼ同じ時期に、ボランティアの高橋青年が真実をデートに誘う。
5、架が企画会議のために七山におもむき、その風景を見て真実が七山にいることに気づく。
6、七山の飲み屋「FUNNY NANAYAMA 」の店先で真実と架が再会する。


 このような感じになります。映画版は6、の後にもう一つの山場があってエンディングとなるのですが、そのロケーションは原作小説をかなり意識したものとなっていましたね。

 上の2バージョンを見比べてまず目立つのは、映画版の架の方が、あのエンディングを迎えるにしては行動が異様に受け身すぎるというか、2年間も何をやってたんだと不思議に思えるほど優柔不断な男に見えるという点ではないでしょうか。
 だって、どのくらいの頻度かは語られなかったのですが、連絡は途絶えているとはいえ、真実はインスタ更新してるんでしょ? しかも、どこに住んでるのかは語らないにしても風力発電の巨大タービンとか、みかんの木とかのヒントは写ってたわけだし……それをチェックしてるんだったら、普通は住所を特定して押しかけるくらいのこと、本気で結婚したいんだったらするんじゃないかな。まぁ、それに対して真実がどう反応するのかは別の話なわけですが。
 2年間ですよ、2年間。お互いピッチピチの20代前半でもなし、いつまでも若いわけでもないその時期に急がないということは、ほんとに架に原作小説のような真実への想いがあるのか?と疑ってしまうところがあります。それで結局、映画版はなんだか真実が「しょうがねぇから最後のチャンスを……」みたいにクラフトビール企画という救いの手を伸ばした感じになっちゃってるんですよね。

 確かに、原作小説のほうのクライマックスで真実は架に対して「この人は、とても鈍感なのだ。」という感慨を抱くのですが、映画版の架は、原作小説とは全く違う意味で鈍感としか言いようのない人物になっていると思います。それは……鈍感というか、「自分がない」のでは?

 あと、この現代に真実がインスタを続けているというのは、どう考えても話が「真実と架」だけに収まるには無理があるような気がします。映画に登場した人物の中でも、美奈子とか真実の母親とか小野里とか、架と同じかそれ以上の関心で真実の所在を追求しようとする可能性のある人物はいるような気がします。この状況で2年間、なにも起こらないはずがないでしょ……
 私はここらへんに、映画版の土壇場にきての整合性のなさを感じてしまうのです。な~んかリアリティがないし、架もカッコ悪い。映画オリジナルのこの「空白の2年間」が、原作小説の「濃厚過ぎる約半年間」とは全く比較にならないほど希薄なものになっているのですから。

 ついでに申しますと、架が真実のインスタ投稿にあった風力タービンの写真から七山に真実がいることに気づくという描写があるのですが、これも、田舎住まいの私からするとおかしいと言わざるを得ないというか……だって、あんな真っ白くてバカでかいタービン、海岸沿いの場所だったら日本海でも太平洋でも、日本全国どこにでもあるでしょ!? なんでそれが決め手になんの!? もっとみかん畑のある角度から見た風景とか、個性豊かなきっかけは別にあっただろう。
 何の特徴もない風力タービンを見ただけでそれをどこだと判断するなんて、人種も性別もわからないのに髪の毛が黒いだけでディーン・フジオカだと判断するようなものだと思うんだけどなぁ。

 余談ですが、私、先ほども申した通りに車で山形~山梨を往復したのですが、夜の9~10時ごろに新潟県の村上市で出くわした風力タービンの巨大な影が、めっっっっちゃ怖かったです……中央ハブのライトだけが灯台みたいに煌々と照らされていて、近づくと巨大なタワー部分が次第にぼーっと見えてくるという。周囲には歩行者はおろか車すらないし! デイヴィッド=リンチの世界みたいな雰囲気で最高でした。

 おそらく、映画『ゴー善』の一連の改変は、「みかんの木」の成長速度を考えて、真実と高橋が植えた苗木が育って花を咲かせるまで約2年かかるといったところから逆算してそういったタイムスケジュールになったのではないでしょうか。当然、小説と違って「絵」を大切にする映画なのですから、そういう判断があっても良いかとは思うのですが、問題は、その「2年間」という設定に、原作小説の「トータルでも約半年」の4倍も延びちゃってることに対する説得力充分なフォローが無かったということなのです。

 その結果、『ゴー善』の架は、真実を必死に探し出すこともせずに2年間も暮らし、それなのに真実からの助け舟をもらって再会できたかと思ったら、この期に及んで「結婚したいよう!」などと言い出す行きあたりばったりな男になってしまったのです。そして、それに対する真実の返答を受けての反応も、映画をご覧の通り、非常に受け身で消極的なものになっているのですから仕方がありません。原作小説『傲慢と善良』のクライマックスで、鈍感ながらも、というか鈍感であるがゆえの「凛々しさ」を見せてくれた架とは全くの別人と言わざるを得ないのではないでしょうか。
 映画『ゴー善』のクライマックスで、真実は原作小説と同じように、架が「70点(実際には70% )」と言ったことにこだわる問いかけをするのですが、『ゴー善』の真実がキレるべきなのは、もはやそんなことではないような気がしますよね……

 ともかく、映画『ゴー善』の後半部分は、原作小説『傲慢と善良』の架が見せてくれた一連の成長を、まるでナシにしてしまう改悪につながった部分が大きいと思います。第一、原作で真実が仙台に行ったのも、群馬での見合い相手の金居がそもそものきっかけであるという丁寧な伏線があったし、金居の発言から、災害復興支援ボランティアの現代日本におけるある種の精神的緩衝地帯、駆け込み寺という側面もきっちり描いている原作のほうが数段ディティールが細かくて面白かったと思うのですが……

 とまぁ、映画版の後半の展開について、私も見た直後は「どうして変えたのか理由がわからん!」とプリプリしながら映画館をあとにしたのですが、つらつら考えまするに、『ゴー善』は原作『傲慢と善良』におけるクライマックスの展開における「真実の受け身」感に多少の不満があったがために、逆に真実に言いたいことを言わせて架にアタックさせる選択肢を採ったのではないでしょうか。
 すなはち、『傲慢と善良』のクライマックスにおける架の、「傲慢 / 善良」の壁を突破する勢いを持った凛々しさあふれる言動には、解決しない現代日本にはびこる問題をあらわにした重い小説にさわやかな一陣の風のような奇跡的なハッピーエンドをもたらす効果がありました。それまでの架では言えなかった、できなかったことを表明する、新しい架への変身が高らかに宣言されていたのです。
 ところが、その反面で架の変身は果たして本当にその後も続いていくものなのか、単に真実との結婚という事案に関して意固地になって瞬間的な感情で言い出しただけなのではないか?という非常に意地悪な見方もできるわけで、フィクション小説ならではのきれいごとと取れなくもない甘い香りに満ちたエンディングになっているのです。当然、辻村先生もそのことを承知の上で、『傲慢と善良』の2人が選んだ未来が決してバラ色ではないということも言い置いているわけですが、そこには先生らしく「三波神社」のご加護も添えてくれています。

 おそらく『ゴー善』の選択したエンディングは、なんだかんだいって最終的には「白馬に乗った王子様」という非現実的なヒーローに変身してしまった架に救われるだけの受け身なヒロインになってしまった『傲慢と善良』の真実への反論として、最後の最後までなんの変身も見せず情けない存在のままで七山を去ろうとする架を強引に救い上げる「軽トラに乗った王女様」として、ヒロインはヒロインでもプリキュアのような行動力・主体性のある人間に変身した真実を描きたかったのではないでしょうか。だからこその『ゴー善』における脚本の改変と、演技力抜群の奈緒さんの真実役起用だったと思うのです。名前はキュアキャリイ(スズキ)でしょうか、それともキュアスクラム(マツダ)かな。

 なんとも明るい未来の見えない鬱然とした日本社会の影の側面を照射する続く展開の末にひらけるのは、決然たるヒーローとなった架がみちびく『傲慢と善良』の結末か、「70点ってなんじゃー!」と荒ぶるヒロインとなった真実がみちびく『ゴー善』の結末か。あなたは果たして、どちらのエンディングを選ぶでしょうか。

 要するに、「人間なんてそんなに簡単に変身できるものだろうか」とややシニカルに解釈し直したのが『ゴー善』の架像だったと思うのです。それもそれで一つの考え方かとは思うのですが、ちょっと『傲慢と善良』の架とは別人すぎるような気もしますよね。演じた藤ヶ谷さんがちと不憫……

 あとこれも言っておきたいのですが、辻村ワールドならではの共有世界システムで『傲慢と善良』以外の作品にも登場している「谷川ヨシノ」という重要人物が、『ゴー善』では名前こそ同じものの全く別人になっていたのは、やはりちと残念でした。
 いや、近所のみかん畑に顔を出しただけで真実に「なんで来たんですか!?」ってビックリされるって、どんだけ行動力が低いんですか……谷川ヨシノさんとは天と地ほど、サラブレッドとなめくじほどの差のあるお人になっていましたね。


 ま、そんなこんなでいろいろくだくだと申しましたが、今回の映画版『ゴー善』は、出演俳優の皆さんの演技こそ素晴らしかったものの(特に前田美波里さんが頭3つくらいズ抜けて最高でした)、やはり後半のオリジナル展開に首を傾げざるを得ない点があったことが引っかかってしまいました。原作小説に真っ向から別案を提示するのならば、作者の了解は当たり前のこととしても、原作に対抗しうる頑丈な別構造を持ったプランを練り上げてほしいですよね。キューブリック監督の『シャイニング』ほどとは申しませんから……

 あ、でも! チョイ役ながらもかなり重要な役に、あの映画『太陽の坐る場所』にも出演していた森カンナさんが出ていたのは良かったねぇ! 映像版の辻村ワールドの常連になるつもりなんですか、カンナさーん!? いい覚悟の決まり方ですね。


 いや~でも、「70点」って、そんなにぐじゃらぐじゃら言うほど問題のある点数なんですかね……と、人生のあらゆる局面において赤点を叩きだし続けておるわたくしが申しております。いいじゃん、70点! もちろん、人を評価する時に出すべき点数ではありませんけどね。
 70点、別にいいですよねぇ。『信長の野望』シリーズの武将でいったら「黒田長政」とか「細川忠興」、「秋山信友」とか「佐々成政」くらいのクラスでしょ。全然いいじゃん! 役に立ちまくりですよ。「藤堂高虎」もいいですよね、裏切りが怖いけど。

 私が大好きな足利義昭公なんか、最近の統率力はだいたい「20~30点」よ!? 生きてるだけでいいの!! それどころか、全体的な能力値が驚異の「ひとケタ~10点台」の今川氏真でだって、天下統一はできるんだぜ!!

 70点でうだうだ言ってる場合じゃないよ! 加点してけ加点してけ~!!

 そもそも論、ワケのわかんない心理テスト、滅ぶべし!! あんなん、根拠もなにも……なんだっけ、アレ、ホラ、エビとかカニみたいな、なんか今ふうの言い方の……アレがないんだからぁっっ。
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日本映画界の至宝たちが贈る!!「出てくる男みんなアホ」物語 ~映画『箱男』~

2024年09月20日 23時47分53秒 | ふつうじゃない映画
 どどどど~もこんばんは! そうだいでございます。
 いや~、今週末は山形も雨がひどくなるみたいで! 来週まで引っ張らないといいんですけどねぇ。やっぱり、最近の雨はいったん降り出すと時間自体はそう長くはないのですが降雨量がものすごいですよね。怖いんだよなぁ、アンダーパスとかあっという間に水浸しになっちゃいますから。

 今年もねぇ、秋は忙しくなるんですよ! それはもう、仕事もエンタメも。
 仕事はもう、毎年恒例の忙しさなので今さらなんでもないのですが、自分なりの楽しみという点では、去年の初夏に初チャレンジして満喫した山形~山梨片道500km の往復自動車旅を、来月初めにまたやる予定です。去年は山梨県の長野寄りにある北杜市内の名所をめぐって増富ラジウム温泉というそうとうな秘湯を堪能してきたのですが、今年はもうちょっと範囲を広げて秋の観光を楽しみたいと企てております。泊まる温泉も、たぶん去年に劣らない秘湯になるはずよ! まぁともかく、今回もくれぐれも事故らないように充分な休息を忘れず行って参る所存であります。
 その他の楽しみといえば映画と TVドラマなのですが、ついに来週27日から辻村深月先生原作の映画『傲慢と善良』(監督・萩原健太郎)が公開されますし、29日にはスペシャルドラマ『黒蜥蜴』( BS-TBS)が放送され、来月10月11日には映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』(監督・トッド=フィリップス)が、25日には映画『八犬伝』(監督・曽利文彦)が公開されるといった活況となっております。来月4日から公開される映画『ゲゲゲの謎 真正版』も、余裕があったら!

 そいでま、こういった秋のエンタメラッシュのトップバッターといたしまして、今日は東京公開から遅れること1ヶ月、ついに山形市でも公開される運びとなった、この作品を観た感想をつづりたいと思います! 楽しみにしてたのよぉ~、これ。


映画『箱男 The Box Man』(2024年8月23日公開 120分 コギトワークス)
 『箱男 The Box Man』は、小説家・安部公房(1924~93年)の長編小説『箱男』を原作とする映画作品。
 小説『箱男』は、「人間が自己の存在証明を放棄した先にあるものとは何か」をテーマとし、その幻惑的な手法と難解な内容のため映像化は困難と言われており、海外の映画界も映画化をこころみたが安部の許可が下りず、企画が持ち上がっては立ち消えの繰り返しとなっていた。
 最終的に1992年、安部から映画化を許可されたのは、1976年に8mm 映画『高校大パニック』でデビューし日本のインディペンデント映画界で活躍していた石井聰互(現・岳龍)だった。安部の没後、1997年に日本ドイツ合作映画としての製作が決定し、石井はドイツ北部の都市ハンブルクに安部医院の巨大セットを組んで撮影に臨んだ。しかしクランクインの前日に、日本側の撮影資金に問題が生じて撮影は突如頓挫し、撮影スタッフと永瀬正敏や佐藤浩市ら出演予定だった俳優たちは失意のまま帰国することとなり、1997年の映画化は幻の企画となった。
 それから27年の歳月が経ち、安部公房生誕100周年にあたる2024年。映画化を諦めずに2010年代から脚本家いながききよたかと共に脚本の制作に取り掛かっていた石井監督は、改めて『箱男』の映画化を実現させた。主演は1997年版と同じく永瀬となり、同じく97年版に出演する予定だった佐藤浩市も再参加し、その他に浅野忠信や、200名近いオーディションから抜擢された白本彩奈が参加した。
 本作は、2024年2月に開催された第74回ベルリン国際映画祭にてプレミア上映された。

