長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ヒッチコック meets 赤川次郎チック少女冒険譚!? ~映画『第3逃亡者』~

2024年06月02日 23時10分13秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます~。週末いかがお過ごしでしょうか。明日からまた月曜日! ひえ~。
 いよいよ私の住む山形も雨のお天気が増えてきまして、梅雨入りももうすぐかな、という感じになってまいりました。とは言っても、まだまだ先かな。キュウリ、キュウリ! うちの食卓のどこかに必ずキュウリが顔を出す季節がやって来ます……キュウリが嫌いじゃなくてほんとに良かった。
 キュウリって、食べるのが平気な人から見たら、そのまんまでも漬け物にしてもサラダに加えても、何にでも応用が利く素晴らしい食材ですよね。やみつきキュウリ最高!
 しかし、そんな万能選手なキュウリでも、嫌いな人はその強い「青臭さ」が苦手なので、どの料理に参加しても必ずその存在感を隠さず発揮してしまうところがたまらなく嫌なのだそうです。確かにキュウリは、トマトやナスほど「生だった時代の自分を消す」ことはできませんよね。頑固一徹というか、自分を貫くというか。

 ということで今回は、どのジャンルの作品を撮影しても、自身の色やセンスが隠しようもなく見えてしまうヒッチコック監督の諸作の中でも、特に「青春の青臭さ」のただよう傑作を……もう、何も言わないで! 強引なのは私が一番知ってるから。助けてキューちゃん!!


映画『第3逃亡者』(1937年11月公開 84分 イギリス)
 『第3逃亡者(だいさんとうぼうしゃ)』 (原題:Young and Innocent)は、イギリスのサスペンス映画。イギリスの推理小説家ジョセフィン=テイ(1896~1952年)による、スコットランド・ヤードのグラント警部を主人公とする小説シリーズの第2長編『ロウソクのために一シリングを』(1936年)の映画化作品である。 ただし、本作での真犯人は、原作小説とは異なる人物に設定されている。

 本作の見どころとして、クライマックスシーンにおけるクレーンを使った大がかりな移動撮影によって、真犯人の居場所を観客にだけ先に明示する約70秒間のワンカット撮影シーンが挙げられる。
 ヒッチコック監督は本編開始15分34秒、裁判所前で小さなカメラを抱えた記者の役で出演している。


あらすじ
 ある朝の海岸で、水着姿の映画女優クリスティーン=クレイの遺体を偶然発見した青年ロバート=ティズダルは、殺人犯と誤解されて逮捕されてしまうが逃亡し、警察に追われながらも、警察署長の娘エリカの助けを借りながら真犯人を探し出して自らの潔白を証明しようと奮闘する。

おもなキャスティング
エリカ=バーゴイン    …… ノヴァ=ピルビーム(18歳)
ロバート=ティズダル   …… デリック=デ・マーニー(31歳)
バーゴイン署長      …… パーシー=マーモント(54歳)
エリカの叔母マーガレット …… メアリー=クレア(45歳)
エリカの叔父ベイジル   …… ベイジル=ラドフォード(40歳)
ケント警部補       …… ジョン=ロングデン(37歳)
ウィル爺さん       …… エドワード=リグビー(58歳)
男            …… ジョージ=カーゾン(39歳)
クリスティーン=クレイ  …… パメラ=カルメ(?歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(38歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(38歳)、エドウィン=グリーンウッド(42歳)、アンソニー=アームストロング(40歳)、ジェラルド=サヴォリ(28歳)、アルマ=レヴィル(38歳)
製作 …… エドワード=ブラック(37歳)
音楽 …… ルイス=レヴィ(43歳)
撮影 …… バーナード=ノウルズ(37歳)
編集 …… チャールズ=フレンド(28歳)
制作 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社


 ということでありまして、今回はイギリス時代のヒッチコック監督の手腕もいよいよピークに近づいてきた、監督第21作の登場でありんす。
 作品の内容に関するつれづれは、いつものように後半の視聴メモにまとめましたので総論から言いますと、この作品は全体的に非常にコメディチックでライトな雰囲気でありながらも、随所でヒッチコック監督の専売特許である「細かいカットの切り換えしによるスピーディな映像」が楽しめるハイクオリティな娯楽作となっております。

 この作品、邦題が『第3逃亡者』ということで、『三十九夜』(1935年)みたいに主人公がヒーヒー言いながら逃亡するサスペンスなのかなと思われる方もいるかも知れないのですが、原題を直訳すると『若者と子ども』ということで、青年ロバートと18歳の少女エリカの2人が奇妙な逃走劇を繰り広げながらも、ロバートにおっかぶせられた殺人容疑者の疑いを晴らすべく真犯人を追うという愉快痛快な冒険スリラーになっているのです。
 しかも、2人のうち実質的な主人公となるのは少女エリカのほうで、裁判所から逃走してお尋ね者となっているロバートに変わって活躍する場面が非常に多く、事件解決後のラストカットも彼女の笑顔になっているので、まるであの、薬師丸ひろ子あたりが主人公となって1980年代前半に大ブームとなった角川アイドル映画群、もしくは NHK-FMのラジオドラマシリーズ『青春アドベンチャー』や NHK教育(当時)の「少年ドラマシリーズ」 をほうふつとさせるジュブナイル映画の先駆け的傑作なんですね。カイ……カン♡

 エリカを演じたノヴァ=ピルビームさんは、正面から見た顔こそ、眉毛と目つきがきりっとしていて実年齢以上に大人びた雰囲気はあるのですが、ロバートたち大人の男どもと並ぶといかにも体格が小さくて華奢ですし、横顔も意外とデコッぱちなラインを描いているので、人並外れて義侠心のあるだけのフツーの18歳の少女が青年の冤罪を証明するという、赤川次郎作品にありそうな、大人顔負けの子どもが大活躍する作品に仕上がっております。
 作中のノヴァさんの凛としたたたずまいは非常にかっちょよく、薬師丸ひろ子というよりはむしろジブリアニメのヒロインのようなりりしさに満ちているのですが、たとえば警察の追手がすぐそこまで迫ってきているのに、冷静に愛車のセダンのフロントグリルにささったクランク棒を半回転させて、ノーミスでブルンッとエンジンを起動させて運転席に飛び乗る一連の仕草なんか、もうこれに惚れずになにに惚れるんだっていう漢前感ですよね。あれ、一発で起動させるのそうとう難しいんじゃないの!? かっけぇ!!

 いや~、こういう映画が、第二次世界大戦のおよそ2年も前に作られてたんだねぇ。さすがはイギリス、文化レベルが高い。

 ただ、実はここまで少女エリカが前に出てクライマックスまで活躍するのは、毎度おなじみヒッチコック監督による映画化の際の完全オリジナルな改変なのでありまして、本作の原作となった推理小説『ロウソクのために一シリングを』(1936年)では、エリカの活躍はせいぜい物語の中盤程までとなっており、ロバートの出番もさらに少なく、あくまでも女優殺人事件の捜査の中で発生したエピソードのひとつとしてしか語られていないのです。ヒッチコック監督、ふくらましたねぇ~!!
 具体的に言うと原作小説『ロウソク……』は、序盤でロバートが女優殺害の濡れ衣を着せられる展開や、彼を助けるために警察署長の娘エリカが冤罪の証拠となる「ロバートのコート」を捜すという流れこそ同じではあるのですが、女優が生前に残した遺言書にロバートのことは全く書かれておらず、映画版には一人も登場しなかった女優の親族・関係者たちが捜査線上に容疑者としてあがっていくというように物語が分岐していきます。つまり、わりと早めにエリカの奮闘によってロバートが真犯人でないことが判明して、その後は女優の周辺の人物たちの中から真犯人を探し当てていくという、非常にまっとうな本格ミステリーにシフトしていくのが原作小説なんですね。

 ここで特記しておきたいのですが、原作小説『ロウソク……』も、映画版とは全く違うベクトルでめちゃくちゃ面白い推理小説となっております! ハヤカワ・ポケットミステリから邦訳が出ているのですが、1930年代にこういう真犯人の設定してる作品があったんだ……と私はビックリしました。もちろん、映画版の真犯人とはまるで別の人物です。
 これ、ふつうにデイヴィッド=スーシェの「名探偵ポワロ」シリーズみたいに原作に忠実に映像化しても面白いと思いますよ。ただ、本作の名探偵であるグラント警部がいまいちパッとしないんだよなぁ。原作でロバートをみすみす逃亡させてたのもこの人のせいだし。
 でも、この原作の真犯人像って、好きですねぇ。スーシェ版の「名探偵ポワロ」の中にも、非常に似たテイストの犯人が出てくる傑作があるのですが、それも私、大好きなんだよなぁ。いいですよね、こういう人間の心の闇が生む犯罪……

 意外とダークな味わいの原作小説と違って、ヒッチコックが映像化した映画版はきわめて明朗快活な娯楽作で、例えて言うのならば、日本の江戸川乱歩の大人向け通俗探偵小説『猟奇の果』(1930年)とか『影男』(1955年)が原作小説『ロウソク……』側で、子ども向け探偵小説の『怪人二十面相』(1936年)とか『超人ニコラ』(1962年)が映画版側、ということになるでしょうか。要するに、完全オリジナルではないのですが、原作の中の「エリカの大冒険!」パートのみの抽出してひとつの作品にまで拡大したのが映画『第3逃亡者』なわけなのです。

 あ~そうか、イギリスで本作が出ていたのとほぼ同時期に、日本でも『怪人二十面相』を皮切りとする大乱歩の「少年探偵団シリーズ」も産声をあげていたんですなぁ。なんか、浅からぬ縁を感じますな。映画好きの乱歩だったらイギリスで『 Young and Innocent』という映画が出たという情報は絶対に掴んでいたでしょうけど、『怪人二十面相』の連載開始のほうが先なんですよね。イギリスに天才あらば、極東にも天才あり!


 本作『第3逃亡者』は、ちょっとお堅いタイトルからは想像できないような、肩の力を抜いて楽しむこともできるファミリー向けな娯楽作となっております。ただし、ちょっとしたアクションにも細かなカットの切り換えしを入れて臨場感を持たせる編集の妙や、グランドホテルのロビーとミュージックホールの実寸大セットを壁ぶち抜きで製作し、そこを縦横無尽に動くクレーンを投入して70秒間長回しのカットを創出するカメラワークなど、当時のヒッチコックが全力をかけて本気で作った意欲作であることは間違いありません。エンターテイナーとしてのヒッチコックの、当時の時点での最高の仕事を堪能できる傑作になっていると思います。
 唯一の瑕疵というのならば、作中の警察の方々がびっくりするくらいに無能ぞろいなところくらいですかね……『ルパン三世』第2シリーズの警察か君たちは!? ま、作品の流れ上、いたしかたないよね。有能だったらロバート速攻でとっつかまって話が続かないから。

 まぁ、その「ヒッチコック史上最高」の記録は、このすぐ後の次作でいとも軽々と更新されちゃうんですけどね! すげーなヒッチコック!!


