穴にハマったアリスたち

生きてれば楽しい事がいっぱいある!の証明の為のページ。ぴちぴちピッチを大応援。第三期をぜひ!
→新章開始!ありがとう!

フランス旅行記 2日目「パリからドンレミまで」

2009年05月27日 | 旅行・ジャンヌダルク
とりあえず前回からの続き。
初めはジャンヌダルクの補足を入れつつ書くつもりだったのですが、恐ろしく長文になることに気がついたので別記事にまとめました。
ジャンヌが何者なのか、興味のある方はそちらからどうぞ。

【2日目出発】

朝7時起床、ジャンヌの生まれ故郷であるドンレミ目指して出発。

ルート:
 07:30 出発
 09:05 パリ東駅 発(電車)
 10:35 ナンシー 着
 10:45 ナンシー 発(バス)
 11:50 ヌフシャトー 着
 11:55 ヌフシャトー 発(バス)
 12:06 ドンレミ 着

切符は全て事前に購入してもらってました。感謝。

【パリ東駅】



発車時間までに15分ほど時間があったので散歩してみた。
旅行全体を通じ、待ち時間が数分あったら動き回ってました。
だってせっかくフランスにいるのに、ただ立ってるなんてもったいない!
かなり落ち着きのない子です。
同行してくれてた知人もそう思ったらしく、この辺りから放置され始めた。



15分では別にさしたるものが見れるわけでもないですが、パリというだけで私は楽しい。
上の画像、見えにくいですが、バスが2台分連結されてる。ちょっと斬新。

【ナンシー】

憧れの!ナンシー!
「名前は聞いたことがあるが行ったことがない場所」に行くのはどきどきします。
正直なところナンシーは、「ドンレミに行く途中にある町。TGVが止まる最果て」くらいのことしか知らないのですけれど(失礼で申し訳ない)、胸が高鳴ったのは本当。

道中、列車到着から次に乗り換えるバスの発車時間まで10分しかなく、着いたら急がなきゃといった話をしていました。
が、急ぐどころか謎の事故で列車が10分停止。
周囲のお客さんも困惑気味です。

とはいえどうしようもないのでぼんやりしてたところ、同行してた知人が近くの優雅なおばちゃんと話し始めました。
この国の人たちは実におしゃべり好きです。
仏語は分からないが、事故のことやら何やら盛り上がってるのは分かる。
私を指差し「この仏語も分からんアホがジャンヌフェチなんで、今からドンレミに行くところだ」といった会話もしてたようです。
おばちゃんの私を見る目に「なるほど変質者ね」の文字が踊る。でも凄く優しく微笑んでくれた。

無事に列車が再開した後。
「バスも列車遅延を分かって待っててくれるはずだ」「私が案内してあげますよ」とおばちゃんは優しく申し出てくれました。(訳してもらった)
彼女に連れられたおかげで、バス停にはすんなり到着。
まぁ駅の改札を出た目の前にあったので、案内してもらうまでもなかったのですが、優しさが嬉しい。
この国の人たちはいい人ばっかりだ。



この時は上述の通り時間がなかったので、バスの中からのみ。

【ヌフシャトー】

ナンシー発ヌフシャトー着のバスは、列車の遅延を受けて発車時間を遅らせてくれていました。
ダイヤに拘らない素晴らしい国です。こういうフレキシブルな精神は大事なのですよ。
そして何より、「他に客がいないので出発しても無意味だ」という正確な判断をなさった運転手さんが素晴らしい。

乗客は私・知人の他に1名のみ。広い車内はがんらりしてました。
平日の昼間とはいえ…。
客がゼロの時はどうするのだろう。



ヌフシャトーまでの車窓から。
あいかわらず無駄に地平線が見える。
日本と違い、ちょっと街の外に出るとすぐにゴブリンが出そうな雰囲気になるのは流石。



ヌフシャトーに到着。画像はヌフシャトー駅とその正面。
時間がなかったので街中は見れなかったのが残念でしたが、とうとうやってきた感がひしひしと。
この街は「列車でいけるドンレミ最寄りの街」として有名なんですよ。(今回はナンシーからバスで来ましたけど)

ここからは超有名な「ヌフシャトー=ドンレミ間のバス」の出番です。
『週に4本しか走ってない』という素敵なダイヤに多くの旅行客が絶望。
ドンレミまではわずか10キロなので、「だったら走る」と決断し、自転車や徒歩で行くのがポピュラーな移動手段になってます。
ちなみに旅行記としては「ジャンヌを旅する」(2004年)が有名。

何はともあれバス発着場に行かないといけません。
ナンシーから乗ってきたバスの運転手さんにお礼を言いつつ、「ドンレミ行きのバスはどこか?」と聞いてみました。

運転手さん:
 「それならこのバスだ。黙って乗っておけ」

これかよ。
もっと田舎のバス的な分かりにくいところにあるのかと。
おまけに時刻表までくれました。



現代的な冊子だ。
いや別におかしくないんですけど、もっとどうしようもなく不可解で入手困難だと思ってた。
人通りがないような所にバス停があって、そこにしか時刻表が書かれてないとか、そんなイメージだったのに。

■2009年5月現在の時刻表
(ドンレミ行き) 
 月曜または水曜
   11:55 ヌフシャトー駅
   12:02 Coussey
   12:06 ドンレミ・ラピュセル

 月曜または水曜
   17:00 ヌフシャトー駅
   17:04 ヌフシャトー病院前
   17:08 Soulosse-sous-St-Elophe
   17:13 Coussey
   17:17 ドンレミ・ラピュセル

(ヌフシャトー行き)
 月曜または水曜
   12:47 ドンレミ・ラピュセル
   12:51 Coussey
   12:56 Soulosse-sous-St-Elophe
   13:01 ヌフシャトー病院前
   13:06 ヌフシャトー駅

 月曜または水曜
   17:59 ドンレミ・ラピュセル
   18:03 Coussey
   18:08 Soulosse-sous-St-Elophe
   18:13 ヌフシャトー病院前
   18:18 ヌフシャトー駅

本気で週に4本だった。しかも月水のみ。
ついで書けば、この時点でナンシーから同行してたお客さんも降りてしまい、乗ってる客は私と知人の二人のみ。
商売が成り立ってるんだろうかこの路線。4本でも多すぎる。

とはいえ乗り換えに苦労することはなく、バスはドンレミ目指して発車。
ドンレミに行こうという方には朗報です。
何の問題もなく、バスが使える。
今やネットで乗車券も買えてしまいます。
ナンシーからバスに乗り、黙ってそのまま座ってればドンレミまで連れてってくれる。

【ドンレミまで】

それでも「バスに乗るのが嫌だ」という方へ。
大丈夫です。ドンレミまでは歩いて行けます。
自転車なんかなくっても、バスのダイヤと合わなくても、人には2本の足がある!

■歩き方:

 1. ヌフシャトー駅を背に左側に向かって進む。



 2. 上画像のような「ドンレミ・ラピュセルはあっち」の標識があちこちにあるので、それに従い街を離れる。
 3. 線路沿いにうねうねした道が続くので、そこを進む。歩道はないですが、歩けないレベルじゃない。
 4. 道なりに行くとCousseyという町に入りますが気にせず進む。



 5. 教会っぽいものが突きあたりにあるので、そこで左折。画像は左折してしばらく行ってから振り返って撮ったもの。
 6. やがて町を出ると道が二又になってるので、右。



 7. しばらく行くと、小高いところに教会が立ってる。



 8. 更に道なりに進めば、道路右に「ヤドリギだらけの木」が見える。

ここまで来れば後少し。



右手奥に見える村がドンレミ。
入口には謎のキリスト像(画像右の車の横に見える茶色と白のもの。でかい)が置いてあり、とことん謎な雰囲気を出してますが、とりあえずそこです。



やった!着いた!

こんな情報だけで分かるか!と思われるかもしれませんが、分かります。
それくらい単純なルートです。道も平坦です。
明かりがないので夜は無理そうですが、これは歩ける。

【ドンレミ】



バス停。
もはや「ドンレミにある」というだけでバス停すら小一時間は語れるほどにネタに満ちている。
そんな高揚しきった調子なので、最初から最後まで発狂しそうなほど小躍りです。ドンレミ!ドンレミ!



まぁ何もない村なのですが。
バス停から左を見て、正面を見て、右を見たのが上の画像。
運転手さんにホテルまでの行き方を聞いたのですが、「大通りをまっすぐ行け」「というか、ここしか通りはないから迷いようがない」と言われました。
その唯一の大通りがこれ。ドンレミは大変小さな村です。

そこまでは事前情報通りでしたが、歩き始めてすぐに違いが見えてきます。
物の本には20戸程度と書かれてましたが、30戸位はありそうです。
今、「それがどうした」という声が聞こえた気がしますが、20年近く前からこの村の存在を知って話を聞いてた身としては、そんなことでも大発見。



泊まることになった村はずれのホテル。
ジャンヌダルク・ホテルではない。
この2つの文章から異様なことを嗅ぎ取った方はマニアさん。私もそうですけど。

「ドンレミにはホテルが1軒しかない」「そのホテルの名前はジャンヌダルク・ホテル」というのを長らく聞いてきました。
来る途中にあった教会の近くにも泊まれるのですが、「ドンレミに宿泊」しようと思ったらジャンヌダルク・ホテルしかないと思い込んでいました。
違った。確かに10年前には選択肢はそれだけでしたが、今は増えてる。

 Le Clos Domremy

というかネットで予約できる。ド、ドンレミにまで電子世界が…!

宿の人は上半身たくましい気のいいおっちゃんと、嫁のナディアさんにおばあちゃんでした。
おっちゃん曰く、ホテルができたのは2002年だそう。
別の村の人によれば、数年前から列車の便が良くなったそうなので、観光客が増えたのかもしれません。
ここ以外にも更にもう1軒ホテルがあり、確認した限りドンレミ内に3軒も宿が。
近代化の波が押し寄せている。



宿内装。可愛いです。宿というか、民家の空き部屋を使ってるノリ。
建物入口も民家なので、最初本当にここでいいのか悩みました。
呼びかけたら、いたって普通に隣の家の人が出てきたし。

そんなわけでホテルホテルしたところではなく、「シングル2部屋」でとったのですが、もう一部屋は物置にベッドを置いた感じのところでした。
私のドンレミ好きを慮って部屋を譲ってくれた知人に感謝。
あれはあれで雰囲気あって良かったですけれど。

なお、ドンレミですが上画像の通りテレビはあります。
しかもDVDつきです。挙句、ネットもできます。
意味が分からない。ここは一体、どこなんだ。

それと宿の親父は「前にも日本人の漫画家が来た」と言ってました。
反射的に「神風怪盗」を連想しましたが、時期が合いません。
「純潔のマリア」の方でしょうか。まぁ取材とかとは関係ない個人旅行の人かもしれない。


以上、ドンレミ着まで。日時で言えば2日目の正午まで。ここから先は、更に長い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス旅行記 余談「百年戦争とジャンヌ・ダルク」

2009年05月26日 | 旅行・ジャンヌダルク
ぼちぼち例の騒動も終息宣言が出されてきたので、控えていたフランス旅行記を書いてみます。
一応、ジャンヌ・ダルク関連の場所をメインに回ったので、前提として彼女の話を先に。
歴史に興味がないという方は、即刻読み飛ばしてください。

あ、それと「ジャンヌ・ダルクは日本史で言えば誰みたいなものか」というのをリアル知人からよく聞かれました。
個人的にはかなり納得はいきませんが、大妥協して無理やり例えるなら源義経あたりのポジションの人です。
歴史のど真ん中には居ないが、それなりに重要な英雄。裏切られた結果、早世してる。
ついでに言えば「ジャンヌが好き」と答えた時の反応は、「へぇ日本史が好きなんだ。誰が好き?」⇒「義経」と答えた時の微妙な空気とそれなりに近いと思ってる。

【百年戦争】

時は14世紀~15世紀。舞台はフランス。
フランスの王位継承権を時のイングランド国王が主張したため、お家騒動から大きな内乱が発生。
だらだらと戦い続けた結果、気がつけば解決まで100年も。これがいわゆる「百年戦争」です。

何故、イングランド国王がフランスの継承権を持っていたかといえば、
元々イングランドはフランスの一地方であるノルマンディによって征服された国だからです。
つまりイングランドは「イングランド王国」であると同時に、「フランスのノルマンディ公国の一領地」でした。

そこにフランス王女が嫁いでいたため、「イングランド国王だけど、フランス人でもある」彼はフランスの王位継承権を保有。
ちょっとややこしいですが、百年戦争は「いわゆる『イギリスVSフランス』の戦争ではない」というのは、この時代の理解としてはかなり大事です。
ヨーロッパ史を勉強中の高校生の方は、ここを理解しておくと勉強がはかどる感じ。

ちなみに「フランス語が高貴な言葉」というイメージを持たれがちなのは、この辺が影響しています。
支配者層であるイングランド国王は実態はフランス出身のフランス人なので、フランス語しか喋れませんでした。
支配されてる一般人はイングランド人なので、もちろん英語。下々の言葉とお上の言葉が分かれてた。

多少時代をイメージしやすいように当時の背景を列挙します。

 ・大砲は存在するが、銃はない
 ・ペストの大流行により暗黒時代とも呼ばれる。流行の度に、人口の1/3が死亡した
 ・魔女狩りはまだ起こっていない
 ・日本では室町時代
 ・百年戦争の終結から約50年後、コロンブスがアメリカ大陸到達
 ・従って、じゃがいもがない。トマトもない。とうもろこしもないし、タバコもない
 ・ゲーム「ファイアーエムブレム 紋章の謎」は、おそらくこの時代がモデル。ハーディンが王弟なのは、実在のオルレアンがそうだったからと思われます。
 ・『国民』の概念が存在しない。いわゆる「民のために云々」「御国のために戦う」といった発想はそもそもない。しばしばジャンヌは「フランスを守るために戦った」と誤解されがちですが、それはナポレオン時代に宣伝のために作られたイメージです。当時のジャンヌはそんな意識はなかった。

さて、勃発した百年戦争は、全体を通してイングランド側が優勢でした。
終盤の状況はこんな感じです。

 ・英国の新兵器「ロングボウ」は驚異的な戦果を誇り、フランス騎士団は壊滅
 ・有力諸侯はイングランド側についた。(上述のとおり、イングランドはフランスでもあるので「裏切り」や「売国」ではないことに注意)
 ・民衆もイングランド国王を支持した。早く戦争が終わって欲しいので。
 ・首都パリは陥落。というか、パリ市民がフランス国王に宣戦布告した。
 ・当時のフランス国王シャルル7世は心底やる気がなかった。もう逃げたい。
 ・諸外国もイングランドを支持した。
 ・シャルル7世の母親もイングランドを支持した。その上「シャルル7世は私生児であり、国王の血を引いていない。従って王位継承権を持っていない」と宣言。
 ・「イングランド国王を新しいフランス国王とする」という講和条約が締結される。
 ・シャルル7世の資金は尽きていた。
 ・シャルル7世の最後の砦オルレアンは包囲され、陥落寸前。

勝ち目がありません。というか、普通この状況は「既に負けた」と言います。
こんなどうしようもない状況で現れたのが、ジャンヌ・ダルクです。

【ジャンヌ・ダルク】

言い伝えとしてはジャンヌは1412年1月6日にドンレミ村で生まれました。
12,3歳の頃にどこかの村の人と婚約。(彼の名前は記録に残っていない)
そのまま普通の人生を歩む…はずだったのが、うっかり神の啓示を聞いてしまい一変。

現れた神の使い曰く、「フランスに行き、国王を助けよ」「オルレアンを解放せよ」。
最初は「そんな無茶な」と拒否してたものの、あんまりしつこく要請されるのでついに折れ、国王の下に駆けつけることを決意。
加えてどういうわけか「純潔を守れ」という趣味丸出しの命令まで受けたため、馬鹿正直にこれを順守。
必然的に、先の婚約は解消することになりました。
当たり前ながら相手の男はブチ切れましたが、ジャンヌは更にブチ切れ返し、裁判を起こして勝訴しています。
この時代、既に「婚約解消で裁判」などというのが存在してるのがちょっと不思議な心持ち。

自由になったジャンヌは意気揚揚と村を飛び出して、シャルル7世が当時逃げ住んでたシノン城へ。
このとき既にジャンヌの噂は国王の元にも届いていたため、謁見自体はそれなりにすんなり許可。
その際、暇に弄ばれていたシャルル7世は、田舎からやってきた頭のおかしい小娘をおちょくってやろうと余興を企画します。
「玉座に偽の国王を座らせ、国王自身は一般貴族の振りをして群衆の中に紛れ込む」。
ところが、ジャンヌは一発で本物の国王を見抜いたそうです。この逸話が、後の様々な憶測を呼んでいます。

無意味に奇跡っぽいものを見せたものの、何せシャルル7世はやる気がない。
が、ジャンヌから何かを囁かれた途端、急に眼の色が変わったそうな。
このとき、彼女が何を言ったのかは永遠の謎です。
その後、ジャンヌが魔女ではないかどうかの査問がポワティエで行われた後、彼女の率いる軍はオルレアンへ。
1428年4月30日。ジャンヌ、オルレアンに到達。

オルレアン市民はようやく来た援軍に大喜び。
ついでにやってきた謎の小娘にげんなりしたものの、割とすぐに慕い始めたらしい。
彼女の命令とともに、包囲するイングランド軍に打って出る覚悟を決めます。

翌5月から戦闘開始。
イングランド軍はオルレアン周辺に幾つかの砦を構えていたのですが、片っぱしから撃破されていきました。
勝因はよく分からない。

ジャンヌが突撃指示を出したその瞬間が、見事に奇襲になっていたこと。オルレアン側の士気がひたすらに高かったこと。
結果的に分散して砦にいたイングランドを各個撃破する形になったこと等々。
他に、ジャンヌは大砲を活用したことでも知られています。
当時の最新兵器・大砲は元々攻城兵器でした。城攻めの兵器なのだから、人間相手には使わない。間が抜けてるように見えますが、それが当時の発想でした。ほのぼのしてる。
しかしジャンヌは平然と言いました。「撃てばいいじゃん。人に向かって」。ほのぼのの欠片もない。

そういった細々とした理由は考えられるものの、決定的に有利になりそうな理由はなく。
結局、なんで勝てたのかは基本的によく分からない。
おかげで世界史の教科書は、この下りを記述するときもにょもにょした表現を使う羽目に。もにょもにょ。

ジャンヌは武装して先陣切って戦いましたが、剣よりも旗を好んだそうです。
片っぱしから敵を切り倒したとか、そういう無双的活躍はしていません。
ただそれでも本気で先頭に立って突撃はしてたらしい。

ちなみに「旗の方が好き」と明言されてしまい、微妙に立場のない彼女の剣ですが、それなりに曰くつきの伝説の剣です。
あるときジャンヌが「サント・カトリーヌにある教会に私用の剣を神が用意してくれた」と予言。行ってみると教会の壁に本当に剣が突き刺さっていたそうな。
凄いですね。ただまぁ残念ながらジャンヌはそういうのにあんまり興味がない娘だった。
結果、「どっかに置き忘れた」というしょうもない理由で紛失。大して日の目も浴びずに歴史から姿を消します。
なお、それでも神は懲りなかったらしく、その後もう一度似たような形で伝説の剣を支給してくれてます。優しいです。その2本目もジャンヌはどこかに置き忘れますが。この聖女も意外にやる気がない。

オルレアンを解放した後、ジャンヌおよび国王一行はランスを目指します。
その途中、パティの戦いでこれまた理不尽な大勝利を収めることに。
本当に理不尽です。武器も場所どりも過去の実績もはるかに上の相手に、ただの突撃で勝ってしまった。それも圧倒的な勝利。
こちら負傷者ゼロ。相手全滅。そんなノリです。こんなんで勝ってしまっては、軍師も兵器開発者も泣きます。

運に運が重なったジャンヌ軍はもはや敵なし。戦う前に、相手が恐慌状態になって逃げていきます。
そりゃそうです。だって、フランスがイングランドに勝てるはずはなかったんですよ。
例えば、当時のイングランド軍の主力兵器ロングボウは、フランス側のクロスボウと比べ、射程距離3倍・速射性能3倍・殺傷能力:500メートル先の完全武装の騎士を一撃死といったレベルです。
そんな武器持ってる相手に、突撃戦法なんて採用したら死にます。実際、過去の決戦ではボロ負けしてます。
それにも関らず、何故か勝った。オルレアンでは完全包囲された状況から。パティでは待ち伏せ攻撃を受けながら。
これはもう、逃げるしかありません。ジャンヌはマジで化け物だ。

フランス国王は伝統的にランスの大聖堂で戴冠式を行ってます。
カール大帝もルイ14世もルイ16世も、ここで戴冠を行った。そして戴冠式を行った者は既に人ではない。
フランス国王は現人神。その手で触れただけ病気を治す、超越者とみなされてました。
(そんな化け物相手に革命を起こしたことが、後のフランス革命が驚愕視されることの一つ。ずっと後の時代のことですけれど)

この「ランスで戴冠式を行う」というのが逆転の妙手となりました。
条約だの民衆の支持だのゴミです。
超人となったフランス国王という肩書に勝る説得力はない。

かくして戦況は逆転。シャルル7世が優位に立ち、そのまま百年戦争の勝利へと進みます。
ですが、いざ勝ち始めてしまうとジャンヌは疎まれるように。
貧相な戦力をあてがわれ、無茶な戦闘を転々とした末に(この時にパリとも戦っている)、コンピエーニュの戦いで味方に見捨てられ、敵の捕虜となります。

当時の捕虜は金銭で交換されていました。
ジャンヌほどの有名人ならば当然多額の金が動く。
そう期待され、当時の作法に則って、ジャンヌは極めて丁重にもてなされました。

が、シャルル7世は捕虜交換を拒否。
仕方がないのでコンピエーニュ側はジャンヌをイングランドに売却。
こうして彼女はイングランド支配下のルーアンへと流れ、そこで宗教裁判にかけられます。

裁判自体は真っ当なものでした。
この時のジャンヌと査問官のやりとりは実に面白いです。
ジャンヌの起こした「奇跡」に関しては疑念の余地もありますが、このときの裁判記録は彼女の魅力をそのまま伝えています。

なお「捕えられたヒロイン」ともなると、よからぬ妄想の一つもしたくなります。
実際ジャンヌ関係のもっともらしい「残酷物語」は結構流布してる。
ですが上述のとおり、イングランド兵は本気でジャンヌに怯えており、病的なまでの警戒態勢を強いてました。無理だから。マジで。
拷問器具の採用も検討されたものの、結局(記録の上では)使用されず。
まぁある程度覚悟決めてる相手を拷問にかけると、そのまま殉教を選んでしまうので逆効果ですし。

ジャンヌを救出すべく動いた人たちもいたものの、結果的にはどれも実らず。
この時頑張った人の中にはジル・ド・レもいます。
後にペロー・グリム童話の「青ひげ」公として有名な彼は、ジャンヌと共に戦った友の一人でした。
「ジャンヌを救うことができなかった」という悔いが、彼を狂気に落とした原因の一つだとか何とか。

そんなこんなはありつつ、1431年5月30日、ルーアンにてジャンヌは「戻り異端」として火刑に処されました。
「戻り異端」とは「魔女」と判断されたものが、その後も罪を改めずに「魔女」のままでいた状態、みたいなものと思ってください。
マイナーな制度ですが、「初犯」は見逃す慣習だったため「魔女」だからって火炙りにはできなかった。なので、わざわざ面倒な手続きを踏んでます。また教会が火刑にしているわけでもないのですが、その辺の事情は省略。

ちょっと興味深いのは、このときの魔女裁判に携わった裁判官数十名はほぼ満場一致で「ジャンヌは聖女である」と判断を下していました。
結果的に魔女認定されたのは、イングランドの要請を受けた裁判長がゴリ押ししたから。
ですので、この後、ジャンヌが復権したり聖女認定されたことと合わせて「キリスト教はご都合で意見を変える」的な批評は的外れだったりします。地味に、「魔女裁判が真っ当に機能した」例になってたりする。

後日談。
ジャンヌの恩を忘れなかったオルレアンは、彼女の母親を街に迎えて老後の面倒を見たそうです。
またジャンヌを称えるお祭りは、当時から今日に至るまで続いている。

時代はこの後宗教改革に。
このとき聖人の像や絵画が偶像崇拝とみなされ破壊されたため、ジャンヌの像は今日残っていません。
今あるものは全て後世の人間が想像で作ったもの。そのためジャンヌの容姿は「髪が短かった」以外は不明なままです。
いわゆる美人さんではなかったそうですが、言動や周囲の信奉ぶりから想像するに、かなりお茶目で愛嬌のあった娘さんなように思えます。

ジャンヌは有名人につきものの「実は○○」のエピソードも色々あります。
有名どころでは、ジャンヌは王族の出身ではないかというもの。
「国王の顔を知っていた」「ランス進軍等、政治判断が的確だった」等々が根拠とされています。
候補となる「死産した王族」(実は彼女は生きていてそれがジャンヌだ云々)もおり、それに基づけばジャンヌの生まれは1407年になります。

他に「ジャンヌは火刑にあっておらず生き延びた」とする説もあります。
ルイ17世や義経他、早世した有名人には必ず付いて回るお約束「実は生きていた」。
当時から既にこの説は人気があったらしく、ジャンヌの死後すぐに「私はジャンヌだ」と名乗る詐欺師が大量発生したそうです。

ジャンヌの死からしばらくした1453年、百年戦争は終結。
これを区切りに「中世」が終り、「近代」が始まります。
ジャンヌの思考や当時の人々の様子は、まさに「中世」を代表し、そして最後となるものばかりでした。
人間の歴史において、大きなターニングポイントは幾つかありますが、この近辺はそういった意味でもとても面白いです。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス旅行記 1日目「パリ」

2009年05月16日 | 旅行・ジャンヌダルク
連休中にフランスまで行ってきたので、その感想記事を書いてみます。
主な訪問地はパリ・ドンレミ・ランス・オルレアン・ヴェルサイユ。
ジャンヌダルク関連メインで回ってみました。

(いただいたコメントへの返信が遅れてしまいました。ひとまずお返事したつもりですが、もしも「返事来てない」という方がおられましたら申し訳ないです)

【出発】

初めに事の起こりについて。
元々私はフランスが大好きです。
以前にも書いたとおり、百年戦争のジャンヌやフランス革命が大のお気に入り。

学生時代にも縁があって1週間ほど行き、大いに楽しんだのですが、種々の制約で心残りはありました。
特に「フランス語が話せない」というのが非常にネック。
そんな折、現在たまたま知人がフランスに長期滞在中。暇なら遊びに来いとの誘いも貰ったので、これ幸いと出かけてみました。

ちなみに私は、仏語はもとより英語も壊滅的です。
多少達者な中学1年生の方がまだマシというレベル。
そんな様のくせに、かれこれ海外旅行は6回目。
「話せない」ということをはっきり自覚しさえしてれば、意外になんとかなるものです。みっともはないですが。
言語の問題で海外に腰が引けてる人は、私みたいなのもいると参考にしてください。

【到着】

日本を立ったのが5月5日の朝。
飛行時間は約14時間。時差は日本よりも7時間遅れ。着いたのは同日5日の夕方でした。
出発前日の5月4日夜は諸般の都合で徹夜でした。海外行くときは大体こんな感じ。

なお7時間の時差はありますが、ここは声を大にして言いたい。
『時差ボケ』などというものは都市伝説だ。
そんなものはこの世に存在しない。

だって7時間遅れと言うことは、
日本の朝5時~7時が、フランスの夜22時~24時。
日本の昼10時~14時が、フランスの夜3時~7時。
日本の夜21時~24時が、フランスの昼14時~17時に相当します。
夜型人間にとっては、パラダイスのような環境です。

これで3回目の欧州ですが、そのいずれのときも時差ボケなど全く意識せず、日本にいる時より気持ちよく過ごしました。
もっとも「フランス→日本」の移動の場合は地獄ですけれど。
日本の時間の回り方はおかしい。年がら年中時計が狂ってるとしか思えない。

【ジャンヌダルク像】

パリのドゴール空港から高速バスでパリへ。
(「パリの空港」と呼ばれていますが、成田や羽田が東京にないのと同じでパリにあるわけではない)
早速、ヨーロッパ名物の「無駄に広がる地平線」「どんより曇った空」「ゆっくり走ってるように見えるのにとんでもない速度の車」を拝めます。
これと「大通りにいきなり立ってる四角いマンション(日本だと道路沿いは普通商店か多少の空間をあける)」「ゴム製のブランコ」を見ると、「嗚呼、ヨーロッパだ」という気分になります。

パリに着いたら最初に見るべき場所と言えば、ルーブル横にある金ぴかのジャンヌ像です。



ジャンヌ像はフランスのあっちこっちにありますが、ここのはちょっと特別。
彼女は宗教改革の影響もあって、現代になるまでフランスの歴史から忘れ去られていました。
それがナポレオン時代にナショナリズムの高まりを受け、シンボルとして採用され普及。
この像もナポレオンによって建てられてました。
ジャンヌは、籠城するパリ市民と戦闘を行っており(その時はパリ市民が勝ってる)、それが死の遠因にもなってるので若干微妙な気持ちがしないでもない。



周囲はこんな場所。

余談ですがフランスでは有名人の名前を広場や道路につける習慣があり、「ジャンヌダルク広場」や「ジャンヌダルク通り」はどの街でも見かけます。
彼女と全く関係ないところにもあるので、名前に釣られて遊びに行ってもちょっとしょんぼり。
日本で言えば、鹿児島の普通の生活道路に「織田信長通り」と名付けられてるとか、そんな感じです。特に名前に意味はない。

【ルーブル美術館】

あいにく閉館時間を過ぎていたため、前を通ったのみ。



ところで上の画像、撮影時間は何時でしょう?
天気は曇り。
フラッシュ等を焚かず、そのまま撮影しています。

正解は19時過ぎです。
フランスは緯度でいえば北海道よりも北。
おまけに周囲が平原なので、ひたすらに日照時間が長い。
向こうは20時になっても、日本の昼3時4時くらいの感覚。

欧州の人は仕事よりもプライベートを大事にする、という話はよく聞くと思いますが、日照時間の長さが影響してる気がする。
日本だと18時に仕事を終えても既に暗いので、余暇と言っても酒飲むか帰ってテレビ見るしかない。
じゃあ仕事するか、という流れになるのは理解できなくもないです。
フランスだと18時に仕事を終えて、適当にジョギングをして、帰宅してシャワーを浴びて、外食にでかけ、家に帰って庭いじりをし、そこでようやく暗くなるとかそんなレベル。
1日24時間なのは変わらないのに、活用時間が違いすぎます。(まぁその分、冬は雪に閉ざされるのですが)

【エッフェル塔】

晩御飯として、中華料理屋さんに連れて行ってもらいました。
パリについての最初の食事が中華か…。
思うものがなくはないものの、近くのエッフェル塔観光も兼ねて出かけてみました。



エッフェル塔遠景。上りはしなかった。
この時点で時刻は確か20時。
見ての通りの曇天模様なのに、意味不明の明るさです。

エッフェル塔は今から100年ほど前に立てられましたが、その後レッドノアとヱクセリヲンの戦闘の余波で大破。
再建はされたものの、華撃団の激戦の舞台になったりと不運に晒され続けました。
それでも今日までこうして形を残してきた。パリ市民の愛と歴史を感じる姿です。あのダンディライオン一座もやってきたことがあります。



ご飯の帰り道。時刻は22時。それでも明るい。
22時から5分間だけ、塔はライトアップ&点滅します。
たまたま通りかかったら、たまたまそこに出くわした。

【凱旋門】



憧れのシャンゼリゼ通り。その先にあるのが凱旋門。



ホテルが近くにあったため立ち寄ってみました。
ほんの10年前にゴロザウルスに破壊されたものの、現在は綺麗に修復済み。
他にも観光客が大勢いました。

凱旋門も巴里華撃団の戦地後。
基本的に、パリの名所を回ると彼女たちの戦闘地を巡る旅になります。
わずか半世紀ちょっと前、この街で大激戦が繰り広げられたと思うと胸が熱くなる。
凱旋門前は、帝都の人たちが集合写真を撮った所でもありますね。

凱旋門は上に登ることができます。入場料9ユーロ。高い。



登頂手段はこんな螺旋階段のみ。
ひたすらにぐるぐる回って登ります。ただひたすらに、ぐるぐるぐるぐる回る。
何かの悪夢みたいだ。



頂上からの風景。眼前に広がるのは美しいパリの街路。
嗚呼シャンゼリゼ。あの歌が響く。
凱旋門は「エトワール」(仏語で『星』)と呼ばれるように、ここから放射状に道が伸びています。綺麗。



左側のがエッフェル塔。さすがに23時近くになると暗くなってくる。

初日はそんな感じで終了。
上述のとおりこの世に時差ボケなどというものはありませんので、朝までぐっすりと眠りました。
呆れかえるほどに、ぐっすりと。この国に、住みたい。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰国報告

2009年05月11日 | 旅行・ジャンヌダルク
どうにか無事に戻ってこれました。
とんでもなく楽しかった。そして物凄く収穫があった。
詳細な感想も書こうと思ってますけれど、ひとまずご報告までに。

【行程】

 5月5日(火) 成田発
 5月5日(火) パリ着 → エッフェル・凱旋門観光(パリ泊)
 5月6日(水) パリ発 → ナンシー・ヌフシャトー経由 → ドンレミ観光(ドンレミ泊)
 5月7日(木) ドンレミ発 → ヌフシャトー・パリ経由 → ランス観光 → パリ(パリ泊)
 5月8日(金) パリ発 → オルレアン観光 → パリ(パリ泊)
 5月9日(土) ヴェルサイユ観光 → コンシュルジュリ・カルナヴァレ美術館 → パリ発
 5月10日(日) 成田着

振りかえってみるとフランスには4泊しかしていない。
でも朝早くから夜遅くまで、移動と食事の時以外は常に動き続けてたせいで異常に充実してました。
もっと滞在日数を増やすという案もあったのだけど、純粋に体力と精神力の限界だったような気がする。

【インフルエンザ】

マスコミ各社では大賑わいですが、成田や海外に実際に行った感想としては、現実から乖離した報道だなという印象でした。
成田からパリまで行く道程で、マスクをしていたのは日本人観光客のみ。
パリの到着ロビーでは、マスクをしている日本人に対して現地の人から失笑が漏れていました。

パリやその他の街中も同じくで、マスクをしている人なんて全くおらず。
日本人にしてもさすがに過剰防衛だと気が付き始めたのか、街中で出会った人たちは一様にマスクを外していました。
凱旋門の床に、おそらくは日本人が落としたと思われるマスクが転がっていたのが印象的でした。(捨てたのではなく落としたのだと思いたい)

フランスのテレビでも、インフルエンザの話は見た限り全くやっていませんでした。
それよりも世界不況による労働問題を連日取り上げていました。
派遣切りだとかの騒ぎじゃない。向こうでは焼き打ちと言ってもいいくらいの暴動が起こってる。
正直なところ、日本でインフルエンザが騒がれてるのはマスコミがエンターテイメント的に煽ってるだけなんじゃなかろうかと思います。
不景気ネタに飽きた・もしくは触れたくないので、不満の目を逸らすためにわざと過剰に報道してるんじゃないかとすら勘繰りたくなる。

現地の知人曰く、一応フランスでもインフルエンザ特集のような番組を一度見かけはしたそうです。
なんでも「これがマスクです」「マスクはこう着けます」といったようなレベルから始まる番組だったそうな。
フランスではマスクの文化がないらしい。多分、花粉症がないからだと思いますが、実際、普通の店に行っても売ってないらしい。

成田空港でやってる『検疫』も意外と適当でした。
毒にも薬にもならないアンケートに回答するだけで、ほとんど素通し。
一観光客に過ぎない私ですら上記のような感想を抱いたのですから、ずっと現場で働いてる人たちからしたら「まぁ騒ぎすぎだよな」「でも形だけは一応やっておくか」というのが率直なところじゃなかろうか。

現実に死者も出ているので笑い事じゃないですけれど、通常のインフルエンザでも亡くなられる方はいるわけで、殊更に過敏反応する必要はなさそうに感じました。
普通に東京で電車に乗って、通常のインフルエンザに感染して倒れる危険性の方がよほど高そうなくらい。
この流れで言うならば、新型云々以前に人ごみに出るときはマスクすべし、なのかもしれません。
(ちなみにですが、飛行機内ではいずれにせよマスクはしておいた方が無難です。乾燥対策と防寒になる)

結果的に私や同乗者が感染してる可能性もありますけど、まぁ結果論。概ね上記のような感じでした。

【1日目:パリ】

当初予定には入ってませんでしたが、時間が中途半端に余ったのでエッフェル塔や凱旋門を見に行きました。
時間的にルーブルには行けなかった。
渡仏はこれで2回目ですが、いつになったらルーブルに行く日が来るのだろう。



今回の目的はジャンヌ・ダルクゆかりの土地の観光。
何故ジャンヌが好きなのかを、出発前にウザい長文で書き並べましたが、一言でいえば「戦うヒロイン万歳」と同系統です。
多分、「プリキュア」を初めとした弊ブログでネタにしてるコンテンツに興味のある人と、ジャンヌ好きはかなり被りうると思う。
我々の世界にだって、無闇やたらに戦ったヒロイン様は実在した。幸いにして私らの世界の「プリキュア」さんは剣を振りまわすことはあまりお好きではなかったそうですが、とにかく実在した。
某所で「プリキュア国教理論」という妄言を拝読しましたが、その妄言を本気で実行してしまったのがフランスだと思っても、それほど間違いじゃないはず。そんな国に勝てる気はしない。