あらすじ
 「箱男」のわたし自身が、箱の中で記録を書き始めることを表明する。
 運河をまたぐ県道の橋の下でわたしは、「箱を5万円で売ってほしい」と言った「彼女」を待ちながらノートをボールペンで書いている。万一わたしが殺されることがあった場合の安全装置のためである。一旦インク切れで中断し鉛筆で書き始めるが、字体は変わらない。わたしは「あいつ」と呼ぶ中年男に殺されるかもしれないと考え、ノートの表紙裏には、あいつが空気銃を小脇に隠しながら逃げて行った時の証拠のネガフィルムを貼りつけてある。
 1週間か10日ほど前、わたしは肩を空気銃で撃たれ、逃げる中年男の後ろ姿をフィルムに収めた。わたしは箱男になる前はカメラマンだったが、撮影の仕事を続けている内にずるずると箱男になってしまったのである。
 中年男が逃げていったその直後、傷口を押さえていたわたしの箱の覗き穴に、「坂の上に病院があるわ」と3千円が投げ込まれた。立ち去ったのは自転車に乗った足の美しい若い娘だった。その晩わたしが病院に行くと、ニセ医者(空気銃の男)と看護婦の葉子(自転車の娘)が待ち受けていた。看護婦に手当てをされながら麻酔薬を打たれ、いつの間にかわたしは箱を5万円で売る約束をしていた。看護婦は元モデルだという。
 自転車で来た彼女が、橋の上で1通の手紙と5万円を渡した。なぜ5万円も支払われるのかとわたしは訝り、箱を欲しがっているニセ医者がやってくるものと思っていたわたしはその真意が解せず、あれこれと考えを巡らす。
 夜中、わたしは病院へ向かった。病院の裏にまわって彼女の部屋の窓から話をしようと考えるが、部屋を鏡で反射させて覗くと、わたしとそっくりなニセ箱男の前で彼女は全裸になっていた。わたしはニセ箱男の出現を契機に、箱を捨てることを考え始めるが……

おもなスタッフ
監督 …… 石井 岳龍(67歳)
脚本 …… いながき きよたか(47歳)、石井岳龍
美術 …… 林田 裕至(63歳)
編集 …… 長瀬 万里(33歳)
音楽 …… 勝本 道哲(?歳)
特殊造形・特殊メイク …… 百武 朋(52歳)
エンディング曲『交響曲第五番 第四楽章』(作曲グスタフ=マーラー)


おもな登場人物とキャスティング(設定情報は原作小説に準拠)
わたし …… 永瀬 正敏(58歳)
 原作小説における表記は「ぼく」。
 箱男。元カメラマン。ダンボール箱をかぶって港に近いT市を放浪し、箱の中で記録をつけている。醤油工場の塀の近くで突然空気銃で肩を撃たれ怪我をする。戸籍の上では29歳だが本当は32、3歳らしい。3年間「箱男」を続けている。少年時代、わざわざ暗いところで活字の小さい本や雑誌を読み、自らすすんで近視眼になる。ストリップ小屋に通いつめて写真家に弟子入りし、カメラマンの仕事をしている内に「箱男」となった。

戸山 葉子  …… 白本 彩奈(22歳)
 看護婦見習い。貧しい画学生だが、個人経営の画塾やアマチュア画家クラブの連中を相手に絵画モデルをして生計を立てていた。2年前に中絶手術を受けるためにニセ医者の病院を訪れ、そのまま居ついた。その代わりにニセ医者と内縁関係にあった奈々は出ていった。

ニセ医者 …… 浅野 忠信(50歳)
 ニセの箱男。T市で病院を開業している中年男。昭和元(1927)年3月7日生まれ(誕生日の日付は原作者の安部公房の誕生日と同じだが昭和元年に3月7日という日付は存在しない)。独身。本来は医師見習いの看護師。太平洋戦争中は軍で衛生兵をしていた。昨年まで、医療行為のために名義を借用した軍医の正妻・奈々を看護婦として雇いながら同居し、内縁関係にあった。

軍医 …… 佐藤 浩市(63歳)
 太平洋戦争中に重病に倒れ、激しい筋肉痛を抑えるために麻薬を常用して中毒になっている。自分の名義をニセ医者に貸して病院を開設させ、自分の妻・奈々も内縁の妻にさせていた。常に目ヤニを硼酸水の脱脂綿で拭っている。映画版での苗字は「安部」。

ワッペン乞食 …… 渋川 清彦(50歳)
 箱男を目の敵にする老人の浮浪者。全身にウロコのようにワッペンやおもちゃの勲章をつけ、帽子にはケーキを飾るロウソクのようにぐるりと日の丸の小旗を立てている。投石と旗棹を武器として箱男を攻撃する。

刑事    …… 中村 優子(49歳)
刑事の上司 …… 川瀬 陽太(54歳)


原作小説『箱男』とは
 『箱男(はこおとこ)』は、小説家・安部公房が1973年3月に発表した書き下ろし長編小説。ダンボール箱を頭から腰まですっぽりとかぶり、覗き窓から外の世界を見つめて都市を彷徨う「箱男」の記録の物語。箱男の書いた手記を軸に、他の人物が書いたらしい文章、突然挿入される寓話、新聞記事や詩、冒頭のネガフィルムの1コマ、写真8枚(撮影・安部公房)など、様々な時空間の断章から成る実験的な構成となっている。都市における匿名性や不在証明、見る・見られるという自他関係の認識、人間の帰属についての追求を試みると同時に、人間がものを書くということ自体への問い、従来の物語世界や小説構造への異化を試みたアンチ小説(反小説)の発展となっている。

 『箱男』は、『燃えつきた地図』(1967年9月発表)の次に書かれた長編小説であるが、安部公房はその構想を「逃げ出してしまった者の世界、失踪者の世界、ここに住んでいるという場所をもたなくなった者の世界を描こうとしています。」と語り、それから約5年半、書き直すたびに振り出しに戻っては手間がかかり、原稿用紙300枚の完成作に対して、書きつぶした量は3千枚を越えたという。「箱男」の発想のきっかけとしては、浮浪者の取り締まり現場に立ち会った際、上半身にダンボール箱をかぶった浮浪者に遭遇してショックを受け、小説のイマジネーションが膨らんだと語っている。
 作中に登場する「ニセ医者」の発想については、戦争中の医者不足の時代に医者としての心得や技術をかなり持っていた「衛生兵」がいたことに触れ、自分のように医学部を卒業している者より、そういった経験を積んだニセ医者の方が実質的技量が上だったとし、現在では国家登録か否かで本物か贋物かを判断し、一般的にはニセ医者をこの世の悪かのように決めつけられるが、本物の医師の間でも大変な技術差があり、素人と変わらないいい加減な医師も多く、そういう免状だけの医師の方が危険で怖いと語りつつ、ある意味で一切のものが登録されていないダンボールをかぶった乞食である「箱男」と「ニセ箱男」の関係について、「とにかく本物と贋物ということが、実際の内容であるよりも登録で決まる。そういうことから、全然登録を拒否した時点で、何でもないということは乞食になるわけです。これが乞食でない限りは全部贋物になる。その贋物がいっぱい登場してくる、贋物と箱男の関係で、とにかくイマジネーションとしては膨らんでいったわけです。」と説明している。

 マンガ家の手塚治虫が、長編青年マンガ『ばるぼら』(1973年7月~74年5月 小学館『ビッグコミック』連載)の第2話『女と犬』において、主人公の耽美小説家・美倉洋介と登場人物との会話で『箱男』に言及している。その中で美倉は、「不条理のパロディー」、「人間には誰でも狂った反面がある……それが文明社会に飼いならされてモラルとか法律にしばられる。(中略)だが芸術家はそれが我慢ならんのですよ。(原文ママ)」と語っている。


 ……というわけでございまして、なんと四半世紀ぶりの完全映画化となった『箱男』を観た感想記でございます。やっと観れたよ~!

 まず、何と言っても私が大好きな女優の白本彩奈さんが、なんとまぁ永瀬正敏と浅野忠信と佐藤浩市という、現在の日本映画界におけるゴジラとラドンとキングギドラみたいな3大名優を相手に単身でヒロインに挑むという、キャスティング上のものすんごい話題も魅力的ですよね。モスラ~や!!
 しかも、その彩奈さまがなんと本作では初の……キャ~!!ということで、私の期待値はいやがおうにも上がってしまいました。東京公開からの約1ヶ月の長いこと長いこと!
 そういえば、おそらくこの『箱男』公開と歩調を合わせる形で、白本さんはつい最近に放送された TVドラマ『 GO HOME 警視庁身元不明人相談室』の第6話(2024年8月24日放送 日本テレビ)にもゲスト出演していたんですよね。これもいちおう観たんだけど、今度、我が『長岡京エイリアン』で必ずやる予定の『黒蜥蜴2024』の感想の時にでも一緒に触れましょうかね。立場上(行旅死亡人……)そんなに活躍はしないものの、ミステリアスで重要な役割でしたね~。

 そこらへんの話題はまず置いときまして、そもそも原作の小説『箱男』に関して思い起こしますと、私は本当にこの作品が大好きでして、中学時代には安部公房作品の中でも最初くらいの勢いで読んで、そこに横溢する謎と空想の世界に手もなくイチコロになってしまいました。
 反小説としての内容のシュールさに関しては言うまでもないのですが、この『箱男』って、かなりエロい小説だな~というインパクトが、当時うら若き小中学生だった私にはまずズンッときまして、余談ですがその頃の思春期そうだいに人生レベルのエロ衝撃を与えた三大小説といたしましては、この安部公房の『箱男』と小松左京の『日本沈没』と野坂昭如の『てろてろ』が挙げられます。三作中二作が変態系という、この呪われた出逢い……

 ただここではっきり申し上げておきたいのは、私が原作小説『箱男』を読んで脳みそをショートさせてしまったエロ部分というのは、実は今回の映画化で白本さんが演じていた葉子があれこれされたりしたりするパートではなく、まるまる映像化されなかった「Dの場合」という章段での、少年D と体操の女教師とのやり取りだったのでした。この2人、別に肉体的にどうこうということはしないのですが、女教師のトイレを覗こうとしたD が未然に見つかってしまい、逆にD の全裸姿を女教師が覗く罰を受けてしまうという挿話がものすんごくエロかったんですよね! これたぶん、少年D と当時の私がほぼ同年代だったから余計にいやらしく感じてしまったと思うのですが、この「覗く・覗かれる」という関係に生じるエロさを端的に表したこの章は、『箱男』の物語の中で相当に重要なファクターだと思うんですけどね。ただ……映像化すると箱男と葉子の本筋を侵食しかねないインパクトがあるので、カットして正解だったかもしれませんが。

 とにもかくにも、この『箱男』という物語を、今回の映画版だけ観て原作小説を読まないのはかなりの大損だと思いますよ! 大して長い小説でもないので、是非とも新潮文庫から出ている原作も読まれることをお薦めいたします。他の安部公房作品の『砂の女』や『壁』とかよりも、よっぽど読みやすいと思います。

 さて、それで今回の映画版なのですが、まず四半世紀を超えて執念の完成を果たした石井岳龍監督に関して言いますと、私が石井監督の作品を観たのは『ユメノ銀河』(1997年)と『五条霊戦記』(2000年)に続いて3作目で、映画館で観るのは初めてとなります。
 こんなていたらくなので、はっきり申して石井監督に関してはほぼ知らないと言って差し支えない不勉強ぶりなのですが、昔から伝説の監督という印象で名前だけは知っていたんですよね。
 もちろん、1997年の日独合作版の『箱男』が、なんだかわかんないけど直前で制作中止になったというニュースも、当時聞いたことはありました。確か、たぶん今回のバージョンで白本さんが演じた葉子の役を、当時、思春期の私にとっては「出てくればなんかエロイことになる」というイメージで有名だった女優の夏生ゆうなさんが演じる予定だったという情報もあって内心ワクワクしていたのですが、それが2024年になってリベンジされるとはねぇ。長生きしてみるもんだねい。

 それで、今回この『箱男』を観た肝心カナメの感想はと言いますと……


ロマンというにはアホらしすぎて……出てくる名優たち、みんなアホ映画!!


 ということになるでしょうか。
 いや~、これ……『天才バカボン』的映画ですよね? 笑っちゃうしかないキャラ設定と展開しかないよ……あの日本映画界の至宝たちが真面目に演じれば演じるほど、アホらしい!! すっごく贅沢な長編コント作品だこれ!
 かつて、生前の安部公房は石井監督に本作を「娯楽にしてくれ。」とだけ注文をつけたそうですが、石井監督は、その言を忠実に守ったのだ!! 映画流にひねったラストも含めて、これはみ~んなツッコミ待ち系お笑い映画なのですよ!

 原作小説の『箱男』は、まさしくこれ「実験小説」といったていで、主人公が箱男であるらしいことはわかるのですが、章段や挿話ごとに語り手や語り方もコロコロ変わりますし、意図的に登場人物たちの固有名詞である名前が使われないので( ABCD表記とか「彼女」とか)、一体その話をしている主体が誰なのか、いつの話をしているのかが曖昧模糊としてくる幻惑的な物語になっています。もちろん、それにしたって安部公房の世界は直接的に読者の五感に訴えかけてくる生々しい微細な描写が特徴的なので、物語への興味が薄れてしまうことはありません。お話の全体像はよくわからないものの、とりあえず目の前にある細部だけははっきりしているという近視眼的な世界は、まさしく安部公房ワールドの身上ですよね! 特に本作の場合は、箱男がいかにして、ごく普通の段ボール箱をカスタマイズして箱男の「肉体と内臓」にしていくのかを偏執的に解説する導入部の語り口が秀逸です。ほんとに箱男の箱を作ってみたくなっちゃう! 読んでいるだけなのに、箱男の汗まみれの肌と体臭がにおってくるような、絶妙にイヤな感覚に陥ってしまいますね。

 要するに、安部公房の迷宮的な世界は、確かに実験的ではあるのですが、その描写において実に映像的で理性的なカメラワークが機能しているので、決して「読みにくくはない」のです。そこが、現代でも彼の諸作がけっこう読み継がれているゆえんなのではないでしょうか。そして、とりわけこの小説『箱男』について言うと、文章の中にスライドショー的に挿入される安部公房自身が撮影した「街のスナップ写真」も、かの松本人志の創始した「写真で一言」に一脈通じるような、1990年代以降の「視覚イメージと言語のたはむれ」を先取りしている面白さに満ちています。内容的には小説にほとんどリンクしていないような写真ばかりなのですが、そのピンぼけ感が小説のシュールで幻想的な空気を100% 象徴しているんですよね。この戦場カメラ、もしくは盗撮カメラのような粗さがヤバいぞ!みたいな。この写真の一部は、映画版の冒頭でも使用されていますね。

 ここで小説版の魅力を語っているとキリがなくなってしまうのでここまでにしておきますが、今回の映画化で私が強く感じたのは、「小説」と「映画」との、あまりにも大きな「表現ジャンル」としての違いでした。本作は、一人の作者がつづる小説と、無数の人々が集まって作り上げる映画の違いがこれでもかというほどにはっきりした顕著な例になったと思います。でも、これは安部公房と石井岳龍というかなり個性的な才能が並び立ったからわかったことなのであって、どちらかがどちらかに呑まれる程度の能力しか持っていなかったら、成り立たない拮抗現象だったと思います。やっぱ、今回の映画化は幸せなことだったんですよ!

 具体的に見ていきますと、今回の映画版における100% オリジナルな要素は、物語の舞台が21世紀現代になっていることと、それにともない佐藤浩市が演じる軍医が旧日本陸軍でなく自衛隊の退役者で、海外に派遣されたときにハマったサボテン由来の麻薬成分の中毒者になっているというアレンジくらいだと思います。それ以外に関しては、ラストの箱男の導き出した実に映画的な「結論」を除いて、全体的にほぼ、原作小説の内容に即した流れやセリフを忠実になぞっています。

 それでも! 原作小説と映画版とでは、それぞれの印象がかなり違ったものになっているのです。
 それはすなはち、物語における主人公・箱男の占めるパーセンテージと言いますか、主観の割合の違いが原因だと思うんですよね。

 つまり、原作小説の主観視点は、コロコロ変わっているにしても三人称描写になるにしても、どうしても「一点から見た物語」であることに違いはありません。さらには安部公房一流の「感覚(特に嗅覚?)に訴えかける詳細な描写」が加わってくるので、つまるところ、「撮影者」がめまぐるしく交代していても、読者に提供されるカメラの性能はずっと変わらない安定感があるわけです。そこには、混迷を極める現代都市の中を段ボールひとつで生き抜く箱男のハードボイルド「でありたい」哲学に代表される、多分に格好の良い安部公房の語り口が通底しています。誰がその章段を語っているのだとしても、共通の匂いがあるんですよね。

 ところが! 映画版はいくら個性的な永瀬さんが強烈に箱男を演じたのだとしても、それ以外の肉体を有した共演者は厳然としてちゃんと実在しているのです。しかも、今回の場合は佐藤浩市やら浅野忠信やらという、黙っててもハンパない存在感がビンビンに伝わってくる当代一の名優ぞろい!! そして、そこにはさらに白本彩奈さまという、別ベクトルで強烈な「他者」までもが……
 映画版は、それが複数の俳優たちによって実現する「視点の乱立した世界」であることをはっきりと、冷酷に明示します。つまり、いくら永瀬さんが、その魅力的な低音ボイスで箱男の孤高性を謳い上げたのだとしても、はたから見たらうす汚れた段ボールの中に引きこもって、たま~に下から足をニョキッとはやして、かなりぶざまにバタバタバタ……と街中を駆けずり回り、空き地で同じく頭のおかしなワッペン小僧と「宿命の対決ごっこ」を繰り広げる「ちょっとアレな名物おじさん」としか思われていないという厳然たる事実が、客観的に提示されてしまうのです。箱男が空気銃のスナイパーを恐れていくら必死に疾走しようが、それが街の人々にカッコよく見えることは金輪際ない、この哀しさ……冒頭で、箱男と目が合った瞬間に、知らないふりをして去ってしまうかわいい娘さんがいましたが、世間の大半の人は箱男のカモフラージュ術にだまされて箱男を認識できていないのではなく、いるのは百も承知で関わるのがめんどくさいのでスルーしているのです。

 映画版は、箱男の役に「独特の孤高性を持っている人物」としてこれ以上ない存在感をはなつ永瀬さんを起用していながらも、それを取り囲むカメラワークやキャスティングに、かなり辛辣な「なにやってんだ、こいつ……」な醒めた視点を配置していると言えます。

 まず、ニセ箱男を演じる浅野忠信さんからして、永瀬さんと親和性が高いようでいて、実はその属性が炎と氷ほどに違う両極端な関係にあると思います。それはもう、石井監督の本作における浅野さんの使い方からして明白なのですが、浅野さんが饒舌になればなるほど彼の一般的によく知られたダンディズムはガラガラと崩壊し、その異様に重力の無い軽快なトークには、周囲の全ての人々をへへへっと小バカにしたような「かわいい悪意」がむき出しになってくるのです。つまり、浅野さん演じるニセ箱男が「ぼくも箱男になりたいんだよぉ~。」と言えば言うほど永瀬さんの箱男はイラっときますし、医院を経営して社会人として成り立っている男が、ホームレスそのものの箱男を「見下している」という余裕しゃくしゃくな態度がありありと露わになってくるのです。

 ここでちょっと重要なのは、浅野さん演じる医院の実質的運営者が医師免許を持っておらず、院長である佐藤浩市の軍医殿の名義を「借りている」人物であるという点で、この「限りなく本物に近い偽物」というアイデンティティが原作小説ではかなりクローズアップされているのですが、映画版ではこの辺りはあまり強調されません。先に言及されていたような「元衛生兵」氾濫の時代ではもはやないから強調しなかったと言えばそこまでなのですが、軍医殿の正妻「奈々」をニセ箱男が寝取って内縁の妻にしているという設定が、白本さんの葉子に吸収合併されて消えてしまっているのも大きいような気がします。
 ただ、この省略によって、映画版における浅野さんのニセ箱男が本物の箱男をつけ狙う理由が、ニセ箱男本来のヤドカリのように他者の属性を奪う「本物でない存在」にあるのではなく、単に上司である軍医殿が箱男に興味があるからそれにつられて取り憑かれていったという、やや自律性の無い感じになっているのは、ちと残念な感じがします。なるほど~、だからニセ箱男が完全な箱男になるあたりの説得力が物足りなかったのか。

 余談ですが、このニセ箱男の「正妻を寝取るイケメン間男」という立場は、奇しくも1970年代のある超有名なミステリ映画において、他ならぬ佐藤浩市っつぁんのお父様・三国連太郎が演じた役柄の立場でもありました。親の因果が子に報いってやつぅ!?

 そしてそして、私がさらに声を大にして言いたいのは、この映画版において永瀬さんの箱男をさらにアホらしい現実的で弱々しい存在に「堕天」せしめている存在として、浅野さん以上に大きな役割を担っているのが、誰あろう白本彩奈さまであるということなのです! ギャー彩奈サマ~!! 「卑弥呼さま~」みたいなニュアンスで彩奈サマ~!!

 本作の制作にあたり、石井監督は200名近いオーディションの中からヒロインに白本さんを抜擢したというのですが、私が観るに、白本さんを選んだ最大の理由は、彼女が有するたぐいまれなる美貌でもスタイルでも演技力でもなく、その天上天下唯一無二なる「まゆげの左右の段差」にあるような気がしてなりません。

 そう、白本さんのまゆげ! よく見ればわかります、白本さんのまゆげって、右眉の眉がしらが、常に左眉よりも「一段高い」のですよ!! 正面から見るとカタカナの「ハ」みたいな感じになっているのです。所ジョージさんではないですが、こういうふうに片眉が上がる表情って、目の前の物事を一歩引いた目線から分析しているような印象になりますよね。常に一定の距離を置いて世界を見ているわけです。

 くを~!! 石井監督もお目が高い!! 白本さんはもともとクールな美貌の持ち主でもあるわけですが、この神のみわざとしか言いようのないまゆげの段差によって、常に世の中の万物の本質を「ふ~ん、そうなんだ。」と見透かしているかのような「冷徹さ」をたたえているのです!! 全ての美学・哲学を粉砕する白本さんのまゆげの、メデューサの石化能力の如き「なにそれ、アホらし。」化能力!! これには、さすがの永瀬さんもかたなしってわけよぉ!!

 映画版での箱男 VS ニセ箱男の医院地下での大乱戦において、永瀬さんは浅野さんに対して「葉ちゃんって呼ぶんじゃねぇ!!」みたいな絶叫をしていて、それは撮影現場で生まれたアドリブだったそうなのですが、これはもう永瀬さんにジェラシーを生ませる言葉を浅野さんに言わせた白本さんの功績だと思います。というか、原作小説での戸山葉子は、全体的にあっちにフラフラこっちにフラフラと、その時近くにいる男になんとなくついていくような存在感の薄いキャラでした。ところが、映画版の葉子は白本さんというかなりはっきりした「肉体」を得たことで、永瀬さん、浅野さん、浩市っつぁんという3大怪獣を向こうに回して、「男って、なんでこんなにアホばっかなのかしら……」と冷めた目つきとまゆげで観察しているような「真に孤高な存在」となりえているのです。

 つまり、なんだかんだ言っても箱男を含む「男ども」は何かと言い訳をつけて「対決する相手」を探し、「ゲットしたいかわいこちゃん」を追い求める集団性の生き物であるという真理を白日の下に曝すのが、映画版における白本さん起用の最大の目的だったのではないでしょうか。
 作中、白本さんは確かにヌードもいとわない体当たりの演技で男だらけの作品世界に身を投じますが、彼女が「本心」までをも丸裸にする瞬間は一秒たりともありません。むしろ、自分の美しい肢体を前に確実に幼児退行する男どもを観察して、イジるだけイジって、飽きたら去って行く絶対的頂点捕食者なのです。白本さん、こんな役よくやりおおせましたね……大物や!!


 この映画『箱男』は、安部公房の原作小説を可能な限り忠実に映像化した作品であり、現時点の日本映画界における最高の逸材をそろえて対決させた理想的な精華だと思います。
 しかし同時に、本作はこれが石井岳龍監督のトレードマークなのか、登場人物たち(男どもォ!)の生き方が非常に生々しく子どもっぽく、社会に向けて着飾った衣服をかなぐり捨てて裸同士の泥んこプロレスを繰り広げるような、原作小説には無い熱気とアホらしさをおびた、実にオリジナルな大乱闘アクション映画でもあるのです。そして、そんな愛すべき乱痴気騒ぎの中心に立つのは、美神・彩奈さま!!

 ただまぁ、そう考えちゃうと、本作において一番盛り上がったところって、原作の理屈から離れてかなり自由にやっていた、序盤の箱男 VS ワッペン小僧の子どもの怪獣ごっこみたいな荒唐無稽なアクションシーンだったりもするんですよね……あそこはほんとにアホらしくて最高でした。段ボールを貫通する槍をどうやってつかむんだよ! そしてそのまま槍ごと箱男を持ち上げるワッペン小僧の魂の咆哮!! ここ、私の心の母である、あの名前を言うのさえ畏れ多い伝説のギャグマンガ家さんの世界のかほりをかぎ取った瞬間でした。いいな~、このアホらしさ。

 結局、男子は永久に女子のたなごころの上で、ホウキやちりとりを武器にしてわちゃわちゃたはむれているしか能のない生き物であるのか……

 「男子、ちゃんとしなさい!!」の一喝を心のどこかで待ちわびながら、今日も男どもは都会のジャングルで闘いを繰り広げてゆくのであつた。チャンチャン♪
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やっつけ仕事と侮るなかれ! ヒッチコックみ濃厚なスペクタクル時代劇 ~映画『巌窟の野獣』~

2024年07月28日 21時27分44秒 | ふつうじゃない映画
 え~どうもみなさんこんばんは! そうだいでございまする。
 いよいよ夏本番と申しますか、だらだらと続いていた山形の梅雨も、もうすぐ明けるようでございます。単に慣れただけだからなのかも知れないけど、なんか今年の暑さはそんなでもないような気がする……と、毎日汗まみれの情けない姿で働いている奴が申しております。確かに暑いことは暑いんだけど、熱中症とか命の危険を感じるほどでもないような気がするんですよね。でも、私も年々少しずつ老いていることは明らかなので、自分の肉体に過度な自信を持っちゃあいけませんやね。水分補給は忘れずこまめに!

 さてさて、今回は「ヒッチコック監督作品おさらい企画」の更新でございます。また今回も、後半に羅列した視聴メモがやたらと長くなってしまったので、大雑把な感想はちゃちゃっといきたいと思います。

 いやぁ、この作品、個人的にはとっても面白かったですよ! もともと期待値がかなり低かったから、その反動で上がり幅が大きかっただけなのかもしれませんが、パッケージだけを見て「ヒッチコックの歴史ものぉ?」と食わず嫌いをするのは大損なような気がします。


映画『巌窟の野獣』(1939年5月公開 94分 イギリス)
 『巌窟の野獣(がんくつのやじゅう 原題: Jamaica Inn)』は、アルフレッド=ヒッチコック監督によるイギリスの冒険スリラー映画である。原作はイギリスの小説家ダフニ=デュ・モーリエ(1907~89年)の小説『原野の館』(1936年発表)。本作はヒッチコックが映画化したデュ・モーリエの3作品のうちの1作目である(他は『レベッカ』と『鳥』)。アイルランド出身の国際女優モーリン=オハラにとっては初の映画出演作であった。
 本作は、ヒッチコックがアメリカ合衆国に移住する前に作った最後のイギリス映画となった。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(39歳)
脚本 …… シドニー=ギリアット(31歳)、ジョーン・ハリソン(31歳)、アルマ=レヴィル(39歳)、ジョン・ボイントン=プリーストリー(44歳)
製作 …… エーリッヒ=ポマー(49歳)、チャールズ=ロートン(39歳)
音楽 …… エリック=フェンビー(33歳)
撮影 …… バーナード=ノウルズ(39歳)、ハリー=ストラドリング(37歳)
制作・配給 …… メイフラワー・プロダクションズ

おもなキャスティング
ハンフリー=ペンガラン侯爵 …… チャールズ=ロートン(39歳)
メアリー=イエレン     …… モーリン=オハラ(18歳)
ジェイム=トレハン     …… ロバート=ニュートン(33歳)
ジョシュ=マーリン     …… レスリー=バンクス(48歳)
ペイシェンス=マーリン   …… マリー=ネイ(43歳)
行商のハリー        …… エムリン=ウィリアムズ(33歳)
執事のチャドウィック    …… ホレイス=ホッジス(75歳)
側近のデイヴィス      …… フレデリック=パイパー(36歳)
馬丁のサム         …… ヘイ=ペトリー(43歳)
マーレイ船長        …… ジョージ=カーゾン(40歳)
ジョージ卿         …… ベイジル=ラドフォード(41歳)


 上の解説記事をお読みいただいてもわかる通り、本作はキャリア10年強、監督作品20本を超えていた1930年代時点でのヒッチコック監督史上最高傑作と評してもよいあの『バルカン超特急』の直後に制作され、そしてヒッチコック監督のキャリア全盛期の舞台となるアメリカ・ハリウッドへの進出第1作となる『レベッカ』の1コ前の作品ということで、彼の映画人生における第1章「イギリス立志編」の最後を飾る作品であるはずなのに、なにかと話題にされることの少ない不遇の作品であるような気がします。
 おそらくこれは、主演の名優チャールズ=ロートン自身のプロデュースということで、監督の意見よりもまず主演がいかに輝くかという「座長公演」のような作品になっていることが大きいと思うのですが、実際にこの作品は、自分の利益のために貧しいコーンウォールのならず者たちを影で支配し、そのためならば何の罪もない商船の乗組員を全員皆殺しにすることもいとわないという冷酷非道な地方領主が主人公となっているので、どうしてもスカッとした爽快感……からは程遠い印象の歴史ドラマとなっているのです。悪役が主役なんでねぇ、最後に死んじゃうのは仕方ないとしても、それでバンザーイ!って感じにはならないんですよね。

 それでも、この作品は少なくとも2つのポイントで非常に見ごたえのある傑作になっていることは間違いありません! いやホント、大スクリーンで観たらかなり大迫力のスペクタクルが楽しめたはずですよ。

 とはいえ、この『長岡京エイリアン』の他の記事をつまんでいただいてもおわかりの通り、なにを隠そうわたくしめが歴史好きであるということで、だいぶ加点要素が多くなっているというひが目もあるかも知れないのですが、19世紀前半のイギリスの史劇っていうのも、あんまり見た記憶がないので、そういう意味でも面白かったんですけどね。日本でいったら幕末直前、江戸時代がまさに太平の眠りとも言うべき完熟期を迎えていた頃なわけですが、その時期の先込めフリントロック式拳銃を主武器にすえた冒険映画なんて、けっこう珍しいじゃないですか。いや、本作で実際に発砲されたのはたったの1発だけなわけですが、それもそのはず、当時の銃はかなり扱いづらく、操作が面倒すぎ! ほんと、ヒーロー役のトレハンはあんなの1丁でよく悪党の巣窟に突入できたな……

 ともかく、そんな歴史加点を抜きにしましても、本作は以下の2点がすごいんでございます。


1、海洋(正確には海岸だけど)アクションとしての特撮をまじえた映像演出が大迫力!

