晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

山本一力 『かんじき飛脚』

2012-08-19 | 日本人作家 や
この『かんじき飛脚』の時代は天明九(1789)年、この年、年号は
寛政に変わります。有名な「寛政の改革」ですね。
この前に、浅間山の噴火で大飢饉が起こり、一揆、打ち壊しなどが全国
で多発、さらに公儀(江戸幕府)内では賄賂などが横行していて、もう
しっちゃかめっちゃかな状態で、その戦犯とされたのが田沼意次だった
のですが、後世の研究では、そんなに悪い人ではなかった(吉良上野介
もそうですね)との見方もあるそうですが。

まあそれはさておき、老中に就任した松平定信は、さっそく「棄捐令」
を発布。これは山本一力の小説でたびたび登場しますが、当時の金貸し
だった札差という、米を担保にして武家にお金を貸す商売だったのです
が、これが武家の大借金という悩みのタネになり、いわばその借金を
「チャラにしてやる」という法令。
しかし、これによって札差たちはそれまでの大金ばら撒きといった生活
を控えるようになりますが、じつは江戸の経済の末端を支えていた札差
たちの豪気な振る舞いが無くなったことで、庶民の生活が苦しくなるこ
とに。

はじめこそ拍手喝采だった改革も、ふたをあけてみれば前より酷い生活
になるとは・・・ここで庶民の、また各藩が幕府に怒りの矛先を向けたら
たまったもんではありません。

定信は、「御庭番」という、幕府の隠密軍団を利用して、大きくて影響力
の強いふたつの藩の謀反をでっち上げようと画策します。そのふたつとは
加賀藩と土佐藩。

前置きが長くなりましたが、ここからが『かんじき飛脚』の物語となります。

藩は「人質」として藩主の内室(奥さん)を江戸に住まわせていて、たまたま
加賀と土佐の内室が病に臥せっていることを知った定信は、なんと年明けに
夫婦同伴で宴会のお誘いをするのです。

これは何か裏があると、加賀藩江戸詰用人の庄田要之助は、懇意にしている
土佐藩の江戸留守居役、森勘左衛門と密会することに。

もし、宴会に内室が同伴できなければ、たちまち公儀から謂れのない嫌疑
をかけられ、最悪の場合は藩の取り潰しとなります。

絶対に表に漏れてないはずの内室の重い病気がどうやって公儀に知られたのか・・・
上屋敷にスパイがいるに違いないと探します。

一方、それはそれとして、幕府からのお誘いは断れず、なんとか内室の病気を
治さなければならないとして、加賀藩に伝わる特効薬(密丸)を急いで江戸へ
運ぶため、加賀の飛脚屋「浅田屋」は、江戸支店と加賀本店とで連携プレーを
駆使して、年末いっぱいに密丸を飛脚によって運ぶことに。

金沢から江戸まで、夏場なら5日、冬なら7日というスーパーマン集団の浅田屋の
飛脚。
しかし、時は師走、日本海側から中仙道あたりは大雪で、しかも途中には「親不知
・子不知」があるのです。

富山県の魚津と糸魚川の間にある、崖のへりに狭い道幅で、上からは風が吹き降りて
きて、下からは大波が襲う、落ちたら一巻の終わりという危険極まりない場所。

しかし、飛脚には危険はそれだけではありません。密丸の存在を知っている定信は、
何としてでも薬を江戸に持ってこさせないように、刺客を送り込み・・・

この飛脚たちの仕事にかけるプライド、彼らの背景など、読んでいくうちにどんどん
引き込まれていって、ページをめくる手が止まりません。

トラックに飛脚のマークをあしらった、現代の某宅配業者の配達が酷いというのがネット
上で話題になってたりしますが、彼らにこの本を「教科書」として研修時に読ませれば
いいのになあ、なんて。
コメント
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