長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

事件の真相なんか、思いっきりぶん投げて鳥に食わせちまえ  ~映画『ピクニック at ハンギングロック』本文~

2022年02月14日 00時14分37秒 | ふつうじゃない映画
≪資料編は、こちらにあってよ!≫

 はい、ハッピーバレンタイ~ン!!
 というわけで今回の記事は、めでたく2018年に TVドラマリメイク&日本語訳出版もされた、この歴史的傑作だい! ぽっぽぴ~♪

映画『ピクニック at ハンギングロック』(1975年8月公開 116分 or 107分 オーストラリア) 

 南半球のバレンタインデーなんで思いっきり真夏なんですが、これもれっきとしたバレンタイン・ムービーよね。チョコはぜんぜん出てきませんけど!!

 この映画ねぇ、私ほんっとに大好きなんですよ!
 なにがそんなに好きって、この記事のタイトルにもしているように、「事件の真相とか、そんなのどうでもいいじゃん。」っていうオチの放り投げっぷりが、完全に確信犯的なところ! その、薩摩隼人もビックリな勇敢きわまりない決断力と、オチの欠落を充分すぎる程に埋める繊細なデティールの描写力が、バッチリ同居しているっていうものすごさなんですよね。まさに、画面の中の世界のごとくやたら「ひらひら~♡」としたフリルをまとっているだけのようでありながら、中には鋼のように硬く輝く芸術センスを隠しているって感じ!
 世の中には、お金や時間の都合や作り手の力不足で物語の流れが破綻したり、結末がよくわからない感じになってしまう、いわゆる「怪作」というフィクション作品はいろいろあると思います。それは、作り手の全く意図しないアクシデントによるものなので、プロの作る起承転結のはっきりしたウェルメイドな作品では味わえない不思議な印象を持ってしまい、「たまにはこういうのも、いいよね。」的な B級以下の出来になってしまう場合が多い気がするのですが、この『ピクニック at ハンギングロック』は、そんなほのぼのとしたものではないんです。偶然カメラのピントがズレちゃったんじゃなくて、最初っからモネやルノアールのような焦点のぼやけまくった印象画を描こうとして撮影を始めてるんだもんね! この決意の固さ……まるでこの映画の中のメンヘラ気味少女サラのようではありませんか!? そしてそれは、学校行事の最中に4人も行方不明になったというまごうことなき大不祥事を、まるで認めようとしないアップルヤード校長の頑固さにも通じると言えなくはないわけで、この映画がその2人の死をもって終幕するのもまた、非常に論理的で正しいわけなんです。生徒に優しすぎるがゆえに、ちょっぴりなあなあな関係にもなりがちなポワティエ先生のようにふわふわしたパッケージでありながらも、この映画の本質は鉄面皮な数学のマクロウ先生に近いんですよね。この二面性! それがいいんだよなぁ。

 「結末が語られない」というだけで、フィクション業界の禁じ手をやらかしている異端の作品のように見られがちなこの映画なのですが、作品の画作りからキャラクター配置まで、全てが保守的といってもいいくらいにガッチリ数学的に計算されつくしているのも魅力なんじゃないかと思います。画面の美しさについてはもう、作品を観てもらうより他はないわけなんですが、日本人の感覚で言うと「山」とも言えないような単なる岩ばっかりのロケ地を、あそこまでにミステリアスな異界に描ける想像力と、イモくさい娘ッコたちのフツーの会話をむせかえるような「あやうい」空気が満ちあふれるアップルヤード女学校の世界に変換してしまう妄想力はすばらしい!
 キャラクター配置に関しても、「サラとアップルヤード校長」、「マクロウ先生とポワティエ先生」、「マイクルとアルバート」、「ミランダとアルマ」といったように、非常に分かりやすく対立や協力の関係が構築され、その中の誰かが別のペアにちょっかいを出して波紋が広がる、といった物語の潤滑油が確実に機能しています。
 つまり、映像と物語の両面から「オチ無しでも大丈夫!」という、お客さんを最後まで引っ張っていける万全の体制が整ったうえで、この映画が作り上げられているということ。ここがこの映画『ピクニック at ハンギングロック』の、唯一無二の魅力の源泉なんですね。

 だいたい、この映画の原作小説からして、当時70歳の原作者リンゼイさんがわざわざ用意していた「4人の失踪の真相」を、こともあろうに出版社の編集担当者が「ないほうがいいっすねぇ。」と提案し、リンゼイさんも「うん、そっちのほうがいいかも。」と承諾したというんですから、この物語の面白さがハンギングロック失踪事件とは別のところ、つまりは「ある日突然に日常が崩壊していくさま」の克明な描写にあることは、映画化する以前から明らかだったのです。
 ところで、私はこの記事をつづるにあたって、2018年にやっと出版された日本語訳(井上里・訳 東京創元社創元推理文庫)を読んでみたのですが、2015年に我が『長岡京エイリアン』であげていた≪資料編≫で触れた「当時カットされた最終章」に登場した「道化師のような姿をした女」というのは、ズロース姿になったマクロウ先生のことのようです。マクロウ先生、はっちゃけすぎです!

 ここで、ミランダ、マリオン、マクロウ先生の3人が謎の異空間に引き込まれて失踪し、アルマだけが取り残されたという経緯を最後に持ってくれば、この作品はオーストラリアのアボリジニあたりの信仰する土着の山神様が、よくわかんないけどモスリン地のワンピースにヒール付きブーツという、山をナメにナメきった服装で登ってきた娘さんと、勝手にマセドン山の魅力に憑りつかれた中年女性を、うっかりお供え物と勘違いしてもらっちゃったという、日本昔話のやまんばみたいな怪談になるわけだったのですが、ここからマイクルの若さゆえの暴走捜索作戦とか、不祥事に焦るアップルヤード校長の自滅とか、帰ってきたアルマの哀しい青春の終わりとか、さすがは老練! 70歳の筆の真骨頂が始まるわけなのです。起承転、ときて、「結」だけがもんのすごいふくらんじゃってるよ、おばあちゃーん!! じゃあもう、ハンギングロック失踪事件は「転」じゃなくて「起」でいいじゃん!みたいな、決定的な路線変更があったわけなのです。編集者の方が、「失踪の真相より、女学校の崩壊のほうが百倍おもしろいわ!」と感じたのも、むべなるかな。

 あと、私は創元推理文庫版の原作小説と、カルチュア・パブリッシャーズからリリースされた116分の「映画公開版」、そしてSPOからリリースされたウィアー監督による107分の「ディレクターズカット版」を読んだり鑑賞したりしたわけなんですが、「映画公開版」が非常に原作小説に忠実であることと、「ディレクターズカット版」がマイクルとアルマ、というかマイクル周辺の物語を意図的にカットしている編集になっていることを強く感じました。
 正直、ディレクターズカット版を製作しなければならない程に映画公開版がかったるいとか、話はこびに難があるとは思わないのですが、映画公開版だと、ファーストインプレッションでマイクルが一目ぼれしたのは明らかにミランダなのに、中盤以降にロマンスが生まれるのは生き残ったアルマなので、マイクルなんやねんという腰の軽さ(別にミランダと交際していたわけでもないので浮気でも何でもないのですが)が多少気にかからなくもないのですが、それは原作小説がそういう流れなんでねぇ。それよりも、アルマが本当に自分を救助した張本人として好意の念を寄せたアルバートが、身分の違いを理由にあえて彼女に冷淡な態度をとるという愛情のすれ違いに、原作者リンゼイの筆の真価を観たような気がしました。こういうとこがいいんだよね~!!
 蛇足ですが、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中では、ハンギングロック捜索でアルバートに発見されたマイクルが、記憶喪失に陥るほどの心身衰弱状態に陥っていたという内容の会話も含まれていました。うそ、そんなにマイクルやばかったの? ディレクターズカット版だけ観てると、そこまで命を賭けていた事情が分からなくなってしまうので、ちょっと突然のように無口になって物語からフェイドアウトしていくマイクルの様子が「?」になっちゃうんですよね。いろんな意味で不憫だな、マイクル!

 それから、こうやって何回も、この『ピクニック at ハンギングロック』という迷宮に魅せられて何度もそぞろ歩きをしてみますと、あれっ、この作品、ハンギングロック失踪事件とかよりもおいしい要素を華麗にスルーしてませんか? と気になってしまう部分があるんですよね。

 それが、「サラの死の真相」と、「サラとアルバートの関係」なんですよ。こっちのほうがよっぽど謎だわ!

 サラの死に関しては、アプ女の校舎屋上から投身自殺したような状況がラストで矢継ぎ早に語られるわけなのですが、遺体発見当日の朝に「サラが荷物をまとめて退学して行ったわ。」と校長が語るのみで、実際にそうしているサラを見た人が誰もいないこと。そしてサラの死を知らないはずの校長が、なぜかすでに喪服を着て異様な落ち着きでサラの遺体発見の報にふれるという描写。う~ん、あやしい! 果たしてサラはいつ、どういった経緯を経て、その身を屋上から投じることとなったのか……にわかに自殺とは信じがたいような。
 もっと言うと、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中には、その前日の深夜に、「サラがいない」彼女の部屋を校長が物色するという、意味深にもほどのあるくだりがありました。つまり、ウィアー監督はサラと校長の因縁もそんなに強調したくはないのかな? だいたい、ビックリするほどあっさりとした「ナレ死」でかたづけられる校長の死に際にサラの幻影が現れるというあたりもカットされてるんだもんね。でも、映画後半のサラと校長との魂の対立は、演じた女優さん2名の実力もあいまって、この映画の第二の主軸になっていると思います。サラと校長は、本質的に似ている。だからこそ憎み合うという、このアンビバレンツ!

 そして、サラとアルバートという、映画の中ではついに最後まで一度も会うことのない2人が、それぞれの世界にいながらも、かつて孤児院で一緒に苦労を分かち合った「兄妹」として互いを想っているという、この哀しき運命よ!
 ふつう、映画というフィクションの世界ならば、だいたい2人ともそうとう近い場所で生活してるんだからどこかで偶然に再会したり、うまくいけばサラの死の真相をアルバートが知って校長への復讐を誓うといったあたりの王道の展開に突っ走りそうなものなのですが、特にそういった劇的な展開もなく映画が終わってしまうといったクールさが、ものすご~く意地悪で、ものすご~くおもしろい!! 「うぉお~い、アルバート何もせんで終わんのか~い!!」みたいな、ツッコミ待ちとしか思えない伏線の放り投げっぷりが、たまらなく豪気なんだよな~! オーストラリアだけに!!

 ほんとね~、この映画、大好きなんだよなぁ。別にウィアー監督の作品ぜんぶ好きってわけじゃないんですが、この映画は別格なんですよ。
 だもんで、あっという間に字数もかさんできましたので、これ以外、映画を観て感じた好き好きポイントは以下のように簡単に列記させていただきたいと思います。ほんとに頭っからしっぽの先まで大好きな、たいやきみたいな作品なんです。


