落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(91) 

2013-09-19 10:27:32 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(91) 
「失敗しても当たり前。真冬を目にして3000本の苗作りがはじまる」




 翌日、五六が高所作業車を誘導して一ノ瀬の大木のもとへ現れました。
高所作業車は新人消防団員の実家が所有しているもので、電気工事用として使われています。
驚いたことに運転席には、その電気工事店の関係者が同乗をしています。
この人も消防団のOBということで、それならばと自ら操作をかってでたといいます。



 「五六。消防団のつながりを生かしたとはいえ、職権を乱用しすぎるだろう。
 たかが桑の苗作りに、これほどまでに大掛かりになるとは思わなかったが、
 大丈夫か。こんな車まで借り出してきて」


 「あとでお前さんが連中に、『はい、ご苦労さん』と一杯飲ませればそれで済むことだ。
 挿し木に適しているのは、木の上部にある2~3センチ太さの先端の枝だという。
 地上10メートルもの高所にある枝では、簡単には手が出せない。
 いちいち登っていたのでは、効率が悪すぎてやっぱりキリがねぇ。
 ハサミとバカと高所作業車は、頭の使いようで役に立つ。
 第一、蚕と聞けば、やはりどこかで男の血が騒ぐ。
 いまはビニールハウスで野菜を作るのが全盛だが、かつての昔は村全体の
 すべての農家が、おしなべて蚕で飯を食ってきた。
 桑の木の畑が本格的に復活すると聞けば、もはや他人事ではなくなる。
 俺にもやっぱり、熱い思いがある。
 何があろうとも、失敗させるわけにはいかないだろう。
 お前のためにも、京都からはるばるとやって来た、あいつのためにも」



 徳次郎老人が現れて、作業の手順とその説明がはじまりました。
桑の小枝とはいえ地上10mの高さから、切り取るたびにいちいち落下をさせていたのでは、
下で作業する者たちに、思わぬ危険をもたらします。
ある程度まで切り貯めてから、地上と往復することが確認され、残った全員が総出で、
地上で挿し木の準備をすることに段取りが決まります。


 「枝の太さは、2センチ前後を最適とする。
 40センチの長さに切りとって、それを1本分とする。
 その際、枝に残っていた葉は、上から4枚~5枚を目安にかならず残しておくこと。
 いずれは枯れてしまうが、葉を全て取ってしまっては木の生命力が弱くなる。
 根元にする側には、3センチの幅で、表皮を綺麗に取り除くこと。
 木を傷をつけてはならんぞ。丁寧に皮の部分だけを剥ぎ取るようにする
 下準備を終えた枝は、発根促進剤に漬け込んで24時間そのままに放置しておく。
 本日の作業はそこまでだ。
 畑への植え付けは、1日おいた明後日に実行する。
 何か質問があるか。若い衆ども」


 「ひとつの枝から、1本だけを切り出すのではなく、
 40センチの範囲で確保できるのであれば、何本取っても良いと言う意味でしょうか。
 例えばですが、長めの枝ならば5~6本を切り出しても良いということですか?」



 「一向に構わん。 
 真冬へ向かう時期に、挿し木で苗を準備しょうという試みだ。
 何本が生き残るかは計算できぬし、例えていえば全滅をするという可能性もある。
 何本残るかは、来年の春までだれにも予測がつかぬ」


 「え~え。全滅!」英太郎が悲鳴に近い声をあげます。



 「あくまでも、確率論の話だ。
 全滅をする場合もあれば、運良くすべてが生き残る場合もあるだろう。
 5割の確率ならば、必要とする1500本の苗が確保できる。
 結果は、いずれにしても神のみぞ知るだ」


 桑を挿し木する場合、生命力に優れた若木を用いる場合と
古条と呼ばれる、試され済みの古い枝を使う場合の、2た通りの方法が有ります。
若木の場合は、旺盛に発芽をする春の季節に適しています。
生命力が試され済みの古条は、9月から10月にかけての挿し木に最適と言われています。
しかし、畑へ直接刺された挿し木の場合には、例外なく霜や雪による脅威をはじめとする、
真冬の厳しい自然環境と、春まで戦わなければなりません。
特に桑の苗にとって、晩秋に襲ってくる霜は一番の大敵になります。
この時期がやってくるまでに、畑で根がつくかどうかで結果が大きく変わってきます。


 農作業において、霜の害から作物を守ることは大昔から行われてきました。
寒さに強い作物を作り上げることと、霜の害から作物を守る方法がいくつも編み出されています。
「八十八夜の別れ霜」ということわざもあり八十八夜の頃、高気圧の影響により気温が
急に低下をして、最後の霜が降り、お茶や桑、ナシ、ぶどうなどの果樹類や野菜、じゃがいも、
たばこなどが、大きな被害を受けることがあります。


 明治維新以降、わが国では国内の輸出産業の育成に力を注いできました。
その中で、生糸は重要な輸出品のひとつとして注目をされ、蚕の飼育のために
桑の栽培が盛んに奨励をされてきました。
桑の霜害を防ぐために、昭和28(1953)年に凍霜害が発生した時に、
大量の重油を燃焼するという防霜試験が実施をされ、その効果が実証されたこともあります。
晴天無風で前日午後7時の気温が、6℃以下の時が霜の降りる気象条件と言われています。
午後7時の気温が8℃前後でも、寒気が南下して高気圧が通過するような条件が重なると
やはり、降霜の恐れが発生をします。



 降霜による被害の実例を紹介します。
1893(明治26)年5月6日。初夏を迎えようというのに前夜からは北風が吹き、気温が低下し、
明け方には全国の各地で霜が降り、薄氷の張るところさえ出ました。
最低気温は、長野県で氷点下1.8℃(5月として歴代1位の低さ)。東京で3.5℃。
北陸の金沢では、1.8℃を記録しました。


この時ならぬ降霜は、中部から東北地方の一帯にまで広がりました。
特に埼玉県では、青々と葉をつけていた桑と茶が2~3日で眞っ黒に変わり、広大な桑畑は
まるで冬枯れ野のようなありさまになってしまいます。
被害の総面積は、1万2千ヘクタール。被害農家は、7万4千戸。
県下の全域にわたり、空前の大被害が広がりました。



 大里郡花園村は、田が少なく、養蚕に農業のすべての活路を見出していました。
前年は春と秋の蚕とも不成績でしたが、(この頃の蚕の飼育は年に2回)この年は糸価が
非常によいので、失敗をばん回するために全力を養蚕に注いでいました。
例年に比べて多量の肥料を購入し、蚕室も拡張して蚕具の新調などにも費用をつぎ込み、
村人は収穫の期待に満ちあふれていました。
そこへ突然の大霜が襲い、桑葉は枯れ尽くし、青葉は一枚もなくなってしまいます。
二齢にまで達していた蚕はとたんにその食糧を失い、3日間というもの、農民は驚きのあまり
何もできません。



時がたつにつれて、惨状がはっきりとしてきます。
蚕の被害は、秩父、大里などの山間地で特に大きく、お茶は入間、高麗などで深刻となり、
まさにいずれの地区においても、全滅に近いという状態が発生をしました。
霜で桑葉の値はおおいに跳ね上がり、農民には買うことさえも不可能になります。
そのうえ、大麦や小麦まで不作となり、丹精をこめた茶園も全滅をします。
返金の見込みのなくなった農家に、金を貸す者はひとりもいなくなります。


『仰ぎ願わくは閣下、資力尽きたる養蚕家に非常の救護を給わりたく、
人民一同泣血歎訴奉り候』
と、村民全員連署の切実な訴状が各地から県へ寄せらます。


 県は、被害窮民を救済するために、3万円を支出することに決めます。
涙ばかりの補助ですが、それでも“飢え”への転落に、いくらかブレーキを
かけることができたと記録には残っています。



 「今に始まったことではない。
 大地に生きるという意味は、自然界のすべてを受け入れて淡々と生きることだ。
 侮るでない。たかが2~3センチに過ぎない桑の苗だが、
 なかなかどうして、厳寒の冬を乗り越えていく根性だけは持っている。
 人が寒さに首を縮めてても、こいつらは寒空に向かって堂々と胸を張って生きておる。
 康平も、栄太郎も、五六にも、見習って欲しいもんだ。この桑苗の根性ぶりを・・・・
 はてさて、そうは言ったものの、来年の春までに何本残るやら、こいつらが」

 


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