【2日目:ドンレミ】

そのジャンヌの生まれ故郷・ドンレミ村。
ジャンヌを好きな日本人はかなり多い。下手したらフランス人よりも潜在需要は大きいんじゃないかとすら思えます。
何せアニメや漫画、ゲームに登場する「戦うヒロイン」そのまんまの人ですので。

で、そういったファンにとってドンレミは憧れの地なわけですが、これがハードルがやたらに高い。
まず鉄道が通っていない。公共の交通手段は最寄駅から走るバスのみ。
しかもバスは週に4本しか走ってない。日に4本ではなく、週に4本。その上ダイヤの詳細も分からない。

…というのが、行く前の私の認識でした。
他のジャンヌファンの認識も大体同じだと思うし、実際、間違いでもなかった。
だけど行ってみて分かった。

 ドンレミに行くのは簡単だ。

今回の私の場合、フランス語の分かる知人におんぶに抱っこで旅行したので、偉そうに「簡単だ」と言うのもおかしいのですが、拍子抜けするほどあっさり行けました。
これは「答えが分かってれば楽勝」という類の問題だった。
ネット上にも「答え」がなかなか載ってないので、ぜひ国内で燻ってるジャンヌファンに伝えたい。



ジャンヌ旅行記は大御所の方が残したものもあるのですが、情報はどうしても古い。
現地に行かないと分からないことがいっぱいあるなと、再認識しました。
マジで新しい知識の宝庫だった。ドンレミ、すげぇ。

【3日目:ランス】

フランス国王の戴冠式が行われるランス大聖堂がある街。
ジャンヌもここにやってきた。
そして百年戦争の勝敗が決定的になったのは、ここでの戴冠式だった。



とりあえず画像は撮ったけれど、全く意味がない。
というのも、巨大さや荘厳さはカメラではどうやっても記録できない。
この圧倒的な迫力は、実際に行ってみないと分からない。

【4日目:オルレアン】

百年戦争の事実上の決戦が行われた街です。
包囲され陥落寸前のオルレアンにジャンヌが援軍に駆けつけ見事に逆転、その後の百年戦争の勝利へと続きます。
日本でいえば関ヶ原や壇ノ浦以上の決戦地。歴史に「if」はないですが、仮にオルレアンが陥落していた場合、今日のフランスもイギリスも存在しなかったかもしれない。

当初はオルレアンではなくルーアンに行く予定だったのですが、行きの機内で「そういえば5月初めはオルレアン解放の記念日じゃないか」と思いだし、慌てて行き先を変更しました。
この判断で大正解。
毎年この時期はオルレアン解放(1428年5月8日)を記念して街をあげてのジャンヌ・ダルク祭、通称「コスプレは正義」週間が実施されてます。

見どころは盛り沢山ですが、一番は毎年一人選出されるミス・ジャンヌによる行軍。



今年のミス・ジャンヌさん。絶望的までに可愛らしい方でした。
「ミス・ジャンヌ」の選出基準は「オルレアン市民であること」等しかなく、いわゆる美人コンテスト的な要素はないのですが、どう考えてもビジュアルで選ばれてる気がします。
ていうか、その基準で選ばれてないのだとしたら、オルレアンはどんだけレベル高いんだ。

ちょうど第二次世界大戦の戦勝記念日とも被るため、軍事パレードも行われジャンヌに敬意を表されてました。
陸海空軍や戦車・戦闘機まで駆り出す大騒ぎ。
ジャンヌを称えるために、そこまで悪ノリするあたり、スケールが違うなと思いました。

【5日目:ヴェルサイユ】

時代は下ってフランス革命関連の場所を回ってみた。
真面目な話、世界史・日本史全てを通じて、最も力を入れて学校で伝えるべきはフランス革命だと思う。
日本では得てして義務を果たさないなら権利も得られない、といった考えが強いですが、実際は一切の理由や根拠を必要とせず権利は主張していいし、しないといけない。
現人神である国王による絶対政治に対し、血筋や宗教といった大義名分なしに権利を主張し、つかみ取った当時の民衆のことは素直に尊敬します。
そして、「そうはいっても自由にやりすぎると無法地帯と化すよな」という極端から極端に振れた状態も、恐怖政治やナポレオン独裁、王政復古と経験してくれている。
自由は大事だが、無制限だと困る。でも制限しすぎるのも大問題だ。微妙な「ちょうどいい塩梅」に至るまでの血を伴った試行錯誤からは、学ぶことがたくさんあるはず。



ヴェルサイユには以前にも行きました。その時は滞在時間が1時間。
結論から言えば、「ヴェルサイユ宮を1時間で見て回るのは無理」。
王宮をちょっと見ただけで終わってしまった。

プチ・トリアノンを見れなかったのが心残りだったので、今回は反省を活かし、滞在時間を約3時間に伸ばしてみた。
結論から言えば、「トリアノンを3時間で見て回るのは無理」。
プチとか言いつつ広大すぎるせいで、全力疾走する羽目に陥りました。(ちなみにジョギングしてる人は他にもたくさんいた)


とりあえずそんな感じの旅行でした。
簡単に書いたつもりなのに、やっぱり長くなってしまった。
詳細は別項でまた書こうと思います。

(※コメントの返信が遅れていますが、しばらく大目に見てください…)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする