■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
■再開しま~す。 投稿日: 2012年10月27日
はやいもので、このブログを休止してから半年が経ちました。このブログでもいろんなことがあって休止となったわけですが、どこかの首相ではありませんが「近いうちに」と言いながら、なかなか再開することができないまま今に至りました。その間、尊敬する「白バラ通信」もコメント中止という事態になり、そろそろこのブログもほんとに再開した方がいいのかなとも思い始めてきたところです。ただし、みなさんからのコメントを受け付けて、それに対応していくエネルギーはまだなさそうなので、とりあえず近況報告や思ったことを書くぐらいのところでやっていければと思っています。
このブログを休止してから、ご本尊をお寺に返却し、仏壇をノコギリとハンマーでバラバラにして「燃やせるゴミ」として自治体の回収するゴミとして処分したことは、かの「白バラ通信」のコメント欄にてご報告させていただいたとおりです。それから財務もキッパリとお断りし、聖教新聞をはじめとしたすべての刊行物をやめました。案の定、組織の人がわけを聞きにきましたが、ひととおり理由を話したら、意外にあっさりと引き下がっていきました(笑)。まあ、自分としてもつっこみようのない話をしたつもりなので、私の決心の固さが伝わったのだろうと思います。それと「すでにご本尊をお寺に返して、家には仏壇もない」といったことが、彼らを説得できた理由なのかもしれません。
ただ、まだ私は正式に脱退届は出していません。それはもしかしたら学会の会合に出られる立場であるほうが、今後学会のおかしさを世の中に知ってもらえる機会になるかも知れないと思ったからです。
組織からしつこく脱会を阻止されるのが面倒で、脱会したいのになかなかできなくて困っている方、まずは黙ってお寺にご本尊を返却して、仏壇を処分してしまうのが道ははやいかもしれませんよ。またご本尊をお寺からではなくて学会から買ったという人は、どうせただのカラーコピーなのですからゴミに出すなり燃やすなりすればいいと思います。
我が家から仏壇がなくなり、新聞も入らなくなり、組織の人も来なくなって、私の心はずいぶんと軽くなりました。しかし、これまでの経緯の中で「うつ」の症状はまだ完全になくなったわけではありません。やはりこの50数年間の自分の人生に創価学会が関係していたことを考えると、やはりとりかえしのつかないことをしてしまってきたことに対する後悔と自責の念をぬぐい去ることができないでいます。おそらく快復するまでにはまだまだ時間がかかるのだと思いますが、できるだけ軽い気持で行きて生きていけるように努めたいと思っています。
またときどきリハビリのつもりでここに思いのままを書いていこうと思います。みなさまよろしくお願いいたします。
■まだコメントは受け付けません。 投稿日: 2012年10月31日
家から仏壇がなくなり、新聞もやめた今、とりあえず創価学会からは抜け出すことができたという気持からか、ずいぶん気持が軽くなったような気がしています。このブログも最初はとてもいい具合に賑わっていたのですが、途中から荒らされたりして止めていました。このブログのタイトルは「対話を求めて」です。ですからコメントを閉鎖している今の状況では「対話」は成立しません。かといって、安易にコメント欄を解放するのもどうかと思っています。それで今もコメントは受け付けていませんのであしからず。そのうち気が向いたらコメントも受け付けるようにしようと思います。そのうちです(笑)。
■ぼちぼちと、少しずつ 投稿日: 2012年11月1日
このブログを始めた頃は、そうとう力が入っていたと自分でも思います。人生の指針とか、価値観とか、とにかく世の中を見ていく基盤としていたものが、とんでもない間違いだったことに気づいたときに、平常心でいることのできる人はそういないと思います。50年以上も自分の人生は間違ったことを信じ込まされていた。そのことに気づいたとき、そしてこれからもはや余生と言っていいほどしか残っていない自分の人生にどう折り合いをつけばいいのか、全くわからなくなりました。ですからほどなくして私は鬱病の症状が出ました。何をするにもやる気がなくなりました。今まで親の代から疑うことなく信じてきた信仰が間違いだった。間違いだと言うだけではなく、途方もない数の人を騙し、その人たちの人生を食いものにしながら搾取のための組織に加担することになってしまっていたのです。どうにかならない方がおかしいくらいです。
