連載小説「六連星(むつらぼし)」第10話
「湖底の村」
「うわ~。まるで江戸時代にタイムスリップしたみたい」
いつのまにか俊彦の右腕にからみついてきた響が、また黄色い声を上げています。
白い土塀をぐるりと回り込むと、まるで映画のセットを思わせるような、
そそりたつ板塀と白い漆喰壁の小路が現れました。
響の母が住んだと言う、白い土蔵と隣り合った町屋(長屋)へ行くために、
俊彦が選んだ小路は、『酒屋通り』です。
桐生天満宮を基点にして、碁盤の目のように規則正しく区分けをされているこのあたりには
三角屋根の織物工場や、明治や大正からの建物などがたくさん残っています。
その中でもこの造り酒屋はとりわけ古く、年代は明らかになっていないものの
一説には、江戸の中期からと言う歴史を伝えています。
「このあたりには、ぜんぶで400軒あまりの建物が有る。
そのうちの約半数が、昭和20年よりも以前に建てられたもので、
すこぶる古い家ばかりだ。
伝統的建造物群と呼ばれ、今、保存のための運動などを展開中だ。
ほら、その先に、もうひとつの長い板塀が現れてきた。
ここが、君のお母さんが、小学校3年から湯西川へ芸者修業へ行くまで
ずっと住んでいた母屋だよ。
ここも古いもので、建てられたのはおそらく昭和の一ケタだ。
ざっと80年から90年は経っているだろう。、古い町屋のひとつだ」
響が、黒塀にそっと触れながら、母の面影を探しています。
ゆっくりとしたその足取りが、板塀の中間あたりに作られた門のところで立ち止まりました。
覗きこむと、ポンポンと置かれた飛び石の先に、黒光りする格子戸の玄関が見えます。
目線を上げた響が、廂(ひさし)から青みがかった瓦の屋根を見つめます。
その屋根の稜線を覆うように、急場しのぎの青いビニールシートが目に入ります。
響が、小さな声でささやきます。
「ねぇ・・・・
去年の東日本大震災の傷跡かしら。痛々しいわね。
一年近くもたつというのに、いまだに修復が出来ないなんて、可哀そう」
「昔の家は、瓦もまた特別な素材だ。
ゆえに修復しょうにも、入手が出来ない状態だ。
今のところ、修復の見通しはたっていない。それでこのままの状態さ」
「そうなんだ・・・・
ねぇ、お母さんは小学校3年から此処に住んだと、今言ったわよねぇ。
じゃあ、その前はどこなの。お母さんが生まれた本当の場所は」
「今はもう、湖底の村だ。
足尾から流れてくる渡良瀬川をせき止めて作られた、草木ダムの水の下さ。
場所は、神戸と書いて、『ごうど』と読む。
そこがお母さんが生まれた、本当の故郷だ」
「水の底か・・・・」
「ちょうど今頃は、渇水の時期だ。
うまくいくと、ダムの底が見えるかもしれない
雪解け前は、一番水量が少なくて、時々沈んだ昔の集落が姿を現すことがある。
しばらく雨も降っていないので、可能性はあるかもしれない。
ここからなら、小一時間くらいで行ける。
ドライブがてら、草木ダムまで行ってみるかい」
「喜んで」、と、右手にぶら下がった響は、
もうすでに母が生まれたという、湖底の村に思いをはせています。
「いつのまにか、恋人たちのような接近ぶりだ」と俊彦が苦笑をしています。
「それではもう一度、三歩ほど後ろに下がりましょうか」と響が、
悪戯そうな目で俊彦を見上げます。
「いや、俺もまんざらでもない。もうそれに、今となっては後の祭りだろう」
と俊彦がぼやいてみせれば、それに乗じて響がさらに鼻をならし身体を擦り寄せてきます。
「あまりくっつくなよ。とてもじゃないが、歩きづらいだろう、おいっ」
・・・・しかしながら、若い娘はこうなると、もう、どうにも手がつけられないようです。
桐生の市街地から、赤城山の東端を流れている渡良瀬川にそって
草木ダムまでは、途中の旧宿場町・大間々町(おおまままち)を経由して、
ほぼ30キロ余りの道のりです。
左右からせり出してくる山の麓をめぐり、ひたすら川に寄り添い、谷底を這うようにしながら
山奥を目指して、牛馬のためにつくられたという昔の銅山街道が続きます。
緩やかな起伏を何度か繰り返した後に、道路が突然渓谷から離れはじめました。
旧道から離別をした道路は、左側の山の斜面をひたすら一気に駆けあがります。
長い直線の急坂路を登り切ると、最後の難所が待ちかまえています。
突然迫りくるヘアピン状のS字カーブが、それまでの坂道を登る加速から
一転しての急ブレーキを、ドライバーに要求をします。
まるで今来た方向を無理やり振り返るほどの急角度で、道路は旋回を続けます。
ふたつに連結したこの急カーブを抜けると、周辺の山々が瞬時に消えて、
目の前の展望はいっぺんに開けます。
現れた草木ダムは、巨大に湾曲したコンクリート色の壁です。
はるか眼下に見る川底からそそり立った壁の高さは、実に140mをほこります。
利根川水系につくられた8つ有るダムの一つで川治ダム(鬼怒川)と並んで、
奈良俣ダム(楢俣川)の158.0mに次ぐ壁の高さを持っています。
このダムによって形成された人造湖は、草木湖(くさきこ)と命名されました。
財団法人ダム水源地環境整備センターの選定するダム湖百選にも選ばれています。
この地域は狭隘山間地にしては珍しいほど、比較的開けた山村でした。
足尾町と桐生市のちょうど中間点にも位置していて、交通の便も良く、
かつては居住者たちもたくさんいました。
このために当時の住民のダム建設反対運動には、きわめて激しいものがありました。
漁業権の補償などと並んで容易に問題が解決できなかったために、2度にわたって
着工が遅れたという経緯もあります。
しかし最終的には、このダム建設によって東村神戸(あずまむら・ごうど)と
沢入(そうり)地区などの住民、230戸が水没をしてしまいました。
ダム湖を見下ろしながら、さらに1キロほど走った先に、
湖を横切る真っ赤な橋で、草木のシンボルともいえる湖上橋が現れます。
俊彦の運転する車は、その橋へ乗り入れ、その中間部で欄干に寄せて停車をしました。
「だいぶ、水も少なくなっている。
ほらご覧。高台にあった昔の小路の跡がむきだしになって、良く見えている」
響が、真っ赤な橋の欄干から身を乗り出します。
真っ青な湖面から突き出るようにして、枯渇した木々や、
堆積した土で白く光る家々の屋根の様子などが、点々と見て取る事が出来ます。
足元の水面から突然現れた昔の街道が、高台を巻き込むような形で丘を迂回してから
その先で、再びゆるやかに水の中へと没していく光景も見えます
「ここが、お母さんが生まれた村。
人が住んでいたままの家や街道が、リアルに水の底へそっくり沈んでいるなんて。
うわぁ・・・・なんなのだろうこの気持ち。なんだか無性に寂しくなるような光景だ。
胸が痛むというか、切なくて涙まで出てきそう」
(へぇ、こいつ。結構いい感性をもっていそうだ・・・)
そう俊彦がつぶやいたとき、胸のポケットで携帯電話が鳴りはじめます。
着信表示を確かめた俊彦が、顔をあげてこちらを見ている響からは少し距離をとり、
背中を向けてから電話に出ます
(誰だろう・・・・私には聞かせたくない話かな・・・)
響は、欄干に両肘を乗せたまま、こっそりとそんな俊彦を横目で観察をしています。
俊彦の、長めの電話はさらに続いています。
再び足元の光景に眼を戻した響は、泥が乾いて鈍く銀色に光る街道の様子などを、
ぼんやりとしたまま、時間をかけて見つめ続けています。
(あそこに見えているのは、たぶん、この集落のもともとの道かしら。
ということは、あそこを、小さいころのお母さんが歩いていたということになる。
ということは・・・・40年くらい前のことかしら?
40年前までは、ここには人々が居て母が居て、ちゃんと生きて暮らしてきた集落が有った。
ダムにされる前までは、長年にわたって普通に人が暮らしてきた場所だ。
それを、こんな風に水没をさせるなんて、
いったい、誰のために、なんのために、なんでこんなものを作ったんだろう。
なんのために、230戸もの人たちの故郷を水の底に沈めるのだろう・・・・
お母さんは、どんな思いでここから桐生に移ったのだろう。
なんだかなあ。見てるだけで、切なくなってきちゃった・・・・)
「響、温泉は好きかい?」
俊彦が携帯を胸に戻しながら戻ってきました。
「それって・・・・もしかしたら、
温泉で落ちあう約束の人が、突然現れましたという意味かしら。
今日は一日、私と遊んでくれるって約束をしてくれたのに、
意外と浮気性なんだ。トシさんは」
「そう言うな。
実は久々に行き会う、懐かしい人からのお誘いだ。
そう言わずに、つき合ってくれ。
この先の日光の温泉で落ちあうと、今、約束をした。
ここからなら、もう目と鼻の先だ。
いいかい、行っても」
「その人が私よりも、美人じゃ嫌よ。私は行かないわ。
温泉は大好きだけど、
そういうことなら、あたしは此処から帰ります」
「う~ん、難しい問題だ。たぶん、甲乙はつけがたい。
響も美人だが、相手のご婦人もまた、まちがいなく美人の部類に入る。
ん、・・・・それにしても行き会う相手が女性だと、よくわかったね。
野生の感かい」
「恋する乙女は、常に敏感です。
第一、携帯の着信を見た瞬間に、にんまりと自分で喜んでいたくせに。
トシさんも、嘘がつけないタイプです。
そうか、『ご婦人』と呼ぶとなると、相手はきっと妙齢の女性だな。
よし、年齢で比べれば、そこは私が勝ってる。
いいわよ、行きましょう。
その、(三角関係になりそうな)妙齢のご婦人が待っているという、
日光の温泉とやらへ」
「お前なあ、見かけはチャーミングなのに、
妙に先走る、その鋭どすぎる『やっかみ』はよくないぜ。
誰に似たんだ。お母さんはおしとやかだというのに、君はちょっと別だね」
「じゃあ、まだ見たことのない、お父さんの影響です。きっと」
「へぇ、君のお父さんと言う人は、あまのじゃくな性格かい、もしかして。
ところで、君は今でもそのお父さんに、会いたいのかい」
「まだ、自分でも今のところは半信半疑です。
逢いたいような、逢いたくないような、まだまだ私自身が揺れています」
「そうだね、突然となる再会だ。
お互いの心中も、たぶん複雑なことになるだろう・・・・
じゃあ行くから、シートベルトを絞めてくれ。
ここから先は信号のほとんど無い、快適な渓流沿いの山岳コースのドライブだ。
春の新芽にはすこし早いが、それでも車窓の景色は充分に美しい。
久々に美人を乗せてのドライブだ。
俺の、胸も腕も高鳴る」
「あら、よく言うわ。
本当は、日光で待っている本命の
妙歳のご婦人に会いたくて、トシさんの胸は高なっているくせに。
いいわよ、向こうでその『敵』と行き会ったら、
トシさんがスケベ顔をしていたって、洗いざらい全部すっかり、暴露してやろう!」
(11)へ、つづく
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
・連載中の新作小説は、こちらからどうぞ
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (43)恭子がやって来た
http://novelist.jp/62601_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
「湖底の村」
「うわ~。まるで江戸時代にタイムスリップしたみたい」
いつのまにか俊彦の右腕にからみついてきた響が、また黄色い声を上げています。
白い土塀をぐるりと回り込むと、まるで映画のセットを思わせるような、
そそりたつ板塀と白い漆喰壁の小路が現れました。
響の母が住んだと言う、白い土蔵と隣り合った町屋(長屋)へ行くために、
俊彦が選んだ小路は、『酒屋通り』です。
桐生天満宮を基点にして、碁盤の目のように規則正しく区分けをされているこのあたりには
三角屋根の織物工場や、明治や大正からの建物などがたくさん残っています。
その中でもこの造り酒屋はとりわけ古く、年代は明らかになっていないものの
一説には、江戸の中期からと言う歴史を伝えています。
「このあたりには、ぜんぶで400軒あまりの建物が有る。
そのうちの約半数が、昭和20年よりも以前に建てられたもので、
すこぶる古い家ばかりだ。
伝統的建造物群と呼ばれ、今、保存のための運動などを展開中だ。
ほら、その先に、もうひとつの長い板塀が現れてきた。
ここが、君のお母さんが、小学校3年から湯西川へ芸者修業へ行くまで
ずっと住んでいた母屋だよ。
ここも古いもので、建てられたのはおそらく昭和の一ケタだ。
ざっと80年から90年は経っているだろう。、古い町屋のひとつだ」
響が、黒塀にそっと触れながら、母の面影を探しています。
ゆっくりとしたその足取りが、板塀の中間あたりに作られた門のところで立ち止まりました。
覗きこむと、ポンポンと置かれた飛び石の先に、黒光りする格子戸の玄関が見えます。
目線を上げた響が、廂(ひさし)から青みがかった瓦の屋根を見つめます。
その屋根の稜線を覆うように、急場しのぎの青いビニールシートが目に入ります。
響が、小さな声でささやきます。
「ねぇ・・・・
去年の東日本大震災の傷跡かしら。痛々しいわね。
一年近くもたつというのに、いまだに修復が出来ないなんて、可哀そう」
「昔の家は、瓦もまた特別な素材だ。
ゆえに修復しょうにも、入手が出来ない状態だ。
今のところ、修復の見通しはたっていない。それでこのままの状態さ」
「そうなんだ・・・・
ねぇ、お母さんは小学校3年から此処に住んだと、今言ったわよねぇ。
じゃあ、その前はどこなの。お母さんが生まれた本当の場所は」
「今はもう、湖底の村だ。
足尾から流れてくる渡良瀬川をせき止めて作られた、草木ダムの水の下さ。
場所は、神戸と書いて、『ごうど』と読む。
そこがお母さんが生まれた、本当の故郷だ」
「水の底か・・・・」
「ちょうど今頃は、渇水の時期だ。
うまくいくと、ダムの底が見えるかもしれない
雪解け前は、一番水量が少なくて、時々沈んだ昔の集落が姿を現すことがある。
しばらく雨も降っていないので、可能性はあるかもしれない。
ここからなら、小一時間くらいで行ける。
ドライブがてら、草木ダムまで行ってみるかい」
「喜んで」、と、右手にぶら下がった響は、
もうすでに母が生まれたという、湖底の村に思いをはせています。
「いつのまにか、恋人たちのような接近ぶりだ」と俊彦が苦笑をしています。
「それではもう一度、三歩ほど後ろに下がりましょうか」と響が、
悪戯そうな目で俊彦を見上げます。
「いや、俺もまんざらでもない。もうそれに、今となっては後の祭りだろう」
と俊彦がぼやいてみせれば、それに乗じて響がさらに鼻をならし身体を擦り寄せてきます。
「あまりくっつくなよ。とてもじゃないが、歩きづらいだろう、おいっ」
・・・・しかしながら、若い娘はこうなると、もう、どうにも手がつけられないようです。
桐生の市街地から、赤城山の東端を流れている渡良瀬川にそって
草木ダムまでは、途中の旧宿場町・大間々町(おおまままち)を経由して、
ほぼ30キロ余りの道のりです。
左右からせり出してくる山の麓をめぐり、ひたすら川に寄り添い、谷底を這うようにしながら
山奥を目指して、牛馬のためにつくられたという昔の銅山街道が続きます。
緩やかな起伏を何度か繰り返した後に、道路が突然渓谷から離れはじめました。
旧道から離別をした道路は、左側の山の斜面をひたすら一気に駆けあがります。
長い直線の急坂路を登り切ると、最後の難所が待ちかまえています。
突然迫りくるヘアピン状のS字カーブが、それまでの坂道を登る加速から
一転しての急ブレーキを、ドライバーに要求をします。
まるで今来た方向を無理やり振り返るほどの急角度で、道路は旋回を続けます。
ふたつに連結したこの急カーブを抜けると、周辺の山々が瞬時に消えて、
目の前の展望はいっぺんに開けます。
現れた草木ダムは、巨大に湾曲したコンクリート色の壁です。
はるか眼下に見る川底からそそり立った壁の高さは、実に140mをほこります。
利根川水系につくられた8つ有るダムの一つで川治ダム(鬼怒川)と並んで、
奈良俣ダム(楢俣川)の158.0mに次ぐ壁の高さを持っています。
このダムによって形成された人造湖は、草木湖(くさきこ)と命名されました。
財団法人ダム水源地環境整備センターの選定するダム湖百選にも選ばれています。
この地域は狭隘山間地にしては珍しいほど、比較的開けた山村でした。
足尾町と桐生市のちょうど中間点にも位置していて、交通の便も良く、
かつては居住者たちもたくさんいました。
このために当時の住民のダム建設反対運動には、きわめて激しいものがありました。
漁業権の補償などと並んで容易に問題が解決できなかったために、2度にわたって
着工が遅れたという経緯もあります。
しかし最終的には、このダム建設によって東村神戸(あずまむら・ごうど)と
沢入(そうり)地区などの住民、230戸が水没をしてしまいました。
ダム湖を見下ろしながら、さらに1キロほど走った先に、
湖を横切る真っ赤な橋で、草木のシンボルともいえる湖上橋が現れます。
俊彦の運転する車は、その橋へ乗り入れ、その中間部で欄干に寄せて停車をしました。
「だいぶ、水も少なくなっている。
ほらご覧。高台にあった昔の小路の跡がむきだしになって、良く見えている」
響が、真っ赤な橋の欄干から身を乗り出します。
真っ青な湖面から突き出るようにして、枯渇した木々や、
堆積した土で白く光る家々の屋根の様子などが、点々と見て取る事が出来ます。
足元の水面から突然現れた昔の街道が、高台を巻き込むような形で丘を迂回してから
その先で、再びゆるやかに水の中へと没していく光景も見えます
「ここが、お母さんが生まれた村。
人が住んでいたままの家や街道が、リアルに水の底へそっくり沈んでいるなんて。
うわぁ・・・・なんなのだろうこの気持ち。なんだか無性に寂しくなるような光景だ。
胸が痛むというか、切なくて涙まで出てきそう」
(へぇ、こいつ。結構いい感性をもっていそうだ・・・)
そう俊彦がつぶやいたとき、胸のポケットで携帯電話が鳴りはじめます。
着信表示を確かめた俊彦が、顔をあげてこちらを見ている響からは少し距離をとり、
背中を向けてから電話に出ます
(誰だろう・・・・私には聞かせたくない話かな・・・)
響は、欄干に両肘を乗せたまま、こっそりとそんな俊彦を横目で観察をしています。
俊彦の、長めの電話はさらに続いています。
再び足元の光景に眼を戻した響は、泥が乾いて鈍く銀色に光る街道の様子などを、
ぼんやりとしたまま、時間をかけて見つめ続けています。
(あそこに見えているのは、たぶん、この集落のもともとの道かしら。
ということは、あそこを、小さいころのお母さんが歩いていたということになる。
ということは・・・・40年くらい前のことかしら?
40年前までは、ここには人々が居て母が居て、ちゃんと生きて暮らしてきた集落が有った。
ダムにされる前までは、長年にわたって普通に人が暮らしてきた場所だ。
それを、こんな風に水没をさせるなんて、
いったい、誰のために、なんのために、なんでこんなものを作ったんだろう。
なんのために、230戸もの人たちの故郷を水の底に沈めるのだろう・・・・
お母さんは、どんな思いでここから桐生に移ったのだろう。
なんだかなあ。見てるだけで、切なくなってきちゃった・・・・)
「響、温泉は好きかい?」
俊彦が携帯を胸に戻しながら戻ってきました。
「それって・・・・もしかしたら、
温泉で落ちあう約束の人が、突然現れましたという意味かしら。
今日は一日、私と遊んでくれるって約束をしてくれたのに、
意外と浮気性なんだ。トシさんは」
「そう言うな。
実は久々に行き会う、懐かしい人からのお誘いだ。
そう言わずに、つき合ってくれ。
この先の日光の温泉で落ちあうと、今、約束をした。
ここからなら、もう目と鼻の先だ。
いいかい、行っても」
「その人が私よりも、美人じゃ嫌よ。私は行かないわ。
温泉は大好きだけど、
そういうことなら、あたしは此処から帰ります」
「う~ん、難しい問題だ。たぶん、甲乙はつけがたい。
響も美人だが、相手のご婦人もまた、まちがいなく美人の部類に入る。
ん、・・・・それにしても行き会う相手が女性だと、よくわかったね。
野生の感かい」
「恋する乙女は、常に敏感です。
第一、携帯の着信を見た瞬間に、にんまりと自分で喜んでいたくせに。
トシさんも、嘘がつけないタイプです。
そうか、『ご婦人』と呼ぶとなると、相手はきっと妙齢の女性だな。
よし、年齢で比べれば、そこは私が勝ってる。
いいわよ、行きましょう。
その、(三角関係になりそうな)妙齢のご婦人が待っているという、
日光の温泉とやらへ」
「お前なあ、見かけはチャーミングなのに、
妙に先走る、その鋭どすぎる『やっかみ』はよくないぜ。
誰に似たんだ。お母さんはおしとやかだというのに、君はちょっと別だね」
「じゃあ、まだ見たことのない、お父さんの影響です。きっと」
「へぇ、君のお父さんと言う人は、あまのじゃくな性格かい、もしかして。
ところで、君は今でもそのお父さんに、会いたいのかい」
「まだ、自分でも今のところは半信半疑です。
逢いたいような、逢いたくないような、まだまだ私自身が揺れています」
「そうだね、突然となる再会だ。
お互いの心中も、たぶん複雑なことになるだろう・・・・
じゃあ行くから、シートベルトを絞めてくれ。
ここから先は信号のほとんど無い、快適な渓流沿いの山岳コースのドライブだ。
春の新芽にはすこし早いが、それでも車窓の景色は充分に美しい。
久々に美人を乗せてのドライブだ。
俺の、胸も腕も高鳴る」
「あら、よく言うわ。
本当は、日光で待っている本命の
妙歳のご婦人に会いたくて、トシさんの胸は高なっているくせに。
いいわよ、向こうでその『敵』と行き会ったら、
トシさんがスケベ顔をしていたって、洗いざらい全部すっかり、暴露してやろう!」
(11)へ、つづく
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
・連載中の新作小説は、こちらからどうぞ
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (43)恭子がやって来た
http://novelist.jp/62601_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html