 ほんとすごい、ほんとに甘く見てました、ヒッチコック監督の「海アクション愛」!!
 今までは特に列車特撮が監督作品のクライマックスに投入されることが多かったかと思うのですが、そうそう、ヒッチコック監督は「海」や「船」も作中の舞台に選ぶことがあったんですよね! 『ダウンヒル』(1927年)とか『リッチ・アンド・ストレンジ』(1931年)とか。あと、船のミニチュア特撮で言うと『第十七番』(1932年)での力の入れようが尋常じゃなかったし、海岸描写の美しさという点では、冒頭の一瞬ではあるものの『第3逃亡者』(1937年)でのカモメかなんかの羽ばたくスローモーション撮影が印象的でした。
 本作『巌窟の野獣』は、そういったヒッチコック監督の「海好き趣味」の集大成ともいえる全力投球ぶりで、大波の打ち寄せる嵐の岸壁や、積み荷の上げ下ろしでにぎわう夜の港町、そして大型帆船を丸ごと1個とか半分まるごとセットで組んで大迫力のスペクタクル劇を画面に収めています。実際にプールのような場所でザバザバ高い波が襲いかかってくる中を下着姿で泳いだり、雨風がビュービュー吹きすさぶ中で悪党ともみくちゃになりながら灯台の灯りを復活させようとするモーリン=オハラさんの女優根性はすごいぞ! 本来ならば、そういうことをさせるヒッチコック監督のサディスティックな演出志向の方が前に出てヤな感じになるところなはずなのですが、なにせ当時若干18歳のオハラさんが持ち前のダブリン魂を炸裂させて「できらぁあ!!」とバリバリやってのけるので、かわいそう感が全然ないのが最高ですよね。オハラさんの役だけ、なぜか高橋留美子ワールドのかほりを感じる……

 実寸大のスタジオセット撮影の迫力の他にも、ヒッチコック監督はその絶妙な映像センスとバランス感覚で、並みのオーバーラップ合成映像や実景を使ったスクリーンプロセス、そして遠景の帆船にはミニチュア撮影と、当時考えうる特撮技術をフル投入して海岸シーンを作っているので、本当に「ウソをホントに見せる」映画という魔術の教科書みたいな出来になっております。あとは怪獣が出てくれば最高だったのにぃ!!

 後半の、嵐の中で商船の転覆を待ち受ける海岸の強奪団のシーンなんか、なんか観客も強奪団の一味になっちゃったような没入感があって、ついつい「早く難破しやがれ! げっへっへっへ」みたいな気分になっちゃうんですよね。難破船襲撃、ダメ!ゼッタイ!!


2、主演ロートンの看板演技がすごい

 こちらはまぁ、いかにも悪辣な近世貴族ですといった、かなりオーバーな演技でもあるので、鼻について嫌だなという拒否反応が出る人も少なくはないかと思うのですが、それでも、本作のロートンは悪者一辺倒ではない、けっこう複雑な人物としてのペンガラン侯爵というキャラクターを創出しています。
 画質の良くないモノクロ映画時代の慣例でもあるかと思うのですが、ロートン演じる侯爵はまるで歌舞伎かコントのような派手な衣装に類型的なカツラ、作り眉といったいでたちで、メイクのためか表情もほとんど変化せず、身のこなしも基本的に鷹揚としているため一見、『水戸黄門』の悪代官とさして変わりないような典型的な悪役のような外見をしています。

 ところが、本作を観ていくにつれて、観客はどうやらこの侯爵が精神的にかなり破綻ギリギリのところまで追い詰められていて、それを執拗に隠そうとするがために、意図してあんなに泰然自若とした物腰で、なんにもない虚空を見つめながら話しているのではないかと気になってくるのです。つまり、侯爵に深刻な影の面があることが、それに直接ふれるシーンこそないものの、ロートンのハリボテのような演技によってありありと浮かび上がってくるのです。観たらわかります、これは単に私の妄想ではなくて、絶対にロートンの計算内の名演ですって!
 だって、侯爵はアップになると視線を周囲をちらちらせわしなく動かして、目の動きが落ち着かないそぶりを見せることが多いんですよ。これは、自分の犯罪がバレないと思って安心しきっている人間の挙動ではないでしょう。地方の権力者の傲慢さを演じながら、同時に心の弱い孤独な人間の怯えも表現する、ロートンの流石の名演。見ごたえは充分です! ちょっとサイコサスペンスみすらあるくらいですよ。

 また見逃せないのは、侯爵の奇行や犯罪には全く口出しこそできないものの、常に病人を気遣うような憐みのまなざしで彼を見守る執事のチャドウィックの存在感ですよね。彼あってこその侯爵、彼あってこその、稀代の悪人の破滅を描くピカレスクロマンとしての『巌窟の野獣』であるような気がします。

 侯爵の最後の断末魔である、「皆の者、騎士道の時代は死んだ! 余も、これから騎士道に殉じる!!」という言葉も、聞いた側からしてみれば「いや、それとこれとは話が別でしょ……あんたが悪いことして勝手に自滅してるだけっしょ。」と言いたくもなるのですが、近代という新しい時代の足音が聞こえてくることに怯えることしかできなかった人物の憐れさを象徴しているようで味わい深いものがあります。


 ……こんな感じで、ヒッチコック監督、イギリス時代のいったんの終わりを飾るこの最終作『巌窟の野獣』は、歴史ものという敷居の高さはあるものの、監督の映像センスの鋭さ、スピーディさをいささかも鈍らせていない、ピリオドに相応しい傑作になっていると思います。いかにもヒッチコック印という王道サスペンスものではありませんが、かつてのサイレント時代における非サスペンスもの諸作とはまるで次元の違う面白さが保証されていることは間違いありません。おヒマなら、ぜひぜひ観てみてください!

 さぁ、そしていよいよ次作からは、新天地ハリウッドでのヒッチコックの黄金時代へとつらなる第2章が始まりますよ~! この企画でカラー作品を扱うことになるのは、いったいいつのことになるのカナ!?

 大西洋を越えて新たなる地平を切り開くヒッチコックの大冒険。しかしそこには、ワンマンプロデューサーや第二次世界大戦というものすんごい障壁がわんさか待ち受けていて~!?


≪毎度おなじみ、視聴メモメモ!≫
・冒頭、イギリスのイングランド地方の南西端に位置するコーンウォールに伝わる俗謡が字幕で紹介されるのだが、ありていに言えば「海岸の住民が難破船の積み荷を臨時収入として得ていた」というか、なんだったら「救助せずに強奪までしていた」ことまで匂わせる不穏な習俗が語られている。まぁ、日本でも昔はそれに似た風習はあったかも知れない。戦国時代には農民だって、農閑期の出稼ぎ(相手領国のもろもろの収奪)という認識で合戦に参加していたそうですからね……京極夏彦の「巷説百物語」シリーズの1エピソードを連想させる。
・単に字幕にコーンウォール沖の荒波の映像をオーバーラップさせているのではなく、字幕に荒波が襲いかかるような合成処理にしているところが芸コマで実にヒッチコックらしい。そうそう、監督、海も大好きですもんね!
・さすがヒッチコックと言うべきか、リアルに作られた帆船のミニチュア撮影と、実物大の甲板でのセット撮影との切り換えが本当に巧みで、難破する商船のスペクタクルが素晴らしい。ほんと、ヒッチコックの特撮センスはバカにできない! この作品、絶対にやっつけでは作ってないぞ!
・波涛にもまれる船にとっての頼みの綱である、岬の灯台の灯りを隠す非情なコーンウォールの民……というか、それ、灯台なの!? どう見ても「かがり火」としか言いようのないレベルの小さな灯りなのが驚きである。それでも、当時は絶対不可欠な文明の利器だったんだろうなぁ。
・実物大の甲板どころか、商船の前部を丸ごと作り、それが座礁する岬の岩場さえもセットで作る気合の入りよう! そして、そこに惜しげもなく投入する、一体プール何杯分使ってるんだという水、水、水!! しかも、白波の立ち方が細かいために、モノクロで見ても絶対にそれ真水じゃないよね、という海水特有の濃度の濃さを感じさせる質感になっているのがものすごい迫力である。セット撮影の嘘くささを全力で消そうとしてる!
・命からがら難破船から逃げる船員たちに対して、あたたかい毛布どころか、文字通りの「ヒャッハー!!」なとびっきりの笑顔で殺到し、皆殺しにしようと襲いかかるコーンウォールの民……時代劇とはいえ、これ大丈夫? コーンウォール漁協のみなさんとかに訴えられない!?
・難破船の積み荷はひとつ残らず収奪し、現場には船員はおろか、怪我をした同胞であろうと誰一人として生かしては残さないという徹底した悪の営み。それを、ごくごくふつうの稲刈りのように行っている海岸の男たちの手慣れた動きが恐ろしい!
・乗合馬車に乗っているメアリーが「ジャマイカ亭に行きたいんですけど……」と言ったとたんに、同乗客も御者も一様に嫌な顔をするというリアクションが、かの怪奇小説『ドラキュラ』の展開と全くいっしょで面白い。これ、イギリス伝奇文学のひとつのパターンなのかな?
・コーンウォール海岸のむくつけき男どもとは対照的に、異様に豪奢な邸宅で貴族たちとの饗宴をたのしむペンガラン侯爵。ちなみに、この席で侯爵が「新国王ジョージ4世に乾杯。」と語っていることから、本作の時代設定がハノーヴァー朝イギリス王国第4代国王ジョージ4世の即位した「1820年」であることがわかる。日本でいうと江戸時代後期、将軍は徳川家斉。異国船打払令あたり! もう船、世界中でふんだりけったり!
・ペンガラン侯爵は、登場時から執事のチャドウィックを手足のようにこき使い、ジョージ4世の信任も篤いという経歴をかさに着て、客人の貴族たちさえもバカにしたような傲岸不遜な態度をとる人物として描かれている。この侯爵を演じているのが、本作の主役でありプロデューサーでもある名優チャールズ=ロートンなのだが、若干アラフォーとは思えない貫禄の風貌が圧巻である。さすが、アラサーにして史上初の名探偵エルキュール=ポアロ俳優となっただけのことはある! 映像作品でもポアロを演じてほしかったですね。
・ロートンの演じる侯爵は、メイクも衣装も大げさだし身のこなしも演劇的というか、歌舞伎みたいな仰々しさがあるので一見するとサイレント映画を観ているような古臭さがあるのだが、いつでも胸を張って笑顔を浮かべ、何もない中空を見つめながら話しているようなしぐさが、侯爵の虚栄に満ちた人生のうつろさやむなしさを漂わせていて意味深である。同い年のヒッチコックと同様に、ロートンも片手間では演じてませんね、この作品。
・侯爵に最も忠実なはずの執事のチャドウィックが、しじゅう苦虫を噛み潰したような表情で侯爵に寄り添っているのも、この後の展開を予兆させるようで興味深い。彼も、かなり前から侯爵の末路を予期してたんだろう……
・邸宅に来訪したメアリーが美人であると見た瞬間に態度を軟化させ、饗宴の客そっちのけでジャマイカ亭にエスコートしようとする好色な侯爵。特殊メイクはしていないはずなのに、どこからどう見ても「美女と野獣」なカップリングである。でも、心も野獣なんだよなぁ。
・メアリーの叔母ペイシェンスが経営する宿「ジャマイカ亭」は、難破船襲撃団の巣窟でもあった! しかも、襲撃団のリーダーはなんとペイシェンスの夫、つまりはメアリーの叔父にあたる漁師ジョシュなのだ……冷酷無比で粗野だが侯爵に頭が上がらず、妻を愛する一面もあるジョシュを演じるのは、ヒッチコックのサスペンスジャンルにおける出世作ともいえる『暗殺者の家』(1934年)で主演を務めた経験のある名優レスリー=バンクスなのだが、正直なところ悪役のピーター=ローレと妻役のエドナ=ベストのキャラに負けて個性がいま一つ出せなかった前作のリベンジを果たすかのように、本作では一番と言っていいインパクトのある複雑な人物を演じている。憎ったらしいだけじゃなくて、ちゃんと心の弱みや、育った環境の悲劇性もにじみ出てるんですよね。田中邦衛みたいないい味!
・貧しい身なりの漁師や宿無しで構成されるジョシュの強奪団だが、その中でもぴっちりシャツで耳にはピアス、うす汚れたトップハットの斜めかぶりスタイルを崩さないおしゃれキャラ・行商のハリーの存在感が見逃せない。プリンスのご先祖様みたいな伊達男だ。
・けっこう早い段階で、ジョシュら強奪団の略奪した積み荷の利益の大部分を、本来ならば犯罪者を取り締まるべき立場のはずの侯爵が裏で差配してふところに納めているというゲスな構図が明らかとなるのだが、よそから来たメアリーをホイホイとジャマイカ亭に連れていく侯爵の打算的な行動が、メアリーの美貌にあてられてヘタをうったというよりも、「バレたらバレたでいいや、もみ消すし。」という超余裕な姿勢のあらわれであるところが恐ろしい。田舎の権力者、こわすぎ!!
・……にしても、侯爵、メアリーを送ったら早く屋敷に帰れや! たぶん、「共通の親友がいなくなって会話が途切れる気まずい初対面同士」みたいになってるぞ、チャドウィックとお客さん達が!! それとも、ああ見えてチャドウィックには場を何時間でももたせられる宴会芸の特技でもあるのか? 「やむをえん、秘技『コーンウォール名物はらをどり』発動ォオ!!」
・妻やメアリー、手下に対してはあんなに乱暴者なジョシュが、侯爵を前にすると借りてきたネコのように姿勢を正して従順になる変貌ぶりがおもしろい。でも、地方領主とはいえ、最高爵位の侯爵だもんなぁ。むしろジョシュのような庶民と面と向かって密談するような侯爵の方が異様なのかも知れない。
・積み荷の利益の大半がどこか(侯爵)に消えている可能性を告発したがために、逆にその疑惑をジョシュにおっかぶせられてひどい目に遭う、強奪団の新入りトレハン。ダスティン=ホフマン8割に爆笑問題の田中さん2割といった感じのやや頼りない風貌が、ヒロインにしては顔つきも態度もしっかりしたメアリー役のオハラさんと対照的でいいバランスである。知性のトレハンと度胸のメアリー!
・首吊りの刑にされる寸前のトレハンを、2階から直接縄を切ることで助けるメアリー。うーん頼もしい。どっちがヒロインなんだかわからん!
・夜の邸宅で、食費の請求書を読み上げるチャドウィックにいきなりキレる侯爵。一見、話の本筋と関係の無いエピソードのようなのだが、地方貴族としての日常の生活に倦み飽きるあまりに、侯爵が確実に精神のバランスを崩していることと、それを侯爵自身も自覚して怯えている状況を象徴する大事なシーンである。結末への伏線が丁寧だ。
・2階にいるメアリーが1階のトレハンの首吊り処刑を盗み見る構図や、海岸の洞窟のメアリーとトレハンが頭上の穴から見下ろすハリーたち追っ手を見上げる構図など、ぶっちゃけ典型的な展開の連続で退屈する部分を、ちょっと斬新な見せ方の工夫でもたせようとするテクニックが実にヒッチコックらしい。「あぁ、今ヒッチコックを見てるなぁ。」と実感する瞬間である。
・海岸をただようボートをすぐさま発見してトレハンたちの隠れ場所を抜け目なく押さえるハリー。そこはなかなか有能なのだが、相手がいる下の洞窟にロープを下ろして、一人ずつえっちらおっちら降りていくという最悪の手段を取るのがよくわからない。そんなん、各個撃破されるに決まってんでしょ! しかも、最初のトーマスとかいう手下はロープを揺すられて2~3メートル上から落ちただけで気絶するし……都会の小学生か!
・馬には乗れるし、冬場の荒波の中でも上着をかなぐり捨ててスリップ姿で泳ぎまくるし、メアリーの行動スキルがハンパない! 『暗殺者の家』での名スナイパーヒロイン・ジルに勝るとも劣らない高スペックヒロインである。若干18歳の彼女が、こんなにもたくましく育たなければならないアイルランドって、一体どんな人外魔境なんだ!?
・お話の流れ的には、困窮する領民から年貢を搾り取って贅沢好きな生活に明け暮れる悪逆非道な侯爵というキャラ設定が妥当なのだろうが、借金が払えないとか家の雨漏りがひどいとかいう領民の声を直接面会して聞いてちゃんと対応してくれる侯爵の姿は、ちょっと暴君とはいいがたい度を越したおもねり方である。人目を気にした表向きの顔だけにしても、大した殿様であることは間違いない。人権とか言い出す若造に厳しいのは、19世紀前半の貴族としては当然の感情だろうし……生活は破綻してるけど、根はいい人なのかな?
・侯爵が難破船強奪団の黒幕であることを露ほども疑わず、命からがら侯爵の邸宅に逃げ込むメアリーとトレハン。その時に邸宅にいる客人のうち、昨夜の饗宴からいるジョージ卿を演じているのが前作『バルカン超特急』のベイジル=ラドフォードで、海軍のマーレイ船長を演じているのが『第3逃亡者』の真犯人役のジョージ=カーゾンである。なつかしい顔!
・自分達から邸宅にやって来たメアリーとトレハンに、飛んで火にいる夏の虫とほくそ笑む侯爵だったが、トレハンが難破船強奪団の摘発のためにジャマイカ亭に潜入捜査していたイギリス中央政府の特命刑事(海軍中尉)であることが判明し、一転して危機に陥る。とりあえずは動揺を隠して、馬小屋から書斎へと部屋を変えさせるのだったが、対応が豹変しすぎ!
・身体を張った潜入捜査によって、ジョシュが難破船強奪団のリーダーで、さらにその上にジョシュしか知らない黒幕がいることまで突きとめていた有能なトレハンだったのだが、地元領主の侯爵を全く疑わずに手の内をべらべら話してしまったのが大失敗だった……「まだ政府には報告していない。」という一言を聞いて、態度には全く表さないながらも「よっしゃー!!」とにんまり微笑し、むやみに銃をいじくり出して挙動が若干ハイテンションになる侯爵。トレハンと一緒にワインを飲むときに震える手とか、このやり取りの中での細かな演技の移り変わりが非常に上手である。役者やロートン!
・トレハンの提案したジョシュたちの現行犯逮捕作戦に乗ったふりをしてトレハンを油断させる侯爵だが、この時にポーズだけ書きつけた軍隊の応援を要請する書状の送り先が、ウィルトシャー州の州都トロー(ブリッジ)となっている。ウィルトシャーはコーンウォールと同じイングランド地方の南西地域に属しているのだが、コーンウォールからトローブリッジまでの距離はおおよそ250~300km となっているので、本作のように午前中に書状を送った場合、夜中の摘発時に軍隊が到着したら御の字といった感じだろうか。いや、間に合うか!? ムリじゃね!?
・表向き、意気投合してジョシュたちの摘発の準備を進める侯爵とトレハンだが、それを盗み聞きしてしまったメアリーは、叔母夫婦を縛り首から救うために邸宅を抜け出してジャマイカ亭に作戦をリークしてしまう。ここらへんの、それぞれの思惑を胸に秘めての行動のすれ違いがみごとにドラマチックで、一気に物語のテンションを高めてくれる。デュ・モーリエの原作小説を読んでいないので、ここらへんが原作通りなのかどうかはわからないのだが、なんかシェイクスピアっぽい展開でいいですね!
・メアリーがジャマイカ亭に行ったことを知り、トレハンと侯爵は急遽作戦を変更してジャマイカ亭の家宅捜索に向かうのだったが、いくら急を要するとはいえ、ここで侯爵とのたった2人きりで乗り込むあたり、やはりトレハンはお人よしで短慮すぎる。なぜそこまで侯爵を疑わない!?
・言わんこっちゃない、実質ひとりでジャマイカ亭に乗り込んだ形のトレハンは、ジャマイカ亭に戻って来たハリー達に苦も無く捕まってしまう。いや、いくら銃を持っていると言っても、一発撃ち損じたら次の装填に手間がかかりまくるフリントロック式単発拳銃だけの装備て!
・トレハンやハリー達がガン見してる中なのに、捕まったていの侯爵から「メアリーだけは殺すな。」と言われて思わず「わかりましたっ。」と会釈を返してしまうジョシュの、うそのつけない正直者っぷりが最高である。芝居のできねーヤローだぜ!
・侯爵の発言から推察するに、トレハンは夜9時を過ぎたあたりから「軍隊の救援が遅い!」と焦り出しているのだが、それはしょうがねんじゃね? 手紙で他州に応援を要請してるんだもんねぇ……実際、19世紀前半のイギリス国内の交通事情って、どうだったんだろ? やっぱ馬車メインか?
・ちなみに同じく侯爵の言によると、当時のイギリス貴族の夕食の時間は夜10時頃らしいのだが、ほんと? 健康に悪すぎない? 夜食の間違いじゃないの?
・ジョシュたちがマーレイ船長の黄金を積んだ帆船の襲撃に向かった後、トレハンとペイシェンスとの3人だけになったタイミングを見計らって、侯爵はついに満を持して難破船強奪団の影の首領としての正体を明らかにする! この時の、悠々と単発拳銃の装填をしながら真相を語るロートンの演技が、ほれぼれするほど悪の色気に満ちている。フリントロック式の拳銃は火薬と弾が別々だから、手間がかかるところを何の苦も無くやってのけているのもポイントが高い。その後の、「ボイル大尉などという隊長はいない。したがって守備隊も来ない。」という去り際の捨てゼリフもカッコイイ~!!
・マーレイ船長の帆船を待ち受けている時にハリーがメアリーにかける、「きれいな指輪を持って来てやるぜ! ちゃんと指は捨てておくからさ!」という冗談が非常に悪趣味ですばらしい。ブリティッシュジョーク!
・いよいよクライマックスとなる、嵐の夜の海岸シーンとなるのだが、実景と大規模なスタジオセットを組み合わせたスクリーンプロセスによる特撮が、モノクロで画質もよろしくないことが幸いしてかえって迫力たっぷりである。くっきりはっきり見えるだけが映画の良さじゃないですね!
・轟々たる荒波と、とてつもない風雨にさらされるジョシュたちが固唾をのんで見守る中、波しぶきでけぶる沖合に、木の葉のように揺れる帆船の影が! ここの大迫力ときたら!! いや~ほんと、ヒッチコック監督が怪獣映画を撮っていたら、どんな歴史的名作が生まれていたことか!!
・帆船の行方に気を取られるジョシュたちの目を盗み、メアリーは一人抜け出して灯台の灯りを復活させるという賭けに出る! ここで、マントを翻しながら崖を登り、ジョシュの手下をぶっ倒すメアリーの勇姿がステキすぎる……さすがに燃える布を素手で運ぶカットはスタント撮影かと思うのだが、いやマジ、トレハンかたなしすぎ!!
・このメアリーの命を賭けた行動によって、ジョシュたちの目論見は水泡に帰す。しかしメアリーはハリー達に捕まって、リンチされようがなにされようが仕方のない状況に陥ってしまうのだが、それでも一歩も引かずに「私はどうなってもいいけど、罪もない人たちを殺しまくったおめーらもただでは済まねぇからな!!」と見事な啖呵を切ってみせる。すごいな、この娘さん!!
・いっぽう、ジョシュたちの失敗を知らない侯爵は予定通りに深夜に邸宅を発ち、フランスへと高跳びするべく港へ急ぐ。この時のチャドウィックたち屋敷の人々との全くかみ合わない会話が、侯爵の狂気と末路を予見しているようで印象深い。チャドウィックふびんすぎ……
・ここからは、本性を現わした侯爵がメアリーを拉致し、それをトレハンが追い詰めるという定番の流れとなるのだが、ちょっとだけの時間ではあるものの、薄いドレスを着たメアリーに猿ぐつわをはめる侯爵の手つきが妙にエロい。ここにきてヒッチコック印きたー!!
・侯爵の最期は、言ってみればヒッチコックの過去作『殺人!』の変奏なのだが、ちゃんとロートンの決めゼリフを用意しているあたりや、ラストショットに映る人物がトレハンでもメアリーでもなくこの人であることも、本作の主人公があくまでもロートン演じる侯爵であることを証明している。すっきりしないラストではあるんだけど、ピカレスクロマンなんだから、しょうがないんだなぁ。
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怪獣不在の怪獣映画って、こういうことだろ! ~映画『生きものの記録』~

