斉藤うめ子ブログ

新しいニセコの街づくりにとりくみます

1995年1月17日5時46分

2014-01-17 13:48:22 | 災害
もう19年目という時の流れが経ったのかとつくづく思います。
あの日以来すっかり地震のトラウマに罹ってしまい今だに
癒えることはありません。小さな地震にも神経がピリピリします。
私の記憶では地震直後から大小様々な余震が1年余りに渡って
800回位つづいたように思います。
地震が来る度にまたあの大きな地震が、いやもっと大きな地震が
来るのではないかという恐怖に絶えず怯えていました。

この地震が起こるまで神戸は地震のない街と思い込んでいました。
あとで専門家たちの研究によるとこうした大地震が発生する可能性は
十分あったことが分かってきました。

夜明けにしては1月の半ばはまだ真っ暗で私たち家族は熟睡中でした。
突然頭の上からまるでブルトーザーが大きな音を立てて
ダ・ダ・ダ・ダ・ダ・ダ・ダ・ダと押し寄せてくるような感覚が
つづきました。頭の所にあった大きな洋ダンスが上下したのだと思います。
“地震だ!!!”と気付き起き上って、カーテンを開けて外をみましたが、
まだ真っ暗で家の周りは静で誰一人外へ飛び出している人はいませんでした。
*しかしあとでこの時間にすでに起きていた人の話ではとても立っていられる
 状態ではなかったと話しています。

少しづつ外が白け初め、最初に目にしたのは隣の家の方が、犬を連れて
散歩をしているいつもと変わらぬ光景でした。
一体あの地震は?何だったんだろう?と思われるほどでした。

私はカメラを持って家中の様子を映して歩きました。
洗面所の棚に無造作に置いてあった陶器のカップが落ちて割れていたことと、
地下にあったワインの瓶が棚から落ちて数本割れていた程度で幸い我が家は
ほとんど無傷に近い状態でした。

ご近所では瓦の屋根が崩れたり、半壊、一部倒壊、家具の下敷きになった人たちも
いることがあとでわかりましたが、けが人が出るまでには至りませんでした。
ライフラインは一時全て止まりましたが、水を除いては徐々に回復していきました。
神戸市でも西外れの離れた場所でしたので被害は一番少なかったようでした。

これが私が最初に見た阪神淡路大震災の幕開けでした。
まさか6,000人余りの死者が出る惨事になるとは当初は全く想像も
つきませんでした。この震災を通じてさまざまな経験・体験をしました。

阪神淡路大震災を機に、以来日本における本格的な『ボランティア元年』が
始まったといえます。

またあの日が巡ってきました

2013-01-17 00:22:56 | 災害
あと数時間でまたあの時が巡ってきます。
1995年1月17日午前5時46分。
阪神淡路大震災が発生した年月日時です。

5時46分、まだ眠りの最中。そこに突然まるで
ブルト―ザーが頭上に迫ってきたかのような、だ・だ・だ・
だ・だ・だ・だ・という音、一瞬何が何だか全くわからず、
と同時に突き上げるような大きな揺れ、“地震だ”、と
わかったものの、どうしたら良いのかわかりません。
外はまだ真っ暗。
しばらくして一旦は収まったかのような揺れは、まもなく余震が
繰り返し襲ってきます。
地震がないと思い込んでいた神戸に、突然、あまりにも突然で
まったく予想もしていませんでした。

日本はこの阪神淡路大震災の年を“ボランティア元年”としました。
この大震災でまず真っ先に活動を開始したのは行政でも組織でもなく、
たくさんのさまざまなボランティア個人でした。

近年、様々な大型の自然災害が発生しています。
3.11の東日本大震災は不幸にして地震による津波、原発事故が発生し、
まもなく2年になろうとしているのに、放射能汚染のため復旧・復興
の目途が立っていません。

― 子どもたちの未来は? 未来の子どもたちは? ―

原発を容認してしまった社会そのものが病んでいると言えます。
この病から回復し、解放される日は何時になるのか。
その時、原発は地球上に存在していないはずです。



地震のトラウマ

2013-01-10 23:16:51 | 災害
今また東北地方で地震発生のニュースがありました。
昨年11月9日から11日まで福島で開催された「ふくしま会議」
に参加しました。
しかし3.11以来、地震と放射能に汚染された被災地に
「怖くて本当は行きたくない、でもどうしても行かなければ」
という想いで心の中は葛藤の連続でした。

1995年1月17日5時46分、神戸で阪神淡路大震災に遭遇しました。
あの時の感覚を忘れることはありません。
幸い自宅は神戸市の郊外で被害はほとんどありませんでした。
恐らく被害状況からこの辺りの震度は中心地より1余り下回る
震度6前後ではなかったかと言われています。

その後1年余りに渡って余震が800回位つづきました。
地震の度にまたあの恐怖の瞬間に襲われ、怖くて、あの時以来
すっかり地震のトラウマになり癒えることはありません。
つい大震災前日の16日まで「神戸は地震のない所・・・、
安全な街」とみな思い込んでいました。それが突然大地震に
襲われ、後から専門家・研究者の間で大地震の起こる可能性は
高いと言われていたことが分かりました。でも私たち市民は
そのようなことは知らず誰も想像していなかったと思います。

3.11以来、大きな余震がつづく東北地方の方々の心境は
如何ばかりかと思います。

ニセコは自然災害の少ない町、地震もほとんどない町です。
長い間そうした環境の中にいるとそれが当たり前になってしまい、
災害の怖さを想像することもなくなってしまいます。
それが人間の心理なのかもしれません。

ニセコ町は泊原発から30キロ圏内です。
もし福島原発のような事故が泊原発で発生したら、
万全の防災対策をと言っても、切迫感・切実性は湧いてきません。
いつか地震・事故は必ず発生するかもしれない、でも明日は大丈夫、
ここは大丈夫と思うのが人間の心理なのかもしれません。
それは体験した者でなければ想像できない世界なのかもしれません。