≪いつもの視聴メモ~!≫
・ジャズ調のアップテンポな音楽で始まり、開幕の嵐吹きすさぶ夜のシーンから、女優を殺害する真犯人の顔と、彼が女優の夫であること、そしてその犯行動機までもが矢継ぎ早に観客に提示されるというスピード感がハンパない。でも、原作小説の真犯人とは全くの別人なので問題ナシ!
・嵐の去った翌朝、快晴のドーバー海峡の砂浜に打ち上げられた女優の遺体! モノクロではあるのだが海岸の情景は非常に美しく撮影されていて、もともとヒッチコック監督が鉄道と同じくらいに海や船の撮影も好きであることを思い出させてくれる(『マンクスマン』や『リッチ・アンド・ストレンジ』など)。
・女優の遺体を最初に発見したがためにいろいろひどい目に遭ってしまう主人公ロバート。高身長のハンサムというわけではないのだが、マイケル=J・フォックスやオリエンタルラジオの藤森さんみたいな、人たらしっぽくて憎めない顔立ちの青年である。いいキャスティング!
・ロバートの次に遺体を発見して恐れおののく女性2人の表情に、空を舞うカモメのスローモーション映像をかぶせ、遺体を直接撮影しないところが非常にお上品。
・ちゃんと警察に通報したのに、「第一発見者こそ怪しい」みたいな雰囲気だけで身柄を確保されてしまうロバート。ひどすぎ……哀しいけど、これ、ヒッチコック映画なのよね。理屈よりもテンポ重視!
・被害者と親しかったことと、遺体のそばにあったベルトがロバートのオーバーコートから取れたものらしいことを警察が調べ上げ、ロバートの旗色は俄然悪くなってしまう。本作でのキーワードとなるこのベルトは、原作小説ではコートのボタンである。もちろん、映画として見栄えするという理由からの変更だと思われる。
・ロバートを追求する理知的なケント警部補を演じるのは、『ゆすり』(1929年)以来ヒッチコック作品にちょいちょい出演しているジョン=ロングデン。刑事役が似合う。
・殺された女優が生前、ロバートに資産1200ポンドを譲る旨の遺言書を残していたと知り、ロバートはプレッシャーのあまり失神してしまう。ちなみに1937年当時の1200ポンドの価値は、現在の日本円にして約1200万円である。う~ん、そんなに多くもないのが逆に生々しい!
・失神したロバートを、刑事そっちのけで率先して介抱する本作のヒロイン・エリカ! 演じるのはヒッチコック作品『暗殺者の家』(1934年)で子役を演じていたノヴァ=ピルビーム18歳。本作のタイトルでは身もフタもなく「子ども」と評されている彼女だが、のっけから義侠心にあふれた漢気あふれる勇姿を見せてくれる。顔立ちこそ正統派な美人ではないものの、いかにも刑事の娘らしくきりっとしたまゆ毛と鋭い眼光がすばらしい。親父さんのバーゴイン署長のほうが、逆にのほほんとした顔なんですよね。
・冒頭の真犯人といい失神したロバートといい、男どもが女優さんがたに、これでもかというほどにビンタされるくだりが頻繁に出る。ヒッチコック監督、ご趣味がもれてます!
・ロバートの顔を見て「人殺しをするような顔じゃない。」とつぶやくエリカ。それを聞いた刑事が「見た目で判断しちゃいけませんぜ。」と諭すと、何を勘違いしたのかエリカは冷たい表情で「べっ、別にタイプだからってかばったわけじゃないんだから!」と答える。お~い、ツンデレ! 第二次世界大戦前のツンデレ発見!! しかもこれ、原作小説にもがっつりあるくだり!
・そうやってエリカがツンとなったかと思えば、エリカのおかげで失神から目が覚めたロバートも、開口一番「し、失神なんかしてないぞ。」と意味不明な意地を張って応戦する。相性よすぎだろ、この2人。ちなみに、こっちのロバートの返し言葉は原作には無い。脚本、グッジョブ!
・登場してすぐに立ちまくったキャラクターを発揮するエリカだが、さらには警察署長の令嬢で車の運転もお手の物というおてんば娘でもあった。いや~、このへんのつるべ打ち感、21世紀でも全然通用する軽快なテンポである。映画というよりはテレビドラマっぽいけど。
・さほど物語には絡んでこないのだが、裁判がかなり不利な状況なのに他人事のようにのんびり天気の話などをして、ロバートが大丈夫なのかと尋ねると「今すぐ前金払える?」と外道なことをぬかす高田純次みたいな弁護士のおっちゃんがいい感じにひどい。そりゃロバートも早々に見切りをつけるわ!
・裁判所の喧騒にまぎれてみごと脱走に成功するロバート。ここでの、ちょっとした廊下の混みあいにまぎれた失踪からさざ波のように「被告が脱走したってよ!」の伝言ゲームが始まり、最終的に裁判所から全員が逃げ出してパトカーがバンバン出動する大騒ぎに発展するピタゴラスイッチな流れが非常に丁寧で面白い。その中にちっちゃなカメラを抱えた記者の役で、迷惑顔のヒッチコック監督自身がいるのも粋である。
・本作ではエリカの愛車として、当時としても古いと思われるオープン形式のセダン車が大活躍するのだが、いちいちフロントグリルに付けたクランク棒(スターティングハンドル)を回してエンジンを起動させなきゃいけないのが古式ゆかしい。ジブリアニメの『紅の豚』か! このコツのいる力仕事を自分でやれるっていうのが、エリカ18歳のすごいとこなんだな! 余談だが、1930年代の当時でも車内からの操作で電力によってエンジンを起動させる機能(英語でセルフスターター。日本でよく使われる「セルモーター」は和製英語)はすでに普及しており、クランク棒を使って起動させるエリカの姿は周囲からそうとう珍しく見られていたと思われる。今で言うと、うら若い娘さんがマニュアル車を運転しているようなものだろうか。かっこいいな!
・このエリカの愛車についてなのだが、実は原作小説での愛車(「ティニー」という愛称もある)は、イギリスの自動車メーカー「モーリス」の2ドア小型車である「初代モーリス・マイナー」(1928~34年製造 車長3m、重量700kg、最高時速88km)であると推定され、映画に登場するような立派な図体のセダン車(おそらく同じモーリスが1919~26年に製造していた「2代目モーリス・カウリー」と思われる)ではない。また、映画で描写されるようにクランク棒で人力起動させることもなく、普通に車内からの電力起動でエンジンをかけている。要するに、原作版のエリカは若い女性が一人で使用する車として機能的にも価格的にも順当な小型中古車を使っているのに、映画版のエリカはわざわざロープを使ってレバーを引きながら人力起動させなければいけない(=電力起動が故障している)ほどに古くて無駄にでかいセダン車を使っているのである。これはつまり、ロバートがエリカの車のトランクに隠れて裁判所からの逃走に成功するという映画オリジナルの展開のために小型車でなくセダン車にしたという理由もあるし、何よりも「画的に面白い」という動機から原作以上におんぼろな車種にしたものと思われる。いや~ヒッチコック監督、この頑ななまでの「原作がどうか知らんが、映画的には絶対にこっちの方が面白い」と確信した時のためらいの無いアレンジが微に入り細に穿ちまくりである。こまけ~!!
・中古車をはさんでのエリカとロバートの奇妙な出逢いから、2人がロバートの無実を証明するコートを探し求めるドラマチックな逃避行の始まりとなるのだが、原作小説での2人の接触はほんの数分間のみで、ロバートはエリカを巻き込むまいと早々に姿を消し、彼の無実を確信したエリカが単独でコートを探すという流れとなる。まぁそっちのほうが現実的なのだが、どちらのバージョンでもエリカが人並外れた義侠心の持ち主であることに変わりはない。むしろ原作版のエリカは行きがかり上の必要から、スカートの下に履いていたブルマの内側に刺繍された自分の名前を、初対面の中年男性にめくって見せるという映画版以上にきわどい行動もとっていて、ほんと、勇気と無謀が紙一重の大冒険をしてしまうのである。さすがにこれ、当時の映画界では映像化不可能だったろうなぁ。
・宿なしの連中がたむろする定食屋「トムの帽子」に単独潜入するエリカに、亭主がうっかり見慣れないコートを着たウィル爺さんの話をしてしまい、ウィル爺さんをかばおうとする連中と正直に話そうとするトラックの運ちゃん達とで壮絶な殴り合いに発展してしまう。ここ、やっぱり殴り合いの部分が映画オリジナルなので、別にウィル爺さんから金をもらってるわけでもないのに殴り合いまでする理由がよくわからない。まぁ、それだけ仲間意識の強いホームレスさんなんだな、ということで……
・展開的には強引なのだが、この客同士の大乱闘のおかげで、巻き添えをくらって流血してまでもエリカを救おうとしたロバートの勇気が証明される重要なシーンとなったので、映画的にはオールオッケー! でも、あのドリフのコントみたいな噴水のくだり、2人ともよく笑わずに演技できたな……
・ロバートの「君の左折に感謝するよ。」というセリフも粋だが、その後に並木道をさっそうと去って行くロバートの後ろ姿も、後年の歴史的名画『第三の男』(1949年)の構図を先取りしているようで小憎らしい。そしてそこからの「続くんかーい!」な流れは、ユーモアセンスが冴えわたる流れである。
・2人が忍んでエリカの叔父叔母の邸宅に寄ったところ運悪く誕生パーティの真っ最中で、しかも詮索好きな叔母とお人よしすぎる叔父のために予想外の足止めをくらうという展開が観ていてハラハラするわけだが、別にその時点で警察が『三十九夜』のように全力で2人を追っているわけでもないので、いまひとつ緊張感がわかないのが惜しい。ロバートの人相が知れ渡るテレビニュースみたいなツールも無いしね……のんびりしたもんです。
・どうやら仲が良くないらしい妹マーガレットからのチクリ電話によって、娘エリカに変な男が同行していることを知るバーゴイン署長。最初こそ「まぁあいつも年頃だし、彼氏の一人や二人……」と余裕の表情だったが、なんとその相手がくだんの逃亡者らしいと聞いて愕然としてしまう。とは言っても、愛娘が殺人犯の恐れのある男と2人きりでいるという絶望的状況にぶち当たった割には、的確に捜査網を張って2人を確保寸前まで追い詰めているので署長は意外と冷静である。さすが父娘、エリカに対して「そう簡単におっ死ぬようなやつじゃないよ、あいつは。」という堅い信頼があるのであろうか。
・本作は原題通りにロバートとエリカの逃避行が中心の物語となるので、運転席と助手席に並ぶ2人を映す「スクリーンプロセス」撮影のシーンが非常に多い。だが、さすがヒッチコック監督というべきか、バーゴイン署長の張った検問を抜けた時に慌てふためく警察官たちを背景に映すなど、合成前の映像にもしっかり演技をつけているので、観ていて飽きない。それにしても、2人が突破した検問のお巡りさんは、非常時にすぐ出動できるパトカーも用意していなかったのか……役に立たなすぎ!
・ほんとに一瞬しか使われないのだが、捜査網から逃れた2人が潜入した地方駅の車両倉庫を遠景で映すために、町並みから線路から、そこを走る汽車や自動車、果てはロバートとエリカの人形までをもミニチュアサイズで制作して撮影する力の入れようがものすごい。ふつうの特撮映画だったら、そういうのが出てきたらのちのちハデに破壊されるのかとか思うじゃん? それが、そんなスペクタクルほとんどないんだなぁ! 監督、ロケ撮影めんどくさかった!?
・浮浪者用の安宿「ノビーの宿」で、問題のウィル爺さんを待つロバート。逃避行でたまった疲労からついつい熟睡してしまい、朝に起きるとウィル爺さん用のベッドには誰かが寝ていた跡が! ここでの「人間の形にへこんだベッドの跡」という小道具が、のちのちの『サイコ』(1960年)のあるカットを彷彿とさせる。こんなに昔から使ってたキーワードだったんだなぁ。
・念願のウィル爺さんを確保したロバートは、エリカの車で駅から脱出するが、その時にミニチュアと実景を非常にうまく組み合わせたカーアクション撮影で、パトカーに追われる緊迫感を見事に演出している。ここ、横転クラッシュや爆発炎上が当たり前の昨今のハデハデなカーアクションから見ればかわいらしいことこの上ないひと幕なのだが、0コンマ何秒で切り換わるカット割りがスピーディなので、21世紀の現在でも固唾を呑んで楽しめる場面になっている。やっぱ、映像作品はカット割りが命!
・とっつかまえたウィル爺さんから、ベルトの無いロバートのコートをくれた謎の男の存在を聞き出し、2人はついに女優殺害の真犯人にたどり着く。この、ロバート、エリカとは別の「第3の逃亡者」の出現で邦題の伏線回収となるわけだが、ここまでかれこれ約1時間、真犯人の動向はまったく語られていないので、やっぱり邦題はいまいちピンとこない感がある。そもそも、真犯人は逃亡してねぇし! 薬のみながら頑張って働いてるし!
・駅からなんとか逃れたものの、結局エリカは逃げ込んだ炭坑で警察に確保され、ロバートとは離れ離れになる。ここも、単に別れたというだけでなく、1分そこそこの場面なのにかなり大規模な炭坑崩落の実寸大アクションを入れてくるのが贅沢きわまりない。エリカの愛車と愛犬、お疲れさまでした。
・ロバートと別れて警察の厳重な取り調べを受け、失意のていとなるエリカ。原作のエリカはバーゴイン署長の一人娘なのだが、映画版では4人の弟たちがいる設定となっている。普段は元気でうるさいのに、お父さんにこってりしぼられたエリカを気遣いシュンとなってしまう弟たちの様子がほほえましい。
・1~2日の逃避行の中でロバートが犯人でないことを確信したエリカだったが、逃亡犯を手助けした上に頑固にかばおうとする娘を深刻に思ったバーゴイン署長は、自身の辞表さえをも用意してロバート捜索に血道をあげる。まぁ、はたから見たらエリカの言動はストックホルム症候群以外の何者でもないだろうしね……
・しかし、バーゴイン署長が自身のバッジも懸けて捜索しているというのに、他ならぬ署長の邸宅に侵入してまんまとエリカに再会しおおせるロバートの逃亡スキルがハンパじゃない。1人で逃げてんじゃないよ、ヨボヨボのウィル爺さんも一緒なんだぜ!? ジャパンのニンジャもビックリな隠密行動術だ。
・真犯人につながるたった一つのキーアイテム「グランドホテルのマッチ」をつかみ取り、物語はついに伝説の「約70秒間のワンカット撮影」をまじえたクライマックスへ! そこで単に盛り上がる音楽を流すというだけでなく、演奏するバンドの中に……という演出が非常に巧妙でニクい。『暗殺者の家』でのオーケストラ公演中の殺人に並ぶアイデアだと思う。もちろん、こんな展開は原作小説のどこにもない。
・グランドホテルの場面は、観客がすでに冒頭で真犯人が誰なのかを知っているので、『刑事コロンボ』のように真犯人が追い詰められるハラハラを中心に描く倒叙ものミステリーのような楽しみ方となる。ただ正直言って、本作に名探偵のようなポジションの万能キャラがいないので(原作小説にはいるのに……)理論で真犯人が責め立てられる醍醐味はなく、エリカのいつもの義侠心によって「たまたま」真犯人が見つかるという結末なので爽快感はさほどないのだが、「天網恢恢疎にして漏らさず」といった因果応報なラスト、と言えるかもしれない。なによりも、捕まったことでホッとしたような朗らかな笑顔を浮かべる真犯人の表情が興味深い。結論:悪いことはしちゃダメ!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おもしろ要素ばっかりなのに、なぜ退屈!? ~映画『間諜最後の日』~

2024年03月20日 20時18分37秒 | ふつうじゃない映画
 どもどもこんばんは、そうだいでございます。
 え~、今回は例によって、別に誰が待っているわけでもないのに個人的になんとな~く続けている「ヒッチコックのサスペンス映画をなるべくぜ~んぶ観てみよう企画」の続きでございます。巨匠ですから作品数も多いような先入観があるのですが、よくよく調べてみると黒澤明監督みたいな感じで、それほど多いってわけでもないんですよね。だいいち、おおむね面白い作品ばっかりなので苦痛じゃないし。
 昨今のガチャガチャした最新映画もけっこうですが、たまには温故知新、昔の傑作もひもといてみないと、もったいないやねぇ。

 そんでもって今回なのですが、これは世間的な評判はどうなのかわからないのですが、個人的には「珍しくヒッチコック監督の采配がうまくいっていない作品」であると見ました。いや、それでも合格点以上のおもしろさではあると思うんですけれど!

 たまには、失敗から教訓を学んでみるというのもよろしいのではないでしょうか。
 かの松村邦洋氏も言っております。「失敗に成長あり、成功に成長なし」! けだし金言ですね~。


映画『間諜最後の日』(1936年5月 87分 イギリス)
 『間諜最後の日(かんちょうさいごのひ 原題:Secret Agent )』は、イギリスのスパイ・スリラー映画。イギリスの小説家サマセット=モーム(1874~1965年)原作の連作短編小説『アシェンデン』(1928年発表)内のエピソード『 The Traitor(裏切者)』と『 The Hairless Mexican(禿げのメキシコ人』の映画化作品である。
 ヒッチコック監督は、本編開始約8分30秒にジョン=ギールグッドと共にスイスに降り立つ乗客の役として出演している。

あらすじ
 第一次世界大戦中の1916年5月10日。イギリス帝国軍大尉で小説家のエドガー=ブロディは休暇で帰国したところ、新聞に自分の死亡記事を発見する。ブロディは「R」と名乗る軍高官のもとに連行され、Rはブロディに、中東で動乱を引き起こすためにアラビアに向かうドイツ帝国のエージェントを見つけ出し事前に排除するという極秘任務を命じた。同意したブロディには「リチャード=アシェンデン」という新たな名が与えられ、「禿げのメキシコ人」や「将軍」などと呼ばれるプロの殺し屋の協力を得ることとなる。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(36歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(36歳)他
製作・配給 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社

おもなキャスティング
エドガー=ブロディ / リチャード=アシェンデン …… ジョン=ギールグッド(32歳)
エルサ=キャリントン …… マデリーン=キャロル(30歳)
モンテスマ将軍    …… ピーター=ローレ(31歳)
ロバート=マーヴィン …… ロバート=ヤング(29歳)
ケイパー   …… パーシー=マーモント(52歳)
ケイパー夫人 …… フローレンス=カーン(58歳)
R      …… チャールズ=カーソン(50歳)
リリー    …… リリー=パルマー(22歳)


 こういう感じの基本情報なのですが、まずまぁ今回は作品を観て、具体的に「どこがどう良くないのか」を感じていただくのがよいかと思います。ですので、このブログ内で詳細に物語の経緯を説明するのも話が長くなるだけですし、最初にこの作品を鑑賞してみてのわたくしの感じたポイントをざっと羅列するところから始めさせていただきます。
 もし、まだこの作品を観たことのない方でご興味がある方がいらっしゃったら、ぜひともこれを良い契機にご覧になってみてください! いかんせん90年近く昔(!)の映画なわけですが、少なくともピーター=ローレの演技には21世紀にも通用する不思議な魅力がありますよ。


