■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
●の文章は、それについたコメントの引用です。
■芸術と宗教 投稿日: 2013年7月27日
芸術と宗教に関して、先日は音楽を例に出しましたが、たとえば美術でいえば、ダ・ヴィンチの「受胎告知」や「最後の晩餐」は人類史上に残る名画です。システィナ修道院のミケランジェロが描いた「最後の審判」やサンピエトロ大聖堂にある彫刻の「ピエタ」にしてもそうです。もっと時代をさかのぼってギリシャ彫刻はどうでしょう。有名な「ミロのヴィーナス」をはじめ、みなギリシャ神話の神々です。一昔前、バーミヤンの石窟寺院がイスラム過激派によって爆破されました。それは宗教的な観点から仏像が否定されたからです。エジプトの彫刻は太陽神を中心とした宗教がもとになっています。日本においても山水画は茶道とともに禅の思想が基盤になっています。禅の思想を表す「十牛図」や「円相」にしても「不立文字」の考え方がよくわかります。そう言う意味では「南無妙法蓮華経」とは正反対の思想です。日本の仏像の芸術性は世界でも群を抜いています。有名な興福寺の阿修羅像をはじめ新薬師寺の十二神将や広隆寺の半跏思惟像など、あげればキリがありません。そうした人類の生み出した世界の芸術の多くというか、ほとんどといってもいいでしょう。それらを日蓮の思想に照らし合わせると否定されなければならなくなります。いい方を変えれば、特定の宗教によって思想信条、表現の自由を制限されることになります。
もし万が一、学会や日蓮正宗の言う広宣流布がなしとげられたとしたら、これらの人類の文化遺産はどういう扱いを受けるのでしょう。その先に芸術家は思想統制をされた作品しか世に出せなくなるのでしょうか。それが文化と言えるでしょうか。これは「それはそれとして」などといったいい加減なことでは済まされない問題です。
●北斗七星(2013年7月28日 09:02)
シニフェさんこんにちは。暑い日が続きますね。
体調に気をつけてお過ごしください。
私も最近、シニフェさんと同じような疑問を抱くようになりました。
『もし万が一、学会や日蓮正宗の言う広宣流布がなしとげられたとしたら、これらの人類の文化遺産はどういう扱いを受けるのでしょう。その先に芸術家は 思想統制をされた作品しか世に出せなくなるのでしょうか。それが文化と言えるでしょうか。これは「それはそれとして」などといったいい加減なことでは済ま されない問題です。』
全く同感です。日蓮自身が庶民感覚の上で一体何を幸福と感じ、何を平和と考えていたのか判りませんよね!
昔、聞いた話ですが、日蓮が佐渡流罪のときに何を考えていたのか?
まず一つ目は、自分が衆生救済のために身の危険も顧みず法華経を広めてきた結果、流罪された身を嘆いたそうです。
二つ目は、日蓮が予言した蒙古の二度目の来襲があるのかどうかが大きな気掛かりだったそうです。つまり、それがないと自分の予言が外れれた事になるわけです。すなわち、法華経にキズが付くのです。
人師、論師を通じて時代とともに本主釈迦の教えから乖離したのではないでしょうか。
私はそのような視点から、仏教の流れを一度自分なりに見つめなおしたいと考えています
それではまた、お元気で。
【解説】
北斗七星さんの日蓮が佐渡流罪のときに何を考えていたのか、との問題提起。
①自分が衆生救済のために身の危険も顧みず法華経を広めてきた結果、流罪された身を嘆いた
これは、私も何かの本で読んだことがあります。
人間・日蓮の心理としては当然だと思います。
②日蓮が予言した蒙古の二度目の来襲があるのかどうかが大きな気掛かりだった
これも、人間・日蓮の心理としては当然だと思います。
私は、時代の制約はあるものの真実を求めて誠実に生きた人間・日蓮を敬愛しています。
また、日蓮正宗の一信徒として、ご本仏日蓮大聖人を信仰しています。
人間的な日蓮と信仰の対象としての日蓮大聖人は分けて考えるべきだと、私は思います。
獅子風蓮