労働災害は人的災害なんですよ。
経済的成果を優先して人が軽視される。
生きるために働いているのに、働くために死んでしまう。
自粛して家にこもるとわかるように、行動がないと自信がなくなるし、無力感にも陥る。
なんでもいいから行動しようとパチンコにも行くし、遊びにも行くし、飲みにも行く。
毎日忙しいと、ゆっくりダラダラ休みたいと思うけれど、実際にそれをしていい状況が訪れると、無力感に焦る。
生きるために働いていることがわかる。
ところが労働のために命を削ったり、健康を害するのは本末転倒すぎて。
森光子は仕事に生きた人だった様だけど、放浪記のでんぐり返しをやめて万歳三唱に変えて数年後亡くなっている。
それだけが亡くなった原因ではないと思うけれど、介護福士の基礎教養で、
「他者から見れば、どんなに非合理的なプロセスであっても、当人にとっては長い経験の中で培った儀式的プロセスなので、簡単にやめさせてはならない」
とも習う。
徘徊も無意味ではない。
例えば夕方になると徘徊する女性がいる。
介護する側としては単純に厄介な存在となる。
ところが、女性の中では、夕食の時間になって、帰ってこない子供を探している状況であるとなると、話が変わってくる。
それだけ家事育児仕事が生活の中に組み込まれていて、生きがいになっていたとも言えるのだけど。
介護の仕事の中で、それを分析できるほどの思考の時間的余裕もなかったりするのだけど。
生きることと働くことは密接に関わっているのだけれど、目的と手段が逆転すると全く話が変わってしまう。
それも含めて、今現在を生きるのが死ぬほどしんどいとしても、100歳生きるということ、さらには200歳、300歳生きる前提の社会とは何かはぼんやりと考える。
子どもに長生きする希望を提示できずに、「希望を持って生きろ」と言えない社会で、子どもを増やせもないだろうに。
子どもは社会を映しますよ。
冷静に見ている。
大人に従わざるを得ないのだし。