2024年07月10日 23時08分47秒 | ふつうじゃない映画
 ハイど~もみなさま、こんばんは! そうだいでございまする。
 最近は、山形もやっと梅雨らしくなり雨が降る日も増えてきまして、今日もだいぶ過ごしやすい気温の一日となったのですが、雨が降ればジメジメがすさまじいし、降らなきゃ降らないで気温がガン上がりだしで、なかなかいい感じの日がございません。でも、なんだかんだ言っても私の住む山形市は、朝と夜はちゃんと涼しいし今のところ34℃を超える日もありませんので、このくらいでウダウダ言ってる場合じゃないんですよね……夏本番はこれからだぜ! 熱帯夜やだ~!!

 さてさて今回は、そんなじめっとした季節に観るのにもってこいな名作映画についてのあれこれをば。
 この監督さんの撮る「雨」って、現実の雨以上に重たく見えるんですよね~! 特にモノクロ作品は。墨汁で雨を着色したっていう撮影逸話も有名なんですが、本作でもまた、雨……というか、雨の「気配」が重要なキーワードになっているような気がします。


映画『生きものの記録』(1955年11月公開 103分モノクロ 東宝)

 『生きものの記録』は、アメリカとソ連の核軍備競争やビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件(1954年3月1日発生)などで加熱した反核世相に触発されて、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた社会派ドラマ映画である。原子爆弾の恐怖に取り付かれる60歳の老人を演じた三船敏郎は当時35歳だった。作曲家の早坂文雄の最後の映画音楽作である。
 本作の構想は、前作『七人の侍』(1954年)の撮影中に黒澤明が友人の早坂文雄宅を訪れたときに、ビキニ環礁の水爆実験のニュースを聞いた早坂が「こう生命をおびやかされちゃ、本腰を入れて仕事は出来ないね。」と言い出したことがきっかけとなった。当初は『死の灰』と名付けられたこの企画は小國英雄と橋本忍との共同脚本で、1955年1月に静岡県今井浜の旅館「舞子園」に投宿して執筆作業を開始し、3月初旬に『生きものの記録』と改題した決定稿が完成した。
 1955年の5月中旬に撮影準備に取りかかり、8月1日に東宝撮影所内のセットで撮影開始した。10月11日に台風25号の被害で工場のオープンセットがほぼ壊滅し、作り直すために撮影中断したが、10月31日にクランクアップした。

 本作では、『七人の侍』で採用した複数のカメラで同時に撮影する「マルチカム撮影法」を本格的に導入しており、3台のカメラを別々の角度から同時に撮影することで、カメラを意識しない俳優の自然な演技を引き出している。主人公の放火で焼け落ちた工場のセットは東宝撮影所内の新築されたばかりの第8スタジオの前に組まれ、新築のスタジオの壁面を焼け跡に見立てて塗装したため東宝に怒られたという。また、都電大塚駅のセットは電車の先頭部分を含めて、本物そっくりに作られた。
 音楽は早坂文雄が担当したが、撮影中の10月15日に結核で亡くなった。親友だった黒澤はそのショックで演出に力が出ず、黒澤自身も「力不足だった」と述べている。早坂はタイトル曲などのスケッチを残しており、弟子の佐藤勝がそれを元に全体の音楽をまとめて完成させた。

 本作は興行的に失敗し、黒澤自身も「自身の映画の中で唯一赤字だった」と語っており、その理由について「日本人が現実を直視出来なかったからではないか」と分析している。第29回キネマ旬報ベスト・テンでは4位にランクされ、第9回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に出品された。大島渚は鉄棒で頭を殴られたような衝撃を受けたとしており、徳川夢声は「この映画を撮ったんだから、君はもういつ死んでもいいよ」と激賞したという。佐藤忠男は「黒澤作品の中でも問題作」と述べている。


あらすじ
 歯科医の原田は、家庭裁判所の調停委員をしている。彼はある日、家族から出された中島喜一への準禁治産者申し立ての裁判を担当することになった。鋳物工場を経営する喜一は、原水爆の恐怖から逃れるためと称してブラジル移住を計画し、そのために全財産を投げ打とうとしていた。家族は、喜一の放射能に対する被害妄想を強く訴え、喜一を準禁治産者にしなければ生活が崩壊すると主張する。しかし、喜一は裁判を無視してブラジル移住を性急に進め、ブラジル移民の老人を連れて来て、家族の前で現地のフィルムを見せて唖然とさせる。

おもなスタッフ
監督 …… 黒澤 明(45歳)
製作 …… 本木 荘二郎(41歳)
脚本 …… 橋本 忍(37歳)、小国 英雄(51歳)、黒澤明
撮影 …… 中井 朝一(54歳)
美術 …… 村木 与四郎(31歳)
録音 …… 矢野口 文雄(38歳)
照明 …… 岸田 九一郎(48歳)
音楽 …… 早坂 文雄(41歳 本作の制作中に死去)、佐藤 勝(27歳)、松井 八郎(36歳)
記録 …… 野上 照代(28歳)
音響効果  …… 三縄 一郎(37歳)
制作・配給 …… 東宝

おもなキャスティング
中島 喜一    …… 三船 敏郎(35歳)
原田       …… 志村 喬(50歳)
原田の息子・進  …… 加藤 和夫(27歳)
中島 とよ    …… 三好 栄子(61歳)
中島 一郎    …… 佐田 豊(44歳)
中島 二郎    …… 千秋 実(38歳)
山崎 隆雄    …… 清水 将夫(47歳)
山崎 よし    …… 東郷 晴子(35歳)
中島 すえ    …… 青山 京子(20歳)
中島 君江    …… 千石 規子(33歳)
須山 良一    …… 太刀川 洋一(24歳)
喜一の愛人・里子 …… 水の也 清美(39歳)
栗林 朝子    …… 根岸 明美(21歳)
朝子の父     …… 上田 吉二郎(51歳)
堀弁護士     …… 小川 虎之助(57歳)
荒木判事     …… 三津田 健(53歳)
ブラジルの老人  …… 東野 英治郎(48歳)
岡本       …… 藤原 釜足(50歳)
石田       …… 渡辺 篤(57歳)
地主       …… 左 卜全(61歳)
鋳造所職長    …… 清水 元(48歳)
留置人A     …… 谷 晃(45歳)
留置人B     …… 大村 千吉(33歳)
精神科医     …… 中村 伸郎(47歳)


 これはもうね、文句なしの歴史的名作でございます。いまさらこんな超零細ブログで語るまでもないことでありますが。

 話は脱線するのですが、昨今、日本の本家東宝でのシリーズ最新作『ゴジラ -1.0』がアメリカのアカデミー賞・視覚効果賞を受賞し、そのアメリカでもハリウッド版ゴジラシリーズ(モンスターヴァース内)が最新作『ゴジラ×コング 新たなる帝国』まで4作も制作されるという活況を呈しており、さらには CGアニメシリーズという形ではあるのですが、あの『ガメラ』も最新作が制作されるなど、令和になって地味~に特撮・怪獣のジャンルが盛り上がってきております。あの~、ちょっと各作品の展開がバラバラなので「ブーム」とまでは言えないかも知れないのですが、円谷プロの「ウルトラシリーズ」もコンスタントに新作が制作される状況が定着していますし、もはや特撮・怪獣の何かしらの新作が常に楽しめる現状は、ブーム以上に喜ぶべきジャンル全体の底上げを意味しているのではないでしょうか。
 うれしいですね……実に嬉しいです。わたくし、生まれも育ちも1980年代の人間ですもので、何年かに一作品がポツ、ポツ……と慈雨のように続くばかりだった特撮冬の時代の厳しさを経験した身としては、今、幼少年期を過ごしている少年たちはもう、心の底からうらやましくてたまりません。『ウルトラマン80』、『ゴジラ1984』、『仮面ライダー BRACK』2部作、『仮面ノリダー』あたりで約10年間枯渇をしのいでいたわけでして、それ以外はもっぱらレンタルビデオで昭和時代の旧作を観て素養をみがいておりました。平成の到来とともに『ゴジラ VS ビオランテ』(1989年)から始まった「 VSシリーズ」、そして「平成ガメラシリーズ」の、なんと神々しかったことか……あと、映画『ウルトラQ 星の伝説』(1990年)もネ。

 そういった感じで、いつでもどこかに「怪獣がいて当たり前」という幸せな時代が只今到来しているわけなのでありますが、このようにポンポンと怪獣が世に出てきますと、そもそも人間の想像上の存在であるはずの「怪獣」って、なんなの?というところに興味がわく話にもなってくるかと思います。

 日本で、そして今や世界で最も有名な怪獣は何かといえば、それはもうほぼ満場一致で「水爆大怪獣ゴジラ」ということになるかと思われるのですが、そのゴジラの解釈も作品ごとに大きな違いがあり、1954年に産声をあげたシリーズ第1作『ゴジラ』や最新作『ゴジラ -1.0』におけるゴジラは、人類文明の身勝手な核開発競争が生んだ異形の被害者にして、核・放射能の恐怖の象徴ですし、ハリウッドのモンスターヴァースシリーズのゴジラは、人類文明の繁栄によって衰亡の危機に瀕しつつある地球を回復させる「バランサー」という、きわめて「神に近い存在」となっているのです。おんなじゴジラでもこんなに違う! 確かによく見りゃハリウッド版のゴジラの表皮には、日本産ゴジラのトレードマークともいえる「ケロイド状のザラザラ」なんてどこにもないんですよね。余談ですが、『ゴジラ -1.0』のゴジラは厳密には時間軸的に水爆大怪獣ではないそうです。

 行き過ぎた人類文明に警鐘を与える「超越者」、人智を超えた力を持つ「自然災害のメタファー」、はたまた、人類が滅ぼしてしまった、もしくはないがしろにしてきた「過去の遺物の怨念」……さまざまな作品に登場する怪獣たちは、各種各様の背景を秘めた存在となっています。もちろん、単純に子どもが大好きになる「強くてカッコいいキャラ」だったり、「宇宙人の差し向けた生物兵器」として暴れまくるだけなのもいいと思います。円谷プロのウルトラ怪獣みたいにデフォルメされて人気を集めるポケモン的な展開もひとつの定番ですよね!

 そして、こんな風に怪獣の出るフィクション作品が量産されてきますと、そういった怪獣ものの逆張りとして、「怪獣が出てこない怪獣映画」というキワモノも出てきます。ほら、サメ映画だって最近、「サメが出てこないサメ映画」が出たっていうじゃないですか。いくとこまでいったな~!!
 でもこれ、かなり重要な話のような気がするんですよね。

 要するに、怪獣のように「巨大で恐ろしい何か」を表現するのに、怪獣そのものが必ずしも登場する必要はないんじゃないかという問題なのです。
 確かにそういわれれば、映像作品の中に怪獣が登場する時、絶対に無くてはならないのは、「怪獣に出くわして恐れおののく人間のリアクション」だと思います。そして、その反応の演技がヘタだったりすると、たちまち出現した怪獣もまた、チープで安っぽい作り物になってしまうのです。
 思い出してみてください、あの『ゴジラ』(1954年)での、大戸島の山上に初めてゴジラが首をもたげた時の村人たちの悲鳴、そして、ゴジラの咆哮を聴いた時のヒロイン・山根恵美子(演・河内桃子)の絶叫! 実のところ、ここで画面に出てくるゴジラそのものはハンドパペット式のギニョール人形なのでやや頭でっかちで、怖いというよりもむしろちょっとかわいいくらいなのですが、それを観た人々の反応があまりにもリアルで恐怖に満ちたものなので、それによってゴジラも実物以上に禍々しくおぞましい存在になりえているのです。
 つまり、ギニョール人形だったり着ぐるみだったり CGだったりして、そもそも作り物である怪獣を「現実にあるもの」に変換するために、周囲の現実にいる人間の反応は必要な儀式装置なのでしょう。怪獣は造形物のみによって命を得るものなのではなく(もちろんパーセンテージは大きいと思いますが)、それに反応し対峙する人間たちのリアクションを含めた作品全体によって完全な姿を得るものなのでしょう。

 だとするのならば、「おそれる人たち」の演技を最高品質のものとすれば、極端な話、怪獣そのものが出てこなくとも怪獣レベルに人類文明をおびやかす脅威の存在を実感させうる作品はできるのではないか?
 この問いに正面から向き合った空前絶後、唯一無二の映画作品こそが、この『生きものの記録』なのではないでしょうか。まさにこれは、「ひたすら恐怖する人」としての「生きもの=中島喜一老人」の記録のみに特化した作品であるわけです。

 私がつらつら思い起こす限り、いわゆる「怪獣の出てこない怪獣映画」は世の中に何作かありますが、それは「予算の都合で怪獣がちょっとの時間しか出てこない」とか「怪獣の死体しか出てこない」とか、結局はひよった中途半端な姿勢に終わってしまうものが多く、だいたい見えない怪獣の存在に命を吹き込めるほどスタッフや演者の皆さんが魂を込めて仕事をしていないので映画としても実につまらない作品になってしまっている、というものがほとんどだと思います。やっぱり、いない怪獣を相手にして90分も2時間も話をもたせるって、それこそ本作レベルにそうとうな覚悟と技量を持って臨まないと、なかなかできることじゃないのよね……ただその点、『ウルトラセブン』(1967~68年放送)での、怪獣や特殊造形の宇宙人がまるっきり出てこない数エピソードとか、その正統な続編である『ウルトラセブンX 』(2007年放送)などのように、20~30分の物語世界で後世に語り継がれるべき傑作が生まれる例は多いような気はします。そこらへんはもう特撮というよりも SFの世界ですからね。実相寺昭雄ワールド~♡ でも、ここにいくとゴダールの『アルファヴィル』(1965年)とか、かの聖タルコフスキー監督の諸作のほうに話がいってしまいますので、脱線はここまでにしておきましょう。

 それでこの『生きものの記録』なのですが、この作品って、明らかに前年に公開された『ゴジラ』(1954年)の精神的な双子みたいな作品だと思うんですよね、同じ現実世界の「第五福竜丸事件」を親とした。
 本作と『ゴジラ』との時間的関係を見てみますと、両者の間には1955年4月に公開された『ゴジラの逆襲』という作品があります。これも私、ゴジラシリーズの中で一、二を争うくらいに大好きな作品!

 言うまでもなく、『ゴジラの逆襲』は前年の『ゴジラ』の正統の続編にして、「ゴジラ対別の怪獣」という王道パターンの開祖となった記念碑的作品です。そして何よりも、出てくるゴジラ(2代目)が怖い、怖い!! 現代定着したポップな怪獣というイメージからは程遠い荒々しさとケダモノっぽさがあって、撮影ミスで新怪獣アンギラスとの戦闘シーンが異様にスピーディになっているのもリアルな猛獣同士の殺し合いという雰囲気が出ているし、牙も犬歯が吸血鬼みたいに長くて真っ直ぐ前をにらんでいる目つきも生々しく、なんか妖怪のような不気味があるんですよね。
 ただし言わずもがな、『ゴジラの逆襲』の世界における日本人は、かつて東京に上陸して大暴れしたゴジラという驚異をすでに「知っている」のです。そのため、そのゴジラの2頭目が今度は大阪に上陸するかも知れないという話になってくると、民間人はそそくさと避難して市街地はほぼ無人となり、撃退するために自衛隊とその最大兵力が待ち構えるだけという万全の対策を迅速にとるわけです。万全っていってもまぁ、てんで役に立たないんですけどね☆

 つまり、怪獣というジャンルを創始した当のゴジラシリーズは、その第2作から早々に「核・放射能の脅威=怪獣」という図式を取っ払ってしまい、「努力次第で人類でもなんとかできてしまう巨大害獣」にスケールダウンさせてしまっているのです。でも、これは起承転結のある娯楽作品としてシリーズ化させるためには仕方のない舵取りでしょう。そんな、毎回毎回オキシジェン・デストロイヤーみたいなデウス・エクス・マキナをひねり出すわけにもいきませんからね。

 その一方で、ゴジラシリーズが、少なくともそれ以降の昭和作品では捨ててしまった「核や放射能の恐ろしさ」をかなり高い純度で継承……というか、初代『ゴジラ』と分かち合った作品こそが、この『生きものの記録』だと思うんですよ。

 映画『生きものの記録』に、当然ながら怪獣そのものはまるっきり登場しません。しかし、それとほぼ同じくらいに正体不明で曖昧模糊とした「いつか来るかもしれない核戦争や放射能汚染の脅威」を本気で感じ取り、恐れおののく人間として登場する中島喜一老人の存在感と振る舞いが十二分すぎる程に切迫感溢れるものとなっているために、画面に全然出てこなくとも、「ひたすら恐ろしい、逃れられないなにか」がひたひたと近づいてくる不安感が迫ってくる作品になり得ているのです。そのために、当時30歳代の三船敏郎をわざわざ老人役にすえなければならないほどのエネルギーを、黒澤監督は求めたのではないでしょうか。
 ただし、若い俳優に老人を演じさせたからと言って、黒澤監督は安易に中島老人にパワフルな演技をさせたり、実際の60歳の人間にはできないような芸当をさせるようなことはしていません。当然、演じているのがあの三船さんなのでどんな狂態も問題なく演じられたはずなのですが、あくまでも「何の変哲もない老人」という範囲の中で、ただひたすらに「おびえ、おそれる」演技を100% 全力で演じることを要求しているだけなのです。
 たとえば、本作のクライマックスで中島老人はついに、自身の家族のブラジル移住を推し進めようと焦った挙句、現在の一家の生活の基盤となっている、自分自身が創業したはずの鋳物工場に放火をして全焼させてしまうという最終手段に出てしまいます。
 ここのくだり、なんせ前作が『七人の侍』(1954年)という全盛期真っ最中の黒澤監督なんですから、炎上する工場のスペクタクルを撮影するなんてお手の物かと思うのですが、本作ではそんな場面はきれいさっぱりはしょられており、いきなり黒焦げの焼け跡となった工場の残骸が映し出される展開となっており、そこから愕然とする一家の混乱の果てに、中島老人の告白がしめやかに語られる展開となっています。
 この、映画としては本作中最も派手な事件といってもよい工場炎上が全く描写されないのは、おそらく、観客が中島老人のおそれる恐怖の正体を工場炎上のスペクタクルと混同したり、もしくはおそれる中島老人自身が結局は周囲の人間にとっての災害(=怪獣)になっちゃいましたとさ、みたいにオチだと解釈したりして、安易に作中に怪獣を顕現されないようにするための予防策だったのではないでしょうか。この作品において、あくまでも怪獣は全く映画に登場しない存在でなくてはならず、いかなエネルギッシュな三船さんであれども、怪獣を想起させかねない方向にいくことは厳に許されないタブーだったのでしょう。

 ここで重要なのが、全く出てこない怪獣(核や放射能)に代わって、作中で中島老人を直接的に恐怖させる存在なのですが、これは具体的には2つありまして、ひとつは「雷鳴と驟雨」で、もうひとつは「中島老人の愛人の一人・朝子の親父(演・上田吉二郎)」です。ヤ~なおとっつぁんなんだ、この朝子のオヤジっていうのが!

 雷鳴と驟雨というのはもうそのまんまで、作中ことあるごとに夕立のような遠雷と風、そしていきなりの大雨がやってくるタイミングがあるのですが、それにいちいち中島老人が過剰に反応しておびえる、という描写があるのです。
 これは、別に中島老人がカミナリ嫌いだというわけではなく、雨雲に乗って太平洋上空に残留する放射能が日本列島に上陸し、あの原子爆弾の炸裂直後に降ったという「黒い雨」がまた降り注ぐのではないかという不安を中島老人が強くいだいているということの暗示に相違ありません。
 こういう放射能と雨との関連づけって、広島・長崎の原子爆弾投下以降、世代が代わるたびにどんどん薄れていくものかと思っていたのですが、まことに不幸なことに、2020年代現在を生きる私達日本人の多くは、2011年3月に「放射能を含んだ雨」の不安を現実にいだく経験をしてしまいました。デマとわかっていながらも、実際にメールで不気味な警告メールを受け取った方も多いのではないでしょうか。それを即座に笑い飛ばせた人は、果たしてどのくらいいたでしょう。

 もうひとつの中島老人をおびえさせた存在として挙げた朝子のおとっつぁんなのですが、この人はもう本当にどうしようもない、自分の娘の愛人(中島老人)の財力に頼らないと何もできないようなダメおやじです。しかしながら自分の感情に素直に生きようとする生命力だけは非常に貪欲で、作中では中島老人の一家と共に自分達父娘をもブラジルに移住させようとする老人の決断に強い反感を抱きながらも、直接老人に反抗するようなそぶりは隠しておいて、素知らぬ顔で娘を通して老人に金をせびりながら、裏で老人の家族にまわってブラジル移住を破談に追い込もうとする包囲網も形成させていくという狡猾さを持った人物なのです。
 ここ! このおとっつぁん(名前すらない!)の、『ゲゲゲの鬼太郎』のねずみ男みたいなトリックスターっぷりが、怪獣もスペクタクルもない本作を非常に起伏豊かなものにしてくれるのです。長期的な人生のプランはないが、ともかく今日を生きたいというエネルギーだけはものすごいんですね。この生き方を笑える人が、果たしてこの世にどのくらいいるでしょうか。

 このおとっつぁんが、作中で一度だけ中島老人に残酷な牙をむくシーンがありまして、それが、夕立ちの降りそうな昼下がりに、縁側で世間話をするかのように老人に「放射能汚染の恐怖」を聞いたふうに吹聴するところです。被爆した人間がどうなるのか、子ども達の世代の未来はどうなってしまうのか、みたいな話を他人事のように話すわけなのですが、それを聞いた中島老人は不安にかられ、憔悴しきった表情になってしまいます。
 ここの局面で、おとっつぁんが中島老人をおびえさせて具体的にどうしたかったのかは、まるでわかりません! 特におとっつぁんにメリットのあることでもないように見えるのですが、彼に何かしらの策があったというよりも、「今まで偉そうにしてた奴がなんか弱ってるから、もっと怖がらせてやれ。」みたいな、なんのひねりもない子どもみたいな感情がふっと湧いてきて話し出したように見えるんですよね。そして、そういったなんでもないようないたずらがめぐりめぐって、中島老人と一家の崩壊を招いてしまうのですから、このおとっつぁんの、ある意味で「邪気の無い」悪意が、この映画でいちばん怖いものだったのではないでしょうか。
 また、この場面での、おとっつぁん役の上田吉二郎さんの語りがめっちゃくちゃ上手いんですよね! ほんと、基本的にだるんだるんのランニング姿でだらしないオヤジなのですが、ここで薄暗い縁側に座って語るときだけ、稲川淳二もビックリな超一流の怪談師みたいなオーラを身にまとうんですよ。やっぱり腕のある俳優さんは違うなぁ!!


