短編『夜の糸ぐるま』(4)
「女演歌師」
薄い壁を通して、隣から、女性の歌声が聞こえてきました。
県内にある主な繁華街を日替わりで巡回をしている演歌歌手の、美和あゆみの歌声です。
前橋を起点に、高崎、伊勢崎、桐生、渋川の繁華街をそれぞれ渡り歩いています。
それにもかかわらず本人がいまだに住まいをしているのは、県西部に有る静かな山里でした。
長野との県境がある碓氷峠の麓に住んだままで、前橋からは一時間近くもかかります。
かつては江戸幕府が『入り鉄砲と出おんな』を厳しく取り締まってきたという
碓氷関所跡の近所です。
そこにこだわり続ける理由について、何度となく聞かれても
『訳あって、離れることができません』と、愛くるしく笑うだけで、
それ以上の仔細については、あくまでも語ろうとしません。
どことなく哀愁を帯びた雰囲気と歌声の持ち主です。
ひかえめながら気持ちよく伸びていく、すこしかすれた高音部の歌い方が特徴的で、
曲全体を、しっとりとした感じで歌い上げるのが、美和あゆみの持ち味です。
そんな彼女の歌声をいち早く聞きつけた貞園が、壁にもたれて、軽くリズムを刻みながら
目を閉じて、その歌声に聞き惚れています。
「マスターがお気に入りの、美和ちゃんが、
いつものように、今日も、とてもしっとりと歌っている。
そういえば、もう前橋の日なのかしら・・・・
あっ、そう言えば、ねぇぇ、聞いた?。
美和ちゃん、日本作詞家協会の正会員になったんだって!」
「初耳だ。へぇ、そうなんだ。頑張ったかいがあるね。たいしたもんだ」
「余り感動していないわねぇ・・・・その口ぶりは。
ごく、当たり前と言う顔をしているもの」
日本作詩家協会は、すでに40年以上の歴史を持ち、
我が国最大の、作詩家たちによる一般社団法人の団体です。
作詩家。つまり、メロディーを持った楽曲の詩を書くことを職業とした、プロの集団です。
それぞれが、良い詩を書くために腕を磨くと共に、音楽という大切な日本の文化と
国益である著作権を守るために、日夜努力をしている職業集団です。
女性演歌師として、群馬県内で地道に活動を続けている美和あゆみは、
歌手であるとともに、多くの詞を書き、あちこちの歌手へ曲の提供を続けていました。
これといったヒット作があるわけではありませんが、地方で活動をしている歌手たちにとっては
無償でオリジナルの楽曲を提供してくれる、心強い味方の一人です。
地道な活動が評価されたと言う事も有るようですが、それにしても、
地方在住で詞を書いている女性が、日本作詞家協会の正式な会員になるという事は、
きわめて稀な出来事であり、快挙とも言える事態です。
「ほんと、そっけないわねぇ。
意中の女が、大きな事をやってのけたというのに、
なんでそんなにしらばっくれて、冷たい態度でいられるわけ?。
彼女の書いた『夜の糸ぐるま』は、マスターの一番のお気に入りでしょう。
才能が有る。この辺で埋もれるのには実に惜しいって、あれほど言ってたくせに。
あ、そうか・・・・歌よりも、歌っている本人のほうに、
ただ、興味が有るだけなんだ」
「相手は既婚者だ。めったなことを言うもんじゃない」
「そう?。別にいいんじゃないの。
亭主が居ようが、男が居ようが、好きならば奪い取ればいいだけの話だわ」
「すべてが、お前さんのように上手くいくわけじゃない。
だいいち、事情が異なる。
世の中は上手くいかないほうが、多すぎるんだよ。
いいんだよ、俺は眺めているだけでも。彼女の純粋なファンの一人だ」
「ふ~ん。どうせ私は、尻の軽い台湾女です。
作詞が出来るほどの才能があたしにも有れば、あたしにだって、
別の世界も開けただろうになぁ。
絵の才能も、結局たいしたことがなかったし、、
あたしの頭の中味も、やっぱり見かけ以上に、出気が悪すぎるんだ」
「そんなことはありません。
いつ見てもチャーミングだわ、貞園ちゃんは」
ガラリと戸を開けて、噂の本人、美和あゆみが入ってきました。
貞園が、赤い顔をしてあわてて口元を押さえています。
「呑竜仲店では、悪口は言えません。
ここは、向こう三軒両隣で、すべての話が筒抜けで聞こえてしまいます。
昨日までは私も既婚者でしたが、今日からは、ただの『バツいち』になってしまいました。
マスター、一杯もらえる?
もう、今日の営業はおしまいにしますから。
貞園ちゃん・・・・社長は別の愛人と温泉旅行中ですって?。お気の毒に。
じゃあ、恵まれない不幸な女同士で、乾杯でもしましょうか。
それとも・・・・男に逃げられてしまった貧乏神みたいな女は、お嫌い?」
あゆみがほつれかけてきた前髪を、ふわりと掻き上げます。
隠れていた右目の下に、薄い青あざのようなものが、かすかに見てとれました。
『亭主は酒に酔うと、意味もなく、私に暴力ふるうの・・・・」
そんなあゆみの嘆きを康平は、だいぶ前に、チラリと聞いた覚えがあります。
(別れたたのか、あの暴力亭主と・・・・へぇ・・)
意味ありそうな視線の貞園へ、『余計なことは言うんじゃねぇぞ』と一瞥を投げてから、
康平がゆっくりと、あゆみに頼まれた酒の支度を始めました。
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