・開幕から、字幕という極端に簡素な形式で「女学生たちがピクニック中に失踪しちゃいましたとさ。」と結果を伝え、そこからおもむろにピクニック当日の一日が始まるという、まさに映画の定石をぶっ壊しまくった「ぶっちゃけ戦法」! それもきわめて静かに淡々と進むのが、たまらなくクール!! 最初の6分間で完全に魂を奪われちゃう。当然、ブルース=スミートンによるオカリナみたいな素朴な笛主体の音楽も、作品の独特すぎる雰囲気作りに大いに貢献している。とにかく最高なオープニングなんだよなぁ。
・真夏のバレンタインデーに浮かれまくり、さらには待ちに待ったハンギングロック遠足ときてテンションMAX の女学生たち。ただ、開幕であの字幕を読んでしまった観客は、「ああ、この中の何人かが、これから……」とゾクゾクしてしまうわけで、こうした画面中の楽しい空気と観客の不安感との温度の乖離は、まったくもってウィアー監督の策略通りなのである。物語の内容でなく、作品全体の大枠の演出でサスペンスを生み出すというこの作戦は、もしかしたら『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)とか『クローバーフィールド』(2008年)とかいった「モキュメンタリー映画」の系譜に連なるものなのかもしれない。そして、それらのどれよりも洗練されていて、どれよりも美しい!! 山本直樹のマンガ『レッド』(2006~18年)にも通じる超意地悪な、神視点からの演出ですよね。
・正確には制服とは言わないのだろうが、アップルヤード女学校(以下、アプ女と略称)の学生さんは全員、着る物はきつめのコルセットを巻いた上からの真っ白なモスリン地のワンピースに、こじゃれたカンカン帽風ストローハットで統一されているらしい。たぶん、校長が指定している条件に合う衣服を各家庭で用意する形式なのだろう。つまり、かなり似ていながらも、実は一人一人がそれぞれの衣装にキャラクターに沿った微妙なアレンジを加えているというわけで、ここらへんも芸が非常に細かい。昔も今も、ティーンのこだわりは細部よね! それにしても、白いワンピースと真っ黒いストッキングの対比が……露出度が低いのに、なぜこんなにやらしいの!?
・19世紀末のオーストラリアのバレンタインのプレゼント合戦は、チョコレートじゃなくてラブレターなのね! 寄宿制の女子校なので、女性同士の疑似恋愛も当たり前~! 登場して数秒でわかるワケあり生徒サラのメンヘラ気質と、サラに目をつけられた美人生徒ミランダの引きっぷりが実にリアルである。百年以上経っても、青春のドロドロは変わらないのねぇ。
・アプ女の校舎は、いかにもヴィクトリア朝のイギリス建築様式を踏襲した瀟洒な洋館なのだが、乗合馬車で町を出るとすぐに『マッドマックス』みたいな荒涼とした大地になってしまうのが、アプ女の「浮きまくった存在感」と「箱庭のようなリアリティのなさ」を象徴しているようで見事である。ちょっと離れたら毒ヘビ毒アリうようよの危険地帯って、ドラクエか!? オーストラリアあるあるなのかなぁ、これ。
・うら若きアプ女の娘ッコたちがキャーキャー言いながら行く先が、味もそっけもない標高150m そこそこの岩山なのが、なんと言うか隔世の感がある。それだけ娯楽のない時代だったのだろうし、寄宿制学校の締め付けのすさまじさの反動なのだろうが、今どき幼稚園児でも「……何ソレ。」と氷点下のリアクションを返しそうな遠足先である。『ブラタモリ』のコアなファンくらいじゃないの? ハンギングロック見て興奮するの。
・引率のマクロウ先生(数学)による、乗合馬車内でのマセドン山とハンギングロックの由来解説なのだが、数学の先生とはにわかに信じがたい情緒的な表情で語るので、異常に引き込まれる。ただの説明なのに! 演じるヴィヴィアン=グレイの実力がきらめくシーンである。
・マクロウ先生の「百万年前にできたマセドン山」という話を聞いて、「じゃあ、あのお山は百万年も、わたくしたちが来るのを待っていらしたのね~☆」とムチャクチャな論理を展開させる生徒アルマ。なんだ、このナチュラル天動説娘……若いって、こわいね!
・フィッツヒューバート家のおぼっちゃまマイクルと、その家のお抱え御者アルバートとの会話シーンで垣間見える、歴然とした身分の差がわかりやすい。人からもらった飲みかけの酒瓶の口を上着でぬぐうマイケルと、顔にたかるハエをものともせず話し続けるアルバート。対比がうまいね~。
・アップルヤード校長じきじきのマンツーマン圧迫補修授業でも、物怖じもせず自作の詩を朗読しようとするサラ。あっぱれ、中二病の鑑よ!!
・マセドン山へ遠足って、登山せずに麓の広場でバレンタインのケーキを食べてまったりするだけなんかーい!! 最高じゃないか……真夏の午後のけだるい雰囲気が実に克明にフィルムに収められている。
・御者のハッシーと、マクロウ先生の腕時計がどっちも同じ12時で止まっているという符号が、不気味な出来事の始まりを告げている。その辺の空気の持っていき方が、つくづくうまい。
・ただ昼寝をしているから動かないだけのフィッツヒューバート夫妻の脇を、元気ハツラツなアプ女の4人組が走り抜けるというだけのカットが、現世とあの世との時間の流れの違いをあらわしているようで妙にシュール。若者の「動」が向かう先があの世で、老夫妻のいる「止まった世界」が現世なのだという逆転も、面白い。
・マイクル主観の画面になった瞬間に、動きがスローモーションになるミランダ。マイクル露骨だな~! でも、それが青春。
・アプ女の4人組がマセドン山頂のハンギングロックに近づいた時点で、日差しがやや西日になっているのが、観客の不安をいやがおうにもあおる。平和な時間は、もう残り少ない!
・それにしても今さらなのだが、アプ女の指定衣服は登山に100%向かない!! 標高150m とはいえ、山をナメにナメているとしか思えない! 案外、彼女たちのそういった姿が山の神の怒りに触れたから、神隠しに遭ったのかも……日本の山でこんなことしたら、やまんばが黙っちゃいねぇぜ!!
・アプ女の4人組が登山するシーンで、いかにも危険な旅に出るといった感じのかなりドラマティックな音楽が流れるのだが……標高150m じゃん? モスリンのワンピースにヒールブーツで登ってるんじゃん? おおげさすぎでしょ! でも、お嬢様からしたら、確かに真夏の大冒険だよね。ここらへんの、ひたすらミニマムなスケールも面白い。
・他の3人と観客の予想通りに、マセドン山登山に速攻でバテて下山したいと泣き言を漏らすふとっちょ生徒イディス。やっぱり、デb ……ふくよかキャラはそうこなくっちゃ!
・きたきたきたー、黒いストッキングとブーツを脱ぐだけなのに異様にエロいしぐさ!! 4人の中でイディスだけが脱いでいないことからも、明らかにこの行為があの世に行くパスポートになっていることが示唆されている。
・イディスが太っちょキャラとして100点満点の足手まといっぷりを発揮しているのに対し、メガネのマリオンも負けじと、山頂からふもとの生徒や先生たちを見下ろして「なんだかアリみたい……生きる目的もないクセにわらわらと。」と、たいがいメガネキャラっぽい中二病発言を展開させる。こういうキャラクターの色分けの明瞭さも少女マンガっぽいよね。
・たま~に挿入される、ハンギングロックのてっぺんから4人組を見下ろしたようなカメラ視点が非常にこわい。誰? 誰が見てんの!?
・映画が始まって35分で4人が失踪するわけなのだが、ここからがこの映画の真の実力の発揮されるところである。あと3分の2を、オチなしでどうやって進めていくのか!?
・バンファー巡査部長の質問に答えるマイクルの発言が、微妙に事実と異なっているのが非常に興味深い。イディスが3人に遅れて歩いていたのは、マイクルが最初に4人組を目撃した小川の地点よりもずっと上の山頂付近のはずなのだ。ということは……? またマイクルは、なぜミランダを特別視していることをバンファーに隠しているのか……単に恥ずかしいからか? それとも……
・イディスの発言により、「赤い雲」と「ズロース姿で山頂に向かうマクロウ先生」という異常なヒントが! これ、ヒントか? 混乱するだけなんですけど!
・やめとけやめとけと言いながらも、ハンギングロックに探しに行くと言ってきかないマイクルを無下にできず手を貸すアルバート。それでこそ漢だ!! 女子には女子の、男子には男子の友情のかたちがあるんだねい。
・アリ、ハエ、セミ、トカゲ、クモ、ハデな色の鳥ときて、映画が始まって54分10秒後にしてついに、オーストラリアダンジョンの真打「こあら」が満を持して登場!! うをを~、マイクル決死の探索シーンなのに、ぜんぜん緊迫感が生まれないぜ!!
・さらに開始58分55秒後には、あのエリマキトカゲも参戦!! 盛り上がってまいりました!!
・丸2日かけたマイクルの探索も無駄足に終わったかに見えたのだが、その握りしめた拳の中には……という展開が実にうまい。ひっぱるねぇ~!!
・いくら捜索しても見つからなかったのに、失踪して1週間後に1人だけ生還するという異常事態に、ウッドエンドの町民も混乱して暴徒化の一歩手前まで行くという描写が非常にリアル。憔悴するバンファー巡査部長の視点も入れて、アプ女だけの話にしないところがこの映画の上手なところである。『八つ墓村』みたい!
・セリフもないモブなのだが、アップルヤード校長がアルマの保護を伝えた時に、サラの後ろに立っている背の高い生徒さんが非常に美人! なんちゅうもったいないことを!! なんか、なんかしゃべる役、ないの!?
・アルマが生きて帰ったことよりも、学校行事中の失踪が不祥事として取り沙汰されてアプ女の評判がガタ落ちになることを危惧する校長。血も涙もないようには見えるが……経営者はつらいのよ!!
・岩山に1週間もいたはずなのに、脳震盪と爪が全部割れてすり傷だらけの手首以外、アルマに外傷がほとんどないことをいぶかる町医者マッケンジーと、アルマが脱いだはずのストッキングとブーツが発見されていないことが気にかかるバンファー巡査部長。そしてアルマの衣服には、なぜかコルセットだけが無かった……アルマは一体、どこにいたのか? 思わず、矢追純一の UFO特番の時に死ぬほど流れていたジングル音楽(『トワイライトゾーン』のやつ)が欲しくなってしまう展開である。♪ちゃらら~!ちゃらららら~ん!!どんどん!!
・事件解決の糸口が全く見えないこの非常事態の最中に、学費を滞納しているサラを退学処分にすると言い出す校長。一見、言うことを聞かない問題児のサラに対する大人げない八つ当たりのようでもあるが、サラの分の毎日の給食も惜しくなる苦境にあるのではなかろうか。校長、大変!!
・ベッドに横たわりながら、自分のつらい身の上話をしておいて、同情するメイドのミニーの手を振り払うサラ。これだ! このめんどくささこそが青春なのだ!! サラ役のマーガレット=ネルソンさんも、うまいな~。
・数秒間のイメージショットなのだが、マイクルの寝室になぜか生きた白鳥がいるというシチュエーションが、現実なのかマイクルの夢なのかがさっぱりわからず印象に残る。マイクル「なんでいんの……?」白鳥「さぁ……?」みたいな視線のぶつかり合いが妙におかしい。
・アルマの救出後、捜索隊やら新聞記者やらカメラマンやらガキンチョやらおばちゃんやら売店やらで、事件現場なんだか観光名所なんだかさっぱりわからなくなるマセドン山の変貌っぷりが、バンファー巡査部長の苦虫を噛んだような表情と相まって、非常に生々しい残酷さに満ちている。う~ん、19世紀末にもマスゴミはいたのか!
・せっかくアルマが復帰したというのに、集団ヒステリーにおちいり1人だけ生き残った彼女を責め立てるアプ女のモブ生徒たち! しかし、激高するポワティエ先生に平手打ちされるのがふとっちょイディスだけという、この不公平な世の中よ!! イディス「やっぱ私こんな高木ブーポジション!?」
・サラに対して異常な虐待をしていたラムレイ先生といい、徐々に酒と狂気の世界に溺れていくアップルヤード校長といい、2月14日の事件を契機に日常が崩れていくさまがものすご~く怖い……神隠しに遭った4人のように、きれいに消え去れない大人たちのけがれた末路のほうが、ずっとずっと怖い。
・終盤の校長とサラの確執と、それぞれの末路。こここそが物語の核心であり、唯一の「事件」だったのかもしれない。ハンギングロックで起こったのは、あくまでも「なるべくしてなった自然の事象」であり、単なるきっかけに過ぎなかったったのかも。プライベートでもアルコール依存に悩んでいたというレイチェル=ロバーツの演技がすさまじい。


 以上、泣く泣くダイジェストでまとめさせていただきました~。ともかく、数学のように論理的に、少女マンガのようにわかりやすく「幽冥あいまいな世界」を描いているという、それこそ北半球の人間からしたら「真夏にバレンタイン!?」みたいに両極端な要素のケミストリーがすばらしいんだよなぁ。ちょっと、山岸涼子さんの世界に通じるものがあると思います。きわめて単純な描線でドロッドロの情念をえがくような。

 ところで余談ですが、私がこの作品の存在を初めて知ったのはなぜか、我が『長岡京エイリアン』ではことあるごとにその名が登場する、イギリスの伝説の TVドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズからなのでありました。グラナダ! グラナダ!!
 なんでかっつうと、このシリーズの VHSビデオシリーズを買い集めていた時に(1巻2話収録で4千円くらい、日本語吹替えなし……)、第15話『修道院屋敷』にゲスト出演していたアンルイーズ=ランバートさんの経歴紹介で『ピクニックat ハンギングロック』のタイトルが出ていたんですよ。

「なんだ、この題名は……『首つり岩』でピクニック? 気になる~!」

 当時、中学生かそこらだった私は、このタイトルが妙に引っかかっていたのです。あと、アンルイーズさんがどえらい美人だったことも、なんとしてもこの作品を観てみたいという執心のきっかけになったかも……すいません、90%アンルイーズさんがべっぴんさんだからでした!
 作中ではその名の由来はいっさい語られなかったのですが、「ハンギングロック」という名前は、いやがおうにも大英帝国に排斥された先住民族アボリジニの悲運を暗示させるナイスネーミングですよね。そこにいかにも軽率な「ピクニック」を添えるバランス感覚が、たまらなく不穏な空気を醸し出していて最高なんですよ。

 ところでどうでもいいのですが、この作品は日本でのタイトル表記が異様にバラッバラで、創元推理文庫の原作小説とカルチュア・パブリッシャーズの映画公開版DVD が『ピクニック・アット・ハンギングロック』で、SPO のディレクターズカット版DVD と2018年の TVドラマリメイク版が『ピクニック at ハンギングロック』、Wikipedia の記事は『ピクニック at ハンギング・ロック』となっております。個人的には『ピクニック at ハンギングロック』がいちばん好きですね。ほんとにどうでもいい……

 最後に、アンルイーズさんをはじめとして非常に美しく演技力のある俳優さんがたが大挙して参加しているこの作品なのですが、やっぱりこの作品の伝説化に最も寄与しているのは誰かといえば、そりゃやっぱり、アップルヤード校長役のレイチェル=ロバーツさんなのではないでしょうか。この作品の前年の『オリエント急行殺人事件』(1974年)でもいい味出してましたが、こっちでは見違えるようなプライド激高のヴィクトリア朝貴婦人になりきっていますね!