 いろいろくっちゃべってまいりましたが、本作『生きものの記録』は、「怖いものを見せずにその恐ろしさを伝える映画」の究極だと思います。その決意のほどは相当なもので、核や放射能に関する情報を映像で見せることは一切なく、ひたすらそれを「怖がる人」しか映し出していない徹底ぶりは空前絶後の完璧さです。
 実は、つい最近にこの『生きものの記録』と精神的にかなり近いと思われるアプローチの映画として、あの魁!!クリストファー=ノーラン番長の『オッペンハイマー』があったわけなのですが、主人公がしっかり「怪獣級の天才」として描かれる部分があり、しかもかなりギリギリまでがんばったものの、ほんの一瞬とは言え直接に原子爆弾の悲惨な事実を(幻影としながらも)描いてしまったという点で、やはり『生きものの記録』のほうが数段、目指す志と完成度が上ではないかと確信しています。原爆の惨禍を全く描かないという選択肢が非常に難しいものであることは、『オッペンハイマー』をめぐる日本公開までの議論をみても明らかでしょう。ノーラン監督はかなりがんばったけど、やっぱり最後に「ある異常天才の半生記」に落ち着けるという安易な手を選んでしまったのです。キビシ~ッ!!

 先ほども申しましたが、本作で主演を務める三船敏郎は、これはもうまごことなき「怪獣レベル」の存在感とスター性を持った名優です。それこそ、ゴジラ級の破壊力と輝きを持った才能! それはもう、黒澤監督の前作『七人の侍』でも証明されていることですし、三船さんも初代ゴジラも対する相手が同じ志村喬さんだという事実もそれを裏付けるものでしょう。
 それなのに、本作で黒澤監督は三船敏郎35歳のエネルギッシュなパワーを炸裂させることは一瞬間も許さず、ただひたすらに彼の演じる中島老人を孤立させ、憔悴させることによって、「経営も発展させて愛人を何人も囲うような大人物が、どうしてそこまで……」と思わせることに成功しているのです。そこまで彼を追い詰める核・放射能とは一体なんなのか? そして、そんな人がいるのに、その一方でどうして同じ日本列島に住む我々日本人は、特に不安に思うこともなくのうのうと暮らし続けていられるのか……

 本作において黒澤監督は、中島老人を徹底的に「孤立した人間」に描いてはいるのですが、結末こそ精神病院送りにはなっているものの、老人を「核・放射能を並外れて怖がる異常な人」だったり、「不安になるあまりに家庭を崩壊させてしまう危険な人物」に見せるような演出はかなり神経質に避けているように思えます。老人も、世間体を考えて怖い怖いと本音を言うことは控える自意識は持っていますし、工場に放火するという非常手段も、結局は繊細な自身の心を壊してしまう諸刃の剣となってしまうのでした。
 よくよく考えてみると、中島老人のブラジル移住計画も、さんざん老人が危険だ危険だと思い込んでいる日本に「喜んで帰国したい」と申し出ているブラジルの農園主(演・東野英治郎)がいるから進んでいる話なので、中島老人の「日本から逃げよう」という主張に賛同している人なんて、作中に一人もいないんですよね。作中唯一の清涼剤ともいえる末娘のすえ(ネーミングセンス……)だって、哀れな父の姿に同情こそすれ、父の恐怖までをも共有しているとは思えません。中島老人の孤立はあくまでも彼自身の「おそれ」に起因するものなのであって、老人のカリスマ性やエネルギーによるものではないのです。

 中島老人を特殊なキャラクターにしないというこの頑なな決意は、すなはち「この物語を特異なケースにさせない」という黒澤監督の思いの表れなのだと思います。怪獣不在の怪獣映画とは、「いつ怪獣が出てくるかわからない」という状態を、この映画を観た後も観客に継続させようとする、一種の「呪い」なのではないでしょうか。
 つまり、映画を観終わった後に「放射能を怖がり過ぎるおじいさんが出てくるヘンな話だったね。」では絶対に済まさず、「放射能が怖いのはよくわかってる。じゃあ、そんな放射能がすぐそばにあるこの世界にいて、なんの不安も抱かない私達は、果たして正常なのかな?」と考えさせることこそが、この映画が生まれた意味なのではないでしょうか。
 怪獣が出てこないことによって、永遠に終わらない映画、そして問題。この『生きものの記録』は、そんなとんでもなくヘビーなテーマを、そのわりには非常に見やすく提示してくれる作品なのです。キャスト表見てみてよ~、もう全盛期の黒澤組ができあがりつつあるよ!!

 あの三船敏郎を擁しといて、こんなに贅沢な使い方を確信的にできる黒澤監督の剛腕もものすごいのですが、文字通りの「大スター怪獣ミフネトシロウ」の大暴れは、この後の黒澤映画諸作でもうイヤンとなるほど楽しめますからね! その振れ幅の大きさもまた、黒澤映画の魅力の一つですよね~。

 それにしても、Wikipedia にあった「この映画撮ったんだから、君いつ死んでもいいよ。」という言葉は、最大限の賞賛であるのはよくわかるのですが……なんかイヤ~!! 言う人も言われる人も、ものすごいよね。
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才気超爆発!!イギリス時代のヒッチコック文句なしの最高傑作 ~映画『バルカン超特急』~

2024年06月28日 20時37分56秒 | ふつうじゃない映画
 ハイみなさまどうもこんばんは~! そうだいでございますよ~い。
 さぁさ、いよいよ夏だ夏だ! こちら山形ではつい先週に梅雨入りしたばっかりなんですが、私の住む山形はそんなにひどい雨も降らないし、基本的にもう夏本番といった感じです。今年も、ど~か暑さはお手柔らかに……

 そんでもって、今回はまた「ヒッチコック監督の諸作を観なおす企画」の続きでありますが、いや~、ついにここまで来たかという感じですね! いろいろと思い入れのあるタイトル。初期イギリス時代の代表作といっても過言ではない、この作品のご登場でございます!


映画『バルカン超特急』(1938年10月 97分 イギリス)
 『バルカン超特急』(原題:The Lady Vanishes)は、イギリス・アメリカ合作のサスペンス映画。原作はイギリスの推理小説家エセル・リナ=ホワイト(1876~1944年)の長編ミステリー小説『車輪は回る』(1936年刊)。

 本作のマクガフィン(観客の興味を引っ張るストーリー上の謎)である「ギター弾きの歌」に関してヒッチコックは、「ばかばかしいものだ」と言いつつも大いに気に入っていた旨の発言をしている(ヒッチコックとフランソワ=トリュフォーの対談集『映画術』より)。
 本作でノーントン=ウェインとベイジル=ラドフォードが演じたイギリス人の乗客2人は、1940年のキャロル=リード監督のスリラー映画『ミュンヘンへの夜行列車』(プロデューサーが本作と同じエドワード=ブラック)にもほぼ同じ役で再登場している。また役名は異なるが、1945年のホラー映画『夢の中の恐怖』や1948年のオムニバス映画『四重奏』にも出演している他、日本未公開の8作の映画にコンビで出演している。さらに BBCラジオでは、2人が出演するスピンオフラジオドラマシリーズ『チャータースとカルディコット』も1946~52年に放送された。
 ヒッチコック監督は、エンディング近くのヴィクトリア駅のシーンで、コートを着てタバコをふかし、肩をすくめて通り過ぎる人物の役として出演している。

 本作は、イギリス映画協会が1999年にイギリスの映画や TV業界の1000人に行ったアンケート「20世紀の英国映画トップ100」で第35位に選ばれている。
 また、イギリスの雑誌『タイムアウト』が150人以上の俳優、監督、脚本家、プロデューサー、評論家や映画界関係者に行ったアンケート調査による「イギリス映画ベスト100」で第31位に選ばれている。
 本作は1979年にシビル=シェパード主演で『レディ・バニッシュ 暗号を歌う女』(製作ハマー・プロ)としてリメイクされている。


あらすじ
 世界各国がふたたび戦争に突入しそうな不穏な時代。ヨーロッパ・バルカン半島のある国バンドリカの山奥でスイス行きの列車が雪崩により運行停止となり、駅の待合所では出発が翌日に延期される旨が乗客に告げられた。乗客にはクリケット狂のチャータースとカルディコット、トッドハンター弁護士と実は妻ではなく愛人で不倫関係にある仮のトッドハンター夫人、家庭教師のミス・フロイなどがいて、仕方なく駅の近くの狭いホテルに泊まることになる。チャータースとカルディコットは、ホテルで客室が足りないためにメイド用の部屋を当てがわれ、レストランでは食べる物が足りず、イギリス本国でのクリケットの試合結果情報も入ってこないので不満ばかり。同じホテルには、結婚前の最後の旅行を友人2人と楽しんでいるアイリス=ヘンダーソンというイギリス人女性がいるが、友人たちからは結婚を心配されている。その夜、ミス・フロイがホテルの自室で窓の外から流れるギター弾きの歌を聴いていると、上階からクラリネットと民族舞踊の踊りが始まり、隣室のアイリスはうるさくて眠れないので静かにするようにとホテル支配人に頼む。しかし上の階のギルバートは、クラリネットで民族舞踊を記録するのは大事な作業だと譲らなかった。支配人に部屋を追い出されたギルバートはアイリスの部屋に転がり込んできて、根を上げたアイリスはギルバートを元の部屋に戻してもらう。この間、ホテルの外にいたギター弾きは何者かに殺される。
 翌日、列車運行は再開されるが、アイリスは出発時にミス・フロイを狙って落ちて来たと思われる植木鉢が頭に当たり、列車に乗ってからも意識が朦朧としていた。列車で同室となったミス・フロイと食堂車に行ってお茶を飲んで過ごし、客車に戻って一眠りしたアイリスが起きた時には、ミス・フロイは消えていた。同室の乗客がミス・フロイなど知らないと言ったため、不審に思ったアイリスは列車内を探し回るのだが、他の乗客も乗務員も初めからそんな老女は見なかったと口を揃える。さらに同乗していた高名な医師のエゴン=ハーツは、ミス・フロイは実在せず、アイリスが頭を打った後遺症で記憶障害を起こしているのだと断定した。ミス・フロイの実在を信じるアイリスは、たまたま乗り合わせていたギルバートと共に列車内でミス・フロイを探し始める。しかし、お忍びの不倫旅行中のトッドハンター弁護士は周囲の他人と関わりたくないために見た覚えがないと嘘を吐き、イギリスで開催されるクリケットの試合観戦に間に合いたいチャータースとカルディコットは、列車を停車させてでも捜し出すと息巻くアイリスの訴えを煙たがり、さらにクリケットを馬鹿にしたアイリスに激怒して協力を拒否してしまう。

おもなキャスティング
アイリス=ヘンダーソン     …… マーガレット=ロックウッド(21歳)
ギルバート           …… マイケル=レッドグレイヴ(30歳)
チャータース          …… ベイジル=ラドフォード(41歳)
カルディコット         …… ノーントン=ウェイン(37歳)
ミス・フロイ          …… メイ=ウィッティ(73歳)
エリック=トッドハンター弁護士 …… セシル=パーカー(41歳)
仮のトッドハンター夫人     …… リンデン=トラヴァース(25歳)
奇術師ドッポ          …… フィリップ=リーヴァー(34歳)
ドッポ夫人           …… セルマ=ヴァズ・ディアス(26歳)
クマー夫人           …… ジョセフィン=ウィルソン(34歳)
尼僧              …… キャサリン=レイシー(34歳)
アトーナ男爵夫人        …… メアリー=クレア(46歳)
エゴン=ハーツ医師       …… ポール=ルーカス(44歳)
ホテルの支配人ボリス      …… エミール=ボレオ(53歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(39歳)
脚本 …… シドニー=ギリアット(30歳)、フランク=ラウンダー(32歳)、アルマ=レヴィル(39歳)
製作 …… エドワード=ブラック(38歳)
音楽 …… ルイス=レヴィ(43歳)、チャールズ=ウィリアムズ(45歳)
撮影 …… ジャック=コックス(42歳)
編集 …… ロバート=E=ディアリング(45歳)
製作 …… ゲインズボロウ・ピクチャーズ、ゴーモン・ブリティッシュ映画社
配給 …… メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(イギリス)、20世紀フォックス(アメリカ)


 きたきたきた~! バル超! バル超! そんな略し方してる人が果たしているのかどうかわかんないのですが、列車ミステリーというジャンルで行くと、かの名作映画『オリエント急行殺人事件』(1974年 監督シドニー=ルメット)や、我が国が誇る伝説のカルト映画『シベリア超特急』シリーズ(1996~2005年 監督マイク水野)の祖先にあたる作品ですし、本作後半の列車スリラーアクションという展開から見れば映画『新幹線大爆破』(1975年 監督・佐藤純彌)や『カサンドラ・クロス』(1976年 監督ジョージ・パン=コスマトス)の源流ともなっているかなり重要な作品です。もしかしたら、黒澤明の『天国と地獄』(1963年)とか、スティーヴン=セガールはんの『暴走特急』(1995年)にも、このバル超の血が流れているのかも~!? いや、関係ねっか。
 ちなみに、映画じゃなくて原作小説の『オリエント急行殺人事件』をアガサ=クリスティが発表したのは1934年のことなので、そこはさすがにミステリーの女王が一歩先をリードしております。そこはやっぱ、そうよね~。

 ただし、ヒッチコック監督はこの作品以前にも、「船」とおんなじくらいに作中によく「列車」を登場させていますし、特に『第十七番』(1932年)や『三十九夜』(1935年)『間諜最後の日』(1936年)では、作中の大きな見せ場に「走行中の列車内」というシチュエーションを持ってくるテクニックをすでにバンバン使っています。やっぱり、もうもうと黒煙を上げて驀進する機関車というイメージが、映画ならではのサウスペンスフルな興奮と相性がいいんですかね。
 それでも、本作『バルカン超特急』の「列車成分」は格段にアップしているというか、具体的に見てみますと「上映時間97分中、67分が列車内」という高濃度になっております。イメージだけだと、もっと列車シーンばっかりだと思ってたんですけどね。

 さて、本来ならば、このヒッチコックおさらい企画をやるときは通常、ざっと映画本編を見た上でシーンごとで気になったポイントを羅列していく「視聴メモ」のコーナーを設けているのですが、今回『バルカン超特急』に関しましては、もうそんなこといちいちやってたらこの記事の字数が2万字を余裕で超えてしまいますので、やりません! もうとにかく皆さん、まだ観てないという方はとにかく観て!!

