長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

まさに究極……なにも起きない「生きてることが SF」映画!!  ~タルコフスキー監督『ストーカー』~

2015年10月03日 23時04分32秒 | ふつうじゃない映画
映画『ストーカー』(1979年8月公開 164分 ソヴィエト連邦)


 映画『ストーカー(原題・Сталкер)』は、アルカジイ&ボリス=ストルガツキー兄弟による長編 SF小説『路傍のピクニック』(1972年)を原作とし、アンドレイ=タルコフスキーが監督した作品である。
 人間の本性と欲望、信仰や愛を通じての魂の救済を描く。タルコフスキー監督作品としては『惑星ソラリス』(1972年 スタニスワフ=レム監督)に続く SF映画であるが、未来的な描写や派手な演出は全くと言っていいほどない。実際、この映画において SF的設定と言えるのは、冒頭の短い字幕解説だけである。これは、タルコフスキーが原作小説に注目して、他の映画監督のために脚本化したいと考えた1973年初めから、彼自身が「最も調和のとれた形式をとりうる」構成を練り始め、「合法的に超越的なものに触れる可能性」を見出した74年末から75年初め、そして2度の撮影を経て最終的な完成ヴァージョンに至るまでの約4年の間に、タルコフスキー自身の構想が大きく変わった結果である。『ストーカー』の撮影はタルコフスキーの全作品中、最も準備不足な状態で始まり、スタッフとの軋轢や脚本の全面的な書き換えもあってトラブル続きであったという。

 内容は2部構成になっており、物語が展開する時間は明示されていないが一昼夜であると思われる。タルコフスキーのこれまでの作品と比べても長回しが多く、現実的な時間の持続を強調している。タルコフスキーの他の作品と同様に、「水」が重要なモチーフとして登場するが、それまでの作品とは異なり、水面には油が浮いていたり文明の遺物が底に沈んでいたりして、美しく描かれてはいない。場面ごとに微妙に変化する色調や冒頭でストーカーが登場するシーンのカメラワークに、中世ロシアのイコン様式の影響があるという研究もある。後半には特有の難解なセリフ回しが見られる。
 後に犯罪の種類のひとつを意味する「ストーカー」という言葉が日本語に定着するはるか以前の映画作品であり、ロシア語の原題も英語の「Stalker」をそのまま使っていて、作中では「密かに獲物を追うハンター」という意味で使われている。


あらすじ
 ある地域で「何か」が起こって住民が多数犠牲になり(隕石が墜落したとも言われる)、政府はそこを「ゾーン」と呼んで立ち入り禁止にした。しかし、ゾーンには何でも願いが叶う「部屋」があると噂され、政府の厳重な警備をかいくぐって希望者を「ゾーン」に案内する「ストーカー」と呼ばれる人々が存在していた。
 ある日、ストーカーの元に「科学者」と「作家」と名乗る2人の男性が現れ、その「部屋」に連れて行ってくれと依頼する。だが、命がけで「ゾーン」に入った後も、予想のつかない謎の現象(「乾燥室」や「肉挽き機」などと呼ばれる)で命を落とす危険が待っている。その道行きの中、「ゾーン」とは何か、「部屋」とは何か、信仰とは何かを3人は論じ合う。


主なスタッフ
監督    …… アンドレイ=タルコフスキー(47歳)
原作・脚本 …… アルカジイ&ボリス=ストルガツキー兄弟
音楽    …… エドゥアルド=アルテミエフ(41歳)

主なキャスティング
ストーカー   …… アレクサンドル=カイダノフスキー
ストーカーの妻 …… アリーサ=フレインドリフ(44歳)
作家      …… アナトリー=ソロニーツィン(45歳)
科学者     …… ニコライ=グリニコ
ストーカーの娘 …… ナターシャ=アブラモヴァ




《ほんと、仕事のこと考えずにゆっくり『ストーカー』観た~い。本文マダヨです》
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楽しいリベンジ!  ~タルコフスキーの『鏡』を、寝ないでちゃんと観よう~

2015年09月18日 23時49分46秒 | ふつうじゃない映画
 どもども、みなさんこんばんは! そうだいでございますよ~っと。
 いや~、山形の夏も暑いやねぇ。9月もなかばになっているわけなんですが、まだ秋の訪れを実感できない残暑が続いております。千葉の暑さともまた違ったものがあるんですが、さすがに朝晩になると気温も落ち着いてくれるのが救いでしょうか。私にとっては実に18年ぶりの山形の夏になるんですが、こんなもんだったような、昔はもう少しお手柔らかだったような……高校時代は、もっぱら自転車たち漕ぎで汗だくになりながら市内を駆けずり回っていましたからねぇ。自動車って偉大……今さらながら!

 さてさて今回のお題は、私にとりまして長年の懸案となっておりました、ある映画についてのあれこれでございます。
 さっそくまいりましょう、こちら!


映画『鏡』(1975年3月公開 108分 ソヴィエト連邦)
 映画『鏡(原題・ЗЕРКАЛО)』は、アンドレイ=タルコフスキーによる自伝的要素の強い映画である。同時に、ロシアの現代史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーのキャリアにおいて、その中心をなす代表作である。
 タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
 『鏡』のなかで、タルコフスキーは父アルセニーの詩を繰り返し朗読するが、父と主人公アレクセイは鏡を通じて互いに写り合う像となっている。アレクセイの母マリアとアレクセイの妻ナタリアも鏡像関係にあり(同じ女優が演じている)、更にアレクセイ自身とその息子イグナートも互いに鏡像となる(少年時代のアレクセイとイグナートは同じ子役俳優である)。
 タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、そもそも彼の映画の思想そのものが魔術的だとも言える。


あらすじ
序章
 ユーリという青年が吃音の矯正訓練を受けている TV画面の情景から始まる。女医が話しかけるが、青年はうまく話せない。女医は青年を緊張させ暗示を与えつつ、解放した瞬間に「ぼくは話せます。」と言うようにと指示する。女医の言葉に合わせて青年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことができるようになる。

第1章 記憶
 物語は過去にフラッシュバックし、アレクセイの幼年時代に戻る。まだ若かった母マリアが農場の柵に腰かけていると、医者と自称する見知らぬ男が現れ、母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その後、タルコフスキー監督自身が、父である詩人アルセニー=タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。
 物語は、成人したアレクセイの日常を描く現代へと進む。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行くアレクセイだが、ふとした言葉や出来事が、彼を過去の記憶の情景へと引き込んで行き、現在は過去の記憶に浸食される。
 過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶と共に、ロシア(当時はソヴィエト連邦)の歴史、過去の政治体制などが描き出されている。祖父の別荘で納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族を去ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人の生命にも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。

第2章 歴史
 現在のアレクセイの部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。記録映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。
 ある日、部屋にいた老婦人の要望に応え、アレクセイの息子イグナートはプーシキンの書簡を朗読する。それは、モンゴル帝国の圧倒的な破壊と暴力に対する防波堤となったロシア地方の、ヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。老婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻ると老婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた湯気の痕跡があり、それも見る見るうちに消えて行く。

第3章 交錯
 アレクセイは息子イグナートとの会話を通して、少年時代に雪の積もる冬、射撃場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び第二次世界大戦中の記録映像に映る、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落と軍人の遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件(1969年)の情景。そして再びアレクセイの少年時代へと時間は戻り、軍服を着た父が唐突に帰ってきてアレクセイをを胸に抱く。さらに時間は現在へと戻り、成人したアレクセイは息子イグナートに、父である自分と母ナタリアのどちらを取るか迫る。
 アレクセイはナタリアとの対話を経て、夢に見た少年時代へと思いを巡らせる。母と共にモスクワから疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、アレクセイ少年を伴って交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年が垣間見た、豊かで暖かい家庭。宝石を売りに訪れた家でランプの明りに照らされたアレクセイは鏡を見つめながら、家財を手放そうとする母を許す。しかしそれは彼が許しているというより、鏡に映った自己の姿の深奥を観照するなかに、彼ら母子の営みを見守る神の赦しが顕現しているようである。

終章
 まだ若い母マリアと父が、夏の白夜の夕暮れの中、田園の草の中で寝そべり、これから産まれる子は男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年のアレクセイと妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子らを逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、勘の鋭い若い母マリアもその後を予感し涙する。 十字架の前に赦しを請い、赤の他人である通りすがりの医師に心を動かす多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母を捨てて、もはや性の対象ではない老母と幼年時代の美しい記憶に回帰するというエディプス・コンプレックス的解釈もされている。このような、時空の秩序を越えた情景のなかで物語はクライマックスを迎える。
 かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸の枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出逢い、別れ、そして新しい未来へと進んで行く。


主なスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… アンドレイ=タルコフスキー(42歳)
脚本 …… アンドレイ=タルコフスキー、アレクサンドル=ミシャーリン
撮影 …… ゲオルギー=レルベルグ
音楽 …… エドゥアルド=アルテミエフ(37歳)
主題曲
ヨハン・ゼバスティアン=バッハ『オルガン小曲集』より『古き年は過ぎ去りぬ』(1713~16年)
挿入音楽
ジョヴァンニ・バティスタ=ペルゴレージ『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』より『我が肉体死すとき』(1736年)
ヘンリー=パーセルの歌劇『インドの女王』第4幕より『 They Tell Us That Your Mighty Powers』(1695年 歌唱なし)
バッハ『ヨハネ受難曲』より合唱『主、我らを統べ治め』(1724年)

主なキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
少年時代のアレクセイ/アレクセイの息子イグナート …… イグナート=ダニルツェフ(13歳)
母マリア/妻ナタリア               …… マルガリータ=テレホワ(32歳)
幼年時代のアレクセイ               …… フィリップ=ヤンコフスキー(6歳)
父                        …… オレーグ=ヤンコフスキー(31歳)
通りすがりの医者の男               …… アナトリー=ソロニーツィン(40歳)
リーザ=パーブロブナ               …… アーラ=デミドワ(?歳)
印刷工場の上司                  …… ニコライ=グリニコ(?歳)
マリアが訪問した家の主婦ナデージダ        …… ラリッサ=タルコフスキー(36歳 タルコフスキー監督夫人)
成人したアレクセイの声              …… イノケンティ=スモクトゥノフスキー(50歳)
詩の朗読                     …… アンドレイ=タルコフスキー


 出た~! 世界映画史上にその名を残す、ものすんごい映像詩の巨人・タルコフスキー監督の第5作となる映画作品です。
 アンドレイ=タルコフスキー。私にとっては、千葉の一人暮らし時代に出逢った様々な刺激の中でもトップクラスに衝撃的で、映画というジャンルの無限の可能性を教えてくれた才能でございます。大好き!
 とは言いましても、実にお恥ずかしいことに現時点で私が観たことのあるタルコフスキー作品は、SF映画に分類される『惑星ソラリス』(1972年)と『ストーカー』(1979年)の2作と、この『鏡』のたった3作だけなのです。情けなや!!
 それで、よくよく調べてみたらタルコフスキー監督の遺した映画は全部で「8作」ということでしたので、ここは山形での生活もなんとなく落ち着いてきたことですし、一念発起して全作の DVDソフトを購入してコンプリートしようじゃないかという流れに、今になってやっとたどり着いた次第なのでありました。ええ、遅いですよ!? でもやらないよりゃましでしょ! ということで。

 私にとっての初タルコフスキー体験となった、学生時代に大森の映画館の特集上映で観た『惑星ソラリス』についてのあれこれは、ずいぶん前に我が『長岡京エイリアン』でもすでに触れました。いや~、あれは本当に最高な出逢いでしたね。関東地方での一人暮らしを始めてみたばっかりで右も左もわからず、どこを見回しても山が存在せず(山形盆地の民にとってはとんでもねぇカルチャーショックだず!!)、しじゅう血のような潮のかほりが吹きすさぶ千葉市に恐れおののいていた私に、ものすごい郷愁を呼び覚ましてくれたと共に、「東京はこんな作品も娯楽にしてるのか!!」と、世界に冠たる1千万都市、メガロポリスTOKYO の格の違いを見せつけてくれた衝撃体験でした。しかもさぁ、『惑星ソラリス』に加えて、あの伝説の SFアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』(1973年 フランス)の2本立てだったもんですから、もう帰り道フラッフラでしたよ! 東京は恐ろしかとこばい!!
 当然ながら、「世界には『惑星ソラリス』という、とんでもない SF映画がある」といううわさだけは聞いていたのですが、まさかこれほどまでにものすごい作品だったとは……学生時代の私にとっては、この『惑星ソラリス』と、テアトロ新宿で観た実相寺昭雄監督の『 D坂の殺人事件』(1998年)、そしてなにげなく深夜に TVをつけた時にやっていたアニメ『 lain』が、「私的3大『都会の洗礼』作品」となります。あと、中野かどっかの劇場で観劇したナイロン100℃の『Φ(ファイ)』も、まず山形では観られない類のトンガリ具合があって衝撃的でしたね~。

 その後、『ストーカー』はでっかい2本組の VHSビデオを新宿で買って自宅で視聴したのですが、これもうわさにたがわぬ『惑星ソラリス』以上の「何も起きないがゆえに、何が起きてもおかしくない緊張感」みなぎる大傑作でした。とてつもない思想、技術、そして映像美……
 そして、これまた本ブログで触れた通り、さらにのちに私は2010年になって、池袋の新文芸坐で親友と連れ立って『惑星ソラリス』、『ストーカー』、そして『鏡』の3本立てになるタルコフスキー・オールナイト上映会にいそいそと出かけたのですが、そこで唯一、初めて観る作品だったはずの『鏡』のほぼほぼ全編でグースカ寝るという痛恨の事態を招いてしまったのでした……痴れ者が! でも、2時間半の映画を2本観た後に夜明け近くの『鏡』なんで……カンベンしてつかぁさい!! はっと気がついた時には映画はあらかた終わっていて、呆然としながら新文芸坐から出た時の、池袋の朝の光のまぶしさよ。

 それ以来、自分の心の中でかなりの遺恨となっていた『鏡』を、あらためて購入する DVDの1本目に選んだのは自明の理というものでしょう。今回はちゃんと睡眠をとって、自宅で腰を据えて堪能させていただきますぞ! 5年ぶりのリベンジに、思わず鼻息も荒くなります。


~108分後~


 いやはや……ものすんごい体験をしてしまつた……

 なんと言い表せばよいものなのか。映像を詩的とか魔術的とか、通りいっぺんの言い方にしても、結局先人の方々のリフレインになっちゃいますしねぇ。
 観た後の感覚を率直に言うのならば、「一向に出発しないのにぐわんぐわん横揺れだけするジェットコースター」という感じになります……わかる!?
 ただ横揺れするだけの遊具じゃないんですよね。ちゃんと目の前には何百メートルという高さまで登るレールがあって、それがうねうねと周囲を回って、自分たちが今座っている乗り物の後ろまでつながっているのです。それなのに、全っ然スタートしない! スタートしないのに、なぜか乗り物は激しく横にぐわらぐわら揺れる!! なぜ!?
 それは、自分が身体を強く横にゆすっていたからなのであつた。

 そうなんです、まさしくこの映画『鏡』は、観る者一人一人の心の遍歴を写す鏡。鏡はそこにあるだけで、自分からは別に何もしません。もしそれを見て激しく心を動かすものがあったとしたのならば、それは観る人が自分で自分の像に、心を動かす「何か」を見いだしているだけのことなのです。

 なるほどね~。ということは、5年前の私は、まだまだ自分の半生を振り返っても、特になんの感慨もわいてこずに退屈して眠くなってしまうようなお子ちゃまだったということだったのかしら。何かものすごく納得できるような気がする……
 かと言って、たかだか30代そこそこの自分が観た今回の『鏡』が最高に面白いってわけでもないはずなんですよ。だいたい家庭も子供も持ってないしね! もしも家庭を持ってから観たら、また違う味わいになるんでしょうねぇ。

 わかりやすく例えると、『惑星ソラリス』は『スター・ウォーズ』の真逆の SF映画ですし、『ストーカー』は『エイリアン』あたりの真逆になるでようか。とすれば、今回の『鏡』の正反対に位置するのは何かと思いを巡らせれば、「主人公が半生を振り返る」という文法にこだわるのならば、それはやっぱり時代はだいぶズレますが『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)になるのではないでしょうか。
 かの作品と比べれば一目瞭然かと思われるのですが、ふつう過去と現在を行き来するドラマを作るのならば、過去編と現在編を誰が見ても違いが分かるようにきっちり区別するのが定石であるはずです。『鏡』も、序盤こそおとなしくモノクロとカラーでシーン分けをしたりして一見時間の区分を観やすくしているように見えるのですが……「あれ、この子アレクセイ? イグナート?」というひっかかりが出てきたかと思うと、一瞬にして常識的な構造など存在しない異次元世界に突入してしまうのです。こわ~!!