そういうわけで、これからはあまり気を張らずにぼちぼち思ったことを書いていくことにしました。それからコメントももうしばらくは受け付けません。受け付けるとまたわけわからない人が面白半分にかきまぜにくるのがバカバカしいので当分やりません。というかいまのところはコメントを受け付ける気はありません。かつては一日で4000以上のアクセスがあったこのブログですが、今は一日50そこそこと言った感じ。それでいいと思います。ただ50年以上創価学会を信じていた私が、その創価学会が間違いだったということに気づいた人間のひとりとしての思いを書き残していこうと思います。それは一貫して変わらないと思います。今は無理に「創価学会はいけない団体だからあなたも止めた方がいいですよ」なんて声高に言いません。それがどんなにおかしな団体でも信じてる人にとってはわからないということがいやというほどわかりました。だからわかるひとにだけわかってもらえればいいと今では思います。創価学会によってたいへんな思いをしている人がたくさんいます。このブログにも多くの人のそんな声が寄せられました。そうやって気づく人はそれでいいと思います。気づかない人にいくら言っても無駄です。そしてネット上でそんなことを叫んでみても、暇で暇でしょうがない関係ない人が面白半分にぶちこわしにくるだけですから、当分コメントは受け付けません。ただこのブログのタイトル「対話を求めて」とあるように、どうにか対話が成立するかたちを模索しないといけないと思っています。具体的にはまだ何も思いつきません。それほどネット上での対話は困難です。こと創価学会がテーマだとなおのことのようですね。
それではまた。
■今後のこのブログについて 投稿日: 2012年11月3日
このブログが荒れてから閉鎖同然になってから半年が経ちました。ある程度までたいへん多くの方に訪れていただき、有意義な対話を交わすことができました。それはそれで意味はあったかなと思っています。ただある時期から私の想像を超える奇々怪々なコメントも増え始め、最後はまったく収集がつかない状態となりました。それは制限をかけずにコメントを公開してきた故の、そしてネット故のことなので、仕方がないといえば仕方のないことだったのでしょう。これからまたこうしてブログを書いていこうとしていますが、以前と同様にはできないでしょうし、する気もありません。ただ創価学会の問題を考えるとき、やはりその実態を知っている人との対話をつくりあげることに意味があるのだとも思っています。ですから、どうにかして有意義な「対話」をする方法を見出さなければなりません。コメントを承認制にする。それがいちばん簡単な方法ではあるでしょう。しかしそれでは私がブログを開いたときにしか動かないし、私以外方々同士の対話がとてもぎこちなくなるでしょう。対話はできるだけリアルタイムに進行しなければ、深いところまではたどり着かないとも思います。かといって以前のようにすべての人にコメント欄を解放してしまうと、わけのわからない事態に及んでしまいます。困ったものです。
どうやったら創価学会の間違いに多くの学会員が気づいてくれるのか。どうやったらこれ以上創価学会によって不幸になる人を増やさないでよくなるのか。私はまずそうしたことに焦点を絞って話を交わしていける場としてこのブログを成立させたいなと思っています。
■これまでのこと 投稿日: 2012年11月17日
以前は連日のように記事やコメントを書いていたのに、今はここに書く言葉がなかなか出てきません。それはかなり自分の中での創価学会というものが変化してきたからではないかと思っています。どういう変化かと言いますと、これもなかなかうまくは言えないのですが、以前のように創価学会の悪い部分をどうにかして世間に知らしめることができないかという、妙な正義感のようなもの…裏を返せば、創価学会によって自分の人生の大半を間違った考えをベースにして過ごさなければならなかったことへの恨みつらみのようなものであったのかもしれません。しかし今はそうした憎しみのようなものを感じているわけではありません。もうこうなっては、どんなにあがいても自分の人生の時間を取り戻すