『夜の糸ぐるま』(2)
「愛人と和服の美人」
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仕事を終えた人々が家路を急ぐころ、前橋市中心部の弁天通り商店街から
路地を東に入った一角に、ぽつりぽつりと明かりがともります。
わずか40メートルほどのアーケードの下に、長屋が向き合って居並ぶ形の
呑竜(どんりゅう)呑み屋街があります。
人はここを古くからの慣習で、通称『呑竜マーケット』と呼んでいます。
入居するスナックや居酒屋は、薄い壁1枚で仕切られています。
1店舗あたりの面積は、わずか13~16平方メートル余り(5坪から6坪)。
カラオケ目当ての客たちが、狭いカウンターで肩を寄せ合い、
ひたすらマイクを握ります。
康平の店も、その中にある一軒です。
貞園は台湾から日本に絵画修業でやって来た、スレンダーな美人です。
日本に滞在をするようになってから、もう10年余りが経ちました。
すらりとした容姿がものをいい、いつの間にか、ちゃっかりと
某家電メーカー直属の、冷暖房設備会社の社長愛人におさまっています。
「日陰の暮らしは、思いのほか窮屈だし、結構、肩身も狭い。
女遊びは男の甲斐性だと啖呵を切ったあげく、今度は夜来香(いえらいしゃん)のママと、
2泊3日の温泉旅行に出掛けているんだもの、頭にきちゃう。
仕事のできる男は、色を好むし、女遊びが激し過ぎる。
エコノミックアニマルは、みんなドスケベだ。」
「こんなつもりではなかったのに・・・・」を、いつも口癖のように吐いている貞園です。
社長は接待も兼ねて、仕事仲間たちと前橋の繁華街を夜な夜な呑み歩いています。
それをひたすら待つ身の貞園は、愚痴をこぼしつつ康平の店で時間を潰すことが、
最近では、すっかり定番となりました。
国道50号線の北にあり、東を運河としての広瀬川が流れ、
西には関東と新潟を結ぶ大動脈の国道17号線を持ち、交易にはすこぶる
めぐまれた立地を誇ってきたこの界隈は、明治の初期から、生糸の一大産地として、
長く脚光を浴び続けてきました。
朔太郎が『白く濁りたる水が流れる広瀬川」と詠んだように
多くの製糸工場が、明治の中期から大正にかけて、この界隈で乱立をしました。
市街のほぼ中心部に位置をしながらも、多くの製糸工場が有り、
その周辺には、職人や糸取りの女工たちが密集をしたために、川沿いの広範囲には
きわめて低い屋並みが特徴的な、『下町』の風景が生まれました。
終戦直後からの、古い繁華街としての歴史を持つ『呑竜マーケット』も、
そんな町並の中で、ごく当たり前に、自然のままに溶け込んでいます。
6時を過ぎると狭い呑竜の通りには、人の足音と話声がにわかに増えてきます。
『呑竜マーケット』が、徐々に古い常連たちで賑やかになる時間が近づいてきます。
春の日もすっかりと暮れて、夜の帳が『呑竜マーケット』の店先を覆い始めたころ、
和服を着てギターケースを抱えた一人の女性が、康平の店をチラリとのぞき込みます。
頬づえをついている貞園と、グラスを磨いている康平に、
「あとでね」と、笑顔を見せて、すたすたと路地の奥へと立ち去っていきました。
3へつづく
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・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
「愛人と和服の美人」
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仕事を終えた人々が家路を急ぐころ、前橋市中心部の弁天通り商店街から
路地を東に入った一角に、ぽつりぽつりと明かりがともります。
わずか40メートルほどのアーケードの下に、長屋が向き合って居並ぶ形の
呑竜(どんりゅう)呑み屋街があります。
人はここを古くからの慣習で、通称『呑竜マーケット』と呼んでいます。
入居するスナックや居酒屋は、薄い壁1枚で仕切られています。
1店舗あたりの面積は、わずか13~16平方メートル余り(5坪から6坪)。
カラオケ目当ての客たちが、狭いカウンターで肩を寄せ合い、
ひたすらマイクを握ります。
康平の店も、その中にある一軒です。
貞園は台湾から日本に絵画修業でやって来た、スレンダーな美人です。
日本に滞在をするようになってから、もう10年余りが経ちました。
すらりとした容姿がものをいい、いつの間にか、ちゃっかりと
某家電メーカー直属の、冷暖房設備会社の社長愛人におさまっています。
「日陰の暮らしは、思いのほか窮屈だし、結構、肩身も狭い。
女遊びは男の甲斐性だと啖呵を切ったあげく、今度は夜来香(いえらいしゃん)のママと、
2泊3日の温泉旅行に出掛けているんだもの、頭にきちゃう。
仕事のできる男は、色を好むし、女遊びが激し過ぎる。
エコノミックアニマルは、みんなドスケベだ。」
「こんなつもりではなかったのに・・・・」を、いつも口癖のように吐いている貞園です。
社長は接待も兼ねて、仕事仲間たちと前橋の繁華街を夜な夜な呑み歩いています。
それをひたすら待つ身の貞園は、愚痴をこぼしつつ康平の店で時間を潰すことが、
最近では、すっかり定番となりました。
国道50号線の北にあり、東を運河としての広瀬川が流れ、
西には関東と新潟を結ぶ大動脈の国道17号線を持ち、交易にはすこぶる
めぐまれた立地を誇ってきたこの界隈は、明治の初期から、生糸の一大産地として、
長く脚光を浴び続けてきました。
朔太郎が『白く濁りたる水が流れる広瀬川」と詠んだように
多くの製糸工場が、明治の中期から大正にかけて、この界隈で乱立をしました。
市街のほぼ中心部に位置をしながらも、多くの製糸工場が有り、
その周辺には、職人や糸取りの女工たちが密集をしたために、川沿いの広範囲には
きわめて低い屋並みが特徴的な、『下町』の風景が生まれました。
終戦直後からの、古い繁華街としての歴史を持つ『呑竜マーケット』も、
そんな町並の中で、ごく当たり前に、自然のままに溶け込んでいます。
6時を過ぎると狭い呑竜の通りには、人の足音と話声がにわかに増えてきます。
『呑竜マーケット』が、徐々に古い常連たちで賑やかになる時間が近づいてきます。
春の日もすっかりと暮れて、夜の帳が『呑竜マーケット』の店先を覆い始めたころ、
和服を着てギターケースを抱えた一人の女性が、康平の店をチラリとのぞき込みます。
頬づえをついている貞園と、グラスを磨いている康平に、
「あとでね」と、笑顔を見せて、すたすたと路地の奥へと立ち去っていきました。
3へつづく
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・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/