≪いつものよぉ~に 視聴メモ≫
・冒頭でしめやかに行われた軍人の葬式の直後、参列者が式場から去って行った瞬間に、蝋燭の火でタバコをふかしながら空っぽの棺桶を片付けようとする片腕の上司らしき軍人高官の一見不可解な挙動が、これから始まる物語の波乱万丈っぷりを予見しているようで興味深い。にしても、参列者の誰かが「すんません、忘れもの……」なんて言って戻ってきてもおかしくないうちから、火の点いた蝋燭をぶっ倒してもおかまいなくドンガドンガと撤収にかかる段取りがいかにもマンガチックで、ヒッチコックらしい「論理よりも印象」な演出の一端が垣間見える。むちゃくちゃやな、君!
・第二次世界大戦のロンドン空襲はつとに有名だけど、第一次世界大戦でもロンドンは空襲されてたんだ……と今さらながら勉強になった冒頭の空襲シーンなのだが、マット画による遠景描写と爆発音に薄暗い照明という地味な演出ながらも、本作が制作されたのは「第一次世界大戦のおよそ20年後」で「第二次世界大戦のわずか3年前」である。つまりはリアルにきな臭い時期に作られたわけで、娯楽作品ながらも何かしらの危険な空気をかぎ取っていたのではないかと邪推してしまう切迫感があるような気がする。ま、経験していないにしても第二次世界大戦の歴史をちょっとでも知ってる未来人が見たら、そう思っちゃいますわな。
・勝手に死んだことにされてプンスカ憤る主人公に、大英帝国の存亡にかかわる重要な極秘プロジェクトの命がくだされる!という荒唐無稽な展開が非常にテンポよく進む。う~ん、007の大先輩!
・一国の首都に敵軍の空襲が及んでいるというかなりヤバい戦況なのだが、Rのおっちゃんが泰然自若として「部屋の水槽の金魚がおびえて困るよ。ははは。」みたいに受け流しているのが実にイギリスっぽい。日本じゃ真似できんわ……
・アシェンデンに協力する怪しい二重スパイのモンテスマ将軍役のピーター=ローレは『暗殺者の家』(1934年)に続いて二度目のヒッチコック作品への出演なのだが、さすが国際的怪優と言うべきか、前作とは全く違う意味で危険な男を嬉々として演じている。前作の落ち着きまくったラスボス役も良かったが、当時若干30歳前後ということで、今作のねずみ男みたいな小悪党キャラの方が実年齢に近そうなハイテンションで元気いっぱいな演技で楽しい。そして、どっちの作品でも染谷将太によく似てる……
・アシェンデンと初めて会った時に、アシェンデンそっちのけで Rのいる官邸のメイドを追っかけまわしていた好色な将軍を見て交わしたアシェンデンと Rとのそっけない会話が実にいい。「彼は女専門の殺し屋なんですか?」-「女以外も殺すよ。」
・今作のヒロインである女スパイのエルサを演じるのも、今作が前作『三十九階段』に続いて二度目の出演となるマデリーン=キャロルで、のちにヒッチコック監督作品のトレードマークとなる「金髪美女ヒロイン」の伝統が本格的に始まる最初の女優さんということになる。彼女もまた、前作で演じた「巻き込まれ型一般女性ヒロイン」とはまるで違う、クセも裏もありまくりで元祖ふ~じこちゃ~んみたいなスパイを好演している。前作もそうとうに気丈な女性ではあったが、今作もまた別のしたたかな魅力がある。
・出会った瞬間にエルサにモーションをかける将軍だが、アシェンデンの妻という名目になっていると知って途端にブチギレて暴れ出す。この情緒不安定さが『暗殺者の家』では観られなかったローレのコメディセンスを示してくれてうれしい。ただ、それだけに将軍の「プロの殺し屋」という裏の顔の闇が深まるんですけどね……
・スイス入りした翌日にランゲンタール村の教会におもむき、イギリスに寝返ったドイツのエージェントとの接触を試みるアシェンデンと将軍。しかし教会に足を踏み入れるとエージェントはすでに……という展開はテンポがよく、死体が教会のパイプオルガンの鍵盤に突っ伏しているために音が鳴り響き続けているという音響効果もけっこうなのだが、教会の外にいても聞こえるような音量になっているので村人が異常に気付かないわけがないし、近づく前から死んでいることが丸わかりなので結果が読めてしまうのが惜しい。アシェンデンと将軍がたっぷり時間をかけて慎重にエージェントに近づく挙動とも矛盾しちゃってるしなぁ。ここは絶対に無音の方が良かったと思う。演出の明確な失敗が見られる、ヒッチコック監督にしては珍しい例ではなかろうか。
・教会に入ってくる人影を見て、慌ててアシェンデンと将軍が上階の鐘楼に登るという判断も、とてもじゃないがプロのスパイのするものではないと思う。どうやったって逃げられない状況に自分達から突っ走っちゃうんだから、それをピンチと言われても、どうにも感情移入しづらい……
・教会で袋のネズミになっているアシェンデンと将軍の苦境も知らず、その頃エルサはホテルでプレイボーイのマーヴィンに言い寄られていた……という展開は皮肉が効いているのだが、アシェンデンとエルサをすぐ別行動にしてしまったことで、「かりそめ夫婦」というおいしいにも程のある設定を早々に放り投げてしまっている感がある。もったいな!
・教会で危機一髪か……と思ったら、特になんの説明もなく夜には無事ホテルに帰ってくるアシェンデンと将軍。大丈夫だったんかーい! ま、相手はただの村人だしね。
・教会で殺されたエージェントが持っていた、ドイツのスパイの遺留品と思われるスーツのカフスボタンの主が、見つけたその日の夜に分かってしまうのも、なんだか展開が急すぎてピンとこない。早すぎて伏線にならないでしょ……あと、「温厚そうな紳士が、実は」っていう流れも前作『三十九夜』のまんまなので、新鮮味のかけらもないという。
・ドイツのスパイの疑惑が濃厚なイギリス人紳士ケイパーを引っかけるために一計を案じ、ケンカの芝居を演じるアシェンデンと将軍。この、正真正銘正統派名優のギールグッドと無国籍怪優ローレとのかけ合いが非常に面白い。ほぼ同年代なのにキャラがこんなに違うのかっていう、マンガみたいな凸凹感が素晴らしいですね。
・エルサを過剰に突き放すのは、殺人という非道に彼女を導きたくないというアシェンデンの紳士らしい思いやりからきている判断であることはよくわかるのだが、それだと無理やり夫婦としてくっつけさせられているという設定が活きてこないような気がするんだよなぁ。う~む。
・プロの殺し屋であるのにも関わらず、プライベートでは子どもを犬の鳴きマネでおびえさせるような稚気もある将軍が実に個性的で、今日びの映画なら「おサイコで魅力的な犯罪者」としてもっとクローズアップされそうなキャラクターなのだが、いかんせん1930年代の映画なので単なる変わり者くらいで描写が終わっているのが実に惜しい。一瞬の出演だが、演技じゃなく本気でローレにおびえている子役の女の子がかわいい。
・ケイパーを殺すために登山の罠にはめているアシェンデン達と、ホテルでのんきにドイツ語の練習をしているエルサ達とを交互に描写して緊張と緩和を演出するというヒッチコックのテクニックはわかるのだが、双方のパートが有機的にからんでおらず無関係なので、これが逆に観客の集中を散漫にしてしまう。エルサも何かスパイとしての活動をしていれば良いのだが、ケイパー夫人の話し相手をしてるだけだし。
・ドイツ語の練習をしながらエルサにアタックするマーヴィンと、ドイツ語の練習をしながらマーヴィンをフるエルサの応酬が実に洒落ていて面白い。そこに主人公がいないのが残念。アシェンデン硬いからなぁ!
・殺人のタイミングが近づくにつれて息が荒くなり逡巡しだすアシェンデンと、殺すことに何の躊躇もなく殺す当人に冗談を言う余裕さえある将軍とで、暗に「踏んできた場数」の差を如実に示す演出が、さすがヒッチコックといったところ。ちょっと遠回しすぎるのだが、一方のホテルで急に騒ぎ始めるケイパーの飼い犬の様子を見て顔面蒼白になるエルサという描写にも苦心のほどが見られる。エルサ、ビクビクしすぎ!
・ケイパー殺害の瞬間を直接描かないという演出はよくあるとしても、そこに「アシェンデンが遠くから望遠鏡で見届ける」という新鮮な構図を取り入れるのが、いかにもヒッチコックらしい「のぞき趣味」満点な倒錯したチョイスである。こう観てみると、やっぱりヒッチコックは日本の江戸川乱歩とセンスがかなり通じるものがある。「実は勢い勝負がほとんどで論理だてたミステリーが苦手」っていうところもね……
・お国のためといえども、本当にケイパーを手にかけてしまったことに精神的にかなりダメージを受けて意気消沈するエルサとアシェンデンなのだが、よくよく考えてみると、実際の殺人という最もダーティな部分を将軍に丸投げしておいて、なに聖人君子を気取ってるんだというツッコミも入れたくなる。いや、確かに人殺しはよくないことだけど、あんたがたもけしかけてたでしょ!? 悲しいけど、これ、戦争なのよね!
・本作の主役アシェンデンは、いかにも主人公らしく品行方正で時として冷徹な判断も下す頼もしいヒーロー然とした英国紳士なのだが、異常性格すぎる将軍と、いきがっていながらも心根は非常に繊細なエルサに囲まれて、キャラクターがかなり中途半端で淡白な存在感になってしまっている。ここが、本作最大のウィークポイントなのではないだろうか。後輩の007ほどのスーパーマンでもないし。
・さすがに、アシェンデン達の狙い通りにケイパーがドイツのスパイでした、チャンチャン……となるわけがなく、他に本当のスパイがいるということで物語は続くのだが、ここまでで映画が半分以上の45分を費やしてしまっているのが、いかにも悠長すぎるような気がする。なんか、いろいろと見どころはあるのだけれど全体的にテンポが遅いような気がするんだよなぁ。
・ケイパーをスパイだと勘違いするきっかけとなったスーツのカフスボタンの幻影がエルサの脳裏に無数に現れるあたりで、ヒッチコックお好みの表現主義的オーバーラップが使われるのだが、そこにスイスの民族楽器らしい、陶器の器に鈴かなんかを入れて転がし「しゃらしゃら……」と音を立てるやつのイメージが重なるのがおもしろい。あれ、なんて名前!?
・夜のボート上での会話で、アシェンデンが直接ケイパーを殺したと思い込んでいるエルサが一方的にアシェンデンに別れを告げたのに、アシェンデンが手をかけたわけではないと聞いたとたんに「じゃあいいや♡」と前言撤回してキスするという展開が、なんかエルサの軽さしか感じられず引っかかってしまう。将軍がこのやり取りを聞いてたら、2人もぶっ殺されちゃうぞ……
・よりが戻りすぎて、かりそめでなく本気の相思相愛夫婦になってしまったアシェンデンとエルサは、スパイ任務を辞退するという旨の R宛ての手紙を書くのだが、そんな、第一次世界大戦中の国際的謀略戦の最前線にいるスパイって、バイト感覚で辞められるもんなのか? まっとうな常識人のようでいて、任務を失敗しておきながらそんな言い分が通じると思っているアシェンデンの感覚もそうとうヤバい。
・くどき相手のエルサの電話口にアシェンデンがいるのにも気づかず、連綿と恥ずかしすぎる恋のアッピールを続けるマーヴィン。なんだよ、この緊張感の無いくだり!? 意味もなく殺されたケイパーのみたまが浮かばれぬ……
・スパイを辞めると言うアシェンデンを口説き落として再び任務に引き込んだ時に、絶望的な表情になるエルサを見つめる将軍の目に、完全に恋人を取り返した勝利のまなざしが浮かんでいるのが、単なる色モノキャラにとどまらないローレの面目躍如たる無言の名演である。そうそう、ここ、完全な三角関係なのよね。そこらへんのジェンダーフリーな浮遊感もまた、将軍の得体の知れなさを象徴している。
・ドイツ側のスパイの情報交換所となっている場所が実はチョコレート工場だったという展開につながる伏線が、実はすでに前半でさりげなくほのめかされているという丁寧さがいい感じである。あぁ、だからか!みたいな。でも、将軍がタバコをぷかぷか吸いながらチョコレートの製造ラインを見学をしていても誰もなんにも言わないのは、衛生的にどうなんだろう!?
・特にたいした変装もせず見学者として工場に入ったアシェンデンと将軍を見て、当然ながらドイツ側のエージェントたちは結託しているスイス警察に通報し、2人を一網打尽にしようとする。でも、この第2のピンチの時も、エルサはアシェンデンのそばにいないのよね! もったいなさすぎ!!
・将軍にチョコレート工場とドイツ側スパイとの関係をリークした娘リリーの彼氏カール君は、チョコレート工場に勤務していながらも反ドイツ側の人間なのだが、助けようと思ってアシェンデン達に駆け寄ったのに問答無用で将軍に殴られてしまう扱いが実に哀しい。ま、イケメンだからしょうがねっか。
・カール君からの情報で、ドイツの本当のスパイが誰なのか正体がついに明らかになるのだが、登場しているキャラたちの顔ぶれを見れば、たぶんこいつなんだろうなと容易に察しがついてしまうのが非常に残念である。意外性もへったくれもないんですよね……
・「危うし、ヒロインが悪役の手中に!」というクライマックスの展開は洋の東西を問わず定番のものなのだが、悪役が積極的にヒロインをさらうのではなく、主人公に別れを告げたヒロインから悪役にゴリ押しでせがんで転がり込むという流れがかなり新鮮で面白い。しかもマーヴィン、若干ひいてるし! さらには、エルサがマーヴィンについて行ったと聞いてエルサが真相に気づいたと勘違いしてぬか喜びするアシェンデン達も実に滑稽である。こういう各人各様のすれ違いを描かせたら、イギリス人は天下一品ですよね! 『ロミオとジュリエット』とか。
・Rさん、サウナ室でふかす葉巻はおいしいですか? しけってそう(小並感)。
・映画の残り10分での、ドイツ帝国の同盟国オスマン=トルコ帝国の首都コンスタンティノープルに逃れんとするマーヴィンとアシェンデン達との追跡戦は、さすが筋金入りの鉄ヲタともいえるヒッチコックの独擅場である。ところどころ、スキさえあれば列車のミニチュア特撮を多用するのもうれしい。おまけには、鉄道とイギリス空軍戦闘機との機銃戦まで! 大盤振る舞いですね~。
・最後にアシェンデンとエルサの笑顔で終わるハッピーエンドはけっこうなのだが、やはり「直接殺したんじゃないから許す」というエルサの判断基準は、な~んか都合がよすぎるような気がしないでもない。いや、そりゃ殺人は大罪なんだけど、同じ穴のむじななんじゃないの……?


 ……ざっと、本作を観た雑感については以上でございます。

 この映画、当然ながらめきめきと実力をつけている成長期のヒッチコック作品なものですから、当然『下宿人』(1927年)『ゆすり』(1929年)のような初期作品に比べれば別次元の見やすさと面白さが保障されています。
 そうではあるのですが、上に挙げたように前作『三十九夜』(1935年)や前々作『暗殺者の家』(1934年)に比べると「う~ん?」と首をかしげてしまうテンポのまだるっこしさと、「実行犯じゃなきゃいいのか?」という釈然としない消化不良感が残ってしまう問題があるような気がするのです。
 いや、主人公たちがチョコレート工場に潜入するあたりから終幕までの30分間くらいは全然いいのですが、そこにいくまでの流れがかったるく感じてしまうのよねぇ。

 具体的にどこがどうということはすでに言ったので繰り返しませんが、やっぱりこの原因は、主人公のアシェンデンが非常にお堅いまっとうな紳士であることによる不自由さと、そうであるがゆえにお転婆なヒロインのエルサを遠ざけてしまう相性の悪さが大きいのではないでしょうか。
 前作『三十九夜』の主人公が、やや性格が破綻しているような自己中心的な冒険者だったことによる反動でそうなったのでしょうが、なんせ今作だって十分すぎる程のアドベンチャー映画なので、主人公はそのくらいおかしな奴であるべきだったのではないかなぁ。アシェンデンはいかにも、おとなしすぎですよね。
 残念ながら今回はサマセット=モームの原作小説を読んでいないので、そこらへん映画化にあたってどういったアレンジがあったのかはわからないのですが、せっかくの国際的スパイなのに妙に地味なんですよね、映画のアシェンデンって。いや、たぶん本物のスパイは絶対に地味で目立たない方がいいに決まってるんでしょうけど!

 また、本作は後年になって振り返ってみると、第一次世界大戦よりも実は第二次世界大戦の方がめちゃくちゃ近かったというゾッとするような恐ろしさがある時期に制作された娯楽映画なのですが、「何千何万という未来の犠牲を避けるためならば殺人は許されるのか?」という、解決しようのない深すぎる問題を扱っている作品でもあります。お国のための犯罪ならおとがめなし、というのが本作で Rがアシェンデン達に保障したスパイの特権であったのですが、それでもまっとうな価値観を捨てることのできないエルサやアシェンデンは、ドイツのスパイとの対決をもって「間諜最後の日」として、悠々と退場してしまうわけです。
 これはもう、真剣に対峙したら映画中盤でのエルサのように頭がおかしくなってしまうことは必定な大問題なので、そこは娯楽映画らしく、「直接殺してないんならOK!」と割り切ってしまうエルサの選択も、ひとつの回答としてやむをえないことのような気もします。

 でも、そうなると全く浮かばれないのがプロの殺し屋である将軍の立場で、汚れ仕事の責任は全部おれにおっかぶせてお前らだけハッピーエンドかい!という怨嗟の声が聞こえてくるようです。ほんと、本作の将軍は悪役でもないのにいいとこなし!

 ただ、そんな大損こきまくりの将軍なのに、トータルで本作を観終えた後にその一挙手一投足が観客の印象に残っているのって、おそらく間違いなく、この将軍だけなんですよね。彼だけ他の登場人物たちと比べてキャラクターの深みが違うというか、解像度が段違いなような気がするのです。
 それはやっぱり、ヒッチコック監督の計算とか脚本とかがまるで感知していない部分、最終的に演じる俳優さんのその役に対する解釈と思い入れの深みが、将軍の場合はまるで違っていたのではないでしょうか。

 つまり、作中の将軍はただただ殺人を仕事の一環と受けとめて淡々とこなし、オフの時は身の回りにいるかわいこちゃんに見境なく色目を使いまくる異常な人物ではあるのですが、そういう自分が楽しく人生を生きられるのは「政府に殺人を公認されている」という、この戦時中というつかの間の異常な状況の中だけであることを、誰よりもドライに理解しているのです。だからこそ、将軍は今この瞬間の生を過剰なまでに謳歌しようとするし、同じスパイという日陰者の世界から一抜けしようとするアシェンデンを、あんなに寂しそうな目で見つめて必死に引き留めようとするのでしょう。単におかしなキャラと言うだけではない、異常者であるがゆえの哀しみと孤独をちゃんとにおわせているのが、ピーター=ローレのものすごいところなんですよね。

 だから、彼が最期に見せた不用心にも程のあるあの挙動も、ある意味では自分で死を選んだということだったのかも知れません。ドイツのスパイを始末しようがしまいが、その後にアシェンデン達が去ってしまうことは確実でしたからね。哀しいな……

 ちゃっちゃとまとめてしまいますが、本作『間諜最後の日』は、決して見て損をするというほどの失敗作でもないのですが、ヒッチコック作品にしては珍しく中盤過ぎまで退屈してしまう部分の多い作品です。ただ、コミカルながらも次第に心の闇をちらっちらっと垣間見せてくる将軍を演じるローレの目の演技と、クライマックスの鉄道と戦闘機とのミニチュア特撮のカット割りのキレには一見の価値があると思いますので、お暇な方はぜひともご覧になってみてください。ちょっと今回は停滞しましたが、ヒッチコックの映像センスが右肩上がりであることに違いはないし!

 今回は演出よりもローレさんの演技に軍配が上がってしまいましたが、次回も期待してますよ、かんとくぅ~!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これは……『仮面ライダー』の原型、なのかな? ~岡本喜八 映画『殺人狂時代』(1967年)~

2024年03月10日 14時11分02秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんにちは! そうだいでございます。
 なにかと忙しい年度末、みなさまいかがお過ごしですか。私の住んでいる山形は、冬がなんだか遅くズレ込んで始まったような感がありまして、年が明けてからやっと雪が積もって冬らしくなったかと思ったら、3月も半ばになろうかという今になってもなかなか暖かい日がやってこない、不思議な季節になっております。おかげで花粉症のスタートも遅くなっているようなのでそれはありがたいんですが、ひな祭りだ卒業シーズンだと言っても春めいてこないのは、なんだかねぇ。

 さてさて今回の記事は、ず~っと前から取り上げたいなと思っていた、ある昔の映画の話題であります。日本の中でも『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)とか『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969年)とか『太陽を盗んだ男』(1979年)とか、「伝説のカルト映画!」と称される映画作品はあまたあるのですが、この作品もまた、栄光あるカルト映画の殿堂に悠然とその座を占める名作であると言えますね。そんな殿堂、行ってみたいようなみたくないような……


映画『殺人狂時代』(1967年2月公開 モノクロ99分 東宝)
 『殺人狂時代(さつじんきょうじだい)』は、1967年に公開された東宝製作の日本映画。
 もともとは日活で映画化されていた企画だったが諸般の事情で没となり、その権利を東宝が買い取って、小川英・山崎忠昭による日活時代のシナリオを渡された岡本監督が手直しを加えて撮影し、1966年にいったん完成した。しかし東宝上層部の判断により公開直前でお蔵入りとなり、翌67年に特に宣伝もされずにひっそりと公開された。併映にはあまり集客が見込めないドキュメンタリー映画『インディレース・爆走』(監督・勅使河原宏)が組まれ、また公開された時期が年間で最も客足が遠のく2月だったこともあり、結果として興行は東宝始まって以来の最低記録となった。監督の岡本も非常に落ち込んだという。
 しかし1980年代にリバイバル上映でされてからようやく評価され、今なおカルト映画として人気がある。作中、現在では放送禁止用語に指定されている単語がセリフとして飛び交うため、TVで放送されることはほとんどない。
 原作小説から主人公・桔梗の設定や後半の展開が変えられており、敵役の溝呂木の扱いが大幅に膨らんでいる。ド近眼でマザコンで偶然のように敵を倒していく桔梗と、奇抜なギミックを見せびらかしながら勝手に自滅していく殺し屋たちという喜劇的対決を速いテンポで見せ、残酷な殺人シーンで明るいカンツォーネを流すなど、ロマンティック・スリラーの演出が施されている作品である。
 ちなみに、岡本監督の歴史大作『日本のいちばん長い日』が公開されるのは本作公開の半年後の1967年8月。天本英世と並び称される岡本組の常連で稀代の個性派俳優・岸田森が岡本作品に初出演するのは、翌年の『斬る』からである。

あらすじ
 精神病院を経営する溝呂木省吾のもとへ、かつてナチス・ドイツで同志だったブルッケンマイヤーが訪れる。彼の所属するナチス残党の秘密結社は、溝呂木の組織する「大日本人口調節審議会」への仕事依頼を検討しているという。「審議会」は人口調節のために無駄と判断した人間を秘密裡に殺すことを目的としており、溝呂木は入院患者たちを、殺人狂の殺し屋に仕立て上げていたのだ。
 ブルッケンマイヤーは仕事を依頼するにあたってのテストとして、電話帳から無作為に選出した3人の殺害を要求した。殺害対象の1人として指名されたのは犯罪心理学の大学講師 ・桔梗信治。水虫に悩む冴えない中年男である。桔梗は自宅アパートで「審議会」の刺客・間淵に命を狙われるが、偶然にも返り討ちにしてしまう。警察にこの件を届けた桔梗だが、部屋に戻るとなぜか間淵の死体は消えていた。
 桔梗はたまたま知り合った雑誌『週刊ミステリー』の記者・鶴巻啓子、車泥棒の大友ビルと共に、桔梗を狙う「審議会」の刺客たちと対決することとなる。一方、ブルッケンマイヤーの言動に不審を抱いた溝呂木は彼を拷問し、実は目的が桔梗ただ1人であることと、その背景には第二次世界大戦中に紛失したダイヤモンド「クレオパトラの涙」の行方が絡んでいることを探り出すのだった。

おもなスタッフ(年齢は劇場公開当時のもの)
監督 …… 岡本 喜八(43歳)
製作 …… 田中 友幸(56歳)、角田 健一郎(47歳)
原作 …… 都筑 道夫(37歳)『なめくじに聞いてみろ』(旧題『飢えた遺産』 1961~62年連載)
脚本 …… 小川 英(36歳)、山崎 忠昭(30歳)、岡本 喜八
美術 …… 阿久根 巌(42歳)
録音 …… 渡会 伸(48歳)
音楽 …… 佐藤 勝(38歳)
編集 …… 黒岩 義民(35歳)
監督助手 …… 渡辺 邦彦(32歳)
技闘 …… 久世 竜(59歳)

おもなキャスティング(年齢は劇場公開当時のもの)
桔梗 信治  …… 仲代 達矢(34歳)
※映画版では「城南大学の犯罪心理学講師」という設定になっている
鶴巻 啓子  …… 団 令子(31歳)
大友 ビル  …… 砂塚 秀夫(34歳)
間渕 憲作(第1の刺客 トランプの殺し屋)    …… 小川 安三(34歳)
地下鉄ベンチの老人(第2の刺客 仕込み傘の殺し屋)…… 沢村 いき雄(61歳)
青地 光(第3の刺客 小松弓江の部下で鞭の殺し屋)…… 江原 達怡(29歳)
小松 弓江(第4の刺客 霊媒を自称する催眠術師) …… 川口 敦子(33歳)
第5の刺客 義眼の女殺し屋 …… 富永 美沙子(33歳)
第6の刺客 松葉杖の殺し屋 …… 久野 征四郎(26歳)
第7の刺客 レンジャー殺し屋ソラン  …… 長谷川 弘(39歳)
第8の刺客 レンジャー殺し屋パピィ  …… 二瓶 正也(26歳)
第9の刺客 レンジャー殺し屋オバQ  …… 大前 亘(33歳)
第10の刺客 レンジャー殺し屋アトム …… 伊吹 新(?歳)
池野(第11の刺客 ゴリラ男の殺し屋)…… 滝 恵一(37歳)
ヤス    …… 大木 正司(30歳)
ヒデの兄貴 …… 樋浦 勉(24歳)
『週刊ミステリー』編集長 …… 草川 直也(37歳)
バーのホステス …… 南 弘子(20歳)
咆える狂人 …… 山本 廉(36歳)
酒場の客 …… 西条 康彦(28歳)、阿知波 信介(26歳)、木村 豊幸(19歳)、関田 裕(34歳)
ルドルフ=フォン=ブルッケンマイヤー …… ブルーノ=ルスケ(?歳)
溝呂木 省吾    …… 天本 英世(41歳)

〈原作小説『なめくじに聞いてみろ』との相違点〉
・特殊技能を持つ殺し屋を養成した黒幕が、原作では桔梗信治の父・桔梗信輔であり、信輔は物語が始まる一ヶ月前に死亡している。
・原作の信治は山形県の山奥(桔梗信輔一家の戦時中の疎開先)から上京したばかりであり、アパートに入居しているが定職は無い。
・原作の鶴巻啓子は雑誌記者ではなく、調査会社「トオキョオ・インフォメイション・センター」の社員。
・原作での第1の刺客・トランプ使いの間渕との対決の場は、東京・世田谷区の遊園地・二子多摩川園(1985年に閉園)。
・原作の第2の刺客・仕込み傘の殺し屋は大竹という名前の長身の男で、スリの能力に長けた女マネージャーの妻がいる。
・原作では信治の協力者として鶴巻啓子と大友ビルの他にスリの名人の佐原竜子が登場する。
・原作での第3の刺客は、桔梗信輔が開発した殺人マッチを使用する占い師・弓削。
・原作での第4の刺客は、映画版の第6の刺客にあたる松葉杖の殺し屋・水野で、その死後は、水野の同性愛の恋人である美青年が復讐のために桔梗信治をつけ狙う。
・原作での第5の刺客は、映画版の第3の刺客に当たる殺人ベルト使いの柴崎。
・映画版の第5の刺客は、原作での第6の刺客(義手の女殺し屋)の設定と第9の殺し屋(眼帯の浮浪者)の殺人法がミックスされている。
・原作での第7の刺客は、殺人針の使い手のニセ刑事。
・原作での第8の刺客は、映画版の第4の刺客にあたる霊媒師の小松弓江だが、殺人の手法が違う。
・原作での第10の刺客は、毒入りカプセルの使い手。
・原作での第11、12の刺客は映画版の第12、13の刺客と同じ人物だが、どちらも殺人の手法が違う。
・原作での秘密組織「人口調節審議会」に所属している殺し屋は、第7、10、11、12の刺客の4名のみ。
・映画版の溝呂木省吾は、原作版の桔梗信輔と溝呂木とブルッケンマイヤーをミックスしたキャラクター設定になっている。
・原作版の溝呂木省吾は、上野の西郷隆盛像を想起させる大柄の男。


 いや~、ものすごい作品ですよ、これ。
 なんとなく、先ほど挙げたような他のカルト映画のみなみなさまと比べると話題に上る機会が少ないというか、インパクトが薄いような気もするのですが、ちょっと観てみてごらんなさいな。かなり面白いですよ~。
 まず、監督が岡本喜八さんということで、すでにかなりの高さのクオリティが確証されていることは間違いないのですが、この作品はあえて人の命を丸めたティッシュ程度の軽さにしか捉えていないといいますか、人間ドラマだのテーマ性だのと言った、本来ならば岡本喜八作品のキモにもなっている部分を気持ちいいくらいにポイっと捨てて、もう一つの喜八ワールドの特色である「映像テンポの軽快さ」に100% 全振りした内容となっています。
 ちなみに、私そうだいが一番好きな岡本喜八作品は『赤毛』(1969年)ですねぇ、やっぱ。キャラクターのマンガみたいな軽快さと、彼ら彼女らの運命の悲惨さのバランス感覚が奇跡的にすばらしいんです。結末、何回観ても泣いちゃう……
 余談ですが、岡本喜八監督ご自身は2002年まで現役バリバリで活躍されていたので(2005年没)、1980年代生まれの私からしてもリアルタイムに楽しめる映画監督だったのですが、映画館で観る機会はついに無かったんだよなぁ。いっつも TVの映画劇場かレンタルビデオかで……私の精神的成長が間に合わなかった! 喜八監督お許しを!!

 それで、くだんの『殺人狂時代』なのですが、いちおう蛇足を承知で注意させていただきますと、ある意味で喜八版よりも毒味の強いチャールズ=チャップリン主演・監督の同じ邦題の大問題作『殺人狂時代』(1947年)とは全く関係がありません。チャップリン版もものすごい伝説の一作なんですけどね……これには、タイトルが似ているということで『黄金狂時代』(1925年)と同じ捧腹絶倒のノリを期待してワクワクしながら視聴した小学生時代のそうだい少年も度肝を抜かれましたね。喜劇王、こわすぎ!!

 脱線した話を喜八版『殺人狂時代』に戻しますが、そもそも、私がどうしてこの作品を気にするようになったのか、その経緯を話します。

 つい最近のことなのですが、私はどうして、庵野秀明さんの一連の「シン」作品群に対して「なんか、みんなおんなじだなぁ。」という感覚を持ってしまうのかを考えていました。『シン・ウルトラマン』(2022年 庵野さんは脚本担当)しかり『シン・仮面ライダー』(2023年)しかり。もっとさかのぼれば『キューティーハニー』(2004年)の頃から感じていた既視感です。

 これらの作品に共通する要素はなにか。その答えは、「悪役の逐次投入パターン」の、悲劇的ともいえる遵守っぷりです。哀しい!!

