落合順平 作品集

現代小説の部屋。

上州の「寅」(35)黒いベンツ 

2020-10-05 18:01:22 | 現代小説
上州の「寅」(35) 


 寅がこの地へやってきて3週間。
カレンダーが3月になった。鹿児島の春は早い。
青く芽生えた野原に、あっという間にさまざまな野草が乱れ咲く。


 「気がついたら春だ。九州の最南端は春がはやいな」


 荒れ果てた日本庭園をとりまく森にも春が来た。
あれから2度。分蜂の群れを発見し、2度とも無事、捕獲に成功した。
設置した20個の巣箱のうち、3ヵ所で分蜂した群れが入居したのも確認できた。
ぜんぶで5つの日本ミツバチの群れを確保した。
どれほどの確率で巣に入るのか分からないが、素人が設置したにしては
上出来と言える結果になるだろう。


 それから数日後。あたたかい南風が吹く日の朝。
眼下へ車がやってきた。
この奥に集落は無い。道も行き止まりになる。
ということは此処へ用のある人物が、車を走らせていることになる。


 「誰か上がって来た。なんだろう、こんな朝早くから・・・」


 車が見えた。車種が確認できる。こんな場所に不似合な黒いベンツだ。


 「黒いベンツ?」嫌な予感が寅の脳裏にはしる。


 すなほこりをあげて登って来た黒のベンツが、派手なブレーキをかけ
寅とユキのすぐちかくに停車した。
「ごくろうさまっす」開いた運転席の窓から、金髪に黒サングラスをかけた
若い男が顔を出す。


 「ばかやろう。おはようございますだろ、こういう場合」


 後部座席から見覚えのある男がのそりと降りてきた。 


 「ひさしぶりだな寅。おうユキもいっしょか。元気そうでよかった」


 あらわれたのは住友総合商社の人事担当、大前田氏。
(大前田氏だ。しかしなぜ、このタイミングで大前田氏がここへ?)
大前田氏があらわれるとロクなことがない。と寅はつねづね思っている。
不安がふたたび寅の胸を走る。


 「荷物をまとめろ。次へ行くぞ。転勤だ」


 不安は的中した。


 「えっ・・・。どういう意味ですか?」


 とつぜんあらわれた大前田氏からいきなりの転勤命令。
寅が自分の耳を疑う。


 「転勤先までベンツで送ってやる。ありがたく思え」


 「ベンツに乗ってどこへ行くんですか。おれたち」


 「小豆島だ」


 「し・・・小豆島?」


 「知っているだろ。二十四の瞳で有名な小豆島だ」


 「知っていますが・・・なんでまたそんなところへ?」


 「行けばわかる。さっさと仕度しろ」


 「でもおれたち、まだ仕事の途中です。
 巣箱の管理をはじめ、まだやることが山のように残っています」


 「あとのことは心配しなくていい。
 金髪のサングラスを残していくから、あとのことはこいつにまかせる。
 こうみえてこいつ、千葉の農家出身だからな。
 野良仕事は得意だ。
 そういうわけでおまえらは転勤だ。つぎの目的地へむかうことになる。
 愚図愚図するな。30分後に出発するぞ!」


(36)へつづく


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