 今作『鏡』は、半分以上タルコフスキー監督の自伝的作品といった感じなのですが、監督の半生を編年体で描くような大河ドラマ的なベタな作りであるはずがなく、かといって監督の視点から彼自身が体験した印象的なエピソードをピックアップしてつづるような紀伝体の形式も取っていないのです。
 じゃあ一体全体どんな構造なのかと言いますと、まさしくタルコフスキーお得意の表現パターンともいえる「水」のごとく、自分自身が変幻自在に姿を変え時空を超え、時には自分以外の母マリアや息子イグナートの肉体や脳をも取り込んで主観視点を変えていくという、『ターミネーター2』の T-1000か、虫好きの子ども達にとっては衝撃のトラウマ生物であるハリガネムシのごとき融通無碍な、もはや構造とも言えない超構造になっているのです。例えがひどい! 閲覧注意!!

 アレクセイでもあり、母でもあり、息子でもあるというこの主格のメタモルフォーゼは、確かに見る人によっては非常に混乱する横揺れ感がありますし、よくよく観てみると、タルコフスキー監督はかなり巧妙に物語の中に徐々に「破綻」を混入させており、最終的には画面に映っている情景の時間軸がいつなのかが全くわからない、過去と未来、別の時代の同じ人格がいたるところに混在するカオス状態となって完結します。でも、これは当然ながら監督の腕が足りないとか、時間や予算などでの制作上の制約があったからとかいう破綻ではもちろんなく、タルコフスキー監督が「人間の記憶なんか混在して当たり前でしょ。」という確信をもって映像化した、非常に理路整然とした混沌であるわけなのです。混沌を創造するもの、これすなはち神! 映画の神に敢然と挑まんとする者、タルコフスキー!!

 要するに、数百数千年、へたしたら数億年の時を経て地上に流れ出してきた水の流れが、その土地に住むさまざまな人々の生き様や喜怒哀楽を通り抜け、次第にその色や粘性を変えていくさまを108分で描き切った作品こそが、この『鏡』なのでありましょう。
 なので、この大河を楽しむためには、いちいち赤が混ざっちゃったとかにごってきたゾとか細かいことなんぞ気にせずに、尽きることのない奔流の、一瞬として同じ表情を見せることのない無常の美を見つめることが一番なのではないでしょうか。すごい! タルコフスキー meets 鴨長明!!

 いや~、やっぱりタルコフスキー監督の水好きには意味があったのだなぁ。自分でもあり、他人でもある! タルコフスキー監督は『新世紀エヴァンゲリオン』をさかのぼること20年以上前、すでに人類補完計画のありようを世に問うていたのだ。ま、提唱したところで所詮、世界人類には早すぎたわけなのですが……

 他の作品を観ていないので確たることは言えないのですが、本作は、少なくとも『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べると外的、政治的味わいが強いといいますか、わりと唐突に昔の歴史的な記録映像が流れだしてきます。そしてそれ以上に、バッハをはじめとするバロック音楽がふんだんに使用されていることからもわかる通り、キリスト教のかおりが非常に強いのも、今作の特徴なのではないのでしょうか。

 でも、いや、だからこそと言うべきなのか、本作はキリスト教の教えに沿わないような、どっちかというとロシア土着のやおよろずの神、みたいな自然の不思議な力がやたらと雄弁に前に出てくるような気がするんですよね。
 それに、「きれいごとだけで世の中生きてられっかよ!」みたいな、常にふてくされた表情でロシアの大地をつかつか闊歩する母マリアの姿も、宗教音楽で語られるような聖母マリアとはまるで違った女性像を提示しているような気がするのです。だいたい、消えたダンナに多少の未練は残してるとしても、アレクセイたちを育てるためにさっさと独立していきますもんね。

 でも、最後の最後のカットで老母マリアの歩く草原のはるか向こうに意味ありげに十字架をかたどった電柱がつっ立つカットの、その傍らにポツンとたたずむ若い母マリアの人影が、なんか猫背ぎみに腕を組んでタバコをスパーと吸ってるように見えたのは印象的でしたね。あれは、上の Wikipedia記事に挙げたような「十字架の前に赦しを請」うている態度にはじぇんじぇん見えないのですが……どっちかというと、「罪を背負って生きてくか~、めんどくせぇけど。」みたいなたくましさが、あんなに遠目でもビンッビンに伝わってくる雄姿でしたね。母は強し!!

 くだくだ申しましたが、タルコフスキー監督は、その身に深くしみ込んだキリスト教の思想を受け入れ、ダ・ヴィンチの画集に象徴されるようなヨーロッパ文化にあこがれを抱きつつも、最後にはそれを捨てて、ロシアの広大な大地に根ざす原始的な信仰に回帰していくかのような物語を描いているような気がします。ただ、最後の最後まで成人した現在のアレクセイが顔を出して主体的に動き出さないのは、やはりキリストの犠牲なくして現代文明の誕生なし、その長い長い不在を舞台設定に置きたかったからなのでしょうか。それとも、いずれ自分も父親のような「ダメおやじ」に堕してしまう、実際になりつつある、という宿命をかみしめ、また恐れているからなのかも知れませんね。そういったあたりに正面から挑んでいったのが、次作『ストーカー』での主人公のダメダメっぷりなのかも!? 自分がライオス王になってしまったとしみじみ自覚しているタルコフスキー監督にとって、自身がオイディプスに還ることができる場は映画の世界だけだった、ということなのでしょうか。

 でも、日本でタルコフスキー監督が人気なのも、わかったような気がしましたね。バッハだバロックだとヨーロッパ宗教的な味付けも多い作風なのですが、その本質にはきわめてアジア的なアニミズムが根ざしていることが、『鏡』ではっきりしたからです。理性と本能、静と動、理論と感情。その2大勢力の葛藤こそが、タルコフスキー作品の魅力の源なのですね~。タルコフスキー監督がもし芥川龍之介のキリシタンものを映画化していたら、どんなに美しい作品になったことか! 『奉教人の死』とかねぇ。遠藤周作の『沈黙』は、まんますぎて逆にだめですか。

 だいたい、日本の宗教でのイコンは仏像だとか神像だとかもあるにはありますが、神社の中のご神体の多くは「鏡」ですもんね! 製作技術的にどうしても写る像が歪んでしまうとかかすんでしまうとかいう事情もあるのでしょうが、昔の鏡は観る者をそのまんまはっきり写せない物がほとんどでしたし、鏡に写るものに神を見いだす文化は、日本でもふつうだったのでしょうなぁ。それじゃ相性もいいはずですよ!

 それにしても、しっかりした筋立てを持つ原作小説のある『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べて1時間前後短いとはいえ、今回の『鏡』はシーンごとの時空がピョンピョン飛び跳ねてしまうのでなかなか集中力のいる視聴になりました。あらためて振り返ってみると、池袋・新文芸坐さんの3本だてオールナイトの並び順、けっこう鬼だぞ! 集中力がいちばん途切れがちになる夜明け前に『鏡』て!! そういう苛烈な責め方が、いかにも東京らしいよなぁ。

 ただそれでも、タルコフスキー作品名物の「起きそでなんにも起きない」と「水ぜめ、水ぜめ、また水ぜめ!」の演出は健在すぎるほどに健在で、射撃場での子どものいたずらで投げられた手榴弾が爆発しないとか、母マリアが大雨の外から印刷工場に入って出勤のタイムカードを切ったのに、また外に出てずぶぬれになりながら自分の部署にダッシュするといったひとこまは、もはや笑わせにきているとしか思えない監督の心づくしを感じました。あれだけあおっておいて爆弾の一つも炸裂しないとは……「舞台に拳銃があったら、それは必ず発射されなければならない。」という名言を残したチェーホフと同じ国に生まれた映画監督とは思えない、ケンカを売るかのような演出! そういえば作中でもチェーホフの戯曲の登場人物が茶化されていたけど、監督はチェーホフ的な演劇論がお嫌いなのかな? そうだろうなぁ。
 ほんと監督は、水が好きだよねぇ。でも、本作はまるで透明の怪獣が森や草原を通り過ぎていくかのように、生い茂る草木がざわざわとなびいていく風の動きをカメラに収める演出も特徴的でしたよね。序盤の通りすがりの医者のシーンなんか、どこからどう見ても不審者にしか見えない自称医者の男が、去り際の草原の動きでいっきに「まれびと神」にまで持ち上がってっちゃったもんね! 結局なんだったんだ、あのオヤジは!? 農場の柵、ちゃんと直してから行けや!!

