獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ラストステージ:獅子風蓮の登場 その12

2021-06-29 03:46:41 | 対話ブログ

●獅子風蓮(2021年1月25日 19:28)

獅子風蓮です。
連投、お許しください。
シニフィエさん、コメント承認ありがとうございました。

「東村山女性市議転落死事件」も「白バラ通信 パンドラの箱」もこのブログの読者は大抵読まれておられるので、よそ様のブログを無断で引用せずとも、それを前提に話されて結構です。

高倉教授のブログを長々と引用した件、申し訳ありませんでした。
高倉先生にも、無断転載してしまい申し訳ありませんでした。

獅子風蓮さんの文章は私以上に理解しがたいです。正直申しまして、獅子風蓮さんのブログも、全部読んだわけではありませんが、結局何が言いたいのか、何をどう思っているのかがわかりませんでした。だからこそ「獅子風蓮さんは創価学会を宗教だと思っているのですか」とお尋ねしたんです。そしてたくさんコメントしていただきましたけれども、それでもわかりません。
レヴィ=ストロースや森鴎外やヴィトゲンシュタインの話は、私も知らないわけではありませんが、ここでそれらの話をされると返って話の内容をぼかしてしまうように思います。

私がたらこ唇の天使さんへのコメントの中で、レヴィ=ストロースや森鴎外やヴィトゲンシュタインの話をしたことに対して、シニフィエさんは、「話の内容をぼかして」しまうためだと批判しましたが、それは違います。
私がレヴィ=ストロースの構造主義の話をしたのは、日蓮の「立正安国論」を原理主義的にそのまま現代に持ってくるのは危険だということを説明するのに有効だと思ったからです。
また、法主に信伏随従できず、大御本尊すら大聖人の真筆であるとは信じられない、私のような不信心者が、それでも正宗の信徒として、心安らかに生き、大きな安心の中で死んでいきたいと思うとき、日蓮大聖人も日寛教学も大御本尊も日蓮正宗も、あたかも帰依の対象として正しい「かのように」信じていこうと思っているのです。そのために森鴎外の小説を持ち出したのです。
ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの話を持ち出したのも、私のような醒めた信者が、宗教団体と折り合いをつけるために必要な理論づけだったからです。
けっして、シニフィエさんの言うように「話の内容をぼかして」しまうためではありません。
そこのところは、ご理解ください。

例えば最後にヴィトゲンシュタインの言語ゲームの話になぞらえて、
『私の場合で言えば、日蓮正宗・法華講という集団の中で、「日蓮大聖人も日寛教学も大御本尊も日蓮正宗も正しい」というルールに従って、信仰をする限り、心の安心が得られるということです。もし、そのルールが社会的にまずいと思ったら、ルールの変更を提案します。それが受け入れられなければ、レッドカードをもらうだけです。』
と書かれていますが、獅子風蓮さんはそのことについてどう思っているのかが読んでいてわからないのです。「ルールに従って信仰をする中で、そのルールがまずくなったら変更すればいい」ということに対して獅子風蓮さんは賛同するという意味でヴィトゲンシュタインの理論を引用されたのでしょうか?もしそうであれば「創価学会も日蓮正宗も時代に即したルールの変更をすればいい宗教になる」と考えているのかなと思ってしまいます。そうなると獅子風蓮さんは創価学会を良し悪しは別にしてもいい宗教に変化する可能性のある宗教であると考えていることになるからです。

再びいいますが、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの話を持ち出したのも、私のような醒めた信者が、宗教団体と折り合いをつけるために必要な理論づけだったからです。
私個人が日蓮正宗・法華講という集団の中のルールを変更しようと思ってもできないと思います。
でも、よっぽどひどいルール、たとえば、信心で新型コロナウイルスに打ち勝つのだから、感染防止対策など必要ない、どんどんお寺に来い、というような(実際にそういう方針は出ていません。十分な感染防止策をほどこすことが指示されています。念のため)ルール打ち出しが出た場合、個人の立場で反対の提言をします。それでレッドカードをくらってゲームの外に出ることになったら、それはそれまでのこと、ということです。
創価学会については、私はその集団に属していないので、ルールの変更を提案できる立場ではないことは承知しています。
それでも、現在の創価学会は詐欺組織と同じような構造になっていて、会員を苦しめ、社会に害毒を流しているので、司法の介入を利用してでも、創価学会の組織悪を暴くべきだと思っています。

何度も同じ質問をして申し訳ありませんが、単純に「獅子風蓮さんは創価学会を宗教だと考えているのでしょうか?」この質問に単刀直入に答えていただかないと、話が先に進まないんです。このブログの皆さんとの相互理解のためにもよろしくお願いします。

何回もお答えしますが、
「結論、今のままでは、創価学会は詐欺だと思われてもしかたありません。創価学会に未来はありません。」
創価学会内部の良心的な部分が、大きなダメージを受けるのを承知の上で、過去の犯罪と現在の詐欺的な組織悪に向き合い、本来の宗教的な団体に再生することを願っています。

「獅子風蓮さんは創価学会を宗教だと考えているのでしょうか?」という質問については、答えを保留させてください。
「創価学会は宗教ではない」と言い切ってしまうのは、今も創価学会内に残って、苦しみながらも自分の信仰と向き合っている会員に対し、冷たすぎると思ってしまうのです。
「創価学会は宗教ではない、詐欺だ」とはっきり言いきってもらえたおかげで、創価学会から離れられたという人も多いでしょう。事実、このブログに集まって来ている方の多くは、そういうふうにシニフィエさんに背中を押されて創価学会をやめることができたと、感謝している人が多いのだと思うのです。
一方で、創価学会は詐欺と言われてもしょうがない。創価学会はやめたい。でも日蓮信仰は大切にしたいと思っている人にとっては、「創価学会は宗教ではない」ということを言いたいがために、日蓮までインチキでとんでも坊主だなどと言われることには耐えられないと思うのです。
私は、すでに書いたように、歴史上の日蓮は、時代的な制約があったので無理もないと思うのですが、一番正しい釈迦の教えとして法華経を選び、その法華経を広めるために、愚直に、どんな弾圧にも負けずに、努力した人だと思うのです。
現在の仏教学の視点からすると間違った選択かもしれませんが、私は、歴史上の日蓮が好きです。
日蓮が残してくれた御本尊に題目を唱えることができることを感謝しています。
学問的な誤りがいくらあろうとも、信仰というのはそんなもんでしょう。
教学なんて、信仰する上のフィクションでいいんですよ。
そんな個人の信仰心まで、シニフィエさんと同じものにしようとしないでください。
個人の信仰心は尊重するというのが、シニフィエさんのコンセプトだったのではないですか。

そもそも、このブログを訪れたのは、こんな些細なことで議論をするためではなかったのです。
意見の違いは違いとして残してもいいのではないでしょうか。
「現在苦しんでいる創価学会員を救いたい」という思いは同じなのですから。
もっと楽しくやりましょうよ。

いつもこのブログの運営をして下さっていること、感謝しています。
このブログに救われた人が沢山いることも承知しています。
ですから、シニフィエさんとはケンカしたくないのです。

獅子風蓮さんの話が多岐にわたり、一貫性がないので判断に苦しみます。

シニフィエさんが一貫性がないと言われるのは、私のホームページについてでしょうか。
https://www.shishi-fu-ren.com/
確かに、私のホームページは、マイヒーローズで、創価学会の三代会長を取り上げたり、さらにはブッダ、キリスト、小林よしのり、えらいてんちょうまで入っていて、支離滅裂ですよね。
また、マイアーカイブでは、40年前の大学生の時に書いた「創価学会を良くするために」などという青臭い文章や、法華講員として30年前に書いた「宗教と倫理の間」など、今と若干考え方の違った部分を含むものを並べていますので、一貫性がないと言われてしまえばそれまでです。
私のホームページを家族に見せたところ「お父さんは何をしたいのか分からない」と言われました。
もともとが創価高校の同期生にアピールするために作ったものですので、自己満足のためのようなものです。
たいしたものではないです。
私のブログ(コメントトップの獅子風蓮をクリックするとジャンプします)も、私自身の考えをまとめるために作ったようなもので、きわめて個人的なものです。
「何をしようとしているのか分からない」と言われてもしょうがないですね。
でも、このシニフィエさんのブログで発言してきたことは、十分に内容を固めてから書いていますので、「一貫性がない」といわれるのは心外です。
どの部分が一貫性がないと思われたのでしょうか?
教えていただけると幸いです。
まあ、皆さんからみれば、私の立場は優柔不断に見えるかもしれませんが、それでも受け入れてはいただけないでしょうか?

獅子風蓮でした。