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全国城めぐり宣言 第32回 「山城国 東山霊山城」資料編

2017年01月24日 21時13分02秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 東山霊山城 とは

 東山霊山城(ひがしやまりょうぜんじょう)とは、山城国愛宕郡(現・京都市東山区清閑寺霊山町)にある霊山(標高176m)に築かれた、戦国時代の山城である。
 室町幕府第13代将軍・足利義輝によって天文二十一(1552)年に築城が開始され、翌二十二(1553)年には陥落し、廃城となったと考えられる。16世紀には東山に足利将軍家や細川管領家が、将軍山城(1520年築城)や中尾城(1549年築城)のように山城を築くことが多くなり、霊山城もその系譜に属している。
 東山霊山城の存在した霊山は、東山三十六峰の一つであり、周辺には京都霊山護国神社や臨済宗高台寺、北法相宗清水寺などが位置している。霊山の中腹には正法寺が存在している。

 天文十七(1548)年、管領・細川晴元に反旗を翻した三好長慶は、翌天文十八(1549)年の江口合戦の勝利によって入京を果たし、晴元、将軍・義輝とその父で先代将軍の義晴らは近江国坂本へ亡命した。その後、義晴・義輝父子は京奪回を期し、天文十九(1550)年に中尾城、将軍山城を築城・改修した(義晴は同年五月に死去)。しかし同年十一月、京に入った三好長慶の兵4万を前に、義輝軍は一戦も交えずに坂本へ撤退し、これらの城は自焼没落あるいは三好家の城割りによって破却された。その後も将軍・義輝と三好家の争いが続いたが、天文二十一(1552)年一月に義輝と長慶の間で和睦が成立し、十月二十七日に霊山城の築城が開始されることとなる。これは、義輝と長慶は和睦したものの、京奪還を狙う管領・細川晴元らの脅威がまだ存在していたためである。

 果たして霊山城の築城開始から1ヶ月後の十一月二十七日、管領・晴元が西岡に現れ周辺を放火し、嵯峨に着陣した。その際に、三好家の小泉秀清および中路修理らは西院城を自焼して霊山城に合流した。翌二十八日、管領・晴元は霊山城に向けて進軍した。晴元は五条坂を焼き払い、建仁寺も炎上したが、清水坂合戦で敗れたために霊山城を攻撃することはできず撤退した。

 その後も霊山城の築城は継続されたが、天文二十一(1552)年十二月、一部の幕臣が管領・晴元に内通して長慶を排除しようと画策し、翌天文二十二(1553)年二月になると彼らの手引きにより晴元が京の西北に進軍したため、長慶が問題解決のため将軍・義輝に内通者のいる奉公衆から人質を要求したことが、義輝の怒りに触れた。これによって義輝と長慶は再び敵対することとなり、三月八日、義輝は霊山城に入った。
 七月、長慶に叛いた芥川孫十郎の籠る摂津国芥川山城を長慶が攻めていた際、二十八日に管領・晴元が丹波国から軍勢を率いて侵攻し、三好家の小泉秀清が守る西院城周辺に放火した。二十九日にも西院付近で小規模な戦闘が行われ、将軍・義輝も晴元と手を組んだ。三十日に義輝が北野の右近馬場に布陣し、幕臣・内藤彦七の兵3000~4000人が三好家の西院城を包囲したが陥落させることはできなかった。
 一転、八月一日の早朝に長慶が兵2万5000を率いて上洛した。義輝は船岡山に移動し、霊山城は幕府奉行人・松田監物、醍醐寺三宝院衆(寺領をめぐって三好家と対立していた)、近江国山中村の土豪・磯谷氏が守備に当たった。
 三好軍からは家臣・今村慶満の軍勢が霊山城を攻めた。今村慶満は霊山城付近の渋谷越の流通を基盤としており、現地の地理に知悉していた。戦闘の結果、霊山城を守る松田監物は自害し、城には火の手が上がり陥落した。
 翌二日に三好軍が船岡山に迫ったため、将軍・義輝は長坂越を経由し五日に丹波国山国荘を通過して近江国龍花に到着、その後朽木へ向かった。霊山城陥落によって、将軍・義輝は5年間にわたり朽木に幽居した。

 霊山城の遺構としては、霊山の山頂を中心に東、西、南の三方向に曲輪が展開し、東側に2ヶ所、南側に1ヶ所の堀切が現在も確認できる。東側のハイキングコース「京都一周トレイル」から城跡に入ることができる。正法寺、高台寺、興正寺、清水寺などの周辺寺院の影響によって遺構の少なくない部分が破壊されている。なお、西側の曲輪には「春畝伊藤公(伊藤博文)遺詩碑」という石碑がある。

最寄り駅 …… 京阪本線清水五条駅(京都市東山区五条大橋東詰)
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