言うまでもなく、医療行為において、
「馬鹿野郎」
は禁句だ。
介護医療だけでなく、精神病医療はもちろんのこと、一般医療においても禁句である。
「あなたは○○病です」
と、医者以外が診断することも禁止されている。
カルテに書かれていたとしても、医者以外が診断を下すことも、告知することもない。
患者の尊厳が第一優先となるから。
医療スタッフとしては、どのような理不尽な行為であっても、発言であっても、一度それを受けて、
「一体どうしてそのような言動に至るのか?」
をしっかりと考える必要がある。
もう一つの縛りとして、「守秘義務」がある。
医療行為におけるあらゆる患者情報を漏らしてはならないというもの。
患者の問題は、基本的に患者にフィードバックすることなく、スタッフと患者家族などの親族関係までで対応しなければならない。
それ以上情報を漏らすと、守秘義務に反することになる。
ものすごく縛りが多い。
縛りが多い中、葛藤を抱えつつ、たった一つの対応を行い続けねばならない。
医者はもちろん、看護師など他の医療スタッフもすべて、毎日そのような対応を行い続けている。
完全に情報が内部で閉じてしまうために、「白い巨塔」なる、閉鎖的医療コミュニティになることも頷ける。
「馬鹿野郎!」
という罵倒をしないほうがいいということは、別に医療行為だけにとどまらない。
一般社会においても、相手に「バカ!」と言った時点で、焦点を当てるべき問題から、さらにあさっての方向の問題へずれてしまい、もとの問題に戻ることを難しくしてしまう。
信頼関係も失われる。
罵倒するより、相手の何が間違っているかを、自然に相手に気づいてもらう必要が出てくる。
児童教育は、「自ら気づく」ことの繰り返しであるとも言える。
その中で、自分の考えていることと違う価値に気づく子供がいることで、大人もまた学んでいく重要な機会を得る。
問題は大人社会が完全に倫理的に逸脱してしまった場合。
訂正すべき問題行動が、集団の中であまりにも多い場合、「自ら気づく」ことを期待して孤軍奮闘するのは、あまりにも膨大なエネルギーを消費する。
大抵の場合、自分がその属する集団に合わせる。
そのほうが圧倒的にエネルギーが少なくて済むから。
もう一つの方法は、その集団から抜けるという選択肢。
自分が異常な環境から完全に離れることで、自らの尊厳を確保することができる。
精神衛生的には一番健康的だと思える。
もう一つの選択肢は、自らの認識を曲げることにより、その集団に所属し続ける。
精神衛生的にはあまり好ましくない。
自らの実像と理想像が完全に乖離するから。
集団に所属してはいるものの、精神的には「逃避」状態である。
あまり好ましいとは思えない。
そう考えると、医療従事者が、芸術的創作活動に勤しむのは、最も建設的方法なのかもしれない。
守秘義務
尊厳
と言った義務を果たしながら、
不満
ストレス
を発散するには芸術はもってこいだと思われる。
だからというわけではないが、自転車のブレーキを買ってきた。
これにステンレスパイプを固定して、末端部を専用キャップで閉じた。
ちょっと斜めに取り付けたいので、45度アングルに取り付けた。
「うーん。前衛芸術」
と、自分で満足したわけだが、ちゃんと役目を果たす予定です。
バイクのチョークに使おうと思っているんですが、はてさて。
「馬鹿野郎」
は禁句だ。
介護医療だけでなく、精神病医療はもちろんのこと、一般医療においても禁句である。
「あなたは○○病です」
と、医者以外が診断することも禁止されている。
カルテに書かれていたとしても、医者以外が診断を下すことも、告知することもない。
患者の尊厳が第一優先となるから。
医療スタッフとしては、どのような理不尽な行為であっても、発言であっても、一度それを受けて、
「一体どうしてそのような言動に至るのか?」
をしっかりと考える必要がある。
もう一つの縛りとして、「守秘義務」がある。
医療行為におけるあらゆる患者情報を漏らしてはならないというもの。
患者の問題は、基本的に患者にフィードバックすることなく、スタッフと患者家族などの親族関係までで対応しなければならない。
それ以上情報を漏らすと、守秘義務に反することになる。
ものすごく縛りが多い。
縛りが多い中、葛藤を抱えつつ、たった一つの対応を行い続けねばならない。
医者はもちろん、看護師など他の医療スタッフもすべて、毎日そのような対応を行い続けている。
完全に情報が内部で閉じてしまうために、「白い巨塔」なる、閉鎖的医療コミュニティになることも頷ける。
「馬鹿野郎!」
という罵倒をしないほうがいいということは、別に医療行為だけにとどまらない。
一般社会においても、相手に「バカ!」と言った時点で、焦点を当てるべき問題から、さらにあさっての方向の問題へずれてしまい、もとの問題に戻ることを難しくしてしまう。
信頼関係も失われる。
罵倒するより、相手の何が間違っているかを、自然に相手に気づいてもらう必要が出てくる。
児童教育は、「自ら気づく」ことの繰り返しであるとも言える。
その中で、自分の考えていることと違う価値に気づく子供がいることで、大人もまた学んでいく重要な機会を得る。
問題は大人社会が完全に倫理的に逸脱してしまった場合。
訂正すべき問題行動が、集団の中であまりにも多い場合、「自ら気づく」ことを期待して孤軍奮闘するのは、あまりにも膨大なエネルギーを消費する。
大抵の場合、自分がその属する集団に合わせる。
そのほうが圧倒的にエネルギーが少なくて済むから。
もう一つの方法は、その集団から抜けるという選択肢。
自分が異常な環境から完全に離れることで、自らの尊厳を確保することができる。
精神衛生的には一番健康的だと思える。
もう一つの選択肢は、自らの認識を曲げることにより、その集団に所属し続ける。
精神衛生的にはあまり好ましくない。
自らの実像と理想像が完全に乖離するから。
集団に所属してはいるものの、精神的には「逃避」状態である。
あまり好ましいとは思えない。
そう考えると、医療従事者が、芸術的創作活動に勤しむのは、最も建設的方法なのかもしれない。
守秘義務
尊厳
と言った義務を果たしながら、
不満
ストレス
を発散するには芸術はもってこいだと思われる。
だからというわけではないが、自転車のブレーキを買ってきた。
これにステンレスパイプを固定して、末端部を専用キャップで閉じた。
ちょっと斜めに取り付けたいので、45度アングルに取り付けた。
「うーん。前衛芸術」
と、自分で満足したわけだが、ちゃんと役目を果たす予定です。
バイクのチョークに使おうと思っているんですが、はてさて。