 ま、そんなこんなで数年来の遺恨だった『鏡』をやっと最後まで観たわけだったのですが、やはりタルコフスキー監督の代表作と言われてもおかしくない濃度の作品だったかと思います。でも、難解だと思いだしたら果てしなく難解になる不思議な一作でした。まさに、考えるな、感じろ!!
 「自伝」と言って、これほどまでに正直に時空が混在した感覚を映像化するのは、やっぱり天才の仕事ですよね。実際、過去が現在の生き方を激しく揺り動かすのはよくあることだと思いますし、現在が過去の出来事を都合のいいようにゆがめるのも日常茶飯事ですよね。結局は、どちらも独立しては成りたたないものなのです。

 でも、タルコフスキー作品に登場する俳優さんがたはほんとに魅力的ですよね。前作『惑星ソラリス』で観た顔がちょいちょい出てくるのもうれしかったのですが、ほぼ主演格で出ずっぱりだった母マリア役のテレホワさんもさることながら、少年時代のアレクセイが好きだったという赤毛で唇の切れた少女もかわいかったなぁ。あの酷寒のロシアの地で、さすがに生足ではないにしても短めスカート絶対領域ファッションを断行するとは……根性ありますね!

 今作でも、女性のたくましさと男性のダメダメさを痛感したタルコフスキーワールドなのでありました。おやじぃ~!

 父ちゃんはな、父ちゃんはな……父ちゃんなんだぞ!!(『正調 おそ松節』より)
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事件の真相なんか、思いっきりぶん投げて鳥に食わせちまえ  ~映画『ピクニック at ハンギングロック』資料編~

2015年07月24日 21時55分34秒 | ふつうじゃない映画
映画『ピクニック at ハンギングロック』(1975年8月公開 116分 オーストラリア)

 『ピクニック at ハンギングロック』(原題 Picnic at Hanging Rock)は、1900年にオーストラリアで実際に起こった事件を基にしたとされるジョアン=リンゼイの同名小説(1967年11月発表)の映画化作品。ピーター=ウィアー監督。ただし、この事件に該当する当時の新聞記事、警察の記録、女学校などは現実には一切存在せず、完全なフィクションであることが確定している。
 ちなみに、映画の冒頭で事件は1900年2月14日の土曜日に起きたと説明されるが、実際の1900年2月14日は水曜日である。

オーストラリア出身のウィアー監督が、その名を世界に知らしめた出世作。規律を重んじる名門女子学園で、生徒たちがピクニックに出かける。しかし、行き先の岩山で3人の生徒と引率した教師が姿を消してしまう。当日の出来事と、彼女たちの日常が交錯する、ファンタジーとリアルが同居した不思議な味わいのサスペンス作品。
原作小説と同様に、映画も真相を突き止めないまま完結する。しかし、女子生徒同士の恋愛ともとれる友情関係や、彼女たちの死に対する甘美な憧れ、レイチェル=ロバーツが好演した校長の厳格さと危うさなど、日本の少女マンガのような空気が横溢しており、失踪の原因に対して、観る者の想像力をかき立てることに成功している。フリルの付いた制服や、風になびく金髪をとらえた映像は、徹底的に繊細かつ詩的で、現実から一歩浮き上がった世界観を描いている。


あらすじ
 1900年の2月14日、聖バレンタインデー。翌年の憲法制定にともなう独立直前のイギリス帝国領オーストラリア。国土の南東に位置するヴィクトリア州ウッドエンドにある名門の寄宿制女子学校アップルヤード女学校(カレッジ)の生徒たち18名が、女性教師2名に引率されて、郊外のマセドン山近くの標高約150メートルの岩山ハンギングロックへとピクニックに出かけた。その昼下がり、4名の生徒が火山の隆起でできあがった山頂の探検に登るが、3名の生徒と女性教師1名が忽然と姿を消してしまうのだった。
 およそ一週間後、その中の一人だけが傷だらけの状態で発見されたが、彼女は、他の生徒たちや教師の行方については何ひとつ覚えていなかった……


主なスタッフ
監督 …… ピーター=ウィアー(31歳)
脚本 …… クリフ=グリーン
原作 …… ジョアン=リンゼイ
音楽 …… ブルース=スミートン
撮影 …… ラッセル=ボイド(31歳)

主なキャスティング
生徒ミランダ(美人)   …… アンルイーズ=ランバート(20歳)オーストラリア出身
アップルヤード校長    …… レイチェル=ロバーツ(47歳 1980年没)イギリス出身
大佐の甥マイクル     …… ドミニク=ガード(19歳)イギリス出身
大佐の御者アルバート   …… ジョン=ジャレット(24歳)オーストラリア出身
ポワティエ先生(ほっそり)…… ヘレン=モース(28歳)イギリス出身
生徒サラ(居残り)    …… マーガレット=ネルソン
生徒アルマ(黒髪)    …… カレン=ロブソン(18歳)マレーシア出身
生徒イディス(ふとめ)  …… クリスティーン=シュラー
生徒マリオン(メガネ小) …… ジェーン=ヴァリス
マクロウ先生(数学)   …… ヴィヴィアン=グレイ(51歳)イギリス出身
ベン=ハッシー(御者)  …… マーティン=ヴォーン(44歳)オーストラリア出身
ラムレイ先生(メガネ大) …… カースティ=チャイルド
メイドのミニー      …… ジャッキー=ウィーヴァー(28歳)オーストラリア出身
ミニーの夫トム(用務員) …… トニー=リュウェリンジョーンズ
庭師のホワイトヘッド   …… フランク=ガンネル
バンファー巡査部長    …… ウィン=ロバーツ
バンファーの妻      …… ケイ=テイラー
ジョーンズ巡査      …… ゲイリー=マクドナルド
マッケンジー医師     …… ジャック=フィーガン
フィッツヒューバート大佐 …… ピーター=コリンウッド


 現在リリースされている本作のディレクターズカット版は、最初に公開されたオリジナル版(116分)から多くのシーンを削除し、短くなっている(107分)。
 監督のピーター=ウィアー自身は、本作の最初のオリジナル版に満足しておらず、再編集を望んでいたのだが、まだ駆け出しの若手監督だったウィアーは意見を通すことができず、プロデューサーが再編集を承諾しなかったため、ウィアーが望まない形で公開されることになった。その後、ハリウッドに招かれ世界に認められる監督の一人となったウィアーが、20年以上の年月を経て、改めて彼の望んだ形に編集し直したのが、1998年にリリースされたディレクターズカット版で、これが現在の公式版となっている。
 ところがこのバージョンは、かつてのオリジナル版にあった多くのシーンを削除した編集となっており、熱狂的なファンからは「改悪版」とまで呼ばれるようになる。本作で生徒ミランダを演じたアン=ルイーズランバートもその一人で、「映画は監督一人のものではない。ファンにとって思い入れのあるシーンを、監督の独断でカットすることが正しいとは思わない。」と、かなりきつい口調でこのディレクターズカット版に異を唱えている。

ディレクターズカット版の制作にあたり、ピーター=ウィアー監督がオリジナル版から削除した主な内容
1、バレンタインデーの朝に、ポワティエ先生が自分に届いた手紙を読んでいるところにミランダたち女生徒が現れ、ミランダが深紅の薔薇をポワティエ先生にプレゼントするシーンと、その流れでポワティエ先生と女生徒たちが階段を下りてくるシーン(06分22秒~07分00秒)
3、救助後に快復したアルマが、ポワティエ先生を伴って自分を救助したマイクルとアルバートにお礼を言いに行き、マイクルと親しげに散策するシーン(87分38秒~91分10秒)
4、アルバートの部屋で、マイクルとアルバートがビールを飲みながらアルマについて会話するシーン(91分10秒~92分15秒)
5、アルマとマイクルがボートに乗って会話するシーン(92分15秒~93分48秒)
6、発見されないままの行方不明者3名の追悼式典で、アップルヤード女学校の女生徒たちとウッドエンドの住民が讃美歌を歌うシーン(93分58秒~94分58秒)
7、誰もいない深夜のサラの部屋にアップルヤード校長が忍び入り物色するシーン(103分40秒~104分40秒)

 以上のように、ディレクターズカット版の最大の特徴は、マイクルとアルマの交流がほとんど無かったことにされている点である。

 この他に本作には、オリジナル版の段階でカットされていたアウトテイク集(オリジナル版とディレクターズカット版の両方を収録した3枚組ディスクの特典映像より)も存在している。
1、マイクルが、ボッティチェリのヴィーナスの姿をしたミランダを見るシーン
2、事件後、アップルヤード校長がハンギングロックに登ろうとすると、岩山の上からサラの亡霊が彼女を見下ろしているシーン
3、アップルヤード校長の遺体をマセドン山から男たちが運び出すシーン


