落合順平 作品集

現代小説の部屋。

オヤジ達の白球(41)ミスターⅩ 

2017-12-06 18:22:55 | 現代小説
オヤジ達の白球(41)ミスターⅩ

 


 「さ、坂上の奴。
 勝手に敵前逃亡するなんて、いったいぜんたい何を考えているんだ・・・」

 捕手の寅吉が坂上が消えていった球場の出口を、呆然と見送っている。

 競技中の選手は、いつでも交代することができる。
ただし。交代するためには、監督が球審に交代の通告をしなければならない。
監督が球審に通告したとき。はじめて選手の交代が成立する。
選手が勝手に交代を宣言するなど聞いたことがない。
まして、勝手に退場してしまうなど、前代未聞といえる不祥事だ。

 「非常事態が発生しました。事後承認という形で選手の交代をみとめます。
 居酒屋チームの監督さん。かわりの投手がいれば通告してください」

 千佳がドランカーズのベンチを振りかえる。

 「あっ、はい。ではミスターⅩが登板します」

 「敵前逃亡の坂上さんのあとは、ミスターⅩさんですか。
 なんともユニークなお名前ですねぇ。はい。わかりました。
 選手の交代を特別にみとめます。
 ミスターⅩさん。投球練習は5球でお願いします」

 投手が代わるとき。5球の練習投球がみとめられる。
サングラスとマスクで顔を顔を隠した北海の熊が、のそりとベンチから出る。
そのままスタスタとピッチャーサークルまで歩く。
プレートの上に立った熊が、「投球練習はいらん!」と球審へつげる。

 「あら。いいのですか? 練習しないで、本当に?」

 「こんなことになるだろうと、ベンチの裏で汗を流してきた。
 練習投球はいらん。いいからさっさとゲームをおっぱじめようぜ」

 ぐるりと腕を回した北海の熊が、バッターサークルで待機している打者へ
早く打席へ入れと手で合図を送る。
連続の四球で3点を献上したあと、1アウト満塁の状態で試合が再開される。

 速い球を投げる投手には、共通点がある。
腕の振りを速くすること。
上から投げる野球の投手も、下から投げるソフトボールの投手も例外ではない。
速い球を投げるために腕を早く振り、ボールの速度を生み出す。

 さらに速い球を投げるために、足のさばきを速くする。
前足で強くプレート板を蹴る。蹴った力を利用して、前方へおおきく飛び出す。
一流の投手はピッチャーサークルぎりぎりの、2,44mのラインまで跳ぶ。
この動作が早いほど、腕の振りがさらに速くなる。

 「お・・・」

 1番バッターがバットを振る間もなく、熊の一球目を見送った。
手が出なかったわけでは無い。
ストライクゾーンへボールがこなかったからだ。
熊の手を離れた球は、捕手の頭上をはるかに越えた。
大きな音を立てて、バックネットの金網に突き刺さった。

 「なんだ。見にくいと思ったら、すっかり日が暮れていたのか。
 どうりで目標が見えないはずだ」

 こんなものは邪魔だと、熊がサングラスを外す。
だが顔が露呈するのはまずい。
(これならわからないだろう」と帽子のひさしを目深にさげる。
そのまま2球目の投球にとりかかる。

 「今度はまともに行くぞ。覚悟しろよ。打てるのなら、打ってみろ!」

 するどい腕の振りから、インコースめがけて速球が飛んでいく。
「もらった!」1番打者が腕をたたむ。インコースぎりぎりの球を渾身の力で打ちに行く。
しかし。速いと思われた球が、バットの手前できゅうに失速していく。
そのままワンバウンドして、捕手のミットへおさまる。
満身の力がこめられたバットは、球速をうしなったボールの手前でむなしく空を切る。

 「チェンジアップかよ・・・腕の振りの早さに、すっかり騙されちまったぜ・・・」
 
 「甘く見るなよ、1番バッター君。
 この投手は、さっきまで投げていた新米投手とは大違いだぜ」

 「たしかに。見事な投球です。
 速球でくると見せかけて、実は途中から急ブレーキがかかるチェンジアップ。
 たしか、そんな投球を得意とする投手がいましたねぇ。
 本名は知りませんが皆さんからは、北海の熊さんと呼ばれていたようですが・・・」

 なつかしいですねぇと千佳が、うれしそうに笑う。


 (42)へつづく

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