大正ロマン手帖---ノスタルジック&モダンの世界 (らんぷの本)河出書房新社このアイテムの詳細を見る |
この本も図書館で借りました。
ミーハー気分で、モガ風ファッションが格好いいぞう、と思っていたら、
モガ大流行は大正最後の年(大正15年)だったのですね。
そうか、数少ない断髪のモダンガールが頑張っていたのは、
大正末期~昭和初期ぐらいだったのか。
この時代はコラムで紹介されていたお葉さんや、
柳原白蓮や、松井須磨子などのスキャンダルが有名ですが、
そうした(良くも悪くも激しい)自我を表した女性は、全体から見るとごく一部。
きっと、恋愛結婚などができない時代でも秘めた恋があったろうし、
抜群にすぐれた教養を生かす場もなく、一生を終えた人もいただろう。
青踏のフェミニズム運動は、すぐには日本全国へ波及しなかったろうけれど、
時代に先駆けた彼女たちの熱い生き様には、
ひそかに羨望を覚え、共感する人も多かったのではないか。
不思議だったのよね。
江戸時代の江戸というエリアの庶民の女性は、
男性よりも強くて(数的に少なかったから大事にされたっていうし)、
元気に働いていて、性的にも割合自由なところがあったのに、
明治政府の体制でぎゅーっと締めつけられて、
全体的に武家社会の文化が押し付けられて、
富国強兵の中、良妻賢母が女性の理想のような感じになってしまっても、
その流れに黙って呑みこまれるだけだったのだろうかって。
でも、どんな時代でも、健気に頑張っている女の子はいるんだよね。
功績を残さなくても、自分が生きる場所で自分ができることを、
こつこつ積み上げて行った女の子たちがいる。
熱情を堪えきれず、まっしぐらに愛人の元に走った女の子もいる。
聡明さを武器に、既存の社会と戦った女の子もいる。
今とそんなに変わらないんだろうな、と思いました。
さて、大正ロマンというと、やはり竹久夢二が象徴的存在なのですが、
他の抒情画家の作品も、何とも言えぬ風情を漂わせていて素敵でした。
優しく、寂しげな画風は、時代を超えて乙女に好まれるものでしょう。
ハイカラで和洋折衷な大正文化。
遠くて近い、しかし近くて遠くもあるから、面白いです。
(戦争を知らない世代のわたしは、激動の時代に生きた人々の逸話を聞くたび、
想像力の限界を思い知るのだった。
武田百合子の生涯における戦争の影響を考えた時のように、
その心情の変化が分かるような気もするけれど、
所詮甘っちょろい感覚で、当時の人の気持ちを真に悟ることは無いように思う。
池上さんがTVの番組で、バブル経済は、はじけた時の大騒ぎを知らない世代が、
気付かずにまた繰り返すので、数十年ごとに来る、と言っていたけれど、
それと同様にわたしたちの世代は、
無知の為にまた危うい方向へ傾いてしまうかもしれないから、
過去の戦争をよく学んで、用心しないといけないね)
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避けられない対人関係のストレスのために、またも苦しんでおります。
“眠り姫”の幼名を持つわたしとしたことが、ここ数日、不眠気味。
夢の中でも心安らかにはなれず、目が覚めてもぐったり。
で、裏日記をつけることにした。
喜びも苦しみも幸せも悲しみも、心のまま、率直に書きますぜ、
死後焼却のこと、というリアル日記。
武田百合子さんも「富士日記」を清書する際に、慎重に取り除けただけで、
原本では人の悪口くらい書いていただろうから。
(友達への手紙では、さらっと悪口書いてますもんね)
わたしなどの場合は、文学作品でも私小説でもないし、
自分と向き合うための道具にすればいいかなって。
毎日つける気もないし、気がおさまらない時だけ、文字を綴ればいいって。
そう考えて軽い気持ちで書き始めたら、5時間ノンストップ。
冒頭から苦境の説明やら事態の分析やら。濃い濃い。
とりあえず今日の苦悩を形にして、
読み返したら…結構面白いんだな、これが。
そういうのを書いたら、破り捨てた方がさっぱりする、という意見もあるけれど。
赤裸々な人の悪口って面白いんだもん!
あたし、ちょびっと文才あるかもしれない!と自画自賛したり。
(↑その辺り、もうノンフィクションではなくなっている)
門外不出ものではありますが、少し前向きな気持ちになって筆を置いたのでした。
武田百合子さんが好きで日記を書こうと試みるというのは、
彼女の天賦の才を思うと、恥ずかしいことなのかもしれない。
けれど、やっぱり憧れちゃうのだ。
自らの負の感情も否定せず、全部受け入れる、その大きさに。
人間なんだから、恨んだり怒ったりする時もあるし、
心が折れなければ、いつかは回復する。
それでいいのよね。
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