原作小説について
 映画の原作は、オーストラリアの女流作家ジョアン=リンゼイが1967年11月に発表した同名の小説である。事実を淡々と述べるドキュメントのような工夫が凝らされているが、本作はあくまで迫真性を狙ったフィクション作品である。
 この小説には、当初執筆されていながらも、出版社側の判断で削られた最終章が存在し、その内容は後の1987年に発表された『ハンギングロックの秘密』という著作の中で初めて明かされている。

出版されなかった最終章の概略(神隠し事件の真相)
・山頂の草原を歩く3人の生徒の前に、遠くで太鼓が鳴るような振動と共に、巨大な卵型の石柱のような物体が出現する。
・生徒マリオンが「あの物体に引き込まれるような気がする。」と語り、それに生徒ミランダも同調するが、生徒アルマは何も感じられなかった。
・やがて石柱は消失するが、その途端に3人は強い眠気に襲われ、その場で眠り込んでしまう。
・何時間後かに3人が目覚めると、空は夕焼けのように赤く染まっていた。そのとき突然草原の地面が割れ、その中から、痩せた赤ら顔で、フリルのついたパンタロンに黒いブーツを履いた道化師のような姿をした女が跳び出してくる。
・道化師のような女は「そこを通して!」と叫ぶが、アルマが「可哀想に、病気みたい、どこからきたのかしら?」と語りかけ、女の衣装を脱がせる。すると、今度は女がその場に眠り込んでしまう。
・マリオンが「なぜ私たちは、みんなこんなばかげた衣装をきているのかしら? 結局、私たちは自分たちをまっすぐに保たされるために、このような物をつけさせられているのだわ。」と語りだし、3人全員が制服を脱いで、コルセットを崖から放り投げる。
・崖から放り投げたはずのコルセットが下に落ちていないことに気づき3人は不思議に思うが、その時、いつの間にか目覚めていた女が「お前たちは落ちたのを見ていないのよ、なぜならそれは本当は落ちなかったんだから。」と、トランペットのようなかん高い声で告げる。
・さらに女は「少女たちよ、後ろを振りかえってご覧。」と言い、3人が崖と反対の方向を見てみると、そこにはコルセットが空中に浮かんで静止していた。
・ミランダが小枝を持ってコルセットをつつきながら「まるで何かから突き出されているみたい。」と語ると、女はさらに「それは『時』から突き出されているのだよ。」と答え、「何事も、それが不可能だと証明されない限り可能だし、たとえ不可能だと証明されたとしても……」と、威厳に満ちた金切り声で叫ぶ。
・マリオンは女に「私たちは、日が暮れないうちにどこに行けばいいのでしょう?」と尋ね、女は「お前はとても賢いよ、でもすぐれた観察者とはいえないね。ほら、ここには影がないだろう。そして光はずっと変わっていないじゃないか。」と答える。
・アルマは不安そうに「私には全く理解できないわ。」と言うが、ミランダは輝きに満ちた表情で「アルマ、わからないの? 私たちは光明の中に着いたのよ。」と語る。しかし、アルマはさらに「着いた? どこに? ミランダ。」と聞く。
・女は立ち上がりながら「ミランダは正しいよ。私にはこの娘の心が見えるんだよ。その心は理解にあふれているよ。全ての創造物は定められたところに行くのだよ。」と告げる。その姿は、3人にはとても美しく見えた。
・女が「まさに、いま私たちは到着するところなのだよ。」と語ると、3人は突然めまいに襲われ、気がつくと彼女たちの目の前には、岩山も地面も消え、何もない空間の中に穴だけが存在していた。その穴は、満月のような大きさで、確かにそこに実在しており、地球のようにしっかりしていながらもシャボン玉のように透明なものだった。そして簡単に入って行けそうで、まったく窪みも無かった。その穴を見つめるだけで、3人は今までの人生の中で抱えてきた疑問が、全て氷解するような気がした。
・女は3人に「私が最初に入っていいかい?」と聞いた。マリオンが「入るんですか?」と尋ねると、女は「簡単なことだよ。マリオン、私が岩を叩いて合図をするから、続いて入るんだよ。 ミランダはその後。わかったね。」と答える。
・3人が返事をしないうちに、女はゆっくりと頭から穴の中に入っていき、女の姿は完全に消えてしまう。
・その後すぐに岩を叩く音が聞こえ、マリオンは「もう待てない。」と言いながら、後ろを振りかえりもせずにすばやく入っていく。
・続いてミランダが、穏やかで美しく、何の恐れもいだいていない表情で「さあ、次は私の番だわ。」と穴のそばにひざまづきながら言うが、アルマは「ミランダ! ミランダ! 行かないで! 怖いわ、家に帰りましょうよ!」と叫ぶ。
・しかしミランダは、星のように輝く目で「家? なんのこと? アルマ、どうして泣いているの?」と答え、もう一度合図があると、「ほら、マリオンが合図したわ。行かなきゃ!」と言い、穴の中に姿を消す。
・いつの間にか、アルマは女が出現する前の、岩山の山頂の乾いた荒野に座っていた。「彼らはどこからきたの? どこにゆくの? みんなどこにゆくの? なぜ? なぜミランダは消えてしまったの?」
 アルマは空を見上げながら、声をあげて泣き続けるのだった。

 この最終章を挿入した途端に、『ピクニック at ハンギングロック』は単なるファンタジー映画と化す。だが本作の成功の要因の一つは、読んだ人に実話だと思わせる迫真性にある。削除を提案した編集者は慧眼であった。


 ……いや~、これはまごうことなき大傑作ですよ。カルトムービーになってるなんて、もったいなさすぎる! まぁ、意図的にオチを無くしてるんだから、ふつうじゃない映画なのは間違いないんですけどね。
 これが DVDで手軽に手に入るなんて、いい時代になったもんだよぉ。あっ、でもこれ、短いディレクターズカット版だよ! どうしよっかなぁ。

 いつになるかはわかりませんが、いつか必ずじっくり語ってみますわよ! お待ちになってね~!!
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生きててよかった日本初 DVD化! でもむっちゃ眠たい!! ~映画『フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック』~

2014年07月04日 23時20分19秒 | ふつうじゃない映画
『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』(1974年9月公開 アメリカ・イギリス合作 83分)

監督    …… ソール=バス(54歳 1996年没)
脚本    …… メイヨ=サイモン
音楽    …… ブライアン=ガスコーン
撮影    …… ディック=ブッシュ
編集    …… ウィリー=ケンプレン
製作・配給 …… パラマウント映画


 『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』(原題『 Phase IV』)は、世界的グラフィックデザイナーとして活躍したソール=バスが監督した唯一の長編映画作品である。バスは1968年に、短編映画作品『 Why Man Creates(なぜ人間は創造するのか)』で第41回アカデミー賞・短編ドキュメンタリー映画賞を受賞していたが、その卓越した映像演出とアリたちの不気味な存在感で、自然の脅威について警鐘を鳴らす本作品を生み出した。
 日本では劇場未公開となったが、ビデオソフトが発売され、テレビでも数回放送された。その際のタイトルは『戦慄!昆虫パニック 砂漠の殺人生物大襲来』、『昆虫パニック』、『 SF 超頭脳アリの王国 砂漠の殺人生物』。
 タイトルの「フェイズ(Phase)」は「局面」「段階」の意味で、アリと人類の戦いが「フェイズ1」から「フェイズ4」まで4段階に分けて描かれる。

 作品の最重要ポイントであるアリの撮影については、ハリウッドにおけるマクロ撮影の第一人者ケン=ミドルハムが起用された。ミドルハムは、1971年にドキュメンタリー映画『大自然の闘争 驚異の昆虫世界』で撮影を担当していた。
 ミドルハムは、超クローズアップのレンズや、ハイスピード撮影、遠隔撮影の装置を駆使し、脚本に書かれたドラマをすべて本物のアリを使って撮影している。
 ロケーション撮影はアフリカのケニヤで、スタジオ撮影はイギリス・ロンドンのパインウッド・スタジオでイギリス人スタッフを中心にして行われた。