 なんで悪の組織とか悪の親玉って、自分の手ごまを1コ1コ、個別に完成し次第投入しちゃうんだろうか。週1くらいのペースで新作改造人間か怪獣が作れるんだったら、1~2ヶ月くらいストックをためてみて、7~8体いっきに正義のヒーローにぶつけた方がいいんじゃなかろうか!?

 これ、特撮ヒーロー番組を観たことのある人だったら、誰でも2~3話観ていれば思いつく作戦なんじゃないのでしょうか。でも、悪の組織のえらい、もしくは頭のいい人達は、ついぞこの戦法を採用したためしがない! なぜなぜ Why ヴィラン・ピーポー!?
 そのくせ、一回ヒーローに負けた手ごまは、だいぶ後に思い出したようにまとめて再生させてドバドバっと出してはくるのですが、この「一回負けている」という点が大きくて、ヒーローに対する脅威度はびっくりするくらいにゼロに近くなってるから覆水盆に返らずですね。戦法の知りようのない完全新作をぶつけなきゃ、いくら束にしたって意味無いんですよう! 改造ベロクロンⅡ世、My Love!!

 わからない……悪の組織や悪の親玉は、なぜそんな、自分たちの勝算を限りなく低くする戦略しかしないのでしょうか。特撮ヒーロー番組やアニメにうとい私の記憶にある限り、手持ちのコマを全部いっきに投入する作戦を実行したのは『機動戦士ガンダム』のコンスコン少将くらいかと思うのですが、どうしてその手を使おうとしないのでしょうか……ま、コンスコン少将もボロ負けしてたけど。

 これはもう、悪の組織の首領が「わざとその戦略(全戦力の投入)を採用していない」としか言いようがないですよね。
 その理由としては、まぁぶっちゃけてしまえば「ヒーローが負けたら番組が終わっちゃうから」という身もフタもない大哲理が内在しているからではあるのですが、あくまでフィクションの世界の中での理屈としては、「悪の組織の内部で幹部クラス同士の足の引っ張り合いがある」とか、「首領がヒーローのある程度の成長を『実験観察』として望んでいる」とかいう、複雑な事情が絡んでいることが多いようです。なりほど。

 さてさて、そしてお話は庵野さんの諸作に戻るのですが、私が先に挙げた3作を例に取りますと、必ずしも全てに「明確なラスボス」が存在しているわけでもなさそうなのですが、ポツ、ポツ、と単体の敵キャラが個別に主人公に襲いかかるという流れが頑ななまでに一貫しています。そもそも、庵野さんの作品ということで言うのならば『新世紀エヴァンゲリオン』からしてそうであるわけなのですが。

 この流れ、週1放送という形式のある TVシリーズならば話もわかるのですが、90~120分くらいのひとつのまとまりになっている映画作品でこの形式を踏襲するのって、一体どういう了見なのでしょうか? これはおそらく、TV番組という形式が生まれる以前からすでに「敵キャラの逐次投入」という文法が、フィクションの世界で存在していたからなのではないのでしょうか。

 とすれば、それはもう「連載小説」というか「続きもの小説」の盛り上がり&ひっぱり演出として逐次投入法が開発されていたとしか考えられません。
 そうなると、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』に代表される「週1敵キャラ登場の法則」の起源が、本作の原作である都築道夫の連載小説『飢えた遺産』(のちに『なめくじに聞いてみろ』に改題)で如実に提示されている「1回のエピソードで異常な殺人法を持つ殺し屋が1人登場する」というパターンにあることは、メディアこそ違えどもエンタテインメントのあるジャンルの系譜として、まったく理の当然であるわけなのです。なるほど、昔のエンタメの主戦場だった新聞や雑誌が、昭和中期に TVに変わっていったことの一つの表れであるわけですし、その過程の中で双方に変換しうる別エンタメ=映画作品として、この喜八版『殺人狂時代』も生を受けたということなのですな。わかりやすい!

 もちろん、『飢えた遺産』が「敵キャラの逐次投入」パターンの始祖であるわけはなく、もっとずっと昔から、その形式にのっとったフィクション作品は世界中に存在していたはずです。今パッと思いつくだけでも、連載小説で言えばまず山田風太郎の『甲賀忍法帖』(1958~59年連載)から始まる「忍法帖シリーズ」の異能忍者敵キャラの百花繚乱ぶりははずせませんし、「ヘンな敵キャラが出てくる奇想天外な冒険物語」という特色で言うのならば、イギリスの小説家イアン=フレミングの「007シリーズ」(1953~64年 12の長編小説と2つの短編小説集)の世界的大ヒットを無視するわけにはいきません。本人はもちろん生身の人間であるのですが、明晰な頭脳と精力的な肉体、そしてムンムンにただよう「英国紳士の色気」で八面六臂の大活劇を演じる国際的凄腕スパイ・ジェイムズ=ボンドの存在感は、明らかに日本の正義のヒーローたちに通じる「ロマン」を漂わせているような気がします。
 ちなみに、喜八版『殺人狂時代』が制作されたのは1966年だということなのですが、その時点で「007シリーズ」はご存じの通り、初代ボンドことショーン=コネリーの主演で4作制作されており、当然、ボンドをつけ狙う世界規模の悪の秘密組織「スペクター」もすでにしっかりと映像化されております。スペクター!! 本作の溝呂木省吾ひきいる「大日本人口調節審議会」とか『仮面ライダー』のショッカーの直系の先輩ですよね。

 こういったことをずらずらっと時系列順にならべてみますと、まず、当時「ヘンな敵キャラを各個撃破していく正義のヒーロー」という形式のエンタメ作品が確立、ヒットしていたことがよくわかります。そして、すでにジェイムズ=ボンドという正攻法のスーパーヒーローが世界を股にかける大成功を収めている状況であった以上、スリラー冒険小説『飢えた遺産』を映画化するにあたり、主人公・桔梗信治を、原作通りにわりと序盤で相当な腕を持つ殺人術の達人という正体をバラしちゃう路線を「とらなかった」喜八監督のアイデアは、全く無理のない判断であると言えるのです。それじゃあまんま、ボンドや、本来この作品が映画化されるはずだった日活アクション映画のヒーロー系主人公の後追いになってしまいますからね。
 その結果、喜八版の桔梗信治には、都会のおんぼろアパート住まいの冴えない大学講師というオリジナル設定が付け加えられたわけなのですが、演じたのが魅惑の低音ボイスびんびんの仲代達也34歳ということもありまして、後半でコネリー・ボンドもかくやというスーパーヒーローっぷりを開放してくれます。
 でもまぁ……正直、前半のダメ講師・桔梗という設定は、現に襲い来る異常な殺し屋集団を「偶然のてい」であるにしても右に左にいなして返り討ちにしてしまっているので、「どうせ仮の姿なんでしょ」という後の展開がバレバレな感じになっていますので、意外性はそんなには無いというか、喜八監督がわざわざ脚本に取り入れる程効果的に機能しているようには見えません。単純に、言動がもっさもっさしている主人公はテンポが悪いし……

 余談ですが、このように物語の構造の部分では山田風太郎エンタメ小説や007シリーズの系譜を引き継ぎ、のちの『仮面ライダー』へとつながる位置にある本作と原作小説なのですが、「抜けたところもあるが異性にも同性にもやたらとモテるヒーロー」という主人公の魅力的なキャラクター造形という点で言えば、これは明らかに、本作の形ばかりの劇場公開後の約半年後にマンガ連載の始まった、あの『ルパン三世』(原作モンキー・パンチ)の先輩にもあたる作品なのではないでしょうか。ひゃ~、私の「怪獣」ジャンル以外で好きな作品が、ぜ~んぶこの作品をジャンクションにしてつながっちゃってるよ!! ただし、「(演技ではあるのだが)まぬけなヒーロー」という桔梗信治の属性は原作小説版ではなく喜八版オリジナルの設定で、その反対に喜八版ではヒロインが1人であるのに原作小説版では信治をめぐって2人の魅力的な女性がバチバチするということでモテ要素は原作版の方が強いので、ルパン三世ほどキャラクターがはっきりしているわけでもありません。でも、そう考えるとおんぼろ自動車を乗り回し、男女の相棒を連れて夜の街を駆ける仲代達也の姿がルパン(緑ジャケットの1st 版でしょう)のように見えてくるのも不思議ですね。髪の毛も、長くも短くもない微妙なヘアスタイルだし。

 そして、喜八版のもう一つの大きな変更点は何と言っても、桔梗信治と対決する「ラスボスが誰か」という点です。これはデカいぞ!

 映画版の大ボスは言うまでもなく、自身の経営する精神病院への入院患者をナチス・ドイツ仕込みの殺人哲学で異常な殺人法を習得した「大日本人口調節審議会」の所属殺し屋に養成してしまう院長・溝呂木省吾なわけなのですが、ネタバレぎりぎりで言っちゃいますと、溝呂木は大ボスであって「ラスボス」ではありません。この、「首領を倒したはずなのに、まだ刺客が!?」という意外な展開が、推理小説家としての原作者・都築道夫の面目躍如といった感じでいいですね。
 その流れで映画版の中で桔梗に襲いかかる刺客は溝呂木も含めて「13人」ということになるのですが、上の情報でまとめたように、原作小説『飢えた遺産』における異常な殺し屋集団の「開発者」は溝呂木とは全く別の人物(桔梗信治の父)で、しかもその人物は物語が始まった時点ですでに死亡している……というか、その人物が死亡したことで『飢えた遺産』の物語が始まるというシステムになっているのです。その設定がある上で、原作小説でも溝呂木省吾と「人口調節審議会」はいちおう別に登場するのですが、溝呂木はあくまで殺し屋の中の一人でしかなく、審議会も溝呂木が結成したきわめて自己満足的な美学にのっとった小規模な集まりでしかありません。

 要するに、原作『飢えた遺産』の主人公・信治は、あくまでも自分や12人の人間を、社会の裏街道でしか生きることのできない異常者に変えてしまった父の「遺産」を消去しようとする個人的な「遠回しの復讐者」でしかなく、そもそも元凶たる首領(父)が死んでいる以上、どうしたって信治が完全勝利することはできないという、きわめてビターな結末が待っていることは間違いないわけです。
 ここらへん、一連の事件の元凶が死んでいるという「死に逃げ」パターンは他のフィクション作品でもたま~にある設定なのですが、有名なところでは『犬神家の一族』もある意味でそうでしょうし、もっとわかりやすいもので言えば映画『機動警察パトレイバー』の第1作目(1989年)の天才プログラマー・帆場暎一なんか、もろにそうですよね。
 そして、庵野さんの作品で言えば『シン・仮面ライダー』でもその設定が踏襲されている感はあるのですが、人間としての首領本人は死んでるっぽくても、その遺志を継承した存在がちゃんといるらしいので、必ずしも「死に逃げ」とは言えない中途半端さがあると思います。なんか、その煮えきらなさが続編制作への未練みたいで、あんまりスマートじゃないですよね。

 それはともかくとして、そういった感じで主人公の極私的かつ不毛な復讐の物語として、軽快な中にもある種のほろ苦さをたたえていた原作小説に対して、喜八版は「稀代の異常俳優・天本英世」を生きた悪の組織の首領に持ってくることによって、非常に単純明快で映画的な「異常 VS 異常」の一大ページェントに変容させることに成功しおおせたのではないでしょうか。苦味なし! 観終わった後に残るものも一切ナシ!!

 いや~、この映画をカルトたらしめているのは、やっぱ天本さんの演技とも言えないリアルな狂気演技、これしかないですよね。
 だいたい、「殺し屋たちが精神病院の院長に調教された患者」っていう、この令和の御世ならば口にしただけでお縄をちょうだいしそうなムチャクチャな設定だって、原作小説にはどこにもない喜八オリジナルだからね!? 別に都築道夫さんの原作小説にお蔵入りになる原因があるわけじゃないんだからねっ。

 天本さんの活き活きとした悪人演技。もうこれだけを楽しむ映画ですよね、最高です……最高にイカレてます!!
 わかりやすく言うのならば、「死神博士じゃなくて地獄大使系アッパー悪の幹部を演じている天本さん」って感じになりますかね、喜八版の溝呂木省吾って。でも、なんたって天本さんなんですから、とにかく植物系の色気がハンパない! ファッション、持ち物、語り口、すべてに完成されすぎた漆黒の美学がゆきわたっているのです。くをを~♡
 演じているのが死神博士の天本さんで、スペインのフラメンコのように情熱的に自身の殺人哲学を語る熱っぽさは地獄大使のようで、しかもその前歴はゾル大佐も所属していたナチス・ドイツに通じているというのですから、喜八版の溝呂木はのちの『仮面ライダー』のショッカー3大幹部のよくばりセットみたいなキャラクターですよね! あれ、ブラック将軍は……?

 いろいろくっちゃべっているうちに、いつものように字数もかさんできましたのでそろそろおしまいにしたいと思うのですが、この喜八版『殺人狂時代』は、特撮ヒーロー番組の主人公サイド……ではなく「悪の秘密組織サイド」が大好きな方ならば、絶対に観て損はしない作品だと思います。確かに、喜八監督作品の中ではやや軽さが過ぎるいびつな作品だし、登場する人物たちは別に特殊能力を持ったスーパーヒーローでも人体改造を施されたミュータントでもないのですが、ともかく「俳優業そっちのけで自分の好きなことに邁進している人」がいる映画が、どれだけ楽しそうに見えるのかがよくわかる好例なのではないでしょうか。こんな英世みたことない!! 死神博士とか『 GMK』とか『平成教育委員会』とかだけで記憶されるべきお方ではないのです。すごいよ~。
 あと、ライダーライダーと言っていますが、あくまでもこの映画は東宝作品ですので、ウルトラシリーズで顔なじみになる俳優さんがた(一平ちゃんの西条康彦さん、イデ隊員の二瓶正也さん、ソガ隊員の阿知波信介さん)がチラッと出てくるのもお得ですよ。阿知波さん、完全なる一発芸キャラを楽しそうに演じちゃってるよ! 阿知波さんに限らず、この映画「とりあえず勢いで。」が多すぎるのよ……

 喜八版『殺人狂時代』は、ほんとに時代のあだ花と言いますか、1960年代中盤の日本の狂騒的なまでの活況ぶり、混乱っぷりを、低予算ながらもバッチリ記録した作品になっていると思います。同じ喜八監督の『日本のいちばん長い日』とか、同時代の黒澤明監督作品とかのウェルメイドな大作のみで昭和を振り返るばかりでなく、たま~にこういうバロック(ゆがんだ真珠)をめでてみるのも一興なのではないでしょうか。

 監督、俳優、時代、全てが若い!! そのエネルギーの奔流には、公開後半世紀以上が経っている令和の現代でも、見る人の心をつかむ魔力があると思いますよ。

 ま、倫理的には3アウトどころか即刻試合中止レベルの作品ですけどね……デンジャラ~ス!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

混沌に七竅を穿ったようなおはなし ~映画『ボーはおそれている』~

2024年02月23日 23時54分27秒 | ふつうじゃない映画
 わおわお~! みなさまどもどもこんばんは! そうだいでございます~。
 2024年も始まってしばらく経ちましたが、みなさま息災でお過ごしでしょうか。今年はほんとにお正月から天変地異が相次いでねぇ。正直、いいことなんかあったかなと思ってしまうような1、2月なのですが、それでもとりわけ悪いことも起きていない我が身のしあわせを、ありがたく思わなければなりませんね。先月の健康診断、結果悪かったけどね! ことあるごとに野菜ジュース飲んでます……無駄なあがき!!

 さてさて、前々からだいぶ働き方を楽にさせてもらっていると申してはおるのですが、それでもやっぱり私の職種は、年明けから年度末まで下っ端の私までもがあくせく働かねばならない忙しい習性がありまして、ろくに映画館に行くこともできないまま時ばかりが過ぎております。昨年は意識して映画をバンバン観ていたので、年明けからいろいろ観ていたのですが、今年は1月まるまるなんにも観てなかったんですよね。そして、2月に入って満を持して観た今年最初の映画も『鬼滅の刃 絆の奇跡、そして柱稽古へ』というぐうたらっぷり……いや、作品自体はいつもの ufotableクオリティで充分に面白かったのですが、なんてったって作者さんがその後の怒涛のラストスパートに向けて意図して作った「間奏」みたいな部分なので、前作、前々作のような大興奮は望むべくもありませんよね。あらためて、鬼いちゃんは相当がんばってたんだな……

 そんでもって本日、やっと人前で「映画観てきたよ~」と言えそうな作品を観てきたので、今回はその感想記をつづりたいと思います。なんてったって約3時間なんだぜ!? ボリューミ~。


映画『ボーはおそれている』(2023年4月公開 日本公開は2024年2月 179分 アメリカ)


 いや~、おなかいっぱいです。でも、そんなに長くは感じなかったかな。退屈はしなかったような気がしますね。これはたぶん、作品の内容とか面白さというよりも、監督のアリ=アスターさんが若干30代なかばということで、作品づくりのテンポというかリズム感覚が現代的だからなのではないでしょうか。巨匠監督の3時間とは違うんですよね、いい意味でも、悪い意味でも。
 それで早速、私がこの作品を観た率直な感想ですが、

かなりライトで見やすい……むしろ、物足りない!? 思ってたんと違う!

 こういう感じになりました。勝手に私の中の期待値が上がり過ぎていたのであろうか。

 アリ=アスター監督と言えば、私にとってはなんと言っても前作『ミッドサマー』(2019年、日本公開は2020年)……というか実は私、ちまたの批評でよく今回のボーちゃんとテーマが似ていると言われるアスター監督の長編第1作『ヘレディタリー 継承』(2018年)を、まだ観てないんですよね。ヒエ~、ホラー映画好きを標榜していながらこの不勉強ぶり、許してちょーだい!

 いや~、『ミッドサマー』にはビックラこいたんですよ。それについての雑感は我が『長岡京エイリアン』でもべらべらとくっちゃべったわけなのですが、今振り返ってみると、私はあの作品における「色彩のジェットコースター感」に参ってしまったのだと思います。
 いかにも北欧スウェーデンといった感じのパステルな淡さと、人間の無惨に損壊した肉体からしたたり落ちる血のドロッとした原色。いつまでも変わらないような暖かみを持つ牧歌的な共同生活村と、そこで繰り広げられる凄惨きわまりない儀式。人の心の弱さを無条件にゆるす村人たちの寛容さと、自分たちの村に来た以上たとえ部外者であろうとも自分たちのルールには死んでも従ってもらうという狂信的な厳しさ!!
 ここらへんの、自分の身の回りの空気が氷のように冷たいものにガラリと変わったことに気づき「ヒエッ……」と心臓が縮み上がる感覚。いつでも帰られると思っていた楽しい遊園地の門がいつの間にか閉まっていて、もはや後戻りできない状況にあることを知った時の恐怖! ここを見事に映像化しおおせていたのが、『ミッドサマー』の真価だと感じたのでした。わざと解像度と遠近感を狂わせたような CGの使い方も、実に挑戦的ですばらしかったですよね。ま、それだけにソフト商品を買ってまで何度も観たいとは思わないんですが……気持ち悪すぎ!!

 そういう前作を観た当時は、ちょっと予想よりも過激すぎたことへの拒否反応もあって「いや、アスター監督、もういい……」と引きまくっていたのですが、あれから数年経ち、あのホアキン=フェニックスを主演にすえたアスター監督最新作がいよいよ日本に上陸ということで結局、怖いもの見たさで本作を観に行ったわけなのでありました。昨年の年明けにも『マッドゴッド』なんて観てたし、歳をとるとお金を払ってでも刺激のあるものが欲しくなるもんなんですかね……3時間の映画なんて、もはや山伏の荒行レベルよ!?

 それで、とくに膀胱が破裂することもなく無事に観終えたわけだったのですが、あくまで私の印象のみで言わせていただきますと、今作は非常にサラッとした内容になっていて、『ミッドサマー』にあったような「見ろ!見ろ!おら見ろ!!」みたいな暴力的な鑑賞体験は全くと言っていいほど無かったような気がしました。
 いや、もちろん(?)主人公は最終的にひどい目に遭います。遭うんですが、具体的に観客の身に迫るようなエグい肉体損壊の描写などありませんし、本作が R-15指定になっているのは残酷描写が理由でないことは明らかでした。物語の行きがかり上ちょっとお色気シーンがあるからって感じですよね。ま、それもナイスミドル同士のアレなんで、そんなに観たいってわけでも、ね……

 本作は、宣伝では「オデッセイ・スリラー」と銘打たれているようなのですが、ジャンルとしてはブラックコメディ以外の何者でもないと思います。ただ、コメディだとすれば最後に来るオチが最重要ポイントになるわけなのですが、そのオチが「どこかで見たよーな」ものになっているので、そのオチで一応のまとまりはつくものの、かなりの物足りなさが残るものになってしまうと感じました。
 言ってしまえば「どんでん返し」オチなわけなのですが、こういう種類のフィクション作品の常として、生まれて最初に観た「それ系オチ」の作品がこの『ボーはおそれている』だったのならば宣伝文句通りに「永遠に忘れられないラスト」として記憶に残るのでしょうが、すでに過去の何かでそのオチを経験している人が観た場合は……「あぁ、それね。」どまりになってしまいますよね。まさに私がそうだったんです。

 う~ん……ホアキンさん演じるボーが車に轢かれるまでの「第1部」は、すっごく好きだったんですけどね。あそこはまさに映像のテンポからして笑いを取りにきてるアグレッシブさがビンビン伝わってきて実にステキでした。よくよく考えてみるとこの部分、一人称の視点の主であるボーが薬で虚実ないまぜ状態という「信頼できない語り手」になっている点や、何と言っても主人公を演じているのがホアキンさんその人という点で、どこからどう見てもあの『ジョーカー』(2019年)の本歌取りのような相似に気づかされます。そうなのですが、ボーの住む町に巣食うホームレスや犯罪者の集団が、まるで赤塚不二夫か高橋留美子の世界から召喚されたかのような陽気さに満ちているところや、ボーを演じるホアキンさんの、同じ病的でも『ジョーカー』の主人公とは人間性と育った環境が全く違うということを秒で伝えてくる稀代の演技力によって、退屈さを全く感じさせない時間にしてくれていると感じました。ところどころ、「これ『 Mr.ビーン』かな?」と見間違えてしまうかのような笑いどころがちりばめられていましたよね。

 ただ、私としては、なのですが、だいたい4部構成になっている本作の中で面白いなと感じたのはこの第1部だけでありまして、残りの3つのパートは、決定的につまらなくもないのですが、どこも「どこかで見たような展開」のきれいなトレースといった感じで、それほどアスター監督のオリジナリティを感じるような部分は無かったように感じたんですよね。つまらなくはないんですけど……

 前作『ミッドサマー』でもつくづく感じたのですが、アスター監督はほんとに過去の映画に博覧強記と言いますか、作品のところどころに過去の先達の名作の要素をたくみに取り込んだ部分がたくさんあって、観ているだけで観客の記憶に「あ、これ、どこかで……」みたいな既視感の刺激を与える体験も、アスター監督作品の楽しみ方のひとつなのではないかと思うんです。
 でも、今回は確かに長い長い旅を続けるボーという主人公の軸は一貫して作品に通ってはいるのですが、第2部以降にボーを取り巻く環境世界に、ボーの生命をおびやかす強烈さが無かったこと。これが本作の決定的な「緊迫感の無さ」につながっており、その原因こそが、第2部以降でアスター監督が選んだ「過去の先達」のチョイスの失敗だったのではなかろうかと私はふんでいるのです。

 そう。アスター監督は今回、決して相手にしてはいけない恐るべき大先輩を相手にしてしまったのだ。彼の作品には、順序も建前も秩序も、もはや哲学さえもが存在していないのかも知れない。栄光と狂気に満ちた飽食の国アメリカの生んだ大いなる暗闇、大いなる混沌。そう、彼の名は……

デイヴィッド=リンチ! デイヴィッド=リンチ!! デイヴィッド=リィインチ~!!! きゃ~。

 あかん! アスター監督、そらあきまへんて!! 相手にしたらあかんお方やでぇ。
 いや、こんなの裏付けもへったくれもない私の完全な思い込みでしかないのですが、第2部の作り笑いに満ちた医者一家のかりそめファミリーライフとか、第3部のボー爺さんのバカバカしいヴァーチャル人生劇場とか、第4部の若作りしまくり母ちゃんのいかにも人工的な豪邸とか、そこらへんの撮影手法の万華鏡のような転換っぷりが、どうしてもかのデイヴィッド=リンチ世界の自由奔放な視点の超越を意識している気がしたんですよね。

 デイヴィッド=リンチの、あんた長編映画作る気あんの? ひとつの作品にまとめる気あんの!? でもついつい2、3時間観ちゃったよ……みたいな独特の世界が正真正銘、天然由来の混沌であるのならば、今作のアスター監督はその混沌を観察して「スケッチした」だけなのであって、最後はああいった実に説明しやすいオチを持ってきちゃうし、混沌を正確にトレースすればするほど、その真面目さばかりが目立っちゃって、混沌とは程遠い「アスター監督、まじめか!!」みたいなこぢんまり感しかもたらさない結果になっていたと思うんですよ。

 ダメだ、アスター監督。その若さでリンチ世界に挑んでは。

 中国の古典『荘子』に、私がものすんごく大好きな故事があります。


南海の帝を「儵(しゅく)」となし、北海の帝を「忽(こつ)」となし、中央の帝を「渾沌(混沌)」となす。
儵と忽と、時に相ともに渾沌の地に会う。
渾沌これを待すること、はなはだ善し。
儵と忽と、渾沌の徳に報いんことをはかりて曰く、
「人みな七竅ありて、もって視聴食息す。
これ(渾沌)ひとり有ること無し。試みにこれを穿たん。」と。
日に一竅を穿ち、七日にして渾沌、死す。


 まさにこれですよ、『ボーはおそれている』は!
 『荘子』に現れる中央の帝「渾沌」は、目も鼻も口も耳もない姿をしていて、何の秩序も存在しない自然の象徴だとされているのですが、それを見た南北二人の帝は、善意で自分達人間と同じ目・鼻・口・耳の七つの穴を渾沌に空けて整然とした秩序をもたらそうとします。しかしそれがかえってあだとなり渾沌は死んでしまった、という故事です。

「若干30代なかば、長編映画監督3本目のきみがリンチ世界の自由奔放さを取り込もうなんて、おこがましいと思わんかね……」

 なんだか、鼻が異様にでかい老人の幻影がアスター監督の肩に手をやっているようなイメージが脳裏に浮かんでしまうのですが、この『ボーはおそれている』って、アスター監督が口をがばっと開けて大物を呑み込んだようでいて、結局そのためにお腹が破裂しちゃいましたっていうか、馬脚が見えちゃいましたっていう作品になってしまっているような気がするのです。

 『ボーはおそれている』は179分ですよね。なんという偶然か、リンチ監督の現時点での最終長編映画である『インランド・エンパイア』(2006年)も、全く同じ179分なんですよ。
 同じ179分だったら、あなたはどっちがいいですか? 「どっちも嫌」っていう人が8割かとは思うのですが、私はだんっぜんリンチの方ですね。だって、わけわかんないんだもん! 『ボーはおそれている』は、一度観終わった後も「あぁ、あの描写はこういうことだったのか」っていう伏線の再確認を楽しむためにもう一回は観られると思うのですが、オチは変わんないのでそこまでじゃないですか。第3部の舞台演劇的な CGアニメーションも面白いかとは思うのですが、それにも限界はあるでしょう。
 『インランド・エンパイア』はすごいぞ……何回観ても意味わかんないんだから! 何十回観ても、オチてんのかどうかわかんないんだから!! でも、最後の『シナーマン』のエンドロールで、「たぶんオチたみたい……」的な空気にムリヤリ納得させられちゃうんだから!!!

 天然物の混沌と、人工のシュールものとの違いを知りたければ、リンチ監督の『ロスト・ハイウェイ』(1997年)か『マルホランド・ドライブ』(2001年)か『インランド・エンパイア』のいずれかと本作とを見比べてみることをおすすめいたします。いちばんいいのはなんてったってウサギ人間のホームドラマが超唐突に侵食してくるくだりなんか序の口の、「お話の長れなんかどうでもいいから、ちょっとこれ観てみてよ。今思いついたから。」みたいな狂気しかない『インランド・エンパイア』なのですが、これと『ボーはおそれている』を見比べることは6時間の浪費を意味しますので、これを拷問と言わずになんと言えましょうか。わたしのナタキンさまも、日本公開版では出番まるで無いしよう……

 話を元に戻しますが、この『ボーはおそれている』は、つまるところ主人公ボーに迫りくる試練というものが、苛烈のようでいてそんなにキツくはないように見えるのです。もちろん、本作におけるボーのおそれ(恐れにして畏れ)の対象は明らかにボーの母親で、第1部におけるその存在感の大きさは、電話口の声だけという制限があるだけに逆にリアルでかなりいい感じです。
 ところが、その母の存在は第1部の中で「死んじゃったらしい」という伝聞情報でいったんナシになり、ボーのおそれは「ママの葬式に行かなきゃ」という強迫観念に変容してしまうのです。これ、かなり大きなギアダウンなんじゃなかろうか。
 一応、ボーは相当重度の強迫性障害を患っている設定があるので、決めた以上は万障繰り合わせてでも実家に帰りたいという目的意識は一貫して持っているわけなのですが、作中で「葬式当日まであと〇日!」とかいう時間説明があえてぼかされているので、ボーの切迫感もふわっとしちゃっているし、それによって実家にやっとたどり着いた第4部の展開も、かなり意外なはずなのに現実感が無さすぎるので「はぁ、そうですか……ふ~ん。」みたいな白けムードになってしまうのです。現実感が無いというのは第1部からずっと続いている状態なのですが、それがうまく機能しているのは第1部のギャグパートだけで、それ以降は観客の没入感をそぐものにしかなっていないと思うんですよね。

 第1部のノリで最後までいったらよかったのに……良く言えば「めまぐるしく展開するイメージの奔流」なのでしょうが、今回の場合は「飽きっぽい映像作家のつぎはぎ作品集」にしかなっていないような気がするのね。あの名優ホアキンさんをほぼ出ずっぱりにしておいてこれなのですから、アスター監督自身が作ってる最中に「このままで大丈夫か?」と不安になって作風を変えてるような、若さゆえの焦りに見えちゃうんです。少しは高畑勲監督の不動心を見習……っちゃいけません。

 伏線回収がすごいとかも言われてるようですが、それって、ほぼボーの実家にあった母親の会社のポスターとか母親の遺体の特徴とか、みみっちい細部に関することですよね。ボーの父親のこととか、ボーが医者一家の豪邸のテレビで観たものとかの説明は投げっぱなしでしょ。なんか消化不良になっちゃうんだよなぁ。
 ボーの父親と言えば、今作における CG技術の使い方は、ほんとに『ミッドサマー』と同じ監督なのかと疑いたくなるほどに下の下の策だったと思いますよ。いや、あれに CG使っちゃいけないだろう! それこそ、『ポゼッション』(1980年)みたいにぐちゃぐちゃドロドロな実際の造形物で出すべきじゃないの? 全然怖くないんだよなぁ。いや、あれはギャグであえて CGアニメチックにしているのか……でも、だとしても医者一家から追いかけてきた狂人ジーヴスの最期とともに、盛大にスベッてますよね。

 やっぱこの映画、最後までコメディで通すべきだったんですよ。だとしたら、あのオチを選択するべきではなかったと思うんだよな。
 あと、今作には母性がつきまとっていたためか、出る女優さんがのきなみ熟れたてフレッシュだったのも、『ミッドサマー』での不気味な村娘マヤ(演・イザベル=グリル)の魔性にやられてしまった私には、ちとレベルが高すぎたのかも知れません。いや、今作の韓流アイドルに首ったけの不良少女トニもいたにはいたけど、彼女に魅力を感じるお客さんは日本にどれくらいいますかね……

 前作『ミッドサマー』を観た直後、私は「次回作なんか誰が見るか!」と感じていたのですが、今現在、私はその次回作を観てしまいました。これはやっぱり、ツンデレではありませんが、強引で暴力的ながらも、それだけ惹きつけてしまう異形の魅力が『ミッドサマー』にあったからだと思うのです。
 そしていま、私は『ボーはおそれている』を観た直後に、3、4年前と同じように「次回作なんか、誰が見るか。」と思っているのですが……心の中の温度はだいぶ違うような気がするんですよね。
 なんか、勝手ながらもアスター監督の底が見えちゃったというか、「3時間つきあう程の人でも、ないかな。」みたいな荒涼とした風が吹いております。前回のグラグラと煮えたぎる嫌悪感なんか、きれいさ~っぱりありゃしませんやね。醒めたもんです。

 いろいろ、なんでこの作品にこれほどがっかりしているのかと自分なりに考えてみたのですが、やっぱり、描き方は多少アレンジしているにしても、オチを先行作品と同じものにしているという点に、私はどうやら納得がいっていないようです。それは、あの『ゴジラ -1.0』に私がいまひとつ良い印象を持てていないことと同じなんですよね。
 いや、それだったらオーソン=ウェルズ監督の『審判』(1963年)のほうが悲劇的で身に迫る不条理さがあったし、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)のほうが怪獣が4体も出てくるからおトクだし!!みたいな。

 あともうひとつ、今回の鑑賞がイマイチだった原因として、もしかしたらこっちの方が重大だったのかも知れませんが、『ボーはおそれている』を観たのはついさっきの夜だったのですが、実は本日わたくし、お休みだったのをいいことに家で朝から昼間にかけて黒澤明監督の『七人の侍』を観ちゃってたのよね……
 いや~、これはアスター監督に悪いことしちゃったなぁ! そりゃ勝てるわけねぇって!!
 『七人の侍』が天下御免の「207分」なので、ボーちゃんの3時間に向けて身体をならす算段で観たのですが、何度目かの鑑賞なのに、や~っぱりおもしろい! 日本人だからというひが目では決してないと思います。

 ということで本日私の言いたいことは、「映画を観る前に『七人の侍』を観てはいけない。」&「『ボー』はどうでもいいから『七人の侍』は絶対に観て!!」に、あいなり申した。アスター監督、ほんとにごめんなさい……


 本作のラストの展開なんか、ボーがどうなるかよりも、「俳優のリチャード=カインドさんのゲジゲジまゆ毛、昔どの作品で観たんだっけ?」で頭がいっぱいになっちゃってましたからね。答えはドラマ『ゴッサム』シリーズでのゴッサム市長だったのですが、思い出したころには映画はエンドロールに入っておりました。

 何を見ても、何かを思い出す……歳はとりたくねぇもんだなぁ、オイ!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巻き込まれ型サスペンスのお手本、早くも登場!! ~映画『三十九夜』~

2024年01月29日 21時34分16秒 | ふつうじゃない映画
 みなさん、どう~もこんばんは! そうだいでございます。

 ヒャ~すみません! 今回、「ヒッチコックのサスペンス系映画の歴史をひもとく企画」の恒例としてやっていた、本文の後半に入れた≪レビューして気になった点を箇条書き≫部分が非常に充実して長大になってしまったので、本文はめっちゃくちゃ短くします! 記事を2回に分けるってほど思い入れのある作品でもないのでねぇ……

 結論から申しますと、本作『三十九夜』は、完成度で言えば前作『暗殺者の家』以上の傑作であると思いました。
 その理由は2点あって、ひとつは「ピーター=ローレのような出演俳優の魅力に頼らないお話そのものの面白さの向上」で、もうひとつは「主人公の圧倒的な孤立無援っぷりの貫徹からくる緊張感の持続」。これにつきるかと。

 本作、やはり主人公ハネイを演じたロバート=ドーナットさんの涙ぐましいまでの濡れ衣アウェーっぷりが際立っているのですが、この「徹底的な主人公の追い込み」はのちのヒッチコック全盛期の定型ですし、今作でも「エディンバラのフォース橋」、「スコットランドの荒涼とした渓谷地帯」、「帝都ロンドンのパラディアム劇場」と、要所要所でイギリスの名所名跡を舞台に設定するヒッチコック映画の黄金パターンもここですでに完成されていますね。

 この『三十九夜』は、地味ではあるのですが、前作以上に磨きがかかったヒッチコックの急激なる成長期を象徴する傑作になっていると思います。少々、ヒロインがお話に絡んでくる経緯が強引すぎて不快に感じるむきもあるかと思いますが、なんか彼女も最後にはハネイのことが好きになってたみたいだし、終わり良ければ総て良しっつうことで! 当然ながら今作までのヒッチコック作品の中では文句なしの最高傑作。おすすめです!!

 でも、なんで『三十九階段』じゃなくて『三十九夜』なんだ……? 単なる誤訳でいいのか!? step だぜ?


映画『三十九夜』(1935年6月 88分 イギリス)
 映画『三十九夜(さんじゅうきゅうや The 39 Steps)』はイギリスのサスペンス映画。イギリス・スコットランドの小説家ジョン=バカン(1875~1940年)のスパイ小説『三十九階段』(1915年発表)を原作とする。製作費5万ポンド。
 本作は、同小説を映像化した複数の作品の中では最も有名なバージョンで(他に1959年版、78年版、2008年版がある)、イギリス映画協会が1999年にイギリスの映画・TV業界の関係者1,000人に対してアンケート調査した「20世紀のイギリス映画トップ100」では第4位にランクされている。

 ヒッチコック監督は、本編の開始後約7分のロバート=ドーナットとルーシー=マンハイムが劇場から駆け出してバスに乗り込むシーンで、紙屑を放げ捨てながら画面前を横切る通行人の役で出演している。


あらすじ
 ミュージックホールで「ミスター・メモリー」という卓越した記憶力を持つ男の芸を見ていた青年ハネイは、銃声で騒動になったホールから、謎の女性アナベラとともに自分のアパートに戻る。彼女は軍の重要な機密が奪われそうになっていると語るが、未明にスコットランドの「アルナシェラ」という地名に印がついた地図を持って刺し殺されてしまう。見張りの男たちをまいて汽車に乗り込んだハネイは、新聞で自分が殺人容疑者になっていることを知り、警察の追跡をかわしながらアルナシェラに向かう。その土地に住む農夫の妻の手助けで「ジョーダン教授」と名乗る地元の名士のところに行くが、実は教授が陰謀の黒幕で、ハネイは銃で撃たれるものの、農夫の妻が貸し与えたコートの胸ポケットに入っていた聖書に弾が当たったために助かる。この経緯を警察に訴えるハネイだったが、警察は話を信じてくれず、地元の裁判所の判事も教授と知り合いだという。ハネイは警察に見切りをつけ、殺された女性が遺した「39階段」という言葉だけを手がかりに、教授の陰謀に立ち向かうのだった。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(35歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(36歳)、アルマ=レヴィル(35歳)、イアン=ヘイ(?歳)
製作 …… マイケル=バルコン(39歳)、イヴォール=モンタギュー(?歳)
音楽 …… ルイス=レヴィ(40歳)、ジャック=ビーヴァー(35歳)、ハバート=バス(?歳)、チャールズ=ウィリアムズ(?歳)
撮影 …… バーナード=ノウルズ(35歳)
編集 …… デレク・ノーマン=トゥイスト(30歳)
製作・配給 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社

おもなキャスティング
リチャード=ハネイ    …… ロバート=ドーナット(30歳)
謎の女性アナベラ=スミス …… ルーシー=マンハイム(36歳)
パメラ          …… マデリーン=キャロル(29歳)
小作人ジョン       …… ジョン=ローリー(38歳)
小作人の若妻マーガレット …… ペギー=アシュクロフト(27歳)
ジョーダン教授      …… ゴッドフリー=タール(50歳)
ルイーザ=ジョーダン   …… ヘレン=ヘイ(61歳)
ワトスン判事       …… フランク=セリアー(51歳)
芸人ミスター・メモリー  …… ワイリー=ワトソン(46歳)


≪例によっての、視聴メモ≫
・まだTV もなかった時代の一般大衆の娯楽の場として、舞台上で芸人が生演奏をバックにさまざまな芸を披露するミュージック・ホールが登場する。物語の舞台となる1930年代のイギリスにおける入場料1シリングの価値は、現在の日本でいうとおよそ500円くらいなので、仕事帰りのおっちゃんでも子連れのお母さんでも気軽に楽しめたエンタメであったようである。会場で赤ちゃんのぐずる声をちゃんと入れるあたり、やはり今作も音響効果の芸がこまかい。
・10年前の競馬の結果やボクシングの試合結果、都市間の距離などといった既存の情報を、その場で急に客から聞かれても全く動じることなく答える記憶芸人ミスター・メモリー。主人公のハネイも含めた客席の反応を観るだに、確かに正解を答えているようなのだが、今の日本で言うと寄席で客からのなぞかけに即興で応じるねずっちさんみたいな演芸なのだろうか。それにしても、カナダから来たお客さんがいるというだけで客席から拍手が起こる雰囲気が非常におおらかでよろしい。さすがは、大英帝国。
・ミスター・メモリーにヤジを飛ばす酔客と、それを注意した警備員との間で乱闘騒ぎが起こり、にわかに大混乱に陥るミュージック・ホール。なんでもないくだりなのだが、殴り合いの殺陣が、互いの攻撃と反撃にためらいの間が無く当時のフィルムで映せないスピードになっているので、やけにリアルで生々しい。そこらへんは、さすが生粋のロンドンっ子のヒッチコック監督ですな。街中でガチンコをいっぱい見たんだろうなぁ。
・ホール内全体を巻き込む大乱闘になった上に銃声まで轟き、演芸どころじゃなくなって会場から逃げ出す観客たち。ミスター・メモリーは事態の収拾を図って、舞台下のバンドに演奏させるが、阿鼻叫喚の客席の映像に、いかにものんきな演芸出ばやしがのっかるアンバランスぶりが、ヒッチコック一流の皮肉が効いていて面白い。ブラックユーモア、冴えてますね!
・大混乱のどさくさにまぎれて、口ひげにトレンチコート(もちろん襟立て)のいでたちもダンディな主人公ハネイに、唐突に「家に泊めてちょうだい」と頼み込む謎の美女アナベラ。ふつうの男性ならば「すわ、つつもたせか!?」と警戒して逃げの一手なのだろうが、カナダから世界都市ロンドンにやってきて気ままなマンション暮らしを楽しんでいるハネイに、そんな保守的な選択肢はなかったのだ。いやいや、無警戒すぎるだろ……
・ハネイのマンションに来たアナベラは、「私がいいと言うまで部屋の電気をつけるな」とか「反射して見えるから部屋の鏡を裏返せ」とか真顔で言い出し、しまいにはハネイの部屋にかかってきた電話にも「たぶん私にかかってきてるから取るな!」とのたまう。これ、たいていの人は彼女が命の危険にさらされてるんだろうなとは解釈しないよね。「やばい、き〇がいだ……」でしょ。
・「朝から何も食べてないの」と言うアナベラのために、くわえ煙草でタラの調理を始めるハネイ。マッチの火でガスコンロに点火した時の「ボンッ」という音にも過敏におびえるアナベラなのだが、この自動点火装置の無いガスコンロという小道具も、今では意味の伝わりづらい物になってますよね。そのうち、「ジリリン、ジリリン」と鳴る電話も何だか分からなくなる時代になるのかなぁ。どうでもいいが、煙草の火でなくわざわざ別にマッチを使って点火するところに、ハネイの紳士っぷりを感じる。でも、21世紀ならくわえ煙草で料理の時点で問答無用の大炎上である。
・「ホールで銃を撃ったのは私よ」、「2人の男に命を狙われている」、「私はイギリスの防空圏に関わる国家的機密情報の漏洩を阻止するために金で雇われた無国籍エージェントなの」と、立て続けにものすごいことを言い放つアナベラだが、本当に彼女の言うとおりにハネイの部屋を外から監視している2人の男の姿と、深夜に背中を刺されて死んでしまうアナベラという衝撃の事実に直面して、ハネイは自分が取り返しのつかない陰謀に巻き込まれていることに気づく。この急転直下の展開のスピード感もとんでもないのだが、それに加えて「39階段」や「小指の先の無い男」、「アルナシェラという地名に印がつけられたスコットランドの地図」と、いかにも観客の興味をそそる謎のワードがポンポン設定されるテンポが実に小気味よい。RPG ゲーム的な、現代にも余裕で通用するジェットコースター感覚ですよね。
・ところで、アナベラを殺したとおぼしき2人の男が、何回もハネイの部屋に電話をかけるのは、どうしてなのだろうか。マンションの入口にハネイの表札は出ているし、ホールから部屋までハネイがアナベラに同行していることは丸わかりなのはずなのに……電話をしてハネイが在室していることを確認したい理由がさっぱりわからない。たぶんこれは、行動の整合性よりも「鳴り続ける電話」というアイテムの不気味さを優先するという、「理屈よりも感覚」なヒッチコック演出の好例なのではないだろうか。そんな迂遠なことしてないで、アナベラと一緒に寝ているハネイも殺っちゃえばよかったのにねぇ。
・ともあれ、男たちにビッタリ張られているマンションからひそかに脱出するために、早朝にマンションにエントランスに入ってきた牛乳配達夫のお兄ちゃんと上着を交換して、まんまと男たちを出し抜くことに成功するハネイ。今まで異常な言動ばっかりのアナベラに押されっぱなしだったハネイが、初めてサスペンス映画の主人公らしい機転の利いた行動に出る大事なシーンである。また、ハネイが言う「人殺しに監視されている」という本当のことを全く信じないのに、「浮気相手のダンナに監視されている」というウソは一も二もなく信じて脱出の加勢を買って出る牛乳配達のあんちゃんというキャラクターが非常にロンドンっ子らしく、脚本の非凡な腕も垣間見える面白い場面になっている。本作はほんと、演出のセンスとお話の面白さがどっちも冴えわたってる!
・ハネイの部屋でアナベラの遺体を発見して絶叫するマンションの掃除婦の表情に、ハネイが乗るスコットランド行き列車のけたたましい汽笛がオーバーラップする映像演出も、ブラックユーモアたっぷりである。非常にマンガ的なんだけど、最近こんな手塚治虫的な直喩テクニックを使うマンガって、見ないような気がする。センスがもろに出るから気恥ずかしいんですかね。ダジャレを「おやじギャグ」と言って忌避する現代価値観の功罪、かも!?
・列車で逃亡するハネイと同じ個室の乗客が買った夕刊の新聞記事に、自分のマンションで発生したアナベラ殺人事件の記事が出ていて、しかもその重要容疑者として自分自身が捜索されているという事実を知って愕然とするハネイ。いやがおうにもサスペンスが高まる展開だが、前作『暗殺者の家』では危機に陥る主人公サイドが夫婦だったのに対して、今作は完全に孤立無援な「異国の地でひとり」になっているのがキツすぎる。巻き込まれ型のいちばん難易度高いやつ~!! 言語がおんなじだからだいぶ助かってますけどね。
・ストーリー上、ハネイの向かいで新聞を読んでいる客がどういう職業かなんぞはどうでもいいことのはずなのだが、その客が真面目な顔をして女性ものの下着を手にしている下着メーカーのサラリーマンで、しかもそれを見て牧師の老人が顔をしかめるというくだりをけっこうたっぷり描写するヒッチコック監督。一見すると本筋から外れた意味の無いやり取りのような気がするのだが、これによって、周囲の人々はいつも通りにのんきで冗談交じりの生活を送っているのに、ハネイただ一人が無実の罪で警察に追われる緊急事態におちいっているという孤独感がさらに強調されている。非常にブラックと言うか、底意地が悪い!
・底意地が悪いと言えば、夕刊をエディンバラ駅の新聞売りから買う時に、ロンドンから乗って来ているサラリーマンが「きみ、英語わかる?」と聞くのも性格最悪である。なんでスコットランド人に必要のないケンカをふっかけんの!? ロンドンっ子、こわすぎ!
・ついに列車の車内にも刑事の捜索の手が及んできたことを知り、困った挙句、知らない女性の一人客パメラの唇をいきなり奪って親しいカップル客を装おうとするハネイ。これによって、実はハネイもアナベラ以上に異常な人物であったことが判明する。こんなの女性からしたら恐怖でしかないと思うのだが……公開当時、女性の観客はこれを見て「ハネイがカッコいいからいいわ~♡」なんて許してくれたのだろうか。ヒッチコック監督って、わりと平気でこういうヤバいロマンスはき違え展開を入れてくるから油断がならない。奥さんのアルマさん、なんか言わなかったの!?
・当然の如く、パメラに秒で「おまわりさんこいつです。」(1回目)とバラされて刑事に追いかけられるハネイ。優雅なティールームやシェパードがギャンギャンほえる動物輸送室などを駆け抜け派手な追跡劇が展開されるのだが、殺人逃亡犯を発見したと息巻いた刑事たちが列車を緊急停止させたのがたまたま、世界遺産としても有名なスコットランド・エディンバラのフォース湾にかかる鉄道橋「フォース橋」の上だったため、「危ねぇだろ! こんなとこで停めんじゃねぇ!!」と車掌がブチギレて列車はすぐに再発進し、すんでのところで橋に下りて隠れたハネイは逃亡に成功する。息つく間もないハラハラドキドキの展開なのだが、警察を頭ごなしに怒鳴り散らす車掌さんのプロ意識がおもしろすぎる。ここらへん、国家権力になにかと弱い日本人の感覚とは違うなぁ。
・アナベラが遺した地図をたよりに、荒涼としたスコットランドの田舎にたどり着くハネイ。問題の「アルナシェラ」まで20km というところで出会った、かなり人相の悪い小作人ジョンの家に泊めてくれるようお願いすると、ジョンは「2シリング6ペンス」で承諾してくれる。現在の日本円で言う「1250円」で夕食つきベッド泊とは……ジョンさん、いいひと! しかも嫁さんが美人。
・たまたま台所に置いてあった新聞の1面の「ロンドンから逃走した殺人犯、フォース橋で失踪」の記事を気にするハネイの視線を見ただけで、ハネイがその逃走犯であると看破する若妻マーガレットの洞察力もすごいのだが、その2人の視線の交わりを妻の浮気と一瞬で曲解してしまうジョンの即断力もものすごい。この夫婦がこのあたりの数分間だけの登場なのが、実にもったいないなぁ!
・土と石で造ったジョンの家の窓が、いくらなんでもそりゃないだろというくらい斜めにひん曲がっているのがおもしろい。ほ~らヒッチコック監督、またそうやってスキさえあればドイツ表現主義リスペクトをねじ込んでくるぅ!
・たった数時間の付き合いなのにハネイの冤罪を確信して、深夜の警察の訪問を察知してハネイを起こす、夫ジョンの裏切り密告を予見する、ジョンの暗めの色のコートを迷わずハネイに与えるという、ありがたすぎるサポート3連発をきめる若妻マーガレット。なんでそこまで尽くしてくれんの!? いやがおうにも過去の経歴が気になってしまう存在である。
・警察の追撃を振り切って、なんとか午前中にアルナシェラのイングランド人教授が住むという屋敷にたどり着くハネイ。あの、ジョンの家から20km なんですよね……夜明け前の深夜にジョンの家を出たのだから、おそらく10時間もかからずにゴールしたことになるのだが、車道沿いだったら可能な気はするけど、警察が車で追えないような「グレートレース」的な石やら山やら急流ばっかの荒地をあえて選んで足だけで進んだんでしょ。ハネイ、健脚すぎ!
・ジョンが言っていた、アルナシェラに最近引っ越してきたイングランド人教授の家に命からがら逃げ込むハネイ。しかし、アナベラが入手したのは敵側の情報なので、アルナシェラに行くこと自体がハネイにとっては自殺行為である可能性が非常に高い。でも、何もしなければ警察に誤認逮捕されることは自明の理なので、孤立したハネイにできることはこれだけなのだ……かなり絶望的な逃避行である。
・アルナシェラのジョーダン教授は、意外にも名も知らぬハネイを快く受け入れ、さらには警察の捜査も追い返してくれる。地元判事のワトスンとも相当に親しい間柄の紳士ジョーダンはかなり心強いハネイの味方となってくれそうなのだが……ま、そういう展開になりますよね~!! 「小指の先の無い男」というワードが効いてくるやり取りである。実に視覚的。
・ジョーダン夫妻の「この方(ハネイ)の分の昼食はいるかしら?」「いや、いらないよ。」という冷酷な会話の後、拳銃の弾を胸に受けて倒れるハネイ。これで一巻の終わりかと思われたのだが、ハネイはなんと、着ていたジョンのコートの内ポケットにあった分厚い讃美歌集のおかげで命を取り留めていた! 「胸に何かあって銃弾を食い止める」というフィクション世界の伝統的お約束の典型例なわけだが、だとしても、あのジョーダン教授が血が一滴も流れないハネイの身体を、脈拍を確かめもせずにトイレにうっちゃっておくはずがないので、これで教授の邸宅から脱出できました、という展開はあまりにもムリがありすぎる気がする。そこはそれ、映画なので無駄な部分はカットしましたと言われればそこまでなのだが……やっぱり、ヒッチコック的な映像構成のスピード感は、本質的には推理小説とウマが合わないような気がする。都合の悪いところもしれっとカットしちゃうんだもんね。
・せっかく危機を脱したハネイなのに、よりにもよってジョーダン教授と親しいワトスン判事に助けを求める。なに、バカなの? 死にたいの?
・でも、ワトスン判事に呼ばれた刑事たちもハネイに負けず劣らずのポンコツなので、ハネイを余裕でとり逃がしてしまう。アホや。
・逃走中のハネイがなんやかんやで、選挙の応援演説のためにスコットランド入りした政治家に間違われて、聴衆の前で口から出まかせの演説をさせられてしまうという展開がおもしろい。でもこれはチャップリンの映画ではないので、結局は本物の政治家を連れてきたのが列車の中で強引にキスをしたパメラだったという奇跡的不運により、無事に2回目の「おまわりさんこいつです。」とあいなる。岡田あーみんのマンガみてェ。
・パメラは、ポンコツにしては迅速にハネイのいる演説会場に現れた男2人を警察だと信じ切ってハネイを突き渡すのだが、やはり彼らは警察ではなく、アナベラを殺害してロンドンからハネイを追って来た2人組だった。2人はお目当てのハネイと、ハネイから国際機密漏洩の真実を聞いてしまったために邪魔になったパメラを連れて車に乗り、ワトスン判事(という名目で実は首魁ジョーダン教授)の元へ向かう。お約束の展開で、もう何度目かの生命の危機にさらされるハネイなのだが、ここでの、スクリーンプロセスの前での車内の4人のやり取りを映す画面から、実際に夜のスコットランドの荒野を疾走する自動車のバックショットへかなりスムースにカット無しのように(実際には車の窓のフレームが画面を横切るタイミングで切り替わっている)移行する撮影テクニックがかなりうまい。ヒッチコック監督、やっぱ特撮のセンスあるわ!
・通る予定の橋が壊れていたので進路を変えたという敵側のわずかなスキをついて、道路をふさぐ羊の大群と濃厚な夜霧にまぎれて、手錠を掛け合ったパメラと共に車から脱走するハネイ。結局ここでも縁もゆかりもない男と身体を密着させたりお姫様抱っこされたりして同道エスケープするはめになるパメラが不憫でしょうがない。あんな強引な引っぱられ方したら、手首血だらけになるぞ……あと、ヒールだから足首も大変なことに。
・なんとか2人組から逃げおおせたハネイは、当然ながらブーブー文句を言うパメラを脅しすかしながら夫婦に偽装して近くの村の宿をとる。そこでも、ベッドが1つの部屋しかとれないとか、手錠のせいで右手の利かないハネイの代わりに夫婦としての偽名を記帳させられるとか、かなり散々な目に遭う。ほんと、ハネイがカッコよくなかったら地獄よ、これ……
・観客はハネイが無実であることはわかっているのでいいのだが、しじゅうガチガチにこわばった作り笑いを浮かべたハネイの顔が超近くにあって、ほとんどほっぺたをくっつけたような態勢を強いられているパメラは本当にかわいそうである。殺人犯じゃなくても、き〇がいだろ、こんなやつ……ここらへんの宿屋でのねちっこい偽装夫婦シチュエーションコントは、特に女性の観客にはそうとう引かれたのではなかろうか。
・行きがかり上仕方がないとはいえ、手錠をかけられたハネイの手がほぼ触れている状態でしぶしぶストッキングを脱ぐパメラの脚を「じっ……」と見つめるカメラの視線が異様に気持ち悪い。この、無言で女性のしぐさを凝視するカメラがヒッチコック印なんだよなぁ。こわ!!
・いやいやながらもハネイと同じベッドに寝転んだパメラは、サンドウィッチを食べながらハネイのでたらめな作り話を聞いている内に、いつの間にか表情を緩めて吹き出すほどの関係性になり、安心して眠りにつく。なんだかんだ言っても無理な逃避行に巻き込んだパメラを気遣うハネイの心遣いが伝わるくだりなのだが、こんなの典型的なストックホルム症候群の風景ですよね……なんのフォローにもなってないぞ!
・深夜、ここ数日間にわたる逃避行のために疲労で昏々と眠りに落ちるハネイよりも先に目が覚めたパメラは、四苦八苦した末に自力で手錠から手首を外すことに成功する。パメラは当初ハネイから逃げようとするが、ちょうどその時に宿屋に現れた2人組のロビーでの電話を盗み聞きして、「39階段」と接触して国外逃亡するために「ボス(ジョーダン教授)」が「ロンドン・パラディアム劇場」に向かったという情報を入手するのだった。いよいよハネイが濡れ衣を着せられているらしいことを知ったパメラは、自分たちを本物の夫婦だと勘違いした宿屋の女将が、義侠心から機転を利かせて2人組を追い出した様子にも感激し、逃げずにハネイを見守ることに翻意するのだった。う~ん、いい話……か!?
・パメラがハネイを許したのはけっこうなのだが、「39階段」うんぬんの超重要情報を手に入れておきながら、ハネイをたたき起こさずにとりあえずはぐっすり寝かせておこうと思いやってしまう彼女の判断が、ハネイの意志と気持ちいいくらいに逆になっていて面白い。パメラの優しさが、かえってあだに!
・翌朝、起きた時に手錠の先にパメラの手が無く、部屋のドアが開いているのを見て独りで寂しげに笑うハネイの表情が、ちょっといい。内心、パメラには早くこの逃避行からリタイアしてほしいと願っていたのだろうか。でも、逃げてないんだけどね!
・お約束ながらも、「39階段」うんぬんを教えてくれたパメラに心から感謝していたハネイが、その話を聞いたのがおよそ5時間前のことだったと知るやいなや「なぜすぐ僕を起こさなかった!?」と烈火のごとく怒りだすやりとりが楽しい。嗚呼、男と女のまごころのすれ違い……
・その夜、なんとかロンドンに帰って来たパメラは単身スコットランド・ヤードに向かいハネイの冤罪と国際スパイ組織の国外逃亡の危機を訴えるのだが、ハネイ犯人説をいまだに信じる刑事たちは生返事で相手にしてくれない。ハネイ逮捕に警察の威信を賭けるヤード陣は、ひそかに公演中の劇場を警官隊で包囲させるのだった。クライマックスが近い!
・その頃、帝都ロンドンでも有名な大劇場ロンドン・パラディアムでは何事もなく、パントマイムコントや生演奏、ダンスといった演芸プログラムが進んでいた。げ、芸の内容が冒頭の大衆的なミュージック・ホールの出し物と大差ない……これ、れっきとした伏線だからしょうがないのだが、チケット料金がおんなじ500円なわけないですよねぇ。ボッてるなぁ!
・スコットランドの宿屋から一転してクライマックスのロンドンに切り替わるスピーディな展開はすっきりしていいのだが、朝の宿屋であんなに一致団結していたハネイとパメラが、ロンドンでは互いの居場所も知らない程に別行動をとっていることに何の説明もないのが少々もどかしい。客席でパメラと再会してもハネイは大して驚いていないので、逮捕を恐れてパメラだけをヤードに行かせて自分は先に劇場の自由席に座っていたのか。
・ここで、ハネイが無意識に口ずさんでいた口笛のメロディの正体がはっきりし、「ずっと探していたものは一番最初の場所にあった」という『幸せの青い鳥』的な伝統オチに帰着するのだが、こうやってスキさえあればトーキー映画らしい音楽・音声ネタを入れてくるヒッチコックのサービス精神がうれしい。でも、「そんなの1年や2年も前に聴いた曲じゃないんだから、その気になればすぐ思い出せるだろ」とツッコまれればそこまでなので、そこらへんの伏線としての弱さが非常に惜しい。「芸人の出ばやし」が伏線なんて、けっこう斬新なんですけどね。北村薫みたい。
・ラストのラスト、ハネイの機転の利いた一言により事態は急転直下し、「39階段」の意味が判明して事件は一件落着するのだが、解決の爽快さよりもミスター・メモリーの特異な人物設定の方に目が行ってしまい、唖然としている内にスパッとお話が終わるような印象があって、いまいちハッピーエンドな感じになっていないのがちょっと残念である。ミスター・メモリーって稗田阿礼みたいなそうとうに特殊な芸人さんだったのね……だったら、もっと「ふつうじゃない」感じの俳優さんが演じた方がおもしろかったのかも知れない。あと、かなり悪い感じのジョーダン教授の最期がかなりあっけないのも惜しいような気がした。ま、リアリティ重視と言えばそこまでなのですが、前作の悪役がローレさんだったからなぁ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする