舞うが如く 最終章
(6)じゃじゃ馬と「野菊」
この時代、工女たちが働く生糸工場では、
多くの男衆が裏方として、また賄いとして雇われていました。
ほとんどの工女が嫁入り前の年齢のため、男女の接触は厳しく制限をされていたうえに、
ボイラーのある釜炊き場の周辺などは、すべての女人が立ち入り禁止にされていました。
ガラス窓越しに通過をする、石炭運びの男たちもまた、
工女たちの注目を集めることになりました。
糸取りの指先を休めることしないまでも、、娘たちは贔屓(ひいき)の男たちが
窓の外を通るたびに、身をよじり、頬を染めて愛嬌をふりまきました。
男たちもまた、それを充分に承知をしていました。
工場の前を通り抜けるたびに、逞しい胸をいっそうはだけて見せます。
さらに腕の力こぶを誇示して、闊歩するようにもなります。
19歳になった咲にも、意中の人ができました。
少し細身で浅黒く、目もとが涼しい、気持ちが素直そうな青年です。
水沼から3里ほど山中に入った根利(ねり)と呼ばれる集落で、
狩猟と炭焼きで生計をたてている山師と呼ばれる一族からの派遣です。
生糸の大量生産は、同時に大量の繭と蚕を養育するための広大な桑園を必要とします。
山での木こり仕事を生業としてきた一族が、雑木林を切り開いて桑苗を植えました。
少女たちは工女の見習いとして糸繰り工場へ働きに出て、
若い男たちは、苦役や蒸気機関の補佐として技術の習得に通って来ていました。
慣れ染めは、ささいなことから始まりました。
いつものように、煮繭の朝の仕事をすませてから
朝食後に、渓谷に沿って半里ほどの道を咲が走っている時のことです。
喉の渇きを感じた咲が、河原に降りて水を含みました。
戻ろうとしてその一歩目を踏み出した瞬間に、濡れた石に足元を取られ、
体勢を崩してしまいます。
かろうじて、踏みとどまりはしたものの、
足首をくじいてしまいました。
運悪く自宅までは、最も遠い距離にありました。
痛みをこらえながら、咲が道を戻り始めたときでした。
後ろから追いついてきた青年が、何も言わずにいきなり咲を抱き上げると
連れてきた馬の背中に、ひょいと乗せてしまいます。
「足を痛めたようであるが・・・
大事はないか?」
馬上では、咲がうろたえたままです。
コクリと小さくうなずきましたが、痛みと恥ずかしさに同時に襲われ、
馬上の咲は、真っ赤に染まってしまいました。
それ以上を語らない青年が、軽く馬をいなすと、あえてゆっくりと
工場のある下流へと向かってその歩み始めます。
しかし、慣れない馬上で上下に揺られているうちに、
咲の体勢が、次第に危うい形になってきました。
馬の首筋をたたいて、青年が馬の歩みを止めます。
「体中に、
それほどまでに力をこめて、
堅くなっていたのでは、乗せた馬のほうがかえって不安がる。
怖ければ遠慮をせずに、馬のたてがみをつかむがよい。
首筋に、しっかりとすがりつけば落ちることもないであろう。
そのほうが、馬も安心をいたすであろう。」
言われた通りに、咲が首筋へしがみつきます。
「工女の、咲と申します。」
「とうに、知っておる。
琴さまの道場では、1,2を争う腕前と聞きおよんでおるが、
なんとまあ・・・河原の石に、他愛いもなく、足をとられているようでは、
まだまだ、修業が不足そのものですね。」
「失礼な・・・」
「私は、根利の集落に住む、俊彦と申す。
これなるは我が愛馬にて、青と呼ぶ、かなり高齢となる老馬です。
もう、青とは、10年以上のつきあいになりますが、
青がその背中に、おなごを乗せたのは初めてのことです。
その初めてのことが、このように綺麗な娘とは、青も、なんとも運が良い。
ところで・・・
ご存知かな、塩原太助の青の話と、
それなる由来の一件を。」
「沼田は、我が生まれ在所にございまする。」
「ほほう、それもまた奇縁なり。
青よ、背中の綺麗な娘さんは、お前の名前が生まれた処の出身だ。
塩原太助を生んだ沼田よりの客人だぞ。
ゆえに、余り揺らすではないぞ、もっと丁寧に歩むがよい。
これっ、馬上のお前!。
お前も、馬上で、そんなに身体を堅くするではない。
お前が力めば力むほど、
青が困って、さらに緊張をいたすであろう。」
「お前にはあらず、私は咲と、申します。」
「なんとまた・・・
礼を言う前に、すねるとは、
工女の質も、地に落ちたようである。
青よ、近頃の娘は、礼儀を知らぬようである。」
「あ、・・・
し、失礼をいたしました。
取り乱したあまりに・・・つい失礼を、申し上げてしまいました。
お恥ずかしいかぎりにありまする・・・」
「よい。
無事がなにより。
わしは、ただの通りがかっただけのことである。
足をくじいたとはいえ、その後のなりゆきで、馬に乗れたのも
お前の運と、器量がなせる技にあろう。
青よ、お前も、運が良いのう。」
「お前には、あらず。
咲と、申し上げておりまする!。」
「ほう・・・なかなかなもんだ。。
美人のくせに、とんでもないはねっかえりぶりだ。
青よ・・・良く見ると、
背中のおなごは、なかなかの、じゃじゃ馬だ。」
「じゃじゃ馬!・・・」
青はゆったりとした歩みのまま、
咲を背中に乗せて工場をめざし、渡良瀬渓谷を下り続けていきます。
高台で詩織をあやしながら、朝の散策をしていた琴が、
街道を見事なまでにゆっくりと下ってくる、この光景を偶然に見つけてしまいます。
「あれ・・・あら?あれは咲ですね。
なんで、お馬なんぞに乗っているのでしょう・・・
馬方は、例の根利の青年みたいですが。
朝からあの二人には、一体何があったのでしょう。
ほうら、詩織 見て御覧。
咲の様子がまるで、お馬に乗った花嫁さんみたいです。
いつも野菊のようだった咲さんが
いつのまにか、私が全然気がつかないうちに
あんなにも可愛い、花嫁さんのような姿になってしまいました。 」
最終章(7)へ、つづく
更新中の新作は、こちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (30)少女の着付け
http://novelist.jp/62346_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(6)じゃじゃ馬と「野菊」
この時代、工女たちが働く生糸工場では、
多くの男衆が裏方として、また賄いとして雇われていました。
ほとんどの工女が嫁入り前の年齢のため、男女の接触は厳しく制限をされていたうえに、
ボイラーのある釜炊き場の周辺などは、すべての女人が立ち入り禁止にされていました。
ガラス窓越しに通過をする、石炭運びの男たちもまた、
工女たちの注目を集めることになりました。
糸取りの指先を休めることしないまでも、、娘たちは贔屓(ひいき)の男たちが
窓の外を通るたびに、身をよじり、頬を染めて愛嬌をふりまきました。
男たちもまた、それを充分に承知をしていました。
工場の前を通り抜けるたびに、逞しい胸をいっそうはだけて見せます。
さらに腕の力こぶを誇示して、闊歩するようにもなります。
19歳になった咲にも、意中の人ができました。
少し細身で浅黒く、目もとが涼しい、気持ちが素直そうな青年です。
水沼から3里ほど山中に入った根利(ねり)と呼ばれる集落で、
狩猟と炭焼きで生計をたてている山師と呼ばれる一族からの派遣です。
生糸の大量生産は、同時に大量の繭と蚕を養育するための広大な桑園を必要とします。
山での木こり仕事を生業としてきた一族が、雑木林を切り開いて桑苗を植えました。
少女たちは工女の見習いとして糸繰り工場へ働きに出て、
若い男たちは、苦役や蒸気機関の補佐として技術の習得に通って来ていました。
慣れ染めは、ささいなことから始まりました。
いつものように、煮繭の朝の仕事をすませてから
朝食後に、渓谷に沿って半里ほどの道を咲が走っている時のことです。
喉の渇きを感じた咲が、河原に降りて水を含みました。
戻ろうとしてその一歩目を踏み出した瞬間に、濡れた石に足元を取られ、
体勢を崩してしまいます。
かろうじて、踏みとどまりはしたものの、
足首をくじいてしまいました。
運悪く自宅までは、最も遠い距離にありました。
痛みをこらえながら、咲が道を戻り始めたときでした。
後ろから追いついてきた青年が、何も言わずにいきなり咲を抱き上げると
連れてきた馬の背中に、ひょいと乗せてしまいます。
「足を痛めたようであるが・・・
大事はないか?」
馬上では、咲がうろたえたままです。
コクリと小さくうなずきましたが、痛みと恥ずかしさに同時に襲われ、
馬上の咲は、真っ赤に染まってしまいました。
それ以上を語らない青年が、軽く馬をいなすと、あえてゆっくりと
工場のある下流へと向かってその歩み始めます。
しかし、慣れない馬上で上下に揺られているうちに、
咲の体勢が、次第に危うい形になってきました。
馬の首筋をたたいて、青年が馬の歩みを止めます。
「体中に、
それほどまでに力をこめて、
堅くなっていたのでは、乗せた馬のほうがかえって不安がる。
怖ければ遠慮をせずに、馬のたてがみをつかむがよい。
首筋に、しっかりとすがりつけば落ちることもないであろう。
そのほうが、馬も安心をいたすであろう。」
言われた通りに、咲が首筋へしがみつきます。
「工女の、咲と申します。」
「とうに、知っておる。
琴さまの道場では、1,2を争う腕前と聞きおよんでおるが、
なんとまあ・・・河原の石に、他愛いもなく、足をとられているようでは、
まだまだ、修業が不足そのものですね。」
「失礼な・・・」
「私は、根利の集落に住む、俊彦と申す。
これなるは我が愛馬にて、青と呼ぶ、かなり高齢となる老馬です。
もう、青とは、10年以上のつきあいになりますが、
青がその背中に、おなごを乗せたのは初めてのことです。
その初めてのことが、このように綺麗な娘とは、青も、なんとも運が良い。
ところで・・・
ご存知かな、塩原太助の青の話と、
それなる由来の一件を。」
「沼田は、我が生まれ在所にございまする。」
「ほほう、それもまた奇縁なり。
青よ、背中の綺麗な娘さんは、お前の名前が生まれた処の出身だ。
塩原太助を生んだ沼田よりの客人だぞ。
ゆえに、余り揺らすではないぞ、もっと丁寧に歩むがよい。
これっ、馬上のお前!。
お前も、馬上で、そんなに身体を堅くするではない。
お前が力めば力むほど、
青が困って、さらに緊張をいたすであろう。」
「お前にはあらず、私は咲と、申します。」
「なんとまた・・・
礼を言う前に、すねるとは、
工女の質も、地に落ちたようである。
青よ、近頃の娘は、礼儀を知らぬようである。」
「あ、・・・
し、失礼をいたしました。
取り乱したあまりに・・・つい失礼を、申し上げてしまいました。
お恥ずかしいかぎりにありまする・・・」
「よい。
無事がなにより。
わしは、ただの通りがかっただけのことである。
足をくじいたとはいえ、その後のなりゆきで、馬に乗れたのも
お前の運と、器量がなせる技にあろう。
青よ、お前も、運が良いのう。」
「お前には、あらず。
咲と、申し上げておりまする!。」
「ほう・・・なかなかなもんだ。。
美人のくせに、とんでもないはねっかえりぶりだ。
青よ・・・良く見ると、
背中のおなごは、なかなかの、じゃじゃ馬だ。」
「じゃじゃ馬!・・・」
青はゆったりとした歩みのまま、
咲を背中に乗せて工場をめざし、渡良瀬渓谷を下り続けていきます。
高台で詩織をあやしながら、朝の散策をしていた琴が、
街道を見事なまでにゆっくりと下ってくる、この光景を偶然に見つけてしまいます。
「あれ・・・あら?あれは咲ですね。
なんで、お馬なんぞに乗っているのでしょう・・・
馬方は、例の根利の青年みたいですが。
朝からあの二人には、一体何があったのでしょう。
ほうら、詩織 見て御覧。
咲の様子がまるで、お馬に乗った花嫁さんみたいです。
いつも野菊のようだった咲さんが
いつのまにか、私が全然気がつかないうちに
あんなにも可愛い、花嫁さんのような姿になってしまいました。 」
最終章(7)へ、つづく
更新中の新作は、こちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (30)少女の着付け
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(1)は、こちらからどうぞ
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