「肯定」
先月から始まった℃-uteツアーについて書いたこのブログの記事。読み返すと、あまり愛理に触れていない。今回の愛理はダメだったのか?実は決して、そんな事はございません。
愛理はソロで「残暑お見舞い申し上げます」を歌った。会えない人に想いを込めて歌う歌。スクリーンには真剣な眼差しの愛理の表情が大映しになる。
「賛辞」
少し前にも書いたけれど、私は鈴木愛理を簡単には誉めない事に決めている。勿論、嫌いだからという訳ではなく、寧ろ鈴木愛理は大好きだ。それは、彼女の持つ感性の色合い、歌を歌う事への想い、あくなき向上心と探求心が好きだから。
ただ単に歌が上手くなりたいと思っている人なら、世の中に大勢いる。自分は歌手ではないが、そんな自分でさえ「どうやったらBuono!でカラオケで100点出せるか」(過去最高は恋愛ライターで出した98点)を考えている。でも、それに対して何かをしようという向上心は無い。まあ、素人な自分の話など、どうでも良いのだけれど、常に上を見て自分に課題を与える。そんな風に向上心を忘れない愛理の姿勢は素晴らしい。
ちゃんと向上心を持って歌に取り組んでいる人を、ちょっと良かったからと簡単に誉めてはいけない。70点が80点になって誉めるのとは違って、100点を目指している人に90点で絶賛してはいけない。
「表情」
「残暑お見舞い申し上げます」を歌う愛理の歌は、はっきり言って100点を目指している人の歌にしては物足りなかった。歌い方、つまりプロデューサー仕込みの歌唱法に限界が来ている事の表れかもしれない。
でも、この曲を歌う愛理は表情を作りながら歌っている。それに気付いたのは歌が終わり、伴奏に合わせて肩でリズムをとる姿を見た時だった。遠くを見つめるその瞳は、何かを言いたげな憂いに満ちた哀しい瞳だった。
その姿を初日の昼公演に気付いた私は、夜公演で愛理の歌の時の表情をじっくり見た。「自分は表現力が足りないから、表現力を身に付けていきたい」と語っていた愛理が、歌詞の主人公と自分を重ねて歌い、歌の表現力を増していた事がわかった。
私は、上手い下手だけが歌ではないと再認識するとともに、今回の愛理ソロは歌唱力より表現力に注目する曲なのだと実感した。
愛理がそれほどまでに、歌詞に思い入れを重ねられるのは、あの人を思い出しているからに違いないと妄想をしてみる。
舞波が卒業してから桃子のアイドル力が過剰なまでに発散されるようになったみたいに、栞菜がいない℃-uteは愛理に変化を与えるかもしれない。いや、与えてほしい。
愛理がステージに立つ時、栞菜からのプレゼントのネックレスを身に付けているなどという本人達しか知らないストーリーがあったら嬉しい。
「過去」
愛理は早熟の歌姫だったのかもしれない。そう思えてしまうのは、9歳の時に見せてくれたインパクトを超えるインパクトを、その後見せていないからだろうか。我々は「愛理は歌える子」という予備知識を持ち過ぎてしまったのだ。もう、キッズオーディションでのBoA曲熱唱とか、あぁ!でセンターを張る姿は、頭の片隅に仕舞っておかなくてはいけない。
これからの鈴木愛理の歌は、リアルな想いを歌に乗せた「表現力重視」のニュー鈴木愛理になっていく筈。喜びも哀しみも表現豊かに伝えていく歌。志半ばでステージから去っていた友人の長所「喜怒哀楽の表情豊か」を受け継ぐ愛理のNEW SEASON。楽しみが哀しみを超える季節になりそう。
でも、上手さへの探求もお願いしたい。愛理に刺激を与える動画を貼りましょう。頑張れ愛理の想いを込めて。
℃-uteに暑中見舞いを送ろうキャンペーンを、「自分みたいなコアな部類に入る者が当たるのは違う気がする」と応募しなかった私からの「残暑お見舞い申し上げます」です。
ある中学三年生(今の愛理と同い年)の歌
そして現在の姿