からっ風と、繭の郷の子守唄(110)
「突然に、貞園からかかってきた電話は、不吉を知らせる最初のシグナル」
群馬県下では、10月の半ば過ぎから一気に紅葉が進みはじめます。
9月下旬から10月初旬にかけてその見頃をむかえる、尾瀬ヶ原の草紅葉(くさもみじ)を
皮切りに、2000m級の峰が連なる群馬県最北部の谷川連峰から、徐々に標高を下げ、
南下をくり返しながら、11月の中旬から月末にかけて低地の山里と平地へ到達をします。
白雲山、金洞山(中之岳)、金鶏山の3つの峯が集合をする妙義山は、
その堂々とした山容と奇岩で知られている『上毛三山』の一つです。
※『上毛三山』とは。国定忠次で有名になった赤城山、湖畔の宿で全国に知られた榛名山、
奇岩がつくる光景で名高い妙義山の3つを、群馬を代表する観光の名所として
古くから、ひとまとめに呼ばれてきました※
麓を東西に走り抜けていく『妙義紅葉ライン』は、世界遺産入りを目指している富岡製糸場の
富岡市と、『下仁田ネギ』で知られる下仁田町を結ぶ山岳を伝う観光道路です。
紅葉の最盛期になると、険しい岩肌と奇岩を持つ妙義の山と、色づいた樹木のコントラストが
きわめて美しく映えるため、紅葉狩りの好スポットとしてその名を知られています。
「今どこになの。とっさの急用なのよ、康平」
11月の最初の日曜日。
康平が、貞園からの電話で美和子の異変を知ったのは、妙義登山の真っ最中のことです。
紅葉の到来と、登山の両方を一緒に楽しみたいという千尋の要望で、妙義山へやってきたばかりです。
麓にある駐車場で一休みをしたあと、中ノ岳神社で登山ポストへ山登りの用紙を投函し、
案内看板に沿って樹林地帯を歩き始めたばかりの時です。
いかにも山ガールといういでたちの千尋は、早くも腰へ手を当てながら一息をついています。
「妙義の山を歩き始めたところだ。
紅葉にはまだ少し早いが、場所によっては真っ赤に色付いた木もある。
なんだい。とっさの急用って」
『ということは、例によって、今日も千尋ちゃんがご一緒ですか、羨ましい。
思春の真っ只中で、お盛んですね、お2人とも。
そういうことならばいた仕方ありませんが、事は急を要しますので、用件だけを伝えます。
美和ちゃんがDVの旦那から脱走をしてきましたので、当分の間、私のマンションで
彼女を責任もってかくまうことにしました。
そういうことですので、そちらのデートが片付き次第に、こちらへ連絡を下さい。
以上、貞園からの緊急を要する連絡でした。じゃあね、千尋ちゃんによろしく。
んじゃ、またねぇ~。バイバイ・・・・』
「おい。待て、待て。もう少し詳しく話せ。いきなり切るな、こらっ、おい貞園!」
『バッカじゃないの康平ったら。
長引く電話をかけたなら、千尋ちゃんが変な風に気を使うでしょ。
第一、あんたは嘘がつけない人だもの。
何も聞かなくてもいいから、とりあえずは、2人で登山を楽しんできてちょうだい。
事態は長びくことになるでしょうから、今夜でも充分に間に合います。
了解かな?。モテる男は大変ですねぇ。
『二兎追うものは一兎も得ず』というから、康平みたいな両天秤は、とても危険です。
両方に振られても、そうなったら最後は私が面倒を見てあげますから、安心をして頂戴。
あははっ、じゃあね。本当に切るわよ。もうこれで』
「おい、待て、こらっ。あ、本当に切りやがった・・・・
いったい、どうなっているんだ。あいつったら」
「どうしました?。何や急な用でも発生しましたか、貞ちゃんからでしょう、今の電話」
「あ、いや。別にたいした用件じゃない。
帰ったら打ち合わせをしたいことが有るので、電話をくれという用件だ。
いつものようにそれだけを伝えたら、さっさと自分から勝手に電話を切りやがった。
いつものことながら、自分勝手な妹だ」
『貞ちゃんらしいわ』と、帽子を持ち上げながら千尋が笑っています。
本殿の裏手から始まった登山道は、針葉樹林を過ぎると増水をしている沢へ到達します。
前々日からの出来事で、台風から温帯低気圧に変わってしまった大雨の影響で、
山には、たっぷりの雨が染み込んでいます。
茶色ににごり、増水気味の沢を渡りながら『大の字』方面を示す看板に沿って前へ進みます。
耐水のトレッキングシューズなので、この程度の水量なら特に問題などはありません。
登山道を登り込んでいくにつれて、しっかりとしたマーキングが随所に現れてきます。
細かいマーキングの登場は、初めての登山者にも進む方向を明瞭に示してくれます。
ここまで道案内の配慮がいきとどいているのには、当然訳があります。
妙義山は、1000mそこそこの岩山だというのに、日本一遭難事故が多い山だと
長年にわたって言われ続けてきました。
ここ数年になってから、ようやく登山道の整備とマーキングの徹底が進んできました。
ガレた場所や岩場では、岩や石にさえ目印のマーキングが施されています。
修学旅行や中高年たちのハイキングに最適と言われながらも、奇岩が目立つ
急峻な山肌には、常に予期不能の危険性が潜んでいます。
中学生の4人が、神社からの登山道をあまり前進をしないうちに山中へ迷い込み、
翌日、無事に下山してきたというニュースも伝えられたばかりです。
こうした丁寧なまでのマーキングが無いと、迷い込んでしまいそうな別れ道や
岩場が、妙義山では随所に繰り返し出現をしてきます。
「小学生たちが遠足でやってくるということで、さいぜんまで軽くタカをくくっておりました。
ちびっと歩いてみただけでも、やはりここは、初心者には難所どす。
苦しくなるのは、単なるあたしの運動不足だけでしょうか・・・・
いやどすねぇ。やっぱり若年寄りは、うふふ」
岩場の下で千尋が、肩で荒い息を繰り返しています。
妙義の登山では定番ともいえる、鎖を使っての岩登りが目の前に登場をしています。
最初に現れた1番目の岩場は、別に鎖を使用しなくても登って行けますが、
しかし山登りに無理は禁物です。
お約束のように、千尋が鎖を掴んでその長さを下から何度も確認をしています。
「結構、上まで距離はありますね・・・・行けるのかしら。にわか山ガールのあたしにも」
「お尻を押しましょうか。それとも上から胸を抱えて抱き上げましょうか。
どちらからでも、お好きな方向から千尋さんをお手伝いします。
筋金入りの、この山男のおいらが」
「どちらにもちびっとばかりの、卑猥な表現と下心が含まれていますな。康平くん。
唇はあの時にあげましたが、それ以上はいまだにしっかりと封印中どす。
勇気を出して登ろうと思うのどすが、この高さは、早うもあたしの想定を超えています。
困りましたな。こんな岩場が連続をすると、ほんまに
最後には、あたしの身体が根こそぎ奪われてしまいそうどす。うふ」
大きめのパープルのリュックサックを背負い、上にはイエローとパープルのウィンドウブレカーを
着用し『お尻の形が丸見えになるのは失礼だから』と、あえて大きめを選んだベージュのパンツに、
厚手の同系色の靴下を合わせ、すっかりお洒落な山ガールへと変身を決め込んできた千尋が、
岩場の下で、長い時間にわたり立ち往生などをしています。
「表妙義の縦走路には数多くの難所があります。
特に白雲山の奥の院の鎖場と、金洞山の鷹戻しの頭周辺にある鎖場の難易度が高く、
中級者や上級者向けの領域と呼ばれています。
せっかく行くのですから、山気分を満喫するためにと、千尋さんがあえて選んだコースです。
もう少し下のほうから登っていく石門巡りのコースなら、初めての登山者でも楽勝です。
多くの登山者にも親しまれているそちらが、一般向けのルートです。
途中の金洞山から見ることができる、多くの奇岩の景色にも素晴らしいものがあります。
自然の石が作り出すトンネル状になった、第1石門から第4石門をくぐり抜けていけば
大砲岩やロウソク岩、ユルギ岩や岩筆頭岩、虚無僧岩などの奇岩も見られます。
そちらも、変化に富んでいて楽しいコースです。
どうします?。今からでもそちらへ引き返すことは可能ですが」
「そこに、山があるから登ります、と、どなたかが言うていました。
いっぺん立とった目標は、なにがあってもクリアするというのが、実はあたしの生き方の流儀どす。
でもな。ほんまに滑りそうになったらさりげなくフォローをして下さいな。
お尻でも胸でも、許可をいたしはりますから・・・
お願いよ、康平くん。見捨てへんでな」
「はい。よくわかりました。
山の神聖な空気を乱さない程度に、軽くソフトに支えたいと思います。
じゃあ行きますか。この上で、見たこともない妙義山ならではの絶景が千尋さんを待っています。
険しい岩場は、登りきった時に、多大なご褒美を私たちに用意をしてくれています。
それこそが、大勢の人たちを惹きつける、妙義山の登山の最大の魅力ですから」
・「新田さらだ館」は、
日本の食と、農業の安心と安全な未来を語るホームページです。
多くの情報とともに、歴史ある郷土の文化と多彩な創作活動も発信します。
詳しくはこちら
「突然に、貞園からかかってきた電話は、不吉を知らせる最初のシグナル」
群馬県下では、10月の半ば過ぎから一気に紅葉が進みはじめます。
9月下旬から10月初旬にかけてその見頃をむかえる、尾瀬ヶ原の草紅葉(くさもみじ)を
皮切りに、2000m級の峰が連なる群馬県最北部の谷川連峰から、徐々に標高を下げ、
南下をくり返しながら、11月の中旬から月末にかけて低地の山里と平地へ到達をします。
白雲山、金洞山(中之岳)、金鶏山の3つの峯が集合をする妙義山は、
その堂々とした山容と奇岩で知られている『上毛三山』の一つです。
※『上毛三山』とは。国定忠次で有名になった赤城山、湖畔の宿で全国に知られた榛名山、
奇岩がつくる光景で名高い妙義山の3つを、群馬を代表する観光の名所として
古くから、ひとまとめに呼ばれてきました※
麓を東西に走り抜けていく『妙義紅葉ライン』は、世界遺産入りを目指している富岡製糸場の
富岡市と、『下仁田ネギ』で知られる下仁田町を結ぶ山岳を伝う観光道路です。
紅葉の最盛期になると、険しい岩肌と奇岩を持つ妙義の山と、色づいた樹木のコントラストが
きわめて美しく映えるため、紅葉狩りの好スポットとしてその名を知られています。
「今どこになの。とっさの急用なのよ、康平」
11月の最初の日曜日。
康平が、貞園からの電話で美和子の異変を知ったのは、妙義登山の真っ最中のことです。
紅葉の到来と、登山の両方を一緒に楽しみたいという千尋の要望で、妙義山へやってきたばかりです。
麓にある駐車場で一休みをしたあと、中ノ岳神社で登山ポストへ山登りの用紙を投函し、
案内看板に沿って樹林地帯を歩き始めたばかりの時です。
いかにも山ガールといういでたちの千尋は、早くも腰へ手を当てながら一息をついています。
「妙義の山を歩き始めたところだ。
紅葉にはまだ少し早いが、場所によっては真っ赤に色付いた木もある。
なんだい。とっさの急用って」
『ということは、例によって、今日も千尋ちゃんがご一緒ですか、羨ましい。
思春の真っ只中で、お盛んですね、お2人とも。
そういうことならばいた仕方ありませんが、事は急を要しますので、用件だけを伝えます。
美和ちゃんがDVの旦那から脱走をしてきましたので、当分の間、私のマンションで
彼女を責任もってかくまうことにしました。
そういうことですので、そちらのデートが片付き次第に、こちらへ連絡を下さい。
以上、貞園からの緊急を要する連絡でした。じゃあね、千尋ちゃんによろしく。
んじゃ、またねぇ~。バイバイ・・・・』
「おい。待て、待て。もう少し詳しく話せ。いきなり切るな、こらっ、おい貞園!」
『バッカじゃないの康平ったら。
長引く電話をかけたなら、千尋ちゃんが変な風に気を使うでしょ。
第一、あんたは嘘がつけない人だもの。
何も聞かなくてもいいから、とりあえずは、2人で登山を楽しんできてちょうだい。
事態は長びくことになるでしょうから、今夜でも充分に間に合います。
了解かな?。モテる男は大変ですねぇ。
『二兎追うものは一兎も得ず』というから、康平みたいな両天秤は、とても危険です。
両方に振られても、そうなったら最後は私が面倒を見てあげますから、安心をして頂戴。
あははっ、じゃあね。本当に切るわよ。もうこれで』
「おい、待て、こらっ。あ、本当に切りやがった・・・・
いったい、どうなっているんだ。あいつったら」
「どうしました?。何や急な用でも発生しましたか、貞ちゃんからでしょう、今の電話」
「あ、いや。別にたいした用件じゃない。
帰ったら打ち合わせをしたいことが有るので、電話をくれという用件だ。
いつものようにそれだけを伝えたら、さっさと自分から勝手に電話を切りやがった。
いつものことながら、自分勝手な妹だ」
『貞ちゃんらしいわ』と、帽子を持ち上げながら千尋が笑っています。
本殿の裏手から始まった登山道は、針葉樹林を過ぎると増水をしている沢へ到達します。
前々日からの出来事で、台風から温帯低気圧に変わってしまった大雨の影響で、
山には、たっぷりの雨が染み込んでいます。
茶色ににごり、増水気味の沢を渡りながら『大の字』方面を示す看板に沿って前へ進みます。
耐水のトレッキングシューズなので、この程度の水量なら特に問題などはありません。
登山道を登り込んでいくにつれて、しっかりとしたマーキングが随所に現れてきます。
細かいマーキングの登場は、初めての登山者にも進む方向を明瞭に示してくれます。
ここまで道案内の配慮がいきとどいているのには、当然訳があります。
妙義山は、1000mそこそこの岩山だというのに、日本一遭難事故が多い山だと
長年にわたって言われ続けてきました。
ここ数年になってから、ようやく登山道の整備とマーキングの徹底が進んできました。
ガレた場所や岩場では、岩や石にさえ目印のマーキングが施されています。
修学旅行や中高年たちのハイキングに最適と言われながらも、奇岩が目立つ
急峻な山肌には、常に予期不能の危険性が潜んでいます。
中学生の4人が、神社からの登山道をあまり前進をしないうちに山中へ迷い込み、
翌日、無事に下山してきたというニュースも伝えられたばかりです。
こうした丁寧なまでのマーキングが無いと、迷い込んでしまいそうな別れ道や
岩場が、妙義山では随所に繰り返し出現をしてきます。
「小学生たちが遠足でやってくるということで、さいぜんまで軽くタカをくくっておりました。
ちびっと歩いてみただけでも、やはりここは、初心者には難所どす。
苦しくなるのは、単なるあたしの運動不足だけでしょうか・・・・
いやどすねぇ。やっぱり若年寄りは、うふふ」
岩場の下で千尋が、肩で荒い息を繰り返しています。
妙義の登山では定番ともいえる、鎖を使っての岩登りが目の前に登場をしています。
最初に現れた1番目の岩場は、別に鎖を使用しなくても登って行けますが、
しかし山登りに無理は禁物です。
お約束のように、千尋が鎖を掴んでその長さを下から何度も確認をしています。
「結構、上まで距離はありますね・・・・行けるのかしら。にわか山ガールのあたしにも」
「お尻を押しましょうか。それとも上から胸を抱えて抱き上げましょうか。
どちらからでも、お好きな方向から千尋さんをお手伝いします。
筋金入りの、この山男のおいらが」
「どちらにもちびっとばかりの、卑猥な表現と下心が含まれていますな。康平くん。
唇はあの時にあげましたが、それ以上はいまだにしっかりと封印中どす。
勇気を出して登ろうと思うのどすが、この高さは、早うもあたしの想定を超えています。
困りましたな。こんな岩場が連続をすると、ほんまに
最後には、あたしの身体が根こそぎ奪われてしまいそうどす。うふ」
大きめのパープルのリュックサックを背負い、上にはイエローとパープルのウィンドウブレカーを
着用し『お尻の形が丸見えになるのは失礼だから』と、あえて大きめを選んだベージュのパンツに、
厚手の同系色の靴下を合わせ、すっかりお洒落な山ガールへと変身を決め込んできた千尋が、
岩場の下で、長い時間にわたり立ち往生などをしています。
「表妙義の縦走路には数多くの難所があります。
特に白雲山の奥の院の鎖場と、金洞山の鷹戻しの頭周辺にある鎖場の難易度が高く、
中級者や上級者向けの領域と呼ばれています。
せっかく行くのですから、山気分を満喫するためにと、千尋さんがあえて選んだコースです。
もう少し下のほうから登っていく石門巡りのコースなら、初めての登山者でも楽勝です。
多くの登山者にも親しまれているそちらが、一般向けのルートです。
途中の金洞山から見ることができる、多くの奇岩の景色にも素晴らしいものがあります。
自然の石が作り出すトンネル状になった、第1石門から第4石門をくぐり抜けていけば
大砲岩やロウソク岩、ユルギ岩や岩筆頭岩、虚無僧岩などの奇岩も見られます。
そちらも、変化に富んでいて楽しいコースです。
どうします?。今からでもそちらへ引き返すことは可能ですが」
「そこに、山があるから登ります、と、どなたかが言うていました。
いっぺん立とった目標は、なにがあってもクリアするというのが、実はあたしの生き方の流儀どす。
でもな。ほんまに滑りそうになったらさりげなくフォローをして下さいな。
お尻でも胸でも、許可をいたしはりますから・・・
お願いよ、康平くん。見捨てへんでな」
「はい。よくわかりました。
山の神聖な空気を乱さない程度に、軽くソフトに支えたいと思います。
じゃあ行きますか。この上で、見たこともない妙義山ならではの絶景が千尋さんを待っています。
険しい岩場は、登りきった時に、多大なご褒美を私たちに用意をしてくれています。
それこそが、大勢の人たちを惹きつける、妙義山の登山の最大の魅力ですから」
・「新田さらだ館」は、
日本の食と、農業の安心と安全な未来を語るホームページです。
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