 自分の理想の結晶ともいえるアップルヤード女学校を創立し、厳しい教育を通して一流の英国淑女を生産して世に送り出すことにより、オーストラリアという(英国人から見たら)文明未開の大地を順風満帆に「開拓」している気になっていた校長。しかし彼女が人生を賭けて築き上げてきた「箱庭」は、ハンギングロックという得体の知れない自然の「ちょっとした気まぐれ」によって、もろくも崩れ去ってしまうのであった……彼女の人生とは、いったいなんだったのか。

 そういった校長の理想とその末路を考えると、酒に溺れ精神が崩壊していくその姿を真摯に演じるレイチェルの姿は、決して子どもに厳しく当たるだけのヒステリー教育者にバチが当たったというだけでは語れない悲哀に満ちていると思います。そして、この醜い最期があるからこそ、ラストのラストでポワティエ先生が思い出す、「すぐ帰ってきますわ~。」と輝く金髪をなびかせて振り向くミランダの美しさが、ひときわ観る者の心に迫ってくるのでしょう。ホントに計算され尽くしてるんだよなぁ、最後の1カットまで!

 人類が文明という武器を持って自然に立ち向かい、そしてその力の限界をまざまざと思い知らされる物語。それこそが、『ピクニック at ハンギングロック』の本質なのではないのでしょうか。だとすれば、この作品が日本にも受け入れられるのも全く無理はないのです。芥川龍之介の『神神の微笑』とか柳田国男の『遠野物語』、石原慎太郎の『秘祭』などに通じる「大いなる存在」が、そこには潜んでいるんですよね。そしてその上、ヒラヒラフリッフリのワンピースを着た美少女たちが画面狭しとはしゃぎまわるんですから、鬼にグレネードランチャーでしょ、こんなもん!

 『ピクニック at ハンギングロック』のアップルヤード校長と、『北の国から』シリーズの黒板五郎さんとの違いを考えてみるのも、また一興なのではないでしょうか。人間、謙虚さは大事だなぁ。る~るるるるる~!!
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これは……ジョーカーなのか? ~映画『ジョーカー』~

2019年10月10日 09時29分23秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんにちは! そうだいでございます。

 いや~、もう世の中どうなっとるんでありましょうか!? つい先日に日本の悪役キャラを代表するおぬら様が大復活を遂げられたかと思ってたら、それに呼応するかのように、海を越えたアメリカの超有名ヴィランまでもがリニューアル登板ときたもんでい! 今年の秋も忙しいなぁ~。

 というわけでありまして、私も観てきました、この映画! 楽しみにしてたんですよぉ。
 あいや~……えらいもん観てもうた。


映画『ジョーカー』(2019年10月4日公開 122分 アメリカ)
 『ジョーカー(原題:Joker)』は、DCコミックスの『バットマン』シリーズに登場するスーパーヴィランであるジョーカーを主人公とするサイコスリラー映画。R15+ 指定作品。
 本作は、「DC エクステンデッド・ユニバース」シリーズ作品をはじめ、過去に製作された『バットマン』の映画・TVドラマ・アニメ作品のいずれとも世界観を共有しない、完全に独立した作品である。ジョーカーの原点を描いた内容ではあるが、本作以前の映像作品に登場しているどのジョーカーの過去にも当たらない。
 公開時のキャッチコピーは、「本当の悪は笑顔の中にある」。

 本作の主人公であるジョーカーは、DCコミックスのアメコミ『バットマン』に登場するスーパーヴィランで、主人公のバットマン(ブルース=ウェイン)の対極に位置づけられる最悪の悪役として活躍している。ジョーカーの明確なオリジンは確立されておらず、またジョーカー自身が狂人であるため、語る度に発言が変化すると設定されている。それらの中でも最も有名なエピソードとして、「元々は売れないコメディアンで、強盗を犯したところをバットマンから逃げる途中に化学薬品の溶液に落下し、白い肌、赤い唇、緑の髪、常に笑みをたたえる裂けた口の姿に変貌した」という説が一般に浸透している。
 しかし本作では、このエピソードや他のメディアミックス作品などとの関連性は撤廃され、脚本を手がけたトッド=フィリップスとスコット=シルヴァーによって、ゴッサムシティで母と暮らす「アーサー=フレック」というまったく新たな前身が設定されたが、同時に本作のジョーカーを「信用できない語り手」とすることで、この設定もまた真実であるかどうかは全く不明という、原作コミック以来の伝統を踏襲している。

 監督を務めたトッド=フィリップスは、本作がアメリカの社会格差を風刺する作品として話題を集めたことを認めつつ、映画の目標はあくまでもアーサー=フレックという個人がいかにしてジョーカーという悪役へ変遷するかを描く人物研究であると語っている。この構想を立てたフィリップスは、スコット=シルヴァーと共におよそ1年をかけて脚本を執筆した。脚本は『タクシードライバー』(1976年)や『キング・オブ・コメディ』(1983年)などのマーティン=スコセッシ監督、ロバート=デ・ニーロ主演の作品群に影響を受け、原作コミックから大きく逸脱する内容に完成した。作品の舞台は原作コミックに共通するゴッサムシティであり、1981年当時のニューヨークをモチーフにして創造された。

 本作におけるジョーカーことアーサー=フレックには、個性派俳優として知られるホアキン=フェニックスがキャスティングされた。メガホンを取ったフィリップスは、脚本の執筆段階からフェニックスを意識してジョーカーのイメージを手がけ、彼以外の起用は考えられないと語っている。ジョーカーに次いで重要な役どころとなる TVの大物芸人のマレー=フランクリンにはロバート=デ・ニーロが起用された。

 本作に登場するジョーカーの姿は、原作コミックや先行する映像作品で見られる「白い肌」、「緑の髪」、「赤く笑ったように裂けた唇」といった特徴が踏襲されているが、これらはすべて、コメディアンになりたいジョーカーことアーサーが自ら手がけたメイクとして描かれている。衣装は原作コミックのようなスーツ姿ではあるもののカラーリングは一新され、赤系統色のジャケットが特徴となる。ジョーカーを演じるにあたって主演のフェニックスは、撮影開始前に80kg以上あった体重を「1日をりんご1個と少量の野菜のみで過ごす」過酷な食量制限によって58kgにまで減量した。

 本作は、アメリカでは公開初日からの3日間で約9,620万ドルを記録。日本では公開初週の土日を含めた3日間で動員49万8千人、興行収入7億5千万円を記録し、5日間で10億2千万円を記録した。
 このように興行的には大成功を収める一方で、本作は物語がマーティン=スコセッシ監督作品の『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』の影響が強い点、暴力や殺人を美化する内容、精神疾患に関する描写から、評論家による評価は賛否両論となった。


あらすじ
 1981年のゴッサムシティ。大都市でありながらも財政の崩壊により街には失業者や犯罪者があふれ、貧富の差は大きくなるばかりだった。そんな荒廃した街に住む道化師のアーサー=フレックは、派遣ピエロとしてわずかな金を稼ぎながら、年老いた母親ペニーとつつましい生活を送っていた。彼は緊張すると発作的に笑い出してしまう病気のため定期的にカウンセリングを受け、大量の精神安定剤を手放せない自身の現状に苦しんでいる。しかしアーサーには、一流のコメディアンになるという夢があった。ネタを思いつけばノートに書き記し、尊敬する TV界の大物芸人マレー=フランクリンが司会を務めるトークショーが始まれば、彼の横で脚光を浴びる自分の姿を夢想する。
 ある日、アーサーはピエロ姿で店の看板を持ちながらセールの宣伝をしていると、不良の若者たちに暴行を受けてしまう。後日、アーサーは派遣会社から看板を壊したことと仕事を途中で放棄したことを責められるが、アーサーを心から気にかけてくれるのは小人症の同僚ゲイリーだけだった。アーサーの生活は酷く困窮しており、母ペニーは30年ほど前に自分を雇っていた街の名士トーマス=ウェインへ救済を求める手紙を何度も送っていたが、一向に返事は届かない。不運が続くアーサーの心のよりどころは、同じアパートに住むシングルマザーのソフィー=デュモンド。アーサーはソフィーとは挨拶をする程度の関係だったが、アーサーは度々ソフィーの後をつけ、その姿を眺めていた。

 またある日、アーサーはピエロの仕事中、同僚のランドルから護身用にと強引に手渡されていた拳銃を子ども達の前で落としてしまい、上司からクビを宣告される。ランドルが保身のために自分は関係ないと嘘を吐いたことも分かり、絶望したアーサーが地下鉄に乗っていると、1人の女性が酔っ払ったスーツの男3人に絡まれていた。アーサーは見て見ぬふりをしようとするも神経症の発作が起きて笑いが止まらなくなり、気に障った3人から暴行を受けると、反射的に拳銃を取り出して全員を射殺してしまう。混乱と焦燥感に襲われ駅から駆け出すアーサーだが、次第に言い知れぬ高揚感が己を満たしていく。


おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
アーサー=フレック / ジョーカー …… ホアキン=フェニックス(45歳)
マレー=フランクリン      …… ロバート=デ・ニーロ(76歳)
ソフィー=デュモンド      …… ザジー=ビーツ(28歳)
ペニー=フレック        …… フランセス=コンロイ(65歳)
トーマス=ウェイン       …… ブレット=カレン(63歳)
ギャリティ刑事         …… ビル=キャンプ(58歳)
バーク刑事           …… シェイ=ウィガム(50歳)
ランドル            …… グレン=フレシュラー(51歳)
ゲイリー            …… リー=ギル(?歳)
カール             …… ブライアン=タイリー・ヘンリー(37歳)
アルフレッド=ペニーワース   …… ダグラス=ホッジ(59歳)
ブルース=ウェイン       …… ダンテ=ペレイラ・オルソン(11歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… トッド=フィリップス(48歳)
脚本 …… トッド=フィリップス、スコット=シルヴァー(?歳)
音楽 …… ヒドゥル=グドナドッティル(37歳)
撮影 …… ローレンス=シャー(49歳)
配給 …… ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ


 ものすごい映画でしたね~。湿度 MAX、タバコ臭さ MAX、そして観た後の激重だる感も MAX!!

 最初にこれは言っておかねば、とは思うのですが、本作の主人公アーサーが成り果ててしまう道化師のメイクをした連続殺人犯は、やっぱりどこからどう見ても、あの『バットマン』サーガでバットマンと丁々発止の名勝負を永遠に繰り広げるヴィランのジョーカーとは、まるで別人と言わざるを得ません。
 それはまぁ、作中に登場した大富豪の御曹司ブルース=ウェインと30歳以上の年の差があるという時系列から見ても明らかではあるのでしょうが、やっぱり「中身」というか、アーサーの「ギャグセンスが皆無」というところがずっと変わっていない以上、やはりあのジョーカーとは本質的に別の存在かと思うんですよね。
 たぶんフィリップス監督としては、本作でのアーサーの犯罪に影響されたゴッサムシティの若者の中のひとりがジョーカーになったという雰囲気をにおわせる程度で、あくまでもそのパンドラの匣を開けるトリガーとして、大都市の不条理と自身の冷酷な運命にボロ雑巾のようにめちゃくちゃにされたアーサーという名もなき中年男をいけにえに選んだのでしょう。

 この作品に登場するアーサーは、生活上の必要から大道芸人になったり、自身の夢を追ってスタンダップコメディアンを目指したりするわけですが、自分も他人も心の底から笑わせることができないという絶望的な苦境にあえぎながら生きている哀れな中年男です。彼の突発的な爆笑が、どうやら幼少期の DVの後遺症からきているらしい心理的な障害であるという設定も、あまりにも意地が悪すぎますよね……


 ここでちょっと話を脱線させまして、これまでの映像化されたバットマンシリーズにおける歴代ジョーカーの「笑いのスタイル」を振り返ってみましょう。私が好きなジョーカーは、こっち!

 シーザー=ロメロの初代ジョーカー(1966~68年)は何のてらいもない純粋なお騒がせ愉快犯として笑いを提供しており、いわば植木等~志村けん的なスタイルだったと思います。映画版『バットマン』(1966年)では悪人連合の使いっぱしりを笑って引き受けていたし、なんだったら調子に乗ったペンギンやリドラーの暴走を制止しようとする人の好さも露呈していましたからね。「お前、頭おかしいんじゃないの?」というセリフをジョーカーが言うとは……

 現代におけるサイコパスな犯罪者としてのエポックメイキングとなった、ご存じティム=バートン版『バットマン』(1989年)でジャック=ニコルソンが演じた2代目ジョーカーは、面白いんだか何だかよくわかんないけど、その強引すぎる狂気のハイテンションと言動の勢いを持って「面白いよな!? お前も笑えよ!!」と周囲をグイグイ巻き込んでいく1980年代ビートたけし的スタイルと言ってよいかと思います。まさに毒ガス!

 その一方で、なんとそのニコルソンジョーカーという高すぎる壁を跳び越えうる存在となった『ダークナイト』(2008年)のヒース=レジャー演じる3代目ジョーカーの笑いのスタイルはと言いますと、本人はひたすらムスッとして笑うことなんかほとんどないのに、そのローテンションな言動がなぜかキュートでハイセンスで面白いという、1990年代の松本人志的スタイルということになるのではないでしょうか。あの、言っときますけど、2000年代以降の、ゲストのたいして面白くもない発言にニャハニャハ笑ってる松本さんとは全然ちがいますからね? 今の松本さんはもう、面白いは面白いんだろうけど TVサイズの人間になっちゃったって感じですよ。1990年代は完全にジャンルや人間の領域を超えてましたからね。

 この3大ジョーカー俳優以後は、2015年から TVドラマシリーズ『ゴッサム』で4代目ジョーカーを好演しているキャメロン=モナハンと、映画『スーサイド・スクワッド』(2016年)で5代目ジョーカーを演じたジャレッド=レトが続くわけなのですが、モナハンジョーカーは私も大好きではあるのですが過去の映像版ジョーカー像を巧みに再編集したいいとこどりであるがゆえにオリジナリティがあるとは言い難いジレンマがあり(むしろ『ゴッサム』はハーレイ・クインが最高!!)、レトジョーカーは出演時間的にギャグを言う暇も無かったので判定不能です。
 まぁ、モナハンジョーカーは無理やりお笑いに変換すれば「コロッケ的笑い」ということになりますかね……とっつぁん坊や七変化!

 そんな感じの中で通算6代目ということになる今作のホアキンジョーカーはどうなのかと言いますと、とにかくその生き方のみじめさで人々の嘲笑を浴びるリアクション芸人的な笑いということになるでしょうか。まぁ、映画を観ても分かる通り、演じるホアキンさんもそうとう身体張ってますからね……
 でも、このスタイルってやっぱり、私の大好きな「犯罪道化師ジョーカー」とは違うような気がするんだよなぁ。カリスマ性のあるヴィランになるとは到底思えないのです。アーサーや彼の母親が憧れの対象としていた TV界の大御所司会者マレーを憎悪するようになる展開も、ある意味で過去のエンタメキャラとしてのジョーカー像を打ち砕くという下剋上の意味があるのでしょうが、アーサーのスタイルである「天然リアクション芸」というものが、祭り上げられ愛された途端に面白さを失う種類の笑いであることは間違いないのです。笑われていることを自覚したら終わり……それをずっと続けられている出川哲朗さんって、やっぱ天才なんだなぁ。

 お話を映画に戻しますが、この映画がバットマンシリーズのジョーカーを、そのまんまスピンオフさせた作品でないことは間違いありません。ひたすら暗く、テンションが低く、落ち込む展開が続く映画……でも、それなのに本作は異様に観る者を引き込む「面白い」映画になっているのです。
 それはどうしてなのかと言いますと、それはやはり、ジョーカーというブランド名にあぐらをかかない、というか徹底的に過去のジョーカー像を排斥した上で、純粋なひとつの映像作品として十二分に楽しめる「サイコサスペンス劇」になっているからだと思うのです。
 バットマンシリーズのキャラのスピンオフ作品としては、かつて2004年にオスカー女優のハル=ベリーを主演に擁した伝説の映画『キャットウーマン』があったのですが、あれがああなっちゃって今回の『ジョーカー』がああならなかったのは、ストイックなまでにジョーカーに頼らない「脱ジョーカー」な構成が功を奏したのではないでしょうか。もはや、ジョーカー関係なくてもおもしろいのです。

 ……え……じゃあ、この映画の主人公が「ジョーカー」である意味って……ま、ぶっちゃけ、無いっすね。

 ただ、ここで声を大にして言いたいのは、フィリップス監督とホアキンさんが「バットマンのジョーカーなんか出てこねぇよバーカ!」という姿勢を最後の1カットまで取り続けているということは、お客さんから「金返せバカヤロー!!」とゴミなり食べかけのリンゴなりバナナの皮なりを『バットマン・リターンズ』のペンギンみたいに投げつけられる覚悟をガン決まりに決めた上で、このとんでもなくアウェーな賭けに出ているということなのです。そしてその結果、この『ジョーカー』はかなり多くの方々の「ジョーカーじゃないけど、いいよ!!」という赦しと賞賛を得るという大勝利をつかみ取りました。これ、ものすごいことよ。
 実際に私も、私が愛してやまない、あの全身紫色のジョーカーが出てこないのはちと気になりはしましたが、今作のおいしいおいしい焼いもみたいな黄色シャツに真っ赤なジャケットの道化師が登場するシーンを見て満足してしまったのです。

 裏切られはしましたが、確かにこの映画は面白い。「だまされたと思って観てみてヨ。」なドッキリを、プロの才能が集まって頭おかしいくらいの本気度で取り組んで仕掛けた結果、ほんとに世界を騙す大傑作が爆誕しちゃったわけなんだな!


 ここからは、バットマンサーガうんぬんとは無関係の部分での本作の面白さを考えてみたいのですが、私が映画館で観た限り、その魅力のポイントは大きく分けて3つあったかと感じました。


1、「信頼できない語り手」としてのアーサー視点の可視化

 この作品は、ほんとはフィリップス監督じゃなくてリドラーが撮ったんじゃないかってくらいに、ボーっと見ていると「あれ、こことあのシーン、つながってなくない?」とか、「あのシーンってほんとにあったの? 想像?」みたいな違和感がじわじわ観客の脳内に侵食してくる謎、謎、謎だらけの映画となっております。おちおちチリドッグを食べてるヒマもありゃしねぇぜ!

 主人公のアーサーの精神状態がかなりヤバいことは明らかなわけなんですが、そのアーサーが実際に直面している現実世界のシーンなのか、それともアーサーがあまりの現実のつらさから自身の「こうであってほしい」願望に逃避している幻影のシーンなのかが、この作品はわざとはっきりボンヤリさせた上でさくさく話を進めていくので、観客の猜疑心を高めてアーサーの心理状態に近づけていくというテクニックがかなり成功しているのが、この映画の本当に恐ろしいところです。
 本作、上の情報で述べたように R指定になっている映画なのですが、作品自体を画づらだけで見ていくと、そりゃまぁ話の行きがかり上、残酷な殺人はあるにしても、適度な遠景で撮影しているので昨今のホラー映画ほどエグい描写にはなっていませんし、ましてやエッチな展開などまるで出てきやしません。ハーレイ・クインなんか出てくる気配もありゃしねぇや!

 それなのにがっつり R指定になっているというのは、明らかにこの作品が、残酷さやエロさとは別の「なにか」で危険なしろものになっているということなのです。それはやっぱり、観客の精神状態を直接的に不安定なものにしてしまう、ほとんどプロパガンダや催眠のような強制力なのではないでしょうか。そして、物語の大半でひどい目にばっかり遭わされ続けてきたアーサーが最終的に選び、一部の民衆が熱狂的に受け入れた自己救済の道は「殺人」だったのです。これは……倫理的にヤバいにもほどがあります!!

 たぶん、劇場で何度も集中して鑑賞したり、のちにリリースされるはずのソフト商品を繰り返し観たら、具体的にどこが現実パートでどこが妄想パートなのか、フィリップス監督はちゃんとわかるようにヒントなり解答なりをちりばめているのでしょうが……こんな映画、何回も観たくねぇ!!

 悪夢や……悪夢なんやけど、なんか惹かれるものがある悪夢なんや! なんか、個人的にはアンジェイ=ズラウスキー監督の『ポゼッション』(1981年)にかなり近いもののある酩酊感をもよおす作品だと思うんですよね、この『ジョーカー』って。
 そういや、あの映画も主演俳優さんにそ~と~なプレッシャーをかけてたな! 監督、こわすぎ……


2、ホアキン=フェニックスの入魂過ぎる役作り

 こりゃあもう、実際に観ていただくより他ないのですが、ホアキンさんの役作りがもう、頭おかしいとしか言いようのない熱の入れようなんですよね。ニコルソンジョーカーとヒースジョーカーという、絶対に相手にしたくない激高ハードルを前にしても、ホアキンさんは全く臆することなく真剣に真正面から、文字通り「身体一つ」でぶち当たっているのです。このうちの誰が一番すごいのかという議論は、もはや好みの問題なのでいちいち言及しませんが、ホアキンさんが負けているということは絶対に無いと断言できるでしょう。ほんと……身体をいたわれ!!

 だって、あの背中、観た!? つまりホアキンさんは、メイクも演出も CGも全く必要とせずに、正真正銘その肉体のみで、アーサーの歪んだ半生や心理状態、そしてその先に待ち受けている異形のものへの変身を、セリフすら使わずに数秒で表現しきっているのです。

 なんでも身体を張りゃいいってもんでもないけど、今回の主人公アーサーに限って言うのならば、ホアキンさんという依り代が無ければ絶対に成功しえないキャラクターだったのではないでしょうか。ふくよか系のニコルソンジョーカー、隠れマッチョ系のヒースジョーカーときて、今度はガリガリ系のホアキンジョーカーですか……う~ん、よりどりみどり!!


3、ヒドゥル=グドナドッティルの音楽のものすごい存在感&ジャストフィット感

 これもまぁ、四の五の言わずに作品を観てみてくださいって話なんですけれどもね。
 本作は劇中で流れる音楽に関して、フランク=シナトラやゲイリー=グリッターといった、作中の時代設定である1981年から見るとひと昔かふた昔にあたるなつかしの歌謡曲やジャズナンバーが多用されている部分が目立つのですが、それと同時に、アーサーの「堕ちていく」危機的状況を明示する音楽として、ヨーロッパ極北の島国アイスランド出身のチェリストであるヒドゥル=グドナドッティル女史の奏でる、異常に重力のあるナンバーが要所要所でその存在感を発揮しています。無理やり日本語で表現するのならば、まさに「ずぅぅ~ん」とか「どよよぉお~ん」としか言いようのない調べですよね……

 人生の中での「笑う / 笑われる」シーンをテーマにした、誰もが知っている有名なポップスが陽気に次々と流れていく一方で、あたかも車の両輪、陽と陰の関係にあるかのように、ふとした瞬間にアーサーの背後に現れ、首根っこをつかんで地面に叩きつける悪魔のような役割を果たしているグドナドッティルさんの音楽は、フィリップス監督の演出、ホアキンさんの演技と同程度に本作の完成度の高さに寄与している重要なファクターだと思います。サントラ買っちゃいますよ、こんなもん! まぁ、ドライブとかデートで流せるアルバムじゃないですけど……

 よく「笑いとは緊張と緩和のバランス効果である。」と言われますが、本作のフィリップス監督がコメディ映画で名を挙げたお人であるということからわかるように、この映画は非常に陰鬱な作品であるのに、さらにはまともな冗談すら全く思いつかないアーサーを主人公にしているというのに、なぜかその転落人生に時を忘れて見入ってしまうのは、フィリップス監督のバランスセンスの良さにあると思います。キツイ展開が続いて息が詰まりそうになると、アーサーの必死なあがきがなぜか滑稽に見えてしまう細やかな描写が差しはさまれるんですよね。この、ギャグ的な息継ぎが絶妙だから観ていられるのです。ここらへん、似たような感じの映画でも『ブラック・スワン』(2010年)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)には無かったアドバンテージだったように感じました。

 そして、そういった意味でも緩和がアメリカのオールディーズナンバーで、緊張がグドナドッティルさんのチェロの調べという白黒はっきりした采配が大成功していたのではないでしょうか。本当に、この映画は完成度が高い!