 完成した作品の、思弁的なストーリーと美しい映像は、単純明快で商業的な動物パニックホラーを望んでいたパラマウント映画の期待とは正反対のもので、特に『2001年宇宙の旅』(1968年)を思わせる「人類進化のヴィジョン」が描かれていたという結末部分にパラマウント側は猛反対した。同社は監督であるはずのバスから作品の編集権を取り上げ、最後のフィルム1巻ぶんをカットして、93分あった作品を83分に短縮。宣伝広告やポスターにもバス自身は関わることができず、先行公開されたヨーロッパではトリエステ国際 SF映画祭でグランプリを受賞したにも関わらず、アメリカではわずかな館数で公開されるのみとなった。
 現在の83分版のエンディングのあとに、人類進化のヴィジョンを示す映像があったという断片は予告編にわずかに残っており、そこには本編で使われていない、顔のない奇怪な人物の映像が一瞬だけ映されている。


あらすじ
 宇宙で突如として発生した不可解な現象を契機に、アメリカ・アリゾナ州の砂漠地帯に奇妙な巨大構造物やミステリーサークルが出現するようになる。
 興味を持った生物学者のチームが研究・対策用の隔離ドームを建造して調査したところ、これらが飛躍的に知性の発達した新種アリの集団によって造られたものであることが判明する。さらに、アリたちは人類と交信することを望んでいた。彼らは人類による数々の実験に対する怒りを示していたのだ……


おもな登場人物
ジェイムズ=レスコー    …… マイケル=マーフィ(36歳)
 暗号・言語解読に精通した生物学者。カリフォルニア州サンディエゴの海軍海底センターに所属している。

アーネスト=ホッブズ博士  …… ナイジェル=ダヴェンポート(46歳 2013年没)
 イギリス人の生物学者。アリの生態系で発生した異常をいち早く察知し、レスコーを助手に選ぶ。

ケンドラ=エルドリッジ   …… リン=フレデリック(20歳 1994年没)
 アリの襲撃から奇跡的に助かり、隔離ドームに避難してきた少女。

エルドリッジ氏       …… アラン=ギフォード
 ケンドラの祖父。農家。

ミルドレッド=エルドリッジ …… ヘレン=ホートン(46歳)
 ケンドラの祖母。

クリート          …… ロバート=ヘンダーソン
 エルドリッジ家の農場で働く男。


《はいはい途中途中》
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自己研鑽のためですが、なにか!?  映画『プリキュアオールスターズ NewStage3 永遠のともだち』 S極

2014年04月18日 09時31分55秒 | ふつうじゃない映画
《前回のあらすじ》
 春の陽気のなせるわざか、はたまた前世よりの因縁か!? 30代なかばにして単身、映画『プリキュアオールスターズ NewStage3 永遠のともだち』鑑賞に挑むことになった男・そうだい!!
 果たして、徒手空拳、ほぼプリキュアお初という無謀な状態の彼の眼前に広がった、めくるめく夢の祭典の精華なるは、いかに!?


 今回、どうせ観るならそこまで楽しみたいんだけど、とひそかに期待していたのが、プリキュア映画といえば……とつとに有名な「劇場の子どもたちがミラクルライトを振って『プリキュアがんばれー!!』と無心に応援する」一大ムーヴメントでした。すでに成人してからも15年ちかい時間が経過し、完全に醒めきった大人になってしまった私からしてみたら、そのエネルギーの純粋さに映画の内容なんかそっちのけで号泣してしまいそうになるズルい演出だと思っていたんですが、幸か不幸か、今回そのへんの熱気を肌で感じることはかないませんでした。

 といいますのも、私が鑑賞したのがすでに映画封切りから1ヶ月ちかく経とうかとしていた4月11日だったため(公開は3月15日から)、ぼちぼち予告編が始まろうかとしているギリギリの時間に駆けつけたはずの私がチケットを購入した際にも、座る場所を選ぶときに画面にうつった座席表はびっくりするほどの「まっちろけっけ」。ど真ん中の席を余裕で独り占めできる状況になっていたのです。しかも、春休みが終わったばっかりの平日まっぴるまでしたからね。そりゃあお客さんも少ないですわ。

 すわ、いつぞや今は亡き映画館「シネマックス千葉」で私が体験した、生涯たった一度の「客オレひとりシアター」の再来か!? と内心ドキドキしながらスクリーンに向かったのですが、いざ入場してみると、実際には座席の最後列に3組くらいの親子連れがいたので、完全に孤独なプリキュア初体験にはならずにすみました。にしても、だいたいキャパ200人くらいの座席の真ん中にすわって、前方にはだぁれもいなかったんでね……随分とぜいたくなホームシアター感覚にさせていただきました。

 予告編では、つい先週に鑑賞した同じ東映系の映画『昭和ライダー対平成ライダー』とほぼいっしょの『クレヨンしんちゃん』や『聖闘士聖矢』といったラインナップが流れましたが、そのあとに、おそらくはこのTジョイ蘇我ならではの宣伝かと思われる、『鳳神ヤツルギ』とかいう千葉県木更津市のご当地ヒーローの映画の予告編があったのが印象的でした。これからプリキュアを観るっていうのに、女児向けの予告編が『アイカツ!』しかないっていうのはどんなもんなのだろうか。それだって正確にはプリキュアの客層とはズレてるしね。そりゃあたしゃ確かにオッサンですけど、全体的にメインのお客さん(未就学女児)のテンションがだだ下がりになっていくことが容易に推察できる約20分間には大いに疑問を感じました。
 でも私自身は、その映画館ならではの近在の結婚式場とか自動車教習所のチープなコマーシャル映像は大好きなんですけどね! なんかいいじゃないですか、ああいうの。TV のコマーシャルに比べてものすごく奥ゆかしいんですよね、その「ちょっとお邪魔して宣伝させていただいております。」感が。


 さて、そうしていよいよ映画『 NS3』本編の開始となったわけなのですが、序盤から驚かされたのが、入場前に子どもたちに配られた小さなペンライト「ミラクルドリームライト」の使用法が、映画の登場キャラクター「妖精学校の先生」によって実にスムースに説明されるくだりから本編が始まっていたことですね。いや、もっと精確に言うのならば、「先生がライトの使用法を、妖精学校の生徒のグレルとエンエンに説明していた」ということに私は驚かされました。

 私がこの特典ペンライト演出について勝手に予想していたのは、まず本編開始前に登場キャラクターが「劇場にいる子どもたち」に直接呼びかけて使用法を説明し、本編のバトルシーンの盛り上がりなどでまたそのキャラクターが出てきて合図をするか、もしくは字幕や点滅サインなどでライト応援のきっかけが指示されるのではないかということでした。そして、ライトがもらえなかった以上、れっきとしたオッサンである私はやや「かやのそと」な感覚をもちながらその演出を眺めるのだろうな、と考えていたのです。

 ところが、ライトが単なる特典グッズではなく、映画本編のキャラクターが持っている完全な「小道具」になっている以上、映画の中でライトが使用されるのはまったく自然なことになり、「映画の世界」のキャラクターが「現実の世界」にいる子どもたちにいろいろな指示を出すという不自然な演出は消滅することになるのです。と同時に、グレルとエンエンのライト使用によってその応援が物語上の必要作業になるため、子どもたちがライトを振る「恥ずかしさ」もだいぶ軽減されるはずなのです。映画の中のキャラクターが先陣きって「プリキュアがんばれー!!」と大声で叫んでくれるわけですからね。しかもご丁寧なことに、実際の応援シーンでは妖精たちに加えて「映画の中に登場する子どもたち」までもが全員、手にライトを持って歓声をあげてくれていました。要はこれにならえばいいってわけ! う~ん、That's いたれりつくせり!

 まさに、劇場特典による演出と本編とが実にたくみに融合した「完成形」。こうなってくると、この『 NS3』にいたるまでに積み重ねられてきたプリキュア映画シリーズの歴代ライト演出の流れも観たくなってきますね。こういうのの源流は、やっぱり『突撃!ヒューマン!!』(1972年)になるんですかね……思えば遠くへ来たもんだ。
 世間じゃあ3Dだなんだとか言ってますけど、それに対して「劇場でみんなでペンライトを振る」という、実にレトロで家族的な演出を遵守し続けているプリキュアシリーズ。なんかいいなぁ。

 まぁ、私が観た回ではほんとに「プリキュアがんばれー!」と声を上げる子どもはひとりもいなかったんですけれどもね……しょうがねぇよ、200人サイズの劇場で3人しかいなかったんですもんね、ライト持ってんの。気持ちはよくわかりますが、そこは子どもならではの無謀なアパッチ魂で奮起していただきたかった。そしたら私もよろこんで加勢したのに! そういうのって、やったら捕まるんですかね。


 さて、妖精学校の先生と生徒のやりとりから、いよいよオールスター映画名物の異様に熱いテーマソング『プリキュア 永遠のともだち』が流れて「うわー始まった!」という気分がノッてきました。とにかくスクリーンで聴くドラムとギターの激しさがハンパありません!!
 だいたい、2012年の「NewStage シリーズ」第1作から唄い継がれてきた主題歌のタイトルがそのままサブタイトルになっているのですから、今回の『 NS3』における「ついに完結!」というテンションの高まりはものすごいものがありますね。
 それにしても、『フレッシュプリキュア!』の4人組は前作オープニングからダンスの稽古ばっかりだな! ぜんぜんフレッシュじゃない練習の積み重ねの上に真のフレッシュがある……パフォーマーの鑑だ、あんたら!!

 主題歌が終わって本編に入ると、物語は悪夢にうなされる少女・奈美と、彼女を夢の世界で救ってくれた妖精の母子マアムとユメタの出会いから始まっていきます。「悪夢を食べてくれる」という伝説の妖怪「獏」の性質を持ち、外見は実在の動物バクをかわいくデフォルメしたような姿の妖精母子なのですが、マアムの表情にはなぜか邪悪な笑みが浮かび、奈美はユメタと楽しく遊ぶ夢の世界にい続けることになります。

 まず、なにはなくともこの冒頭で気になってしまうのは、見た目からして完全に、劇場に来る客層の中でもメインターゲットに照準を合わせたとしか思えない、3~4歳くらいの少女・奈美の声が、やけに低くて大人っぽい違和感に満ちたものになっていることでした。
 これはちょっとミスキャストとかいうレベルの問題ではなくて、そもそもまず声優さんじゃないよね、その声やってる人? と聴きながらいぶかしんでいたのですが、エンディングクレジットで確認するまでもなく、この奈美を担当した方がゴーリキーさんだかゴーゴリさんだかいう、「今いちばん旬だと誰かが言っている」女優さんであることは察することができました。
 うわさにたがわぬゴリ押しだねぇ~……いや、3~4歳の子どもなんか、プロの声優さんだって演じるのは至難の業でしょうよ。そこの枠を、なぜに低音の彼女が担当しなければならなかったのだろうか!?

 別に私自身は、そのソルジェニーツィンあやめさんとかいう女優さんのことは嫌いではありません。嫌いじゃないんですが、そんな私が観ても、今回のこの映画において奈美の役を演じた彼女は邪魔としか思えないのです。その頭身でその「バスよりのアルト声」はないだろう!!
 今回のこの起用を見て、私はかの鎌倉幕府第三代征夷大将軍・源実朝が京の朝廷から受けたという一種の呪法「官打ち」を強く想起しました。
 「官打ち」というのは、ある人物に対して、その家柄に相応する以上の官位をわざと与えて周囲の空気を批判的なものにするという、実にいやらしい出世人事のことで、実際に、武士として史上初めて右大臣(ざっくりたとえれば副総理大臣)に叙任された実朝は、公家・武家の両陣営から身分不相応であると非難される板ばさみの状態に陥り、28歳の若さで暗殺の憂き目を見ています。呪いと言うにはあまりにもリアルな攻撃法だ! まぁパワハラのひとつの形ですよね。

 つまり、彼女にあんな能力不相応な難役を与えて違和感必至、批判必至な状況にした「上の事情」がいけないと思うんです。そんなことしたってプリキュア10周年のお祭ムードに水をさすだけなんですけど。
 別に、彼女が中川翔子さんみたいにプリキュアシリーズに特別な情熱を持っていて、「どんな役でもやるから出させて!」って言ってたわけでもないんでしょう? 中川さんだって地声はなかなかの低音ですが、おそらくこういう役をもらったら3~4歳の女児を演じるための最大限のノド調整をもってのぞむでしょう。でも、私が聴いた限り、あのプーシキンあやめさんはなんの手も打たずに奈美を地声で演じていました。なんなの、その「仕事で呼ばれたから出ました」感!?

 とにかく、物語の大事な大事な導入部分、かつまた「観ている子どもたちと登場人物との一体化」を担うべきだったゲストヒロイン・奈美の声優キャスティングは完全に失敗だと感じたんですよねぇ! のっけけからつまづいちゃった感が満点なんですが、大丈夫か、『 NS3』!?

 ところが、そのへんの不安を一気にどうでもよくしてしまったのが、夢の妖精マアム役への、あの平野文さんの大抜擢だったのでした。

 うをを、平野文、平野文! 「あや」じゃなくて「ふみ」のほう!!

 平野文さんといえば、それはもう言わずと知れた「20世紀最大の押しかけ女房系アニメヒロイン」こと、SF ラブコメマンガ『うる星やつら』(1978~87年 原作・高橋留美子、アニメシリーズは1981~なんと2008年)の鬼型宇宙人女子・ラムちゃんを演じたことで永久的にその名が語り伝えられるべき大女優さんであらせられるわけなのですが(あと『平成教育委員会』のナレーション)、そんな彼女が、今作ではなにやら邪悪な笑みをたたえる夢の妖精を演じるのです。
 ユメタの母親であるという立場を考えるまでもなく、彼女の声はわが子へのちょっと過保護気味な愛情と、わが子のためならば手段を選ばずに現実世界の子どもたちを夢の中に誘拐してしまう冷酷さを使い分ける「おこるとコワ~いお母さん」をとても魅力的に演じていました。ラムちゃんも、なんの無理もなく母親の声ができる時代になったのねぇ。

 ところで、平野文さんが「夢の妖精」を演じるという今回のキャスティングに、「そ~きたのか!」と内心でニヤリとしてしまうお父さんお母さんも(大きなお友だちも)、かなりいらっしゃったのではないのでしょうか。
 そう、夢の妖精と平野さん……というかラムちゃんというのならば、否が応でもすぐに連想してしまうのが、他でもない『うる星やつら』の劇場版第2作、かの押井守監督による大名作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年公開)なのであります。

 この『ビューティフル・ドリーマー』には、寝ている人間に自由自在に夢を見させるという、赤いシルクハットに赤い燕尾服で、常にサングラスをかけている太った中年男性の姿をした妖怪「夢邪鬼(むじゃき)」がゲストキャラクターとして登場し(演・藤岡琢也)、ラムちゃんの理想の夢世界を具現化させようとするがために、その虚構に疑問を抱いた周囲のレギュラーキャラクターたちを次々に抹消させていくという手段をとります。その過程で夢邪鬼は、いつもラムちゃんからの求愛をむげにし続けているツンデレ地球人の鑑・諸星あたるも邪魔な存在として夢の世界から追放しようとしますが、あたるは夢邪鬼の使役する怪獣「バク」を利用して一計を案じ……というのが、映画のだいたいの筋になっていま……すかね!?
 私が『ビューティフル・ドリーマー』をしっかり観たのが大学生時代、今から15年近く前のことですので、この現実と虚構とが実に押井監督っぽくないまぜになった難解な作品は、なかなか説明するのがむずかしいのよね! いつか DVD(Blu-ray じゃないのが哀しい)を買ってしっかり見直したいという気持ちはやまやまなのですが、なにしろたっけぇし……

 ともかく、「夢とは何か」や「理想とは何か」、そして、「人間がつらい現実を生きるのはなんのためなのか」というあたりを強く問う……というか、観ているだけで勝手にそういうあたりに考えがいってしまう『ビューティフル・ドリーマー』と今回の『 NS3』は、計算式に組み込まれる変数こそ違っているものの、「人間」と「夢」が対峙しているという構図自体はまるで兄弟ででもあるかのように似通ったものがあるのです。そして、かつて30年前の作品で人間側の被害者だった(地球人じゃないけど)平野さんが、今回は堂々と夢の世界の加害者になっておられるという、この輪廻!! もうワクワクしますねぇ。

 とはいえ、『ビューティフル・ドリーマー』はあくまでも「大人向け」に作られた、少なくとも監督は子ども向けに作っている気はさらさらなかった(ついでに言えば、『うる星やつら』ファン向けに作っている気もなさそうなもんだから実に押井さんらしい)作品であったがゆえに、観客をブンブン振り落としかねない演出上の実験やなぞかけ、意図的な説明不足や「結局バッドエンド?」とも解釈できるラストなどの要素がふんだんに投下されていました。
 しかし、今回の『 NS3』はリスクをともなう冒険は絶対に許されない商業映画ですし、その中でも最もデリケートな就学前児童向け映画ですし、東映ドル箱シリーズのシメを飾る最終作ですし……こらも~プリキュアはん、えらいところを引き合いに出してきはりましたなぁ!!

 フィクション世界において、麻薬のような魅力を常にはなつ「現実×虚構」をテーマにしてしまった今作。プリキュアオールスターズは、この得体が知れないにもほどのある超難敵を相手にして、どのように「子どもでもわかる」明快無比な解決のみちを切り拓いてくれるというのでしょうか!?

 序盤で、一面の荒野となった悪夢の世界に迷い込んだ奈美を襲う怪物「悪夢獣」は、基本的に明るいグリーンの体色をして赤い蝶ネクタイをしたぬいぐるみのクマのようなポップなデザインをしており、「あ~くぅ~む~!」という鳴き声しか発さないために知性のようなものはあまり感じられませんが、どことなく憎めないかわいらしさがあります。悪夢の世界がただの荒野で、悪夢獣もあえてかわいいというのはプリキュアならではの観客への配慮なのでしょう。ここで無駄に悪夢のディティールに凝って、いたずらにトラウマを増やしても意味はないと! そういうのは『ジョジョの奇妙な冒険』の「デス・サーティーン」にまかせておきましょう。

 あっ! そういえば、最初に言った、私が生涯体験した唯一の「客がおれだけ」映画っていうのも、眠った人間を悪夢の世界にひきずりこんで惨殺する恐怖の殺人鬼フレディが出てくる『エルム街の悪夢 2010年リメイク版』でしたわ! うわ~、内容がつまんなすぎて記憶にぜんぜん残ってないよう!! 84年版はよくおぼえてるのに。

 ところで、この悪夢獣の声が、多少の加工はされているものの、明らかに女性のものであることはよくわかったのですが、「こういう最終作で敵の声をやってるんだから、けっこう有名な方がやってんのかな……」と思って聞き、「あくむ」の繰り返しだけなのに妙に聞き飽きないヴァリエーションの豊富さと、その尋常でないテンションの高さに、「ビッグネームでこんなに元気に声をはりあげられる女性っていうと、もう『あのひと』か田中真弓さんくらいしかいないんじゃないの……」と確信に近い思いをいだくようになり、エンディングクレジットであらためて感嘆してしまいました。

「悪夢獣 野沢雅子」

 やっぱり……もう、本編中でヒント出てたもんね! ユメタとたわむれる楽しい夢の世界で、人間ひとりが乗れるくらいのちっちゃな雲に乗ってた相田マナ(キュアハート)さんとか名もなき男子の乗り方が、直立して利き足を一歩前に出して少しかがむという完全な「きんとうんスタイル」になってたんだもの! プリキュアの作品世界でも『ドラゴンボール』は有名なのだろうか!? アニメの放送局が違うんですけど、ギリギリ裏番組じゃないから、まいっか!


 さて、そんなこんなで始まった『 NS3』本編ですが、悪夢獣に襲われた奈美をマアムとユメタの妖精母子が救出するも、なんともかんともぬぐいきれない自作自演ムード……? というひとこまをはさみつつも、妖精学校のグレルとエンエンが、新たにプリキュア教科書に記載するために「ハピネスチャージプリキュア!」となった2人組を探すために地球を訪れるという流れでストーリーは進んでいきます。
 グレルとエンエンは、先に地球に降り立って「プリキュア付き妖精」の栄誉を勝ち取っていた先輩キャンディに連絡をとって、「ハピネス組」の1コ先輩である「ドキドキ!プリキュア」の5人組とともに「ハピネス組」のいる「ぴかりが丘」(たぶん都内某所)の「ブルースカイ王国大使館」におもむくわけなのですが、そこには原因不明の「覚めない睡眠」状態となって、パートナーである白雪ひめ(キュアプリンセス)に顔面にサインペンで落書きをされるという辱めを受ける愛乃めぐみ(キュアラブリー)の姿が! 銀幕デビューののっけから身体を張るガテン系ピンクの心意気!!

 というわけで、物語の前半は活動不能となっているめぐみを救出する先輩「ドキドキ!組」が主人公となり、めぐみの昏睡が、最近ちまたで頻発しているという幼女の「寝たまま起きない病」と同じ原因であると察知した地球の精霊ブルーさんの超能力によって、めぐみを含めた6名はとっとと夢の世界に潜入することに成功します。
 この急転直下、立て板に水を流すようなストーリーの進みの速さ!! さすがは子ども向け作品。ともかくブルーさんというイケメンの能力の全知全能っぷりがハンパありません。「夢の世界に連れ去られた少女たち」という、『ウルトラQ』に出てきてもおかしくなさそうなどうしようもない異常事態を一瞬にして解決しちゃうんだもんね! ブルーブルー、って、こやつまさか、偉大なるあの未来型ネコ型ロボットではあるまいな!?

 さて、首尾よくユメタと子どもたちがたわむれる夢の世界に入り込み、巨大な浮遊するフグに乗っかって満面の笑みを浮かべるめぐみの姿を発見する6名。現実世界の混乱をよそに、まるで「伝統ある大ヒットアニメシリーズ最新作の主人公」という、想像するだにはだしで逃げ出したくなる超重圧から解放されたかのような幸福な笑顔をたたえるめぐみを、きわめて冷静な表情で見つめる「ドキドキ!組」の姿が非常に印象的です。非情な先輩だと恨むやも知れんが、このまま貴様を降板させるわけにはいかんのだ……観念して現実のハードスケジュールに戻れい!! ここで初めて対面しためぐみと相田マナ(先代主人公)との視線の交錯がとても味わい深いですね。

 と同時に、6名に同行していたグレルとエンエンは、かつて妖精学校に在籍していて、自身の「地球の人々を悪夢から救う立派な妖精になる」という夢を実現させるために自主退学していたユメタに出くわし、なぜユメタが眠り続ける子どもたちといっしょにいるのかと疑問を持ちます。2人(匹)に見つけられて気まずそうな表情を浮かべるユメタ。
 ところが、夢の世界への侵入者を目ざとく発見したマアムは、冒頭では敵だったはずの悪夢獣をみずから召喚して彼女たちを排除しようとします。マアムは、息子ユメタの遊び友だちを集めるために子どもたちを連れ去っていたのだった!

 ここでさっそく、「ドキドキ!組」の5名がオール変身して悪夢獣との総力戦を展開する第1のバトルアクションが始まります。さすがは先代チーム、つい2ヶ月前までバリバリ現役だっただけはある、あぶらののりきった余裕の連携を見せて悪夢獣を殲滅せんと戦います。
 だがしかし、悪夢獣はまるでエヴァンゲリオン量産型ででもあるかのように、やられてもやられてもまた復活して襲いかかってくるばかり! このエンドレスなのれんに腕押し感が、まさしく悪夢ですね。さすがに脳みそとか骨は露出してませんけどね。
 それもそのはず、この夢の世界の主はあくまでマアムなのであり、そのマアムの使役する悪夢獣もまた、決して外部の人間には滅ぼすことのできない不滅の存在なのでした。あえなくめぐみを押しつけられて現実の世界に強制送還されるプリキュアさま御一行。

 ここらへんの「異次元」としての夢の世界と、その主であるマアムの反則な無敵感を見ますと、私としてはどうしても、あの『ウルトラマンA 』(1972~73年)で、「自分たちが住んでいる以外の次元も征服した~い!」という欲ばりにも程のある情熱とねちっこさをもって3次元の地球に殴り込みをかけてきたウルトラシリーズ初の連続悪役キャラ「異次元人ヤプール」を連想してしまいます。なんとも理解しがたい狂気を感じさせる不気味な存在でしたねぇ!
 しかし、ヤプールは今回の『 NS3』におけるブルーさんのような「反則を上回る反則」をもって異次元にやってきたウルトラマンエースによってけっこうあっさりと壊滅させられてしまいました。まぁ、完全に滅んだわけじゃないんですけど……
 たぶんあれは、やりようによっては自分たちの次元のルールでエースをいかようにも料理できたんでしょうけど、わざわざ自分たちのホームまでやって来てくれたエースに最大限の敬意をはらう形で、「巨大ヤプールになって肉弾戦」というハンディキャップマッチにあえて設定してくれたんでしょうね! そうじゃなきゃ、あんなに簡単に負けるわけねぇって!! うん……たぶん。だいたい「知能(悪知恵)」が主要武器なんですからね、ヤプール人は。土壇場で、なれない紳士的対応なんか見せちゃうから大負けしたんでしょう。


 と、まぁ……ね。

 なんでプリキュアからヤプール人に脱線するんだという自戒を込めまして、『 NS3』を観た感想は、次回でいい加減におしまいにしたいと思いますです、はい。

 感想にもなってねぇよ、ただの連想ゲームじゃねぇか~と、ため息つきける春の宵かな~。反省の色なっしんぐ。
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