短編『夜の糸ぐるま』(6)
「上州座繰り器」
(上州座繰り器です。昔はこれで糸をつむぎました)
上州座繰り器には、細糸用と太糸用があり、
ハンドル一回転あたりの小枠の回転数が、7回転と、4回転半前後のものがあります。
普及には地域差があり、群馬県の東と西でそれぞれ用途が分かれます。
碓氷や甘楽、富岡などの西北部一帯では、主に輸出用の細糸を繰糸した為に、
7回転が主で、「富岡式座繰り」と呼ばれました
富岡は、明治の初期に官営のモデル工場・「富岡製糸場」が建てられ、
近代製糸業の発祥の地になったことでも、良く知られています。
県の中央部から東の前橋や桐生では、早い時期から、
営業製糸や器械製糸が発達をしたために、機械化では利用しきれない二等繭や
玉繭などを有効的に活用した座繰り繰糸が、伝統的に継承をされたようです。
このような原料を繰糸するためには、トルク(力のこと)のある4回転半のほうが好まれ、
これらは「前橋座繰り」と呼ばれました。
本繭と区別をする意味で、二等繭や玉繭とよばれている『くず繭』が、
独特の風合いを持つ、伝統工芸の『紬』を生み出します。
二頭の蚕が一緒になってひとつの繭を作ったものを玉繭と呼んでいます。
玉繭は2~3%の割合で自然発生をしますが、きわめて希少な価値もふくんでいます。
ただし糸口が2ヵ所から出たり、糸そのものが途中で切れやすいなどの難点があり、
正規の繭から見れば扱い難く、多くが排除されて手作業用に回されました。
絹独特の、柔らかな風合いのある生地は、
本繭の繭玉をほぐして、長い1本の生糸を紡ぐ事によって生みだされます。
本繭と呼ばれるのは、楕円形の形の整った繭玉のことをさします。
これに対し、それ以外のいびつな形をしたものは、一様に『くず繭』と呼ばれます。
くず繭の糸は絡まってしまっており、まっすぐの長い1本の糸にならないため、
おおくが(機械では)使い物になりません。
当時の農民たちが、このくず繭から座繰り器を用いて生糸を紡ぎ、
自分たちの着物(野良着)を織ったのが、「紬」のはじまりでした。
切れ切れの生糸を、こよりをより合わせるように手撚りして
一本の糸に仕上げたものが紬糸といわれ、太さがまちまちな糸が出来あがります。
こうした紬糸で織られた織物が、「紬」です。
野良着に用いられるために、きわめて耐久性にすぐれ、
表面にちいさなこぶが生じるなど、無骨で独特の風合いを持っています。
「紬」は、野良着として用いられてきた事から、格の低い着物とされ
正装には用いてはならないとされています。
格の低い着物とされてきた「紬」ですが、ほとんどが手作業で織り上げられるため、
手間がかかりすぎ、大量生産ができないという、実は希少な着物です。
伝統工芸とはいえ時と共に、その織り手も減る一方です。
「紬」独特の生地の風合いを好む人は多く、おしゃれ着でありながら
今では、高価な着物となっているようです。
「座繰り糸作家の東さんと始めた会ったのは、
6年前の冬で、とても寒い、からっ風が吹いている晩でした。
京都の呉服屋さんでデザイン業務をしていた東さんが、
絹に関心をもったことがきっかけで「上州座繰り」とたまたま出会いました。
「発祥の地だから、きっと学ぶ場があるはず」と、
永住する覚悟を決めて、25歳のときに、単身で群馬へやってきたそうです。
赤城山の山麓に有る、富士見村で糸ひきを生業とするおばあちゃんを訪ねたのが、
群馬までの最初の行動で、その第一歩ななりました。
群馬県が開いた座繰りの講習会などにも、積極的に参加したようです。
でも、伝承的な文化と民芸品的な価値はあったにしても、生産量も乏しく、
とても、商用品にはならず、職業としてはなりたたない世界です。
当初は、ずいぶんと苦労をされたようでした」
「6年前と言えば、もう、夜の糸車の詞が出来ていたころだよね。
地元紙の文芸欄に、なにげに投稿されていて、それをたまたま読んだ覚えが有る。
そしてそれがそのまま、俺の記憶に残っていたんだ」
「え? 詞はそんな前から出来ていたの。
だって、歌い始めたのは、たしか2~3年前だわよねぇ・・・・
マスターが有頂天になって、喜んでいたのは、つい最近だもの。間違いなく・・・」
貞園が怪訝な顔つきで、横やりを入れます。
思い出話を重ねているうちにいつしか引きずり込まれ、昔の出来ごとに
埋没をしていたあゆみの頭が、ようやくのことで、現実のこの場所へ戻ってきました。
(そうだ。たったの6年間だったけれど私には、
きわめて激しく、目まぐるしく、生き方が変化をし続けた6年間だった。
東さんと二人で座繰り糸の勉強を始めて、そのまま生糸の織物作家になるはずが、
いつの間にか詞を書いて、歌を歌う人生に変わってしまった。
流れの演歌師だったあいつと行き会った瞬間に、あっというまに恋に落ちて、
気がついたら、二人で所帯をもつ羽目になったんだ・・・・
もうあいつとは、別れてしまったというのに、このお腹には、赤ちゃんが居る。
事実だけが、私のこのお腹で生きている・・・・)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
「上州座繰り器」
(上州座繰り器です。昔はこれで糸をつむぎました)
上州座繰り器には、細糸用と太糸用があり、
ハンドル一回転あたりの小枠の回転数が、7回転と、4回転半前後のものがあります。
普及には地域差があり、群馬県の東と西でそれぞれ用途が分かれます。
碓氷や甘楽、富岡などの西北部一帯では、主に輸出用の細糸を繰糸した為に、
7回転が主で、「富岡式座繰り」と呼ばれました
富岡は、明治の初期に官営のモデル工場・「富岡製糸場」が建てられ、
近代製糸業の発祥の地になったことでも、良く知られています。
県の中央部から東の前橋や桐生では、早い時期から、
営業製糸や器械製糸が発達をしたために、機械化では利用しきれない二等繭や
玉繭などを有効的に活用した座繰り繰糸が、伝統的に継承をされたようです。
このような原料を繰糸するためには、トルク(力のこと)のある4回転半のほうが好まれ、
これらは「前橋座繰り」と呼ばれました。
本繭と区別をする意味で、二等繭や玉繭とよばれている『くず繭』が、
独特の風合いを持つ、伝統工芸の『紬』を生み出します。
二頭の蚕が一緒になってひとつの繭を作ったものを玉繭と呼んでいます。
玉繭は2~3%の割合で自然発生をしますが、きわめて希少な価値もふくんでいます。
ただし糸口が2ヵ所から出たり、糸そのものが途中で切れやすいなどの難点があり、
正規の繭から見れば扱い難く、多くが排除されて手作業用に回されました。
絹独特の、柔らかな風合いのある生地は、
本繭の繭玉をほぐして、長い1本の生糸を紡ぐ事によって生みだされます。
本繭と呼ばれるのは、楕円形の形の整った繭玉のことをさします。
これに対し、それ以外のいびつな形をしたものは、一様に『くず繭』と呼ばれます。
くず繭の糸は絡まってしまっており、まっすぐの長い1本の糸にならないため、
おおくが(機械では)使い物になりません。
当時の農民たちが、このくず繭から座繰り器を用いて生糸を紡ぎ、
自分たちの着物(野良着)を織ったのが、「紬」のはじまりでした。
切れ切れの生糸を、こよりをより合わせるように手撚りして
一本の糸に仕上げたものが紬糸といわれ、太さがまちまちな糸が出来あがります。
こうした紬糸で織られた織物が、「紬」です。
野良着に用いられるために、きわめて耐久性にすぐれ、
表面にちいさなこぶが生じるなど、無骨で独特の風合いを持っています。
「紬」は、野良着として用いられてきた事から、格の低い着物とされ
正装には用いてはならないとされています。
格の低い着物とされてきた「紬」ですが、ほとんどが手作業で織り上げられるため、
手間がかかりすぎ、大量生産ができないという、実は希少な着物です。
伝統工芸とはいえ時と共に、その織り手も減る一方です。
「紬」独特の生地の風合いを好む人は多く、おしゃれ着でありながら
今では、高価な着物となっているようです。
「座繰り糸作家の東さんと始めた会ったのは、
6年前の冬で、とても寒い、からっ風が吹いている晩でした。
京都の呉服屋さんでデザイン業務をしていた東さんが、
絹に関心をもったことがきっかけで「上州座繰り」とたまたま出会いました。
「発祥の地だから、きっと学ぶ場があるはず」と、
永住する覚悟を決めて、25歳のときに、単身で群馬へやってきたそうです。
赤城山の山麓に有る、富士見村で糸ひきを生業とするおばあちゃんを訪ねたのが、
群馬までの最初の行動で、その第一歩ななりました。
群馬県が開いた座繰りの講習会などにも、積極的に参加したようです。
でも、伝承的な文化と民芸品的な価値はあったにしても、生産量も乏しく、
とても、商用品にはならず、職業としてはなりたたない世界です。
当初は、ずいぶんと苦労をされたようでした」
「6年前と言えば、もう、夜の糸車の詞が出来ていたころだよね。
地元紙の文芸欄に、なにげに投稿されていて、それをたまたま読んだ覚えが有る。
そしてそれがそのまま、俺の記憶に残っていたんだ」
「え? 詞はそんな前から出来ていたの。
だって、歌い始めたのは、たしか2~3年前だわよねぇ・・・・
マスターが有頂天になって、喜んでいたのは、つい最近だもの。間違いなく・・・」
貞園が怪訝な顔つきで、横やりを入れます。
思い出話を重ねているうちにいつしか引きずり込まれ、昔の出来ごとに
埋没をしていたあゆみの頭が、ようやくのことで、現実のこの場所へ戻ってきました。
(そうだ。たったの6年間だったけれど私には、
きわめて激しく、目まぐるしく、生き方が変化をし続けた6年間だった。
東さんと二人で座繰り糸の勉強を始めて、そのまま生糸の織物作家になるはずが、
いつの間にか詞を書いて、歌を歌う人生に変わってしまった。
流れの演歌師だったあいつと行き会った瞬間に、あっというまに恋に落ちて、
気がついたら、二人で所帯をもつ羽目になったんだ・・・・
もうあいつとは、別れてしまったというのに、このお腹には、赤ちゃんが居る。
事実だけが、私のこのお腹で生きている・・・・)
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/