 いやホント、ヒッチコック監督の約半世紀という悠久のキャリアの中でのベスト、最高傑作を選ぶことほど難しい問題もないのですが、こと初期イギリス時代に限って言うのならば、ヒッチコックのベストはもう簡単、満場一致でこの『バルカン超特急』で決まりだと思いますよ。いや、異論なんて、出てくる!?
 もちろん、ここにくるまでの諸作でも、21世紀の今観てもなお魅力的な傑作はいっぱいありました。『下宿人』(1927年)のショッキングなカメラワーク、『恐喝(ゆすり)』(1929年)の野心的なロング無音ショット、『暗殺者の家』(1934年)の緊迫感あふれる銃撃戦、そして前作『第3逃亡者』(1937年)のユーモアたっぷりなストーリーテリングと、ただ実験的なだけじゃなくて観客の興味をちゃんと引っ張ってくれるロングワンカット撮影!
 どの作品一つをとっても、「昔ものすごく斬新な映画監督がいたよ」という記憶に残ってしかるべき仕事ではあるのですが、ヒッチコック監督はそこで満足することなど決してなく、ついにそれらの良かった点をぜ~んぶまるっと一つの作品におさめ、それどころが全面において上位互換となる、さらにワンステップ上の超傑作を生んでしまったわけなのです。

 それまでのヒッチコック監督作品の、文字通りの総決算にしてネクストレベル、そして「次なる時代」を開く奇跡の鍵となった伝説的名作! それこそが、この『バルカン超特急』なのであります!! そこまででっかくブチあげていいでしょうか!? い~んです!! へぱりーぜ!!


 そもそも、私がこの作品の時代を超えた面白さのとりことなったきっかけは、かなり昔の話になります。

 話は『バルカン超特急』からも脱線してしまうのですが、そもそも私がアルフレッド=ヒッチコックという歴史的に有名な映画監督がいることを生まれて初めて知ったのは、ご多分に漏れず彼の映画そのものの鑑賞ではなく、彼の生涯を描いたバラエティ番組や、彼の映画を題材にしたパロディコントからでした。

 具体的に思い出してみますと、なんてったって1990年代の日本のテレビ界における「偉人伝バラエティ」といえばこれ!とも言うべき、日本テレビ系列で毎週日曜日の夜9時から放送していた『知ってるつもり?!』をはずすことはできませんね。関口宏と加山雄三!!
 ここでヒッチコックが特集されたのは1992年7月19日の放送回だったのですが、彼の生涯を通覧しつつも、あの「切り裂きジャック事件」をキーワードにヒッチコックと故郷ロンドンとの因縁をミステリアスに強調したり、はっきりパワハラとは言わないまでも、彼の映画に主演したブロンド美人女優たちとの愛憎関係にはっきり言及したりと、なかなか、当時紅顔の小中学生だったそうだい少年には刺激の強い内容となっておりました。ヒッチコックって、こえぇ!

 その他、思い出せる限りでは NHKで放送されていた同趣向の伝記バラエティ番組『西田ひかるの痛快人間伝』(1991~93年放送)の1992年5月14日放送回でもヒッチコックが取り上げられていまして、こちらはさすがに天下の NHKの教養番組だしナビゲーターも西田ひかるさんなんで、ヒッチコックの実人生よりも彼が監督した映画に導入されたグリーンバック合成や遠近法を利用した大胆な映像演出のセンスにクローズアップした内容だった覚えがあります。各映画にカメオ出演したヒッチコックの登場シーン集なんてのもやってましたよね。なつかし!

 そんな感じで、映画の面白さは西田ひかるさんから、人間ヒッチコックのヤバさは『知ってるつもり?!』から知らされた上で、私は満を持してヒッチコック監督作品そのものに触れる流れとなったのでした。あの、『痛快人間伝』(5月)と『知ってるつもり?!』(7月)とで、ヒッチコックを特集した時期がミョ~に近いんですが、1992年ってヒッチコックのなんかのアニバーサリーイヤーでしたっけ? 別に生没年のどっちから見てもキリのいい年ではないのですが……なんで?

 あ~、ごめんなさい! もひとつ、いっすか!?
 そういった伝記番組の他にもう一つ、私とヒッチコックとの出逢いを語る上で絶対に忘れるわけにはいかない、この番組のあの放送回に触れさせていただきたいと思います。個人ブログなんで、もちっと我慢してつかぁさい!

 それは、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』内のコントドラマコーナーで1990年12月1日に放送されたヒッチコック作品のパロディ『裏の窓』です!! うわ~なつかし~!!
 これ、もともと映画好きとしても知られているウッチャンナンチャンの趣味が爆発したような、毎回毎回有名な映画作品のパロディコントを繰り広げるコーナーの1エピソードだったのですが、特にこの回は、言わずもがなヒッチコックの超有名作『裏窓』(1954年)をそうとうぜいたくな予算のセットで再現していて、当時小学生だった私には本当に面白かったんです。足を骨折した役のナンチャンを介護する田中律子さん(当時19歳)の看護師がかわいかった! 今現在も私が健康的に日焼けした女性が大好きなのは、ここに原因があります。
 ここでは、ウッチャンが映画の登場人物でなく全身とほっぺに肥満体メイクをしてハゲヅラをかぶってヒッチコックその人を演じていたのですが、思えば、ここでの「なんか怪しげなおじさん」こそが、私とヒッチコックとのほんとに最初の出逢いだったのです。いや、本人じゃねぇけど!

 すみません、ここでいい加減にお話を戻しますが、こういったさまざまな前情報をゲットした上で最初に私が観た正真正銘のヒッチコック作品は、記憶する限りレンタルビデオでは1992、3年ごろに借りた『サイコ』(1960年)で、テレビで観た最初が NHK衛星第2(当時)の『衛星映画劇場』内で放送していた『バルカン超特急』だったのでした。やっと戻って来たよ~!!
 ここ、確か『サイコ』が先で『バル超』が後だったかと思います。なんでかっていうと、『バル超』を観てかなりほっとした記憶があるんですよ。「あ~、ヒッチコックって、やっぱウッチャンナンチャンがやってたみたいに面白い映画撮る監督なんだよねぇ!」って。

 そうなんです。『サイコ』は言うまでもなくヒッチコック畢生の大傑作ではあるのですが、やっぱりああいった感じでかなりトンガッた作品なので、正直、当時中学生だった私はドン引きしちゃってたんですよね。そしてその後に観たのがこの『バル超』だったので、その頭をからっぽにしてハラハラドキドキを楽しめる100% エンタメ全振りな内容に、胸をなでおろすことができたのでした。
 まぁ、そうやって安心した直後、調子に乗って『鳥』(1963年)を観ちゃって、再び恐怖のズンドコに叩き落されるんですけどね……もう、いじわる!!

 まぁ長々と思い出話をしましたが、私が言いたいのは、ヒッチコックのエンターテイナー、娯楽映画作家としての才能が最初にいかんなく発揮された大傑作こそが、この『バルカン超特急』なのではないか、ということなんですね。

 本作の面白さを語り出したら本当にキリがなくなってしまうのですが、大事なところをかいつまんで申しますと、「無駄な登場人物がいない」というか、「登場人物全員がキャラ立ちしている」という事実が大きいかと思います。そして、主人公であるアイリスとギルバートの凸凹コンビの好感度がハンパない!!

 上の情報の通り、本作はヒッチコック作品恒例の「男女カップル主人公」という定型を踏襲しているのですが、アイリスは婚約者との結婚を目前に控えたマリッジブルーまっただ中の娘さんで、対するギルバートは恋愛そっちのけで自身の民俗学研究に没頭するさすらいの放浪青年という、まるで接点の生じようのない関係から始まります。しかも、出逢いの最初はホテルの部屋の中でブンガブンガ大音響を立てて民俗舞踊を現地人に踊らせるギルバートにアイリスが「うっせぇ!!」と苦情を入れ、それを根に持ったギルバートが荷物をひっくるめて「同室いいっすか!? おめぇのクレームのせいで支配人から部屋追い出されたんで!!」とアイリスの部屋に押しかけるという最悪の状況から。高橋留美子のマンガか!?

 ところが、この2人があれよあれよという間に、「列車の中でアイリスが見知っている老婦人が失踪する」という謎をきっかけに距離を縮めていき、「老婦人なんて最初っからいなかったよ?」とか「モル……じゃなくてアイリス、あなた疲れてるのよ。」とか言われたりして孤立無援の状態になったアイリスを見て、「義を見てせざるは勇無きなり!!」とばかりに敢然と立ちあがった英国紳士ギルバートが彼女のナイトになるという、そりゃアイリスもフィアンセそっちのけで惚れてまうやろがいという運命的な関係に発展していくのです。

 うわ~、この甘ったるいまでのスリル&ロマンス!! まさにエンタメですよねぇ。ま、若干「吊り橋効果」の不正操作疑惑もありますが、ギルバートを演じるマイケル=レッドグレイヴの上品な雰囲気もあって、アイリスを助けるギルバートの存在は本当に飄々としていながらも頼もしく、かっこいいんです。
 いや~、このカップルってほんと、『三十九夜』のリチャード(演ロバート=ドーナット)とパメラ(演マデリーン=キャロル)の「出逢いも過程も最悪カップル」を反面教師にしてるとしか思えませんよね。リチャードは冤罪で逃亡中の身とはいえ、パメラにやってること最低すぎますから……本編終了後にパメラに速攻で訴えられるどころか、殺されても文句は言えません。

 ともかく、映画は「主人公にどれだけ感情移入できるか」が非常に大きいと思うのですが、今作は二重三重の構えでアイリスとギルバートのキャラクターを魅力的にする盤石の態勢を敷いているのです。
 私、不勉強なことに本作の原作である小説『車輪は回る』をチェックできていないのですが、アイリスのマリッジブルー設定あたりは原作由来なのかな。なんか、これまでのヒッチコック作品におけるヒロインたちは同性から見ると嫌な感じになりそうな状況に陥ることが多かった気がするのですが、婚約者をむげにフッてしまうような自由度すら持っている今作のアイリスは、けっこう画期的に新しいキャラなのではないでしょうか。

 このアイリスとギルバートの定番主人公ペアだけでも充分に面白いわけなのですが、今作のすごいところは、ここにさらに脇役ポジションでも「チャータースとカルディコット」という名コンビが加わっているという事実ですよね、やっぱ。
 上にあるように、この2人は嫌味なまでに英国紳士あるあるな滑稽さを備えたキャラであるために、本作の後に完全独立していくつもの映画やラジオドラマに登場する名コンビになっています。
 この2人の魅力は、本編序盤30分くらいの「無理やり泊まらされるはめになった雪のド田舎の宿屋」シチュエーションのやりとりでも十二分に発揮されているのですが、これが単ににぎやかし要員で呼ばれているだけでなく、のちに列車内の展開で「大好きなクリケットをバカにされたから捜査に協力してやんない」という、作品の本筋にも大きな影響を与える存在になっているのが本当に素晴らしいです。

 敵か味方かだけじゃなく、「機嫌が悪いと協力しない」第三勢力のいる作品世界って、ものすごくリアルで目が離せない緊張感を生む味付けになりますよね。ここが効いてるんだよなぁ! チャータースとカルディコットは、『それいけ!アンパンマン』のドキンちゃんやロールパンナの祖先だった……!?

 まぁ、終盤の銃撃戦でこの2人が異様に頼もしい戦力になるのは、さすがにご都合主義な感も否めないのですが、それも「俺達のクリケット観戦の邪魔をする奴ら……全員ぶっ殺す!!」という、イギリス・ウェールズ伝統の聖獣レッドドラゴンの逆鱗に触れた当然の結果であるとも言えます。よくできてんなぁ~。

 ちょっと、字数の都合で登場人物全員の魅力を語るわけにもいかないのですが、取り上げた2カップル4名の他にも、今作最大の謎の渦中にいる謎の老婦人ミス・フロイから田舎ホテルの支配人ボリスにいたるまで、もはやマンガチックと言うまでにキャラの立った人物のオンパレードで、本作は本当に楽しいです。もちろん、だからといって単なる喜劇になっているわけでは決してなく、楽観的で平和主義を標榜するトッドハンター弁護士があんな目に遭ってしまう描写なんかは、背筋がぞわっとするリアルさがありますよね。一瞬にして場の空気が変わる、その見事な演出。

 たくさんいる魅力的なキャラの中でも、特に私がおおっと感じたのは、クライマックスになって実はそうとう悪い役だったと判明する、あの人ですよね。それまで列車の中では無口で目立たない存在だったのに、主人公たちの乗る列車が走り去るのを見て、ハーツ医師の横でタバコをスッパーと吸って微笑する姿は、悪の大幹部の魅力たっぷり! あっ、この人、前作『第3逃亡者』で意地悪な叔母さんを演じてた人か! そりゃ悪いわ。


 俳優さんに限らず、この作品は本当に語るべき魅力がたくさんあふれまくりの大傑作なのですが、やはり主人公たち一行と観客の視線が一緒になって、「異国の地で孤立無援となったヒロインは救われるのか」、「失踪した老婦人はどこへ行ったのか」、そして「一行の乗ったバルカン超特急は無事に終着駅にたどり着くことができるのか!?」という興味がクライマックスに向かってきれいに集束していく構造の美しさ! ここが最大の魅力だと思います。ただ笑えるシーンやドキドキするシーンがつるべ打ちになってるだけじゃなくて、全てが伏線となってハッピーエンドにつながってゆく……無駄な部分がほぼないんですよね。

 よく言われますが、国際的にかなり重要な機密情報が、ほんとにあんな単純で短い鼻歌のメロディにおさまりきるのかという問題は当然あります。でも、

「こまけぇこた、いいんだよ!!」

 という、チャキチャキのロンドンっ子ヒッチコックのエンタメ精神が、これほどまでにはっきり打ち出されたマクガフィン要素も、他作品には無いのではないでしょうか。後年の『サイコ』における「横領した現金4万ドル」と比べて、どんだけ粋で風流なんだって話ですよ。


 本作『バルカン超特急』は、確かにヒッチコック「全生涯中のベストはどれか?」という観点からすれば、決して目立つ位置にはいない作品であるとは思います。
 しかしながら、彼がただの映画監督どころか、名匠と讃えられるレベルの人達の中でも、さらに数段上の次元に達している人物であるがゆえに、そんな信じられないクオリティのインフレを招いているのであって、『バルカン超特急』単体は押しも押されもせぬサスペンス映画の大傑作であることは間違いないでしょう。
 古い映画とあなどることなかれ……ほんと、観て絶対に損しない名作だと思いますよ。時間だって1時間半ちょっとよ! ぜひぜひ見てみて!!

 こうして、監督デビューから13、4年目にしてとんでもない傑作を生んでしまったヒッチコック監督なわけですが、この才能はイギリス一国に留まらず、海を渡って映画の都ハリウッドへと、進化の場を移していくのであります!
 さぁさぁ、 サスペンスの巨匠ヒッチコックの真の大躍進の場となるアメリカ・ハリウッド編が、ついに始まるぞぉ~!!


 ……え? ハリウッド編、まだ? もう1本、イギリス時代の作品が残ってるって?

 あぁ、そう……じゃあ、次回はそれいってみよっか。そのあとハリウッドね、うん……
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