西郷小学校のとなりに、淡路信用金庫があるのはご存知ですか?淡路島では「淡信(だんしん)」といってなじみの銀行ですが、
なんでこんなローカルな金融機関がこの灘区にあるのか?
こんなことを聞いたことがあります。二号線から下の、とくに新在家南まちあたりには淡路出身の人がおおいって、、
それらとは関係あるのかないのかわかりませんが、43号線から南の地域には職人さんが多いのです。
最近往診にいきだした方もブリキ職人だとか、、、木型の会社もあるよね
六甲道診療所の玄関にはステンドグラスがはまっています。
ガラスにそれらしき塗装をしただけのものではなく、それぞれの間を鉛でつないでいる本格的なものです。
数少ないステンドグラス職人の組合員さんが名乗りをあげていただいた、ありがたい作品なのです。
それがあとでいうFさんの旦那さんで、「○○で5本の指にはいる職人」といわれていたのを思い出しますが、、
どれだけのお方だったのでしょう?
震災で全壊の赤札がはられた診療所の玄関は風除室の枠組みもふにゃふにゃにひんまがってしまっており、
両脇の分厚い広いガラス部分も粉々でした。
余談ですが、虹から鳩がとびたつ医療生協のイラストをガラスにはったのはだいぶあとの話だったと思うのですが、、自信なし。
入り放題の真っ暗な診療所は数日後に、半地下喫茶店(夜はスナックですが)に神大生協の職員の男手にてつだってもらって、
カルテなど運び出し、さらにそのあとに、「卓球場」としてつかっていた
人間ドックをうけていただいてたYさんとこに引っ越しました。
鉄筋むき出しになった柱が2-3階部分で損傷が大きかった今のビルは、
半年かけて、ギャッジアップ、
そして、奥の更衣室にある柱には10センチ厚の鉄板の袴をはかせて、補強工事がすすみました。
実は今にして思えば、鉛でつなぎ合わせているので、外力がかかっても、しなやかさゆえに、
ガラスの損傷はさけれるのでしょうか?さすがに、風除室の構造とおなじようにステンドグラスも
すくなからず損傷をうけていたとおもうのですが(ちゃんときいてなかったなな)、
このビルの改修工事(なぜか、都市計画で、このビルととなりのパチンコ屋さん、
そして山側のもう一つのパチンコ屋さん、、今はキコーナですが前身はバグジーだけが、
はずされて、取り壊しにはならずに済んだ、、不思議ちゃん)の際に、
ステンドグラスを、いったんFさんに保管してもらったんでしょうね。
これまた、Fさんにちゃんときいたことがなかったのです。
半年後に今の場所にもどってきて
もともと、その震災の前は、福島にいってしまった小児科のDrや愛媛に帰って行った内科Drなど
複数医師でやってた時期が2年ほどあって、いろいろあって、1人でがんばろうとしていた矢先の震災でした。
がその、ステンドグラス職人Fさんが脳梗塞になってからは、訪問診療で伺うようになり、
長いお付き合い。その奥さんは、脳梗塞になった旦那さんの指導や、設計図などを受け継いで、
なんとか見様見真似だったのか、なんとか注文をうけて仕事もされていたように記憶しています。
家の3階に作業場があり、ご近所の方を招いて、「教室」みたいなこともしていて、そこに参加していましたね。
そのころは、まだ、自分にも余裕があったのか、
岡山の現代玩具博物館の西田明夫さんのからくりおもちゃ教室に毎月通って、「田舎の日曜日」という、
これ以上ないといえるペンションに宿泊して、組木の小黒せんせいにも教えてもらったりでしたもんで、
つい、ものづくり癖で、往診の時にステンドグラスの話になって、お父さんは1階に臥床。奥さんに3階、
ガラスカットの練習を土曜日の午後に体験させてもらいました。
なんか、小黒先生の糸のこでの組み木みたいな感じで、ダイヤモンドカッターというのが正しいのかわかりませんが、
ダイヤのボールペンみたいなもので、
図面のように、ガラスをひっかいて、あとでペンチで挟んで力をくわえると、
その線のように、うまく割れたら成功!
帰りには、お父さんの指示により、ガラスの辺縁をなめらかにするためでしょうか?
電動の「グラインダー」や繋ぎの鉛、
そして、鉛を溶かす「はんだごて」までプレゼントしていただきました。
練習用のガラスもいただいて、お山におさまっていますが
、最近、木工もできていないうえに、ガラス細工にまで手がまわらない日々をすごすことになりました。
脳梗塞のFさんは長らくの在宅療養のすえに、在宅みとりとなりました。その時も、脳梗塞でながかったとはいえ、状態がわるくなったのは、わりと、あれよあれよの数日の話でした。
そのあとの奥さん、F、Fさんはいろいろ病気はしながらも、地域の活動など、やるひとがおらんのや、、とぼやきながら、診療所ではどうしようもない、病気になってしまい、その検査と治療で消耗していたと思います。
足腰がよわってきたなあと、思いながらも、ついこの間もなんとか歩いて、診療所にはいってきて、いつもの注射もして、、とおもっていたのですが、
同居していない娘さんからも、もうあかんのちゃう?とおもわれていたようですが、この数日、足腰がたたない、まともにたべれない、、、もともと、この家で死にたい、どこにもいきたくないといって、、、でも、もっと早く定期往診対象に組み込んでいけたらよかったなあと思うのですが、、六甲道からの往診きてもらおうかと娘さんがきいても、まだええ、といわれて、いたそうです。
電話がかかってきたのは、金曜日のもう終了してしまっています。お疲れ のあと、かえってから、およびだし
さみしくなりました。
なんでこんなローカルな金融機関がこの灘区にあるのか?
こんなことを聞いたことがあります。二号線から下の、とくに新在家南まちあたりには淡路出身の人がおおいって、、
それらとは関係あるのかないのかわかりませんが、43号線から南の地域には職人さんが多いのです。
最近往診にいきだした方もブリキ職人だとか、、、木型の会社もあるよね
六甲道診療所の玄関にはステンドグラスがはまっています。
ガラスにそれらしき塗装をしただけのものではなく、それぞれの間を鉛でつないでいる本格的なものです。
数少ないステンドグラス職人の組合員さんが名乗りをあげていただいた、ありがたい作品なのです。
それがあとでいうFさんの旦那さんで、「○○で5本の指にはいる職人」といわれていたのを思い出しますが、、
どれだけのお方だったのでしょう?
震災で全壊の赤札がはられた診療所の玄関は風除室の枠組みもふにゃふにゃにひんまがってしまっており、
両脇の分厚い広いガラス部分も粉々でした。
余談ですが、虹から鳩がとびたつ医療生協のイラストをガラスにはったのはだいぶあとの話だったと思うのですが、、自信なし。
入り放題の真っ暗な診療所は数日後に、半地下喫茶店(夜はスナックですが)に神大生協の職員の男手にてつだってもらって、
カルテなど運び出し、さらにそのあとに、「卓球場」としてつかっていた
人間ドックをうけていただいてたYさんとこに引っ越しました。
鉄筋むき出しになった柱が2-3階部分で損傷が大きかった今のビルは、
半年かけて、ギャッジアップ、
そして、奥の更衣室にある柱には10センチ厚の鉄板の袴をはかせて、補強工事がすすみました。
実は今にして思えば、鉛でつなぎ合わせているので、外力がかかっても、しなやかさゆえに、
ガラスの損傷はさけれるのでしょうか?さすがに、風除室の構造とおなじようにステンドグラスも
すくなからず損傷をうけていたとおもうのですが(ちゃんときいてなかったなな)、
このビルの改修工事(なぜか、都市計画で、このビルととなりのパチンコ屋さん、
そして山側のもう一つのパチンコ屋さん、、今はキコーナですが前身はバグジーだけが、
はずされて、取り壊しにはならずに済んだ、、不思議ちゃん)の際に、
ステンドグラスを、いったんFさんに保管してもらったんでしょうね。
これまた、Fさんにちゃんときいたことがなかったのです。
半年後に今の場所にもどってきて
もともと、その震災の前は、福島にいってしまった小児科のDrや愛媛に帰って行った内科Drなど
複数医師でやってた時期が2年ほどあって、いろいろあって、1人でがんばろうとしていた矢先の震災でした。
がその、ステンドグラス職人Fさんが脳梗塞になってからは、訪問診療で伺うようになり、
長いお付き合い。その奥さんは、脳梗塞になった旦那さんの指導や、設計図などを受け継いで、
なんとか見様見真似だったのか、なんとか注文をうけて仕事もされていたように記憶しています。
家の3階に作業場があり、ご近所の方を招いて、「教室」みたいなこともしていて、そこに参加していましたね。
そのころは、まだ、自分にも余裕があったのか、
岡山の現代玩具博物館の西田明夫さんのからくりおもちゃ教室に毎月通って、「田舎の日曜日」という、
これ以上ないといえるペンションに宿泊して、組木の小黒せんせいにも教えてもらったりでしたもんで、
つい、ものづくり癖で、往診の時にステンドグラスの話になって、お父さんは1階に臥床。奥さんに3階、
ガラスカットの練習を土曜日の午後に体験させてもらいました。
なんか、小黒先生の糸のこでの組み木みたいな感じで、ダイヤモンドカッターというのが正しいのかわかりませんが、
ダイヤのボールペンみたいなもので、
図面のように、ガラスをひっかいて、あとでペンチで挟んで力をくわえると、
その線のように、うまく割れたら成功!
帰りには、お父さんの指示により、ガラスの辺縁をなめらかにするためでしょうか?
電動の「グラインダー」や繋ぎの鉛、
そして、鉛を溶かす「はんだごて」までプレゼントしていただきました。
練習用のガラスもいただいて、お山におさまっていますが
、最近、木工もできていないうえに、ガラス細工にまで手がまわらない日々をすごすことになりました。
脳梗塞のFさんは長らくの在宅療養のすえに、在宅みとりとなりました。その時も、脳梗塞でながかったとはいえ、状態がわるくなったのは、わりと、あれよあれよの数日の話でした。
そのあとの奥さん、F、Fさんはいろいろ病気はしながらも、地域の活動など、やるひとがおらんのや、、とぼやきながら、診療所ではどうしようもない、病気になってしまい、その検査と治療で消耗していたと思います。
足腰がよわってきたなあと、思いながらも、ついこの間もなんとか歩いて、診療所にはいってきて、いつもの注射もして、、とおもっていたのですが、
同居していない娘さんからも、もうあかんのちゃう?とおもわれていたようですが、この数日、足腰がたたない、まともにたべれない、、、もともと、この家で死にたい、どこにもいきたくないといって、、、でも、もっと早く定期往診対象に組み込んでいけたらよかったなあと思うのですが、、六甲道からの往診きてもらおうかと娘さんがきいても、まだええ、といわれて、いたそうです。
電話がかかってきたのは、金曜日のもう終了してしまっています。お疲れ のあと、かえってから、およびだし
さみしくなりました。