 以上、こんな感じで「ジョーカーの全く出てこない映画」なのに世界的な大ヒットを収めている『ジョーカー』を観た感想をつづってきたのですが、これ、やっぱ大ヒットしたってことは続編、出るんでしょうかね? でも、本作はラストのラストでアーサーが「全てはジョークさ……」と嘘いつわりのない微笑を浮かべた時点で充分すぎる程にオチていると思うので、続きを作るだけ野暮のような気もするんですが。

 続編を出すってことは、この世界におけるバットマンのデビューとか、アーサーに心酔した若者が「のちのジョーカー」になるっていう展開も観られるのでしょうか。う~ん、それ観たいか!?

 個人的な話になるのですが、私、『タクシードライバー』は観てるんですが、なんとも勉強不足なことにデ・ニーロの『キング・オブ・コメディ』をまだ観てないんですよ! あの、コサキンラジオで小堺さんが「気持ち悪すぎて吐いた。」って言ってた、伝説の作品です!!
 これ、ちゃんと観ないとなぁ。本作にかなり近い作品ですよね。

 そういえば、本作の最初に丸っこい「 W」の赤文字が迫ってくる1980年代のワーナーブラザースのロゴは、キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)でも使われていたバージョンでしたよね。『ジョーカー』でも、『シャイニング』へのオマージュと思われるシチュエーションのシーン、ありましたよね! まさか、ブルースのおやじがあんなにいけ好かない奴だったとは……いや、あれも妄想なのか。

 いろいろ感じるところの多い大傑作ではありましたが、それはそれとして、DCコミックス陣営としてド正統なバットマンシリーズの映画新作も、早く出してほしいかな!? そして、新たなる若き7代目ジョーカーのご登場も、楽しみにしております! モナハンジョーカーの銀幕デビューでも全然いいけどね!!

 とりあえずは、ホアキンさん大変お疲れさまでございました! ごはん食べてね!!
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帰ってきた「うわ~、くだらない!」系バットマンワールド  ~映画『スーサイド・スクワッド』~

2016年09月18日 17時22分29秒 | ふつうじゃない映画
 いやいやどうも、そうだいでございます~。
 最近はもう、仕事で筋肉痛にはなるわ声はかれるわで、てんてこまいでございます。まぁ、まったく想定内の忙しさなので文句の言いようもないわけなのですが……30代なかばの全速力ダッシュは、いろいろ身にしみるよねぇ~。

 先日、ありがたいことにかなり珍しく祝日でもないド平日に連休をいただくこととなりまして、これ幸いにと、去年初めに山形暮らしに戻って以来の「どうでもいいんだけど、ちょっと気になるかな。」レベルの懸案事項となっていた、「千葉時代にお世話になった金融機関の口座を解約する」プロジェクトを決行してまいりました。ほんとにどうでもいい~! 引っ越した時期は、まだ公共料金の引き落としが残ってたから解約できなかったんですよね。
 それでまぁ、トータル千円弱の残金をいただくために、1日かけて新幹線で山形~千葉を往復してきたわけです。これを馬鹿と言わずに何と言えましょう。預金通帳なくしてたから支店から支店へとはしごするわ時間はかかるわ!
 でもまぁ、おかげさまをもちまして、今回の旅でわたくしと千葉県千葉市さまとの形式上のゆかりは、きれいさっぱり全て消え去りました。

 思い出深い土地です。恩をたっぷりいただいた土地です。それなのに……
 日を追う毎に総武線に乗るのがおっくうになる、この身のドライさ加減よ!! え、津田沼ってこんなに遠かったの!? 船橋でさえあんま行きたくねぇ!!

 もうね、いったん生活の場が変わると、電車の待ち時間ってものがこんなにも長いものに感じられてしまうのかと。車社会っていろいろ大変ですけど、自分の車があったら、出発するときに待たされるとか、乗り遅れるとかっていうことはあんまりないんですよね。
 よもや、電車生活がこれほどに遠い存在になってしまうとは……人間にとって、今に慣れるっていうか、昔を忘れる能力っていうのは本当にすさまじいものなんですね。っていうか、そんなに過去に薄情なのは私だけですか! ガハハ!!


 そんなこんなで引き続き山形ライフを謳歌しているわけなのですが、車検も無事に済んだまなぐるまを駆りまして、先日こんな映画を観てまいりました。



映画『スーサイド・スクワッド』(2016年8月公開 123分 ワーナー・ブラザース)

 映画『スーサイド・スクワッド(Suicide Squad)』は、アメリカの DCコミックスが刊行する同名のコミックシリーズの実写映画化作品で、様々な DCコミックスの映画作品を、同一の世界を舞台にした作品群として扱う『DCエクステンデッド・ユニバース』シリーズとしては、スーパーマンが主人公となる『マン・オブ・スティール』(2013年)から数えて第3作となる。
 DCコミックスが刊行する『バットマン』などのヒーローコミックの、複数の敵キャラクター(ヴィラン)を主役に据えた作品である。

 スーサイド・スクワッドがコミックの世界で初登場したのは、1959年刊行のコミック雑誌『ブレイヴ&ボールド』の第25巻である。創刊当時の『ブレイヴ&ボールド』はロビン・フッドなどを主人公に昔の冒険活劇を描いた内容だったが、後に方針転換によって新しく創作したキャラクターの物語を描くこととなり、「自殺部隊」、「決死部隊」という意味の「スーサイド・スクワッド」が登場した。最初のメンバーは特殊能力を持たない普通の人間で、政府に属しながら恐竜や1つ目の巨人などの怪物らと戦う4人組であり、リーダーは軍人のリック=フラッグだった。しかし、物語が3巻続いたところでバットマンなどのスーパーヒーローたちの集団「ジャスティスリーグ・オブ・アメリカ」が登場したため、初代スーサイド・スクワッドはその活躍を終えた。
 それから時は過ぎて1986年。アメリカ政府機関所属のアマンダ=ウォラーにより、ヴィランたちに減刑を交換条件に危険な作戦をこなしてもらうという特殊部隊「タスク・フォースX」が創設され、現在の直接の原型となる2代目スーサイド・スクワッドが登場する。ここでもリックがリーダー役として返り咲き、彼らを導く存在となった。
 この時のメンバーは暗殺者デッドショット、『ザ・フラッシュ』シリーズの宿敵キャプテン・ブーメラン、多重人格で魔女のエンチャントレス、怪力のブロックバスター、格闘家にしてリック同様ヴィランのお目付け役として参加したブロンズ・タイガーだった。
 2代目スーサイド・スクワッドの任務はその名の通り死ぬほど過酷なもので、ブロックバスターが敵に殺されたり、今回の映画版にも登場するスリップノットなどのヴィランたちは逃げ出そうとして身体に装着した逃亡防止デバイスが爆発して死亡したりと、何人ものヴィランが命を落とした。それでも、それぞれの恩赦を目指す2代目スーサイド・スクワッドは、1992年まで66巻にも及ぶ活躍を見せた。
 その頃には50名を超えるキャラクターが登場し、かつてはバットガールだったバーバラ=ゴードンが車椅子に乗るコンピューターの達人「オラクル」として描かれたり、さらにはデッドショットなど何名かのヴィランたちはソロのスピンオフ作品が展開された。
 アクの強い悪人たちがひしめき合うチームとあって、個々の性格がぶつかり合ったり、愛憎劇がありつつも、表舞台のヒーローたちがこなせない裏の仕事を遂行してきた2代目スーサイド・スクワッドは、シリーズが終了しても他の DCコミックス作品にゲスト出演したり、第2シリーズや番外編が描かれたことで、その知名度を保ったまま活躍した。
 そして2011年。DCユニバースが再編された「THE NEW 52」シリーズにて、スーサイド・スクワッドが現代版として生まれ変わり、ここにハーレイ・クインが加わり3代目スーサイド・スクワッドの中心人物となった。他のメンバーはデッドショットにキャプテン・ブーメラン、キング・シャーク、エル・ディアブロ、ブラック・スパイダーなど。
 それ以降はアニメ化されたり、ドラマ『ヤング・スーパーマン』(2001~11年)や『アロー』(2012年~)にもゲスト出演している。特にデッドショットは、日本のアニメーションスタジオが製作した、映画『バットマン・ビギンズ』(2005年)と『ダークナイト』(2008年)の間の物語を描いている OVA作品『バットマン ゴッサムナイト』(2008年)にも登場している。


あらすじ
 スーパーマンが死去してからしばらく経った後、アメリカ政府の高官アマンダ=ウォラーはスーパーマンの後継者として、死刑や終身刑となって服役していた悪党たちを減刑と引き換えに率いる特殊部隊タスクフォースX、通称「スーサイド・スクワッド」を結成する。


主なキャスティング
フロイド=ロートン / デッドショット …… ウィル=スミス(47歳)
 百発百中のスナイパー。離婚した妻との間にゾーイという娘がいる。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるデッドショットがコミックに初登場したのは1950年であり、実写版としてはスミスが演じたデッドショットは3代目、映画初登場となる。

ハーリーン=クインゼル博士 / ハーレイ・クイン …… マーゴット=ロビー(26歳)
 ゴッサムシティの精神病院アーカム・アサイラムに勤める精神科医で穏やかな性格だったが、ジョーカーによって精神を歪められてサディスティック・殺人的・幼児的なサイコパスになり目的達成のためには手段を選ばない犯罪者となった。
 プロデューサーのリチャード=サックルは彼女のキャラクターについて、「楽しい人気者で、狂っている。彼女がしでかす様々なことを説明するのには形容詞が足りなくなる。」と述べた。演じたロビーは、ジョーカーとの関係については「恐ろしく機能不全な状態。文字通り、彼に関して狂っている。彼女は狂っていて彼のことを愛してる。本当に不健康で壊れた関係であるが、夢中になれる。」と語っている。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるハーレイ・クインが初登場したのは1992年放送のアニメ版であり、実写版としてはロビーが演じたハーレイは2代目、映画初登場となる。

ジョーカー …… ジャレッド=レト(44歳)
 『バットマン』シリーズのヴィラン。
 演じたレトは、キャラクターについて「シェイクスピアに近い」や「美しい災厄」と述べている。ジョーカーを演じることについて「深くのめりこんだ。他にないような機会だった。このような心理的なゲームをやるのは楽しかった一方、大きな苦痛も伴った。」と述べている。また監督のエアーはジョーカーの外見について、メキシコの麻薬カルテルのボスと、アレハンドロ=ホドロフスキー監督の作品から影響を受けている。身体に入っているタトゥーの数々は、監督の「ジョーカーに現代的なギャングスターのような外見を合わせる」という意図により加えられたものである。
 『バットマン』シリーズのヴィランであるジョーカーが初登場したのは1940年であり、実写版としてはレトが演じたジョーカーは5代目(?)、映画版は4人目となる。

リチャード=フラッグ / リック=フラッグ大佐 …… ジョエル=キナマン(36歳)
 スーサイド・スクワッドを指揮する軍人。当初はトム=ハーディがキャスティングされていたが、スケジュールが合わずに降板している。
 フラッグ大佐は初代『スーサイド・スクワッド』が連載開始された1959年から登場している。実写版としてはキナマンが演じたフラッグ大佐は2代目で、映画版初登場。

アマンダ=ウォラー …… ヴィオラ=デイヴィス(51歳)
 アメリカ政府の秘密組織 A.R.G.U.S.(アーガス)のトップで、「DCエクステンデッド・ユニバース」シリーズの前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)に登場したレックス=ルーサーJr.とは面識がある。
 エアー監督は彼女のキャラクターに満足しており、精神面と強靭さに関して「力強い黒人女性で丈夫、その気になれば即座に銃を手に取って人を撃つ」、「悪に対しては情け容赦ない。彼女の強みはその知性と罪悪感の欠落」と述べた。
 ウォラーは2代目『スーサイド・スクワッド』が連載開始された1986年から登場している。実写版としてはデイヴィスが演じたウォラーは3代目、映画初登場となる。

ディガー=ハークネス / キャプテン・ブーメラン …… ジェイ=コートニー(30歳)
 ブーメランを扱う犯罪者。強盗に及んでいたところをフラッシュに阻止され投獄された。演じたコートニーは、彼について「真にだらしない人間」と述べている。
 『ザ・フラッシュ』のヴィランであるキャプテン・ブーメランが初登場したのは1960年であり、実写版としてはコートニーが演じたブーメランは2代目で映画初登場となる。

チャト=サンタナ / エル・ディアブロ …… ジェイ=ヘルナンデス(38歳)
 ロサンゼルスギャングの元構成員。掌から炎を出す。妻と子供を失い、警察に自首した。
 演じたヘルナンデスは彼のキャラクターを他のメンバーとは違うようにしており、「他のメンバーが獄中から外へ出て殺しを楽しむ一方、彼は戦いから身を置いている。」と述べた。
 チャト=サンタナはコミック『エル・ディアブロ』シリーズ(1970年~)の主人公としては3代目(2008年~)であり、初のヴィラン的ヒーロー。実写版初登場である。

ウェイロン=ジョーンズ / キラー・クロック …… アドウェール=アキノエアグバエ(49歳)
 爬虫類のような肉体をしている犯罪者。演じたアキノエアグバエは彼について、「怒りに燃える人喰い人種」と述べた。
 『バットマン』のヴィランであるクロックが初登場したのは1983年であり、実写版初登場。ちなみに今作の公開までキラー・クロックがスーサイド・スクワッドに参加するという設定はコミック版ではなかった(公開に合わせたコミック版から参加)。

ジューン=ムーン博士 / エンチャントレス …… カーラ=デルヴィーニュ(24歳)
 長い間封印されていた古代の強力な魔女。探検家のジューン=ムーン博士によって偶然解放されてしまう。エンチャントレスは今作の設定ではスーサイド・スクワッドの正式メンバーには加入していなかったが、その強力な力がアマンダ=ウォラーの目を引いた。デルヴィーニュは彼女について「野性的」と述べた。
 1966年に連載開始された『エンチャントレス』シリーズの主人公であり、実写版初登場。コミック版『スーサイド・スクワッド』ではデッドショットらと同じく2代目スーサイド・スクワッド以来の古参メンバーとなっている。

クリストファー=ワイス / スリップノット …… アダム=ビーチ(44歳)
 縄を使う犯罪者。使っている縄はとても頑丈で、自らが開発した新素材のものである。また銛を付けた縄を発射する銃も持ち、それを利用して建物を上ることもできる。
 『ファイアストーム』のヴィランであるスリップノットが初登場したのは1984年であり、実写版初登場。

タツ・ヤマシロ / カタナ …… 福原 かれん(24歳)
 日本人の暗殺者で、カタナはコードネーム。師匠に剣術と格闘術を幼い時から習い、古代の流派において高い次元に達している。リック=フラッグのボディガードとしてスーサイド・スクワッドの中で唯一、志願して参加したメンバーである。
 『バットマン』のヴィランであるカタナが初登場したのは1983年であり、実写版としては福原が演じたカタナは2代目、映画初登場となる。ちなみに今作の公開までカタナがスーサイド・スクワッドに参加するという設定はコミック版ではなかった(公開に合わせたコミック版から参加)。

ブルース=ウェイン / バットマン …… ベン=アフレック(44歳)
 前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』までの20年間、相棒のロビンと共にゴッサムシティで自警活動を行っていたが、2005年にジョーカーにロビンを殺されている。
 1939年に連載開始された『バットマン』シリーズの主人公であり、実写版としてはアフレックが演じたバットマンは6代目(ウェインが幼い『ゴッサム』シリーズを除く)となる。

ジョニー=フロスト …… ジム=パラック(35歳)
 ジョーカーの腹心。
 コミック版のフロストは、『バットマン』シリーズからのスピンオフ作品『ジョーカー』(2008年)の主人公で、やはりジョーカーの手下である。

ゾーイ …… シェイリン=ピエールディクソン(13歳)
 デッドショットの娘。11歳。

グリッグス …… アイク=バリンホルツ(39歳)
 ベルレーヴ刑務所の看守長。

インキュバス …… アラン=シャノワーヌ(?歳)
 エンチャントレスの弟。姉と同様に封印されていた。
 コミック版ではエンチャントレスに弟はいないが、コミック版『スーサイド・スクワッド』にヴィランとして登場した悪魔インキュバスが今作でエンチャントレスの弟という設定で登場している。実写版初登場。


主なスタッフ
監督・脚本 …… デイヴィッド=エアー(48歳)
音楽    …… スティーヴン=プライス(39歳)
撮影    …… ローマン=ヴァシャノフ(35歳)



 観てきてしまいましたね~。わたくし仕事ではちょっと気が抜けない状況が今月いっぱい続くっていうのに、こんな思いっきり肩の力の抜けきった映画を観ちゃったよ! この前に観た映画が『シン・ゴジラ』なもんですから、落差ものすごいです。いや、どっちもエンタテインメントなんですからいいんですが。

 最初に言うと、私は市井のしがないジョーカーファン兼ハーレイ・クインファンであります。つまりは、あさ~いバットマンファンということになるわけですが、口が裂けても「DCユニバースファン」とまで言いきる自信はございません。
 なもんですから、1989年の『バットマン』以来「ノーラン3部作」まで映画はいちおう観てきましたが(もちろん1966年版もです)、今年の『バットマン vs スーパーマン』は観ておりません。『スーサイド・スクワッド』と直結してる前作なのに! それだけバットマン以外の DC系には興味がないということなんですな。だから多分、『スーサイド・スクワッド』の次にあるっていってた『ワンダーウーマン』なんか観るはずもないだろうし、来年の『ジャスティス・リーグ』もどうだか、みたいな。

 つまるところ、今回そんな私が『スーサイド・スクワッド』を観に行く気になった原動力は、ひとえに新キャスティングのジョーカーと悲願の映画初登場のハーレイ・クイン! このお2人でしかなかったということなのです。

 それで観てみたんだけど……まぁ~くだらない、くだらない! 強いて良く言えば「荒唐無稽」だけど! ばかばかしいったらありゃしない内容でした。

 だって、物語の中で発生した大事件っていうのが完全に、スカウトしたヴィランを管理しきれませんでしたっていうだけの政府の自爆なんだもの。さすがのデッドショットでも、そんな他人の尻拭いなんかやってらんねぇっつうの!
 頑張って倒れた人の人工呼吸をしただけなのにあっという間に殺されちゃった、あの地下鉄のお医者さんも浮かばれませんよ……

 人工呼吸といえば、なんだあの、アフレックバットマンの思わせぶりなハーレイとの接吻は!? 人工呼吸はちゃんとあごをクイッと上にあげて気道確保してからやれや!!


 話をジョーカーとハーレイだけに限定しちゃいますけど、まぁね、ハーレイが出てきたらジョーカーの質感が軽薄になるのは、それは当然の作用だと思います。それはもう、ロビンのいるのといないのとでバットマンの感じが変わるのと全く表裏一体、おんなじことでしょう。
 ところが、これは私の個人的な見解なんですが、「ジョーカーとハーレイの恋愛関係」というのは、あくまでもジョーカーが周到にハーレイに刷り込んだ幻影なのであって、ハーレイがそれをどこまで信じようが入れ上げようが、ジョーカー本人の真意はまったく不明、どっちかっていうとおもしろい手駒くらいにしか考えてないんじゃなかろうかと。おもしろくなくなったらいつでもポイできるっていうスタンスが最高だと思うんですよね。それでこそジョーカーっていうか。
 だから、今回あそこまでハーレイ奪還にこだわったのも「ヒマだったから。」ってくらいの動機で充分で、ハーレイがいなくて自室で悶々としてるジョーカーというシーンは全くいらないと強く思いました。
 ましてや、ジョーカーの部屋に何着かベビー服が置いてあるだなんて! それはねぇだろう!! ジョーカーに後継者はいらん。ジョーカーは何が嫌いって、自分の異形の孤独を慰め合うために同類と徒党を組むのがいちばん嫌いなのではないのでしょうか。だからこそロビンを殺しちゃってるわけで。まぁ、おもしろいからって理由で他のヴィランと一時的に手を組むことはあるにしても。

 なので、私はジョーカーとハーレイが共同でロビンを殺害したっていう今作の設定もどうかと思うんです。そこは「とっておきのお楽しみ」だったでしょうから、きっとジョーカー1人でやってたでしょう。
 だいたい、バットマンが1人なのに対してジョーカーとハーレイで2人っていうのも、な~んかアンバランスすぎるような。ロビン殺害っていうどうしようもない要因でダークになっているバットマンと闘うのが、まるでジョエル=シュマッカー監督の世界から飛び出してきたみたいな趣味の悪い原色やらヘビ皮パープルやらタトゥーだらけやらの能天気ヴィランカップルなんだもの。ロビンも草葉の陰で泣いてますよ!

 私は別に、ジョーカーがチャラかろうがタトゥーだらけだろうが特にかまいません。かまわないんですが、行動があんまりおもしろくないジョーカーっていうのは、どうかね……レト版ジョーカーって、今までの実写版ジョーカーの中でいちばん笑い方が乾いてるっていうか、「ハ、ハ、ハ、ハ。」っていう作り笑いが多いですよね。なんか、笑いについてのこだわりが歴代の中でいちばん薄そう。ヒース=レジャーのジョーカーも笑いは少なかったんですが、笑うときはここぞとばかりに心底大爆笑してたでしょ。それがないだけに、解釈のしようによってはレト版がいちばん「心の闇が深いジョーカー」ってことにもなるのかもしれませんが、なんかつまんないですよね。

 レトさんは、あの神がかり的な大傑作コミック『バットマン アーカム・アサイラム』(1989年)のジョーカーからインスピレーションを得て演じたっておっしゃられてるそうなんですけど、『アーカム・アサイラム』のジョーカーは最高におもしろいからなぁ。ちょっと、足元にも及ばない格の違いはあると感じました。だいたい、『アーカム・アサイラム』のジョーカーはハーレイ・クインなんていらないでしょ。バットマンにしか興味がないんだから。

 あと、レトさんは口が小さい! 笑わなくなると一瞬でハンサムなお兄ちゃんの素顔が透けて見えてしまうという気がしました。
 ジョーカーという大役を担う以上、それは尋常でない努力があったことはわかるのですが……そこに「怪物的な狂気」はなかったと思いました。ハーレイという「おもし」があるんだから、それは仕方ないことなんだけれど。結局、レトさんの真剣さと真面目さしか伝わってこなかったような。ジョーカーは本当に難しい~!

 あ、あと、この1点だけは、ジョーカーファンとしてとうてい見過ごせなかった!
 乗っ取った軍用ヘリで、ビルの屋上に出たスーサイド・スクワッドに強襲を仕掛けたシーンで、なんでタキシードに身を固めたジョーカーの前にミニガンをぶっぱなす腹心のジョニーが先に映るんだよう!! そこは最初にジョーカーが見えて一同ビックリが先だろう!

 これはわかってない。ジョーカー心をまるでわかってない見せ方だ! こんなこと、もしニコルソン版ジョーカーでやったらジョニーは即ズドンですよ。カーツだこりゃ!!

 でも、コミック版『ジョーカー』での苦労を振り返れば、あと今作での涙ぐましいまでに献身的な裏方っぷりをかんがみれば、これくらいの華舞台はジョニーに与えられても当然だったのかも……よかったね、ジョニー。ジョニー=フロストって、ほんとに平本アキラさんが好きそうな味わいのキャラクターですよね。


 この映画の構造的欠陥として、映画いちばんの呼び物となっている「新ジョーカー」が物語の本筋にあんまりからんでこないという点がよく言われるのですが、私は映画を観ていて、バトルが盛り上がるにつれてそれ以上に「ハーレイって……なんでスーサイド・スクワッドに呼ばれたんだろう?」というほうが気になって仕方ありませんでした。
 だって、いくら身体能力が優れてるっていっても所詮は若い女性だし、特殊能力もなければ特別頭がいいってわけでもないし、武器は木のバットだし……

 でも、ハーレイが出なきゃスーサイド・スクワッドも映画化されなかったんだろうし……人気って、なんなんでしょうね。その点について、古参メンバーのデッドショットさんやキャプテン・ブーメランさんのご意見をぜひとも伺いたいところです。エンチャントレスがあんなになっちゃったのって、完全にハーレイに立ち位置を取られてスネたからですよね。「ピンクあたしだったのに!」みたいな。

 あと、今作はスーサイド・スクワッドの義賊っぷりしか押し出されなくて「どこが悪役やねん」な感じが強かったわけですが、それはハーレイも同じことで、彼女が具体的にどんな悪人なのかがまるで語られないんですよね。ハーレイになった経緯とか収監中の奇行はひととおり描かれるんだけど、どんなことをしてバットマンにつけねらわれてるのかがさっぱりわかりませんでした。好きなひととデートしてるのがそんなに悪いんですか!? みたいなカーチェイスでしたよね。


 いろいろ言いましたけど、たぶんこの『スーサイド・スクワッド』って、『バットマン vs スーパーマン』と『ジャスティス・リーグ』との間の箸休めみたいなエピソードなんでしょ? だったら、このくらいの軽さでもいいんじゃないかなぁ。
 ともかく、私としてはハーレイ・クインのお姿が銀幕で拝めたからそれでひとまず満足なわけですが、うん、やっぱりできれば、1992年初登場時の全身道化師タイツの姿で活躍してほしかった! 私は今回のパンキッシュよりも「THE NEW52!」版のボンデージよりもゲーム版のゴスロリメイドよりも、やっぱり原点の道化師スタイルが一番好きなのです。実写化するにあたって布地の質感とかを失敗すると安っぽくなりかねないタイツであるわけですが、それこそシュマッカー風のラメラメの赤黒できめてほしかったなぁ。


 おもしろいジョーカーが、また観たいなぁ。キャメロン=モナハン君、映画でジョーカーやってくれ~!!

 ……それにしても、レトさんが44歳っていうのは、たまげました……ヒース版ジョーカーより一干支以上年上じゃねぇか! 若々しいっていうか、幼いっていうか……年齢不詳っていうのも、考えもんですね。
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ね、ねみー!! 不眠症にこの一作  ~映画『あさき夢みし』~

2016年03月26日 22時12分20秒 | ふつうじゃない映画
映画『あさき夢みし』(1974年10月公開 日本アート・シアター・ギルド 120分)

あらすじ
 時は鎌倉時代中期、文永十一(1274)年。
 由緒ある貴族の家に生まれた四条は、2歳の時に母・大納言典侍(だいなごんのすけ)を亡くすが、その母を乳母とし、かつ想いを寄せる「新枕のひと」とした上皇のもとで4歳の時から育てられ、美しい女性に成長した。
 14歳のとき、四条は他に想い人「霧の暁(西園寺)」がいるにもかかわらず、上皇の寵愛を受ける。院の子である皇子を産み、女房として院に仕え続けるが、霧の暁との関係も続く。ついに霧の暁との間に女児を産むが、上皇との子であるが死産したといつわり女児は西園寺家に引き取られる。ほぼ同じ頃、皇子が夭逝してしまう。
 その後も宮廷での愛欲や男たちに翻弄され続ける四条は、次第にその生き方にむなしさを覚え、諸行無常の心に傾斜していき、幼い頃よりあこがれていた西行法師のように生きたいと出家し、諸国を放浪する……


主なスタッフ
監督   …… 実相寺 昭雄(37歳)
原作   …… 久我 二条『とはずがたり』(14世紀前半成立)
脚本   …… 大岡 信(43歳)
撮影   …… 中堀 正夫(31歳)
美術   …… 池谷 仙克(34歳)
音楽   …… 広瀬 量平(34歳)
照明   …… 牛場 賢二(?歳)
舞踊振付 …… 西田 尭(49歳)
今様朗詠 …… 赤尾 三千子(25歳)

主なキャスティング
四条(原作の久我二条)   …… ジャネット 八田(21歳)
上皇(原作の後深草院)   …… 花ノ本 寿(35歳)
西園寺 実兼(霧の暁)   …… 寺田 農(31歳)
阿闍梨(原作の性助法親王) …… 岸田 森(35歳)
近衛の大殿(原作の鷹司兼平)…… 東野 孝彦(32歳)
上皇の母(原作の姞子皇太后)…… 丹阿弥 谷津子(50歳)
前斎宮(上皇の異母妹)   …… 三条 泰子(23歳)
厳島の遊女         …… 殿岡 ハツエ(36歳)
四条の侍女めい       …… 原 知佐子(38歳)
地方の豪族         …… 渡辺 文雄(45歳)
善正寺の大納言(四条の伯父)…… 小松 方正(48歳)
庶民の男          …… 篠田 三郎(25歳)
三条坊門の殿        …… 奥村 公延(44歳)
騎馬の武士         …… 平泉 成(30歳)
院御所の武士        …… 柴 俊夫(27歳)
平 二郎左衛門       …… 毒蝮 三太夫(38歳)
厳島の武士         …… 観世 栄夫(47歳)
藤原 為家         …… 三代目 古今亭 志ん朝(36歳)
語り            …… 清水 紘治(30歳)




《本文は……当分ない。》
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そんな姿勢の悪さで世界征服ができると思ってるのか!! ~映画『007 スペクター』~

2015年12月30日 23時07分56秒 | ふつうじゃない映画
 年の瀬だよ!! みなさまどうもこんばんは、そうだいでございます~。大掃除、無事に済みましたか?
 もう大みそかも目前なんですけれどもね、あったかいんですよ~山形市は。ぜんぜん雪が積もる様子もないんですよねぇ。ちらっちら降ってはいるんですけれども。まわりの人たちは雪かきの必要もないし寒くもないんでありがたいとか言ってるんですが、これじゃ気分がねぇ~。いまいち年末年始っていう感じがしないんだよなぁ。このまんま、三が日もサーっと過ぎてふつうの日々が始まるんでしょうか。楽しい連休は、ほんとにあっという間ですよね~。スムーズにお仕事モードに戻れるかな!? まぁ、大好きな温泉につかっていい感じにリフレッシュしていきましょう。


 さてさて、わたくしごとながら、自分としては今年2015年の映画の見納めは先日の『友だちのパパが好き』で決まり! という気分だったのですが、せっかくのお休みなんだし……ということで、パパッと車に乗って、山形市内の映画館でかねてから気になっていた1本を観ることにいたしました。なにげなく新聞に載ってたタイムスケジュールを見てみたらけっこう上映回が少なくなってたので、1月もたぶん正月明けから仕事で忙しくなるだろうし、今のうちにちゃっちゃと観てしまおう、ということで。

 そんなわけで、観てきたのはこちら。周辺もろもろの情報も併せてどうぞ。



映画『007 スペクター』(2015年12月日本公開 148分)

 『007 スペクター』は、イオン・プロダクション製作によるスパイ映画『007』シリーズの第24作。ジェイムズ=ボンド役は4度目の登板となるダニエル=クレイグ。
 制作費は2億4500万~3億ドルで、『007』シリーズでは史上最高となった。また148分という上映時間もシリーズ史上最長となった。

 『007』シリーズの映画化に当たり、「スペクター」という世界的犯罪組織の名称とそれに関係する登場キャラクターの使用権をめぐり、原作者のイアン=フレミング(1964年没)とプロデューサーで「スペクター」の原案者となったケヴィン=マクローリー(2006年没)との間で訴訟が発生した。それ以来、スペクターの使用権は007シリーズにおける懸案となる。この訴訟が原因で、シリーズ第7作『ダイヤモンドは永遠に』(1971年)以降、スペクターはシリーズに登場しなくなっていた。ただし、明言はされなかったもののスペクター首領とおぼしきキャラクターが冒頭のアクションシーンに登場したシリーズ第12作『ユア・アイズ・オンリー』(1981年)や、ワーナーブラザーズで製作された番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983年)の中でスペクターや関係キャラクターは登場している。
 2013年11月、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)およびイオン・プロダクションはマクローリーの遺族と和解し、スペクターとそれに関連する登場キャラクターの使用権を購入した。

 シリーズ恒例のガンバレル・シークエンスが、シリーズ第20作『ダイ・アナザー・デイ』(2002年)以来13年ぶり、ダニエル=クレイグがボンドを演じてからは初めて冒頭に登場する(シークエンス自体はクレイグ版ではオープニングテーマ直前のアクションやエンディングで登場していた)。
 本作の中盤のクライマックスであるスペクターの秘密基地の爆破シーンには大量の燃料と火薬が用いられ、「映画史上最大の爆破シーン」としてギネス世界記録に認定された。

 ダニエル=クレイグがボンドを演じたシリーズ第21作『カジノ・ロワイヤル』(2006年)、第22作『慰めの報酬』(2008年)、第23作『スカイフォール』(2012年)の全てが密接にリンクしたストーリーとなっており、オープニング映像にもそれまでの悪役たちや重要なボンドガールだったヴェスバー=リンド(演・エヴァ=グリーン)、前任のM(演・ジュディ=デンチ)が登場している。
 中盤での爆発シーン以降のオーベルハウザーの右目の傷は、シリーズ第5作『007は二度死ぬ』(1967年)で初めて顔出しで登場したスペクター首領ブロフェルド(演・ドナルド=プレザンス)の顔の傷跡を意識したものと思われる。


主なスタッフ
監督 …… サム=メンデス(50歳)
脚本 …… ジョン=ローガン(54歳)、ニール=パーヴィス(54歳)、ロバート=ウェイド(53歳)、ジェズ=バターワース(46歳)
製作 …… バーバラ=ブロッコリ(55歳)、マイケル=G=ウィルソン(73歳)
音楽 …… トーマス=ニューマン(60歳)
撮影 …… ホイテ=ヴァン=ホイテマ(44歳)
製作 …… イオン・プロダクション

主なキャスティング
ジェイムズ=ボンド     …… ダニエル=クレイグ(47歳)
フランツ=オーベルハウザー …… クリストフ=ヴァルツ(59歳)
マドレーヌ=スワン     …… レア=セドゥ(30歳)
M             …… レイフ=ファインズ(53歳)
ルチア=スキアラ      …… モニカ=ベルッチ(51歳)
Q             …… ベン=ウィショー(35歳)
Ms.マネーペニー      …… ナオミ=ハリス(39歳)
Mr.ヒンクス        …… デイヴィッド=バウティスタ(46歳)
マックス=デンビー     …… アンドリュー=スコット(39歳)
ビル=タナー        …… ロリー=キニア(37歳)
Mr.ホワイト        …… イェスパー=クリステンセン(67歳)


《歳末特別ふろく》悪の華!! 歴代ブロフェルド俳優一覧
ほんとの初代 …… アンソニー=ドーソン(当時47~49歳 1992年没)シリーズ第2・4作に登場
 ※ただし顔はまったく映されず、声も別の俳優があてていた
顔出し初代  …… ドナルド=プレザンス(当時47歳 1995年没)シリーズ第5作に登場
2代目    …… テリー=サヴァラス(当時47歳 1994年没)シリーズ第6作に登場
3代目    …… チャールズ=グレイ(当時43歳 2000年没)シリーズ第7作に登場 キャ~、マイクロフト!!
4代目    …… ジョン=ホリス(?歳)シリーズ第12作に登場
 ※ただし容姿が酷似しているだけで、この人物がブロフェルドだと明言はされておらず、声も別の俳優があてている
5代目    …… マックス=フォン=シドー(当時54歳)番外編『ネバーセイ・ネバーアゲイン』に登場
6代目    …… クリストフ=ヴァルツ(59歳)シリーズ第24作に登場

ついでなんでこっちも
Dr.イーヴル …… マイク=マイヤーズ(当時34~39歳)『オースティン・パワーズ』シリーズ3作に登場
ハリウッドで Dr.イーヴルを演じてた俳優さん …… ケヴィン=スペイシー(当時43歳)シリーズ第3作に特別出演



 はい、なにはなくとも007ですね~! これはやっぱり、スクリーンで観ておかなきゃならなかった。
 もう1本、今は『スター・ウォーズ』シリーズの最新作というどでかい大作も公開されているんですが、こっちはまぁもうしばらくは上映してるだろうし、私たしかに『スター・ウォーズ』も大好きなんですけど、いちばん好きなキャラクターがグランドモフ・ターキン(エピソード4でご殉職)というていたらくなので、いまひとつ観に行こうという気にならないんですよね。観ればおもしろいだろうってことはわかってるんですが、最後の一歩が出ないんだよなぁ。

 それに対して、なんてったってあなた、今回の007は『スペクター』ですよ、『スペクター』!! 007シリーズ最大の巨悪組織が、公式シリーズとしては約半世紀の時を経て大復活ときたもんだ! これは見逃すわけにはいきませんよねぇ。
 3年前に公開された前作『スカイフォール』を観た際にも、私は次回作でスペクターが復活したらいいのになぁ、なんてことをつぶやいていたのですが、それがほんとに実現するなんて! 今年の初めくらいに映画館で「スペクター」っていうサブタイトルがでかでかと掲げられたポスターを見たときはもう、うれしくてうれしくて。大傑作『スカイフォール』の高みに達したクレイグ・ボンドが、リニューアルされた21世紀版スペクターといったいどのような因縁の激闘を繰り広げるのか、楽しみで楽しみで仕方なかったわけなのです。
 そりゃもう、『仮面ライダー』シリーズの悪の世界的秘密組織ショッカーの先輩にあたるスペクターさまなんですから、興奮するなというほうが無理な話なのでありまして! ワクワクしますね~。

 ただ、東西冷戦もすでになく、前世紀ほどに大国が大国らしい隆盛を誇っているわけでもない、国と国との個々の権謀術数がうずまくシビアな21世紀、「世界で起きる大犯罪のほとんどを陰で操る謎の組織」というはったり設定に果たしていかほどの説得力があるのか……それはやっぱり、007シリーズが荒唐無稽な娯楽映画だったコネリー~ムーア・ボンド時代にこそ活きていた過去の遺物なのではないか? それをどうしてまた、よりにもよって「ボンドらしからぬ硬派さを魅力とする」クレイグ・ボンドで復活させるのか!? そこらへんの不安はぬぐえなくもないわけですよね。

 ムチャクチャな例えであることを承知の上で言わせていただきますと、私はこの「007シリーズにおけるスペクター」という存在は、「ゴジラシリーズにおけるミニラとかベビーゴジラ」なんじゃないかと思うんですね。
 つまり、スペクターは確かに黄金期の007シリーズを語るうえで欠かせない要素であることは間違いないんですが、決して007シリーズのファン全員がスペクターの復活を望んでいるわけではないと思うんです。むしろ、スペクターのいかにもなウソくささが嫌いというファンの方も多いでしょうし、そもそもスペクターなんかまったく出てこない007シリーズばかりを観て育ったファンのほうが多いかもしれないわけで。作品ごとにボンドガールと並ぶ話題になるゲストラスボスだって、そりゃまぁリアリティを重視しすぎてキャラクターとしてのスケールまでもが小さくなってしまうのは問題外でしょうが、それこそ『スカイフォール』のハビエル=バルデムさんみたいに、ピンでも光っていれば十二分におもしろいわけなのです。いまさら、それに加えて「すべての糸を裏から引いていた真のラスボス」が出てきたってなぁ……という「およびじゃない感」はあるのではないのでしょうか。

 ましてや、繰り返しになりますがボンドがクレイグさんなんですから! なんか、ブロスナン・ボンド時代だったらいいけどみたいな感じ、しません!? しつこくゴジラシリーズに例えるならば、『大怪獣総攻撃』(2001年)の白目ゴジラにミニラがついてくるようなもんでしょ! 大丈夫かな~って気にもなりますよね。おもしろそうだけど。

 ただ、ブロスナン・ボンドのように過去のほとんどの設定をそっくり「もうあるもの」として引き継いだのではなく、そもそもジェイムズ=ボンドという男がスパイ007号となるいきさつから丹精込めて語り直し、「M」「Q」「Ms.マネーペニー」といったレギュラーキャラクターさえもいちからリブートして築き上げてきたクレイグ・ボンドシリーズとしては、やっぱりスペクターに挑戦しないわけにはいかなかったという、「今やらずにいつやる!?」という機運はあったのではないでしょうか。だからこその、満を持しての権利購入だったのだろうし。その覚悟は買わなくてはなりません。


 さぁ、ほんでもってドキドキしながら拝見した今作だったのですが、その出来栄えはというと?

 文句なくおもしろかった!! しかし、どうしてもそのアタマに「ふつうに」という文句がついてしまう……


 ふつうにおもしろかったです。いや、それでいいと言ってしまえばそこまでなんですが、哀しいかなあの『スカイフォール』の次という順番になってしまうと、そこはかとなくただよってしまう「あぁ、まぁがんばったよね。」な空気! これだから大傑作のあとの作品はつらいですよねぇ。『ダークナイト・ライゼズ』と同じ道をあゆんでしまった感がハンパありません。

 いや、でもおもしろさは請け合いだったわけですよ! むしろ今までのどのクレイグ・ボンド作品よりも、開き直ったような大胆さで007シリーズとしての「王道」回帰を果たしたぶん、肩ひじ張らずにのんびり楽しむ娯楽映画としてのサービス感は上がっていたと感じました。
 さむ~いオーストリアからあつ~いモロッコまで、世界を股にかける007の大活躍! といっても、そう考えてみると今回はけっこう狭めな範囲のご旅行でアジアにはいっさい用がなかったわけなんですが、それでも一面の銀世界から熱風うずまく砂漠地帯へという色彩のリズムは、まさにスパイ大作映画の醍醐味を存分に味わえましたね。
 そして、なんといってもボンドカーをはじめとする数多くの秘密兵器の活躍、Qやマネーペニーとのコミカルなかけ合い、気合の入りまくった冒頭のヘリアクション、スペクターのはなったスゴ腕の殺し屋ヒンクスの猛追、おしゃれな豪華客車の中での死闘、そして敵の秘密基地のギネス級の大爆発といった見せ場の連続は、いよいよ本格的にクレイグ・ボンドが007らしくなってきたという高揚感があって、「いいぞ~、もっとやれ!」と拍手したくなるテンションの高さに満ちていたわけです。

 ただ! まぁ~、その。

 そういった「観て損はしないよ!」という大前提を置いたうえで言わせていただくのですが、決して「こまやかに作り込まれた作品」ではないと思うのね。

 だって、もはや「ツッコミ待ちなの?」としか思えないストーリー上のヘンなポイント、そこかしこにあったでしょ?

1、ボンドさん、なぜ爆薬が入っているに決まっているアタッシュケースを撃つ!?
2、前任のMさん、なぜ「殺し屋スキアラを殺して葬儀に行け」と言う!? 「スキアラに吐かせろ」じゃダメなの!?
3、スキアラの未亡人ルチアさん、そこでフェイドアウト!? ふつうに助かったの!?
4、ボンドさん、なぜ監視カメラのある場所で堂々と Mr.ホワイトと会話する!? とりあえずその家から出たら!?
5、スペクター、なぜ構成員の指輪ふぜいに組織の超重要機密をインプットさせる!? 本人認証だけでいいだろ!
6、モロッコの豪華客車、なぜあれほどハデに車内がぶっこわれたのに平常運行でボンドたちを駅に降ろす!? 終点駅で「あの人たち降ろしちゃいました~。」じゃ済まねぇだろ! バイトか!?
7、首領、Mr.ホワイトに住所特定されたに決まってるモロッコの秘密基地になぜ住み続ける!? 引っ越せ!
8、ボンドさん、炎上してる秘密基地からいかにも意味ありげな黒塗りの車が脱出してるよ!! それほっといてイギリスに帰国してませんか!?
9、ボンドさん、ルチアさんはさっさとよそに保護させてマドレーヌはずっと自分に同行させるって、扱いの差が露骨すぎやしませんか!? マドレーヌ、オーストリアで別れてもよかったよね!?

 私は別に、ツッコミどころを目を皿のようにして探しながら観てたわけではないんですよ。それなのに、1回サーっと観ただけでこんなに挙がるわけなのよ! こりゃもう確信犯だろ。確信犯的に、行きあたりばったりで荒唐無稽なジェットコースタームービーに仕上げているわけなんですな。もう、理屈はとりあえず後にして、展開が盛り上がるから爆薬が爆発して、画的にいいから美女がボンドについていくという感じなんですよね。
 まぁ、ポイント9のおかげでボンドが助かったとか、ポイント5がなけりゃ話が先に進まないということでもあるんですが、なんか、それまでのクレイグ・ボンドシリーズとは人が違ったかのような雑さですよね。と同時に、ポイント3のミョ~な甘さがやけに気になります。ルチアさん、『スカイフォール』だったら絶対に死んでたでしょ!? なんであんなワンポイントリリーフだったんだろ。やっぱおばちゃんじゃダメなのか!?

 あと、どうでもいいんだけどマドレーヌさん、あのタイミングで「あぶなっかしくてしょうがないから、帰る……」って言う!? なぜいまさら!? AB型か、あんた!?

 ただ、そりゃ勧善懲悪でハッピーエンドの約束された娯楽映画なんですから、主人公に都合のいいように展開しなければ仕方ないのであります。つまり、枝葉は多少アレだったのだとしても、作品の根幹である「ボンドと巨悪との対決」! そこの「巨悪」という部分に十分な恐ろしさというか、正義のスーパーヒーローに伍する悪の魅力がきいていたら、すべてはオーライになるのだ!! さぁどうだ、新しいスペクター首領はどうなんだ!?

 う~ん……ダメなんじゃない!?


 国際的犯罪組織スペクターと、その首領の恐ろしさというところが、今作ではあんまりわかんなかったです。

 つまるところ、あれだけ不死身でパワフルなボンドの宿敵たるスペクター首領の「恐ろしさ」というのは、首領の腕っぷしじゃないですよね。あれだけの世界的組織を統帥する知力と財力と人心掌握術であるわけです。
 ということは、なんだかわかんない私怨にとり憑かれてボンドの前に生身の自分をさらした時点で、首領はもうかなりのご乱心ですよね。周囲の部下にしたら、「そんなお遊びはやめてさっさと殺しちゃってくださいよ、危ないから!」というアドバンテージに次ぐアドバンテージをボンドに譲った末に、余裕しゃくしゃくでボンドに会ってやってるわけですよね。殺そうと思ったらローマの秘密会議の席で殺せたはずなのに、なぜかあえて自分の顔を見せた上で逃しちゃう。

 ここまで首領がボンドにこだわる理由って、かつての20世紀シリーズでは、まぁそれは原作小説と映画化作品との製作上の複雑な事情があったにしても第1・2・4作で自分の考えた大犯罪や有能な部下たちが次々とボンドの手にかかってしまったから、という贅沢すぎる助走があったわけです。つまり、満を持して第5作でついに首領おんみずからが! という積年の恨みを込めての真打登場感があったのでしょう。
 その点に関しては『スペクター』も、『カジノ・ロワイヤル』~『スカイフォール』の裏にはスペクターが! という事実を明らかにしてはいるのですが、「スペクター」っていう名前が出てくるのは今作からだもんねぇ。後付けですよね。

 組織の存在が明らかになるやいなやのラスボス登場だもんなぁ。なんかもったいないというか、まだまだ組織も余力がいっぱいあるはずなのに、なんでそんなに首領が危ない橋を渡り続けるの? みたいなわけのわからない焦燥感があるんですよね。
 誰か、スペクターの中であの首領の暴走を止めようとする忠義の臣はいなかったのだろうか……モロッコの秘密基地とかで首領のそばに仕えていたメガネくんは完全にイエスマンですよね。たぶん、本人も「こいつ大丈夫か……」とため息まじりで付き合っていたのでしょう。それで最期はああだもんなぁ。悪の組織づとめは、今も昔もむくわれねぇよなぁ。

 もちろん、そこらへんの「ボンドと首領の因縁」という部分を強化するために、今作オリジナルの「若き日のボンドと首領」といった関係がほのめかされるわけなのですが、なんか、それにこだわってるのは首領だけで、ボンドは「いや、忘れてたわ。」みたいな距離感があんのよね! 「死んだの、おまえの親父だし。」というボンドの冷めきったまなざし! もしかしたら、首領はモロッコの秘密基地でボンドに会ってしばらく話してるうちに「あれ……そんなテンションの低さ?」と思ってたのかも。とっておきの土産話を持ったつもりで友だちと久しぶりに会ったときに、よくある風景ですよね!

 あと、マドレーヌにわざと父である Mr.ホワイトの死の映像を見せるときも、ぬるいよなぁ~!!

 あれ、天下のスペクターの首領さまなんだから、なんで映像をいじくって途中から「ボンドが Mr.ホワイトを射殺するウソウソ映像」に差し替えなかったの!? そんな、悪の組織の首領としてなら初歩の初歩の心理攻撃もしないんだもんなぁ~! 甘いっていうか、あんた悪人としての自覚に欠けてるよ!! 『ウルトラマンA』の異次元人ヤプールのうすぎたなさをみならってほしいよねぇ! まぁ、ヤプールもなぜか土壇場になってウルトラマンエースを自分の家に招いて取っ組み合いのけんかで勝敗を決めるというスポーツマンシップを見せたおかげで大負けしたんですけど。


 とまぁつらつら言いましたけど、まとめると私はこの『007 スペクター』も十二分に楽しめましたし、首領を演じたヴァルツさんも、俳優さんとしては別になんの文句もありません。

 ただ! この作品で首領があそこまでひどい目に遭うのは、いかにも時期尚早ですよ。せっかく数十年ぶりに復活させたスペクターなんですから、ここは大事に扱って、せいぜい首領はローマの秘密会議での登場どまりにしといて、直接対決は次回作以降という腰の据え方にしといたほうが断然よかったと思うんだよなぁ。それこそ、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』くらいの出番の少なさでいいじゃないかと!

 なんか、クレイグ・ボンドはこれがラストかも、なんていううわさもあるんですが、また改めてスペクターと再戦してほしいなぁ。いい味だしてた殺し屋ヒンクスも直接死んだという描写はなかったし。
 ほんと、「あのダメダメ首領は替え玉でした!」っていう仕切り直しで、次回を期待したいです。クレイグさんもやっと47歳。57歳までボンドやってた先輩もいるんだもの、もちっとがんばっていただきたいです!


 ほんと、悪の組織の首領は、座ってるだけでいいのよ……現場にしゃしゃり出ちゃダメ! スペクターには、『オースティン・パワーズ』のナンバー2のような誠意ある人材が必要だ!!
コメント
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