舞うが如く 最終章
(4)工女たちの「運動会」とは

水沼製糸場における最盛期では600人を越える工女たちが働いていました。
彼女たちの指先から紡がれた良質の生糸は、
当時のアメリカにおいて、女性たちの足を飾り立てる絹の靴下として、
大いに人気を博しています。
長屋門の寄宿舎は、さらに拡大されました。
同時に中庭にも、2階建ての新しい宿舎も建てられ、工場はさらに拡大の一途をたどります。
こうして、人家もまばらだった渡良瀬川渓谷沿いの寒村にはまたたくまに、
年若い女性たちの大所帯が、誕生をしてしまいました。
多くは近郷から働きに来たの少女たちでしたが、遠く新潟や長野から働きに来た娘や、
おなじく遠隔地からの幼い少女たちなどもたくさん含まれていました。
女性たちが身分制度の厳しい、封建時代から解き放たれたとはいえ、
社会的には、まだまだ未権利のままにおかれた時代です。
安心して働ける「職場」といえるものが皆無だったこの時代に、
器械化を伴った製糸場の登場は、工女という仕事を女性たちにもたらして、
一躍、人気職業として脚光をあびました。
「工女」という言葉は流行語となり、研さんを積んで一級工女になることが、
この当時の田舎の出世物語になりました。
しかしそ一方で、この大集団による共同生活ぶりが、健康面では大いなる
災いを招くことになってしまいました。
狭い宿舎や、締め切ったうえに蒸気の充満した工場での過密な労働が、
健康な彼女たちの肉体を、序々に蝕ばみはじめます。
官営の模範製糸工場として、当時において最先端の医学施設を備えた
富岡製糸場においてですら、明治26年までの官営の操業期間中に、
病気などで亡くなった者の数は実に、64人にもおよびました。
また当時の資料の一つで、「女工と結核」史によれば工場労働者80万人のうち、
女子が50万人とあり、そのおおくが繊維関係の工女です。
繊維工女たちの年齢は、16から20歳までが最も多く、
中には、12歳未満の工女も存在したとその記録には残っています。
病気のために解雇をされ、帰郷後に死亡したものについて見てみると、
死亡者1,000人のうちの703人が、結核による死亡です。
実に、7割強が結核あるいは、その疑いのある病気だったといわれています。
アメリカに自社の担当者を派遣して、直接生糸を売り込む水沼製糸場の商法は、
この当時、大きな成果をあげました。
同時に西洋医学にも着目をして、早くから医療と工女たちの
診療体制を確立をしていきました。
また、法神流発祥の地と言うこともあり、
工場内には小さいながらも、剣術の道場が建てられました。
琴を師範代に、咲が筆頭塾生となり、少女たちに剣と薙刀を指導しました。
真新しい道場に、久々に純白の袴をつけた琴が立ちました。
流麗な薙刀さばきもさることながら、その凛とした粋ないでたちに、
心を震わせた乙女たちが続々と入門をしはじめます。
手狭となった道場を出て、工場の敷地の一角で鍛錬をするようになると、
さらに評判を呼び見学者が増え、入門者も急増をします。
渡良瀬川の下流にある市街地の大間々までは、およそで2里余りです。
銅山のある足尾まで続く街道沿いにあるこの水沼では、娘たちが楽しむための
余興場や商店などは、ただの一軒もありません。
もともとが街道沿いに、少数の人々で細々と農業を営んできた寒村の集落です。
そのために、多くが日暮れと共に宿舎の部屋へこもったまま、
思い思いに時間を過ごすしかありません。
楽しみと言えば、休日に大間々の市街地へ出て、芝居小屋や余興場へ
繰りだして、商店街などで買い物をすることくらいでした。
荷車や牛馬などでも繰りだしますが、多くは数人づつの連れとなり
渓谷沿いの山道を、2時間近くをかけて歩きます。
地元の人たちが、足尾からの荷馬車で賑わう銅(あかがね)街道のもうひとつの名物として、
「工女たちの運動会」と呼んだ光景です。
足尾銅山は、1550年(天文19年)に発見をされました。
本格的にその採掘が開始されたのは、江戸時代からのことでした。
当時の足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」とまでいわれるようになりました。
当時の代表的な通貨のひとつ、寛永通宝もここで鋳造されています。
江戸時代には、年間1,200トンを産出しましたが、
その後、一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけては、
ほぼ閉山状態となってしまいました。
明治4年(1871年)に民営化されましたが、銅の産出量は、
年間150トンにまで落ち込んでいました。
足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、
1877年(明治10年)に、古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手をしました。
数年間は全く成果が出ませんでしたが、1881年(明治14年)に、待望の有望鉱脈が発見されました。
その後、探鉱技術の進歩によって、次々と有望鉱脈が発見され、やがて、20世紀初頭には
日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長をしました。
産出した銅の多くは、渡良瀬川に沿って山を下り、
扇状台地の付け根にあたる、大間々の宿に運びこまれました。
大間々はまた同時に、周囲の農家などで紡がれた生糸の集散地でもあります。
此処で一泊した銅と生糸は、さらに川船が往来する利根川をめざして、
荷馬車と荷車で銅街道を南に運ばれて行きました。
しかし急峻な山間部にあたる足尾と大間々の間には、
休むための宿場や宿坊は、ひとつとして作られてはいません。
所々に集落はあるものの、人気のない山道をほぼ1日がかりで歩き切る道中となります。
その道中に、水沼から工女たちの群れが加わります。
工女のほとんどが「年季奉公」と呼ばれる形態で水沼製糸場にやってきました。
預かった側の水沼製糸場での大切な仕事のひとつは、この「年季奉公」の
少女たちの身持ちと安全を守ることでした。
そんないきさつも含めて、腕の立つ琴や咲たちは、ここでは
「親衛隊」などと呼ばれています。
時には荒くれ男たちも往来するために、娘たちはことのほかに、
琴や咲たちを頼りにして、なにかにつけて道行きの口実をつくりだします。
そのために、ここだけがいつも大きな集団となり、大行列となってしまいました。
「運動会」の中でも、とりわけ目立つ規模となり、巷では「琴さまご一行」などと、
もっぱらの評判が立つようになりました。
最終章(5)へ、つづく
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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (28)半玉のつくり方
http://novelist.jp/62295_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html

(4)工女たちの「運動会」とは

水沼製糸場における最盛期では600人を越える工女たちが働いていました。
彼女たちの指先から紡がれた良質の生糸は、
当時のアメリカにおいて、女性たちの足を飾り立てる絹の靴下として、
大いに人気を博しています。
長屋門の寄宿舎は、さらに拡大されました。
同時に中庭にも、2階建ての新しい宿舎も建てられ、工場はさらに拡大の一途をたどります。
こうして、人家もまばらだった渡良瀬川渓谷沿いの寒村にはまたたくまに、
年若い女性たちの大所帯が、誕生をしてしまいました。
多くは近郷から働きに来たの少女たちでしたが、遠く新潟や長野から働きに来た娘や、
おなじく遠隔地からの幼い少女たちなどもたくさん含まれていました。
女性たちが身分制度の厳しい、封建時代から解き放たれたとはいえ、
社会的には、まだまだ未権利のままにおかれた時代です。
安心して働ける「職場」といえるものが皆無だったこの時代に、
器械化を伴った製糸場の登場は、工女という仕事を女性たちにもたらして、
一躍、人気職業として脚光をあびました。
「工女」という言葉は流行語となり、研さんを積んで一級工女になることが、
この当時の田舎の出世物語になりました。
しかしそ一方で、この大集団による共同生活ぶりが、健康面では大いなる
災いを招くことになってしまいました。
狭い宿舎や、締め切ったうえに蒸気の充満した工場での過密な労働が、
健康な彼女たちの肉体を、序々に蝕ばみはじめます。
官営の模範製糸工場として、当時において最先端の医学施設を備えた
富岡製糸場においてですら、明治26年までの官営の操業期間中に、
病気などで亡くなった者の数は実に、64人にもおよびました。
また当時の資料の一つで、「女工と結核」史によれば工場労働者80万人のうち、
女子が50万人とあり、そのおおくが繊維関係の工女です。
繊維工女たちの年齢は、16から20歳までが最も多く、
中には、12歳未満の工女も存在したとその記録には残っています。
病気のために解雇をされ、帰郷後に死亡したものについて見てみると、
死亡者1,000人のうちの703人が、結核による死亡です。
実に、7割強が結核あるいは、その疑いのある病気だったといわれています。
アメリカに自社の担当者を派遣して、直接生糸を売り込む水沼製糸場の商法は、
この当時、大きな成果をあげました。
同時に西洋医学にも着目をして、早くから医療と工女たちの
診療体制を確立をしていきました。
また、法神流発祥の地と言うこともあり、
工場内には小さいながらも、剣術の道場が建てられました。
琴を師範代に、咲が筆頭塾生となり、少女たちに剣と薙刀を指導しました。
真新しい道場に、久々に純白の袴をつけた琴が立ちました。
流麗な薙刀さばきもさることながら、その凛とした粋ないでたちに、
心を震わせた乙女たちが続々と入門をしはじめます。
手狭となった道場を出て、工場の敷地の一角で鍛錬をするようになると、
さらに評判を呼び見学者が増え、入門者も急増をします。
渡良瀬川の下流にある市街地の大間々までは、およそで2里余りです。
銅山のある足尾まで続く街道沿いにあるこの水沼では、娘たちが楽しむための
余興場や商店などは、ただの一軒もありません。
もともとが街道沿いに、少数の人々で細々と農業を営んできた寒村の集落です。
そのために、多くが日暮れと共に宿舎の部屋へこもったまま、
思い思いに時間を過ごすしかありません。
楽しみと言えば、休日に大間々の市街地へ出て、芝居小屋や余興場へ
繰りだして、商店街などで買い物をすることくらいでした。
荷車や牛馬などでも繰りだしますが、多くは数人づつの連れとなり
渓谷沿いの山道を、2時間近くをかけて歩きます。
地元の人たちが、足尾からの荷馬車で賑わう銅(あかがね)街道のもうひとつの名物として、
「工女たちの運動会」と呼んだ光景です。
足尾銅山は、1550年(天文19年)に発見をされました。
本格的にその採掘が開始されたのは、江戸時代からのことでした。
当時の足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」とまでいわれるようになりました。
当時の代表的な通貨のひとつ、寛永通宝もここで鋳造されています。
江戸時代には、年間1,200トンを産出しましたが、
その後、一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけては、
ほぼ閉山状態となってしまいました。
明治4年(1871年)に民営化されましたが、銅の産出量は、
年間150トンにまで落ち込んでいました。
足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、
1877年(明治10年)に、古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手をしました。
数年間は全く成果が出ませんでしたが、1881年(明治14年)に、待望の有望鉱脈が発見されました。
その後、探鉱技術の進歩によって、次々と有望鉱脈が発見され、やがて、20世紀初頭には
日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長をしました。
産出した銅の多くは、渡良瀬川に沿って山を下り、
扇状台地の付け根にあたる、大間々の宿に運びこまれました。
大間々はまた同時に、周囲の農家などで紡がれた生糸の集散地でもあります。
此処で一泊した銅と生糸は、さらに川船が往来する利根川をめざして、
荷馬車と荷車で銅街道を南に運ばれて行きました。
しかし急峻な山間部にあたる足尾と大間々の間には、
休むための宿場や宿坊は、ひとつとして作られてはいません。
所々に集落はあるものの、人気のない山道をほぼ1日がかりで歩き切る道中となります。
その道中に、水沼から工女たちの群れが加わります。
工女のほとんどが「年季奉公」と呼ばれる形態で水沼製糸場にやってきました。
預かった側の水沼製糸場での大切な仕事のひとつは、この「年季奉公」の
少女たちの身持ちと安全を守ることでした。
そんないきさつも含めて、腕の立つ琴や咲たちは、ここでは
「親衛隊」などと呼ばれています。
時には荒くれ男たちも往来するために、娘たちはことのほかに、
琴や咲たちを頼りにして、なにかにつけて道行きの口実をつくりだします。
そのために、ここだけがいつも大きな集団となり、大行列となってしまいました。
「運動会」の中でも、とりわけ目立つ規模となり、巷では「琴さまご一行」などと、
もっぱらの評判が立つようになりました。
最終章(5)へ、つづく
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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (28)半玉のつくり方
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