アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(2)
第一章(2)シェイクスピアと木下順二
座長が言っていた休眠期限の「10年」は、あっという間に過ぎさってしまいました。
劇団関係者の全員が「どうせ、ありえない話」だと、
とうの昔にケロリとして、再結成の話などは忘れていました。
しかしそこへ、狙いすませたかのように、座長から劇団再結成の葉書が舞い込んできたのです。
250人近くいた、中学の同級生の中でも、
自他共に認める異端児や秀才、変人もしくは奇人と呼ばれていた数人が、
まず最初に、この劇団のメンバーになりました。
座長は、昔からの(筋がね入りの)文学青年です。
小・中学校ともに、学校にある文学集を早々に読破しました。
あげくには、大人たちのための市立図書館へ通い続けて文学書などを読みあさりました。
ただし文章だけが、どうやっても書くことができません。
発言や会話の中には、的を得た鋭いものが人並み以上に光っているくせに、
いざそれらをまとめて文章化をしてみると、小学生なみか、それ以下の、まったくの
幼稚な作文になり下がってしまいました。
ゆえにこの人は、台本を一切書いたことがありません。
大衆演劇などと同じ手法です、「口伝え」によるセリフ作りが座長のやり方でした。
舞台の美術を担当した二人、
西口と小山くんは実に、対象的な生き方を選びました。
職人肌の西口は、高校を中退した後に、
すぐにヒッピーとして、日本全国を放浪してしまいました。
写生と精密画を得意とした小山くんは、堅実に美大を卒業して、すぐに教職へつきました。
■ ヒッピー( Hippie)とは、、伝統や制度などの、
既成の価値観に縛られた社会生活を否定することを信条とし、
また、自然への回帰を提唱する人々の総称です。
1960年代後半に、
おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、
のちに世界中に広まりました。
彼らは基本的に、自然と愛と平和と芸術と自由を愛していると述べています。
日本では、「フーテン」と呼称された時期もありました。
音楽を担当した森くんは、
大きな寺院の長男で、幼少の頃からピアノを習い
本人は音大を出て、本気でオペラ歌手になることを目指していました。
楽器全般を器用に弾きこなしていましたが、肝心のテノ―ルの歌声の方は、いまひとつ(だったような・・)
気がしました。
■ テノールとは、 混声4部合唱においては、
下から2番目に低い声部のことで、
バスより高く、ソプラノおよびアルトの下にくるもの。
音色は、透明感のある明るい声が特徴です。
女優陣には、一歳違いの美人姉妹がいましたが、
やきもち焼きの姉と、反発心のひときわ強いそばかすの妹は、いつもながらの、騒動の種でした。
女子高生の時代から、県下にその名前が知れわたってきた熱演派の時絵(ときえ)が、
常にヒロインを務めました。
かく言う私は、事務方でした。
と言うより、公民館職員の一人として、できたばかりの劇団との窓口を任されただけの話です。
当時、この公民館には着任をしたばかりで、私が受け持たされたのはこうした出来たばかりのグループや
趣味のサークルなどが、ほとんどでした。
劇団はこれらのメンバーを中核にして、
その時々の演目によって、あちこちから人員を調達しながら、約2年間で6回の公演を成し遂げました。
座長が脚本を書き上げて、オリジナルの舞台もできるはずでしたが、一向に書きあがる様子が見えないために、
結局、木下順二の作品ばかりを上演することになりました。
時絵のはまり役でその18番が、『夕鶴』でした。
『夕鶴』は、日本のいたるところに残っている「鶴の恩返し」や「鶴女房」などの民話をその原型にしています。
木下順二は、佐渡島に伝わる「鶴女房」の民話をもとにして、それに肉付けをして『夕鶴』を書きあげました。
鶴である「つう」は、わなにかかっていたところを与ひょうに助けられて、
その恩返しをするために、与ひょうのもとに嫁いでくところからその物語ははじまります。
作者の木下順二は 1936年、東京帝国大学文学部英文科へ入学し、
中野好夫のもとで、シェイクスピアを専攻しました。
第二次世界大戦の後に明治大学で講師となり、『彦市ばなし』などの民話劇を経て、
1949年に、この代表作となる『夕鶴』を発表しました。
シェイクスピアを崇拝する座長にとっては、木下順二もまた、その系列に関わる重要人物の一人でした。
木下作品を上演することは、ごく自然の流れとなり、座長も異論の出しようもなく、
かくして・・・6回連続の民話劇の上演が始まってしまいました。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第一章(2)シェイクスピアと木下順二
座長が言っていた休眠期限の「10年」は、あっという間に過ぎさってしまいました。
劇団関係者の全員が「どうせ、ありえない話」だと、
とうの昔にケロリとして、再結成の話などは忘れていました。
しかしそこへ、狙いすませたかのように、座長から劇団再結成の葉書が舞い込んできたのです。
250人近くいた、中学の同級生の中でも、
自他共に認める異端児や秀才、変人もしくは奇人と呼ばれていた数人が、
まず最初に、この劇団のメンバーになりました。
座長は、昔からの(筋がね入りの)文学青年です。
小・中学校ともに、学校にある文学集を早々に読破しました。
あげくには、大人たちのための市立図書館へ通い続けて文学書などを読みあさりました。
ただし文章だけが、どうやっても書くことができません。
発言や会話の中には、的を得た鋭いものが人並み以上に光っているくせに、
いざそれらをまとめて文章化をしてみると、小学生なみか、それ以下の、まったくの
幼稚な作文になり下がってしまいました。
ゆえにこの人は、台本を一切書いたことがありません。
大衆演劇などと同じ手法です、「口伝え」によるセリフ作りが座長のやり方でした。
舞台の美術を担当した二人、
西口と小山くんは実に、対象的な生き方を選びました。
職人肌の西口は、高校を中退した後に、
すぐにヒッピーとして、日本全国を放浪してしまいました。
写生と精密画を得意とした小山くんは、堅実に美大を卒業して、すぐに教職へつきました。
■ ヒッピー( Hippie)とは、、伝統や制度などの、
既成の価値観に縛られた社会生活を否定することを信条とし、
また、自然への回帰を提唱する人々の総称です。
1960年代後半に、
おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、
のちに世界中に広まりました。
彼らは基本的に、自然と愛と平和と芸術と自由を愛していると述べています。
日本では、「フーテン」と呼称された時期もありました。
音楽を担当した森くんは、
大きな寺院の長男で、幼少の頃からピアノを習い
本人は音大を出て、本気でオペラ歌手になることを目指していました。
楽器全般を器用に弾きこなしていましたが、肝心のテノ―ルの歌声の方は、いまひとつ(だったような・・)
気がしました。
■ テノールとは、 混声4部合唱においては、
下から2番目に低い声部のことで、
バスより高く、ソプラノおよびアルトの下にくるもの。
音色は、透明感のある明るい声が特徴です。
女優陣には、一歳違いの美人姉妹がいましたが、
やきもち焼きの姉と、反発心のひときわ強いそばかすの妹は、いつもながらの、騒動の種でした。
女子高生の時代から、県下にその名前が知れわたってきた熱演派の時絵(ときえ)が、
常にヒロインを務めました。
かく言う私は、事務方でした。
と言うより、公民館職員の一人として、できたばかりの劇団との窓口を任されただけの話です。
当時、この公民館には着任をしたばかりで、私が受け持たされたのはこうした出来たばかりのグループや
趣味のサークルなどが、ほとんどでした。
劇団はこれらのメンバーを中核にして、
その時々の演目によって、あちこちから人員を調達しながら、約2年間で6回の公演を成し遂げました。
座長が脚本を書き上げて、オリジナルの舞台もできるはずでしたが、一向に書きあがる様子が見えないために、
結局、木下順二の作品ばかりを上演することになりました。
時絵のはまり役でその18番が、『夕鶴』でした。
『夕鶴』は、日本のいたるところに残っている「鶴の恩返し」や「鶴女房」などの民話をその原型にしています。
木下順二は、佐渡島に伝わる「鶴女房」の民話をもとにして、それに肉付けをして『夕鶴』を書きあげました。
鶴である「つう」は、わなにかかっていたところを与ひょうに助けられて、
その恩返しをするために、与ひょうのもとに嫁いでくところからその物語ははじまります。
作者の木下順二は 1936年、東京帝国大学文学部英文科へ入学し、
中野好夫のもとで、シェイクスピアを専攻しました。
第二次世界大戦の後に明治大学で講師となり、『彦市ばなし』などの民話劇を経て、
1949年に、この代表作となる『夕鶴』を発表しました。
シェイクスピアを崇拝する座長にとっては、木下順二もまた、その系列に関わる重要人物の一人でした。
木下作品を上演することは、ごく自然の流れとなり、座長も異論の出しようもなく、
かくして・・・6回連続の民話劇の上演が始まってしまいました。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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