この記事は2000年に書いた、「極めて個人的な思い入れによる1998年フランスワールドカップ観戦記」をブログに転載したものです。
2014年ブラジルワールドカップを控え、もう一度思い出として、またプロバイダー変更など環境の変化で原稿を失わないようこちらに転載しています。
加えて、時代もだいぶ変ったので当時の背景を赤文字で追記しています。なお、本文は触っていません、執筆当時のままを残していますので誤字脱字、表現内容ともに不愉快な点がありましたらお許し下さい。
目次
(1) W杯の思い出:そんな時代
(2) W杯の思い出:チケットが無い?
(3) W杯の思い出:26時間
(4) W杯の思い出:近ツリのねらい
(5) W杯の思い出:モンタバンの母娘
(6) W杯の思い出:ダイヤルMを回せ
(7) W杯の思い出:タイムリミット
(8) W杯の思い出:現地対策本部
(9) W杯の思い出:プラチナ
(10) W杯の思い出:ほんとの奇跡
そもそもサッカーは「新聞片手にチャーハンを食べながらTV観戦する」には向いてない。あまり得点が入らない。ずーっと場面がつながっていて、どれがチャンスなのか、いったいピンチなのかピンとこない。時々、主審が笛を吹いて場面が止まるがどちらの反則か判らない。中盤から「もっと思いっきり蹴れ!」と思ってもチョコチョコと動いてストレスが溜まる。見てて判らないしめったにTV放送も無いし、世のお父さん連中は阪神か巨人だし、サッカーがこの日本で注目を浴びるなんて予想もできなかった。そんな時代であった。
※親戚一族を含め、誰もサッカーファンなんて居ない環境で、突如、兄と私が食い入るように深夜放送を観はじめたので両親はびっくりしたことでしょう。
当時、W杯深夜放送のTV画面を、写真に撮っていた。(これは74年西ドイツ大会か?) |
中学校に入学した私は2年上級に兄が居たこともあり、さしたる興味も無いがサッカー部に入部。素質もなけりゃ名門チームでも無いんだが1年も走り回ればルールと体力くらいは身に着いた。当時、サッカー番組はサンTVというローカル局が週1回「ワールドサッカー」というのを放送していて、解説は今のサッカー協会会長岡野俊一郎。中田英寿や城に名波と今やワールドワイドな日本人が珍しくなくなったが、当時はブンデスリーガー(西ドイツ)に奥寺康彦という選手が唯一活躍していて、出場試合が放送されるとテレビに噛り付いて見ていた。子供ながらに世界を舞台に日本人が活躍していると大和魂がうずいたもんだ。
※サンテレビ:関東地区では「三菱ダイヤモンドサッカー」と呼ばれていた番組を、UHF局の関西ローカルとして購入し放送していたもの。神戸には神戸製鋼という地場産業があり「三菱」という競合企業の冠を付けることができず単に「ワールドサッカー」として放送していたらしいが、その真偽は不明。
前後半を2週間に分け、さらにCMを抜くと45分のゲームを25分くらいに編集して放送していた。「それでは来週の後半戦をお楽しみに」というフレーズがアタリマエだった時代。
※奥寺康彦(1952年生) 恐らく1FCケルンに在籍していた頃。1977-80所属。日本人初のプロ契約選手。
ヨハンクライフ(1947年生)・岡野俊一郎(1931年生)さんとか、元気にされてるんでしょうか。
クライフ ダイレクトボレーの瞬間。 |
そんな1982年、スペインでワールドカップが開催されて、この模様はNHKが深夜早朝にかけて生放送していた。夕方から寝て深夜2時に起きて生放送を見て翌日は再放送で確認するという生活になった。そして4年後のメキシコ開催、さらに4年後の1990イタリア開催と、私にとってのワールドカップは「深夜に生放送を見て翌日は眠たい」(もう社会人だったし)4年に1度のイベントであった。
出来れば時差の無い国で開催してもらいたいもんだと思ってたくらいだ。もちろん当時はJリーグも無く社会人リーグなんて放送も無いし興味もない。そんな時代を経て、日本代表チームは1994年W杯アメリカ開催に向けて静かに走り出していた。
1990年代の日本サッカーはJリーグを基盤として順調に強くなっていた(らしい)。が、結局ワールドカップアジア予選では韓国に敗れ出場権を勝ち得た事が無い。昔からヨーロッパを中心とした近代サッカーを(サンテレビで)勉強し、4年ごとにW杯深夜生放送を見つづけてきた私にとって、韓国に必ず負けてアジア代表になれない日本はどちらかと言えば「見たくない」試合であった。
が、勝ち馬に乗れ!ではないが、1994年アメリカW杯予選はどうやら日本が残りそうだと判ってきた。どうにもこうにも「あのW杯に出場できるのではないかだろうか?」と居ても立ってもいられない。「あのW杯」とは一般に言う「4年に1度のヤツだろ?」という意味だけでない。20年にわたり深夜放送で観戦しつづけたヤツだ。私にとって「あの日本代表がW杯に出られる」ではなく、日本代表が「あのW杯にやってくる」という感覚だ。
この時の結果はご存知であろう。ラモス・ゴン・カズらを擁する日本代表は、最後の最後でドーハの悲劇を迎える。ロスタイムに同点ゴールを許しベンチに下がっていた中山が崩れ落ちるようにうずくまる。
やはり日本はW杯に出場できなかった。この日、自宅には予選対戦国の縦横組み合わせ表が張ってあり、各チームが最終戦をどう終われば日本が出場権を得るかが塗りつぶしてあった。数十の組み合わせのうち、僅か数マスの、色が塗られてない枠に見事命中してしまった。やはりW杯は深夜放送で見るもので日本が出場するべき大会では無かったのだ。
※「縦横組み合わせ表」は、パソコン通信しかなかった時代に貴重な情報源となっていたniftyのFSoccer(サーカーフォーラム)からテキストベースで頂いた。
それからの展開は4年を待たない。4年後のW杯開催はフランスに決まっていたが既に予選が始まっていたからだ。
加茂監督率いる日本代表はアジア一次予選を大差でぶち破り二次予選へ進んでいた。会社員であった私は香港ラウンドまで行く気は無かったが、もう既にこの時には本戦出場が決まればフランスへ飛ぶ!と決めていた。ちまた日本代表が快勝を続けマスコミでも報道される中、会社ではネタを振り「やっぱりフランスへ行くかぁ」と予防線をはりつつ1997年二次予選を見守った。
当然、楽勝とは思っていなかったがご存知のとおり加茂監督解任やら、国立競技場たまご事件など、W杯出場への道は険しく、こちらも疲労困憊、あきらめたり怒ったり宗教的になったりと意味不明。
確かに日本代表がフランスへ行って欲しいと言う気持ちではあるが、「次のW杯開催は日韓共催」と決まっているだけに、なんとか自力でフランスへ行って欲しいというほうが強かった。(開催国は無条件出場)
頼む、W杯初出場が自国開催で実現だなんて勘弁してくれ!
サポーターの祈りが通じたかドーハの悲劇になぞらえて11月16日ジョホールバルの奇跡と呼ばれたイラン戦で、Vゴールが決まり日本代表がついに悲願のW杯出場権を得た。
この時はまだ、ジョホールバルが「奇跡」であって、その後私に訪れた困難と「奇跡」のストーリーは始まっていなかった。
※「ジョホールバルの奇跡」 野人こと岡野選手が再三のチャンスを外す中、しびれを切らせた中田英寿選手が自らシュートを放ち、キーパーが弾いたこぼれ球をようやく岡野が押し込んだ。当時は延長戦前後半ではなく追加点が決まった時点で「サヨナラ」のVゴール方式だった。
Vゴールを決めた岡野選手は、「このまま負けたら日本に帰れない」と思っていたらしいが、一躍ヒーローとして帰国、その後2013年12月に引退するまで選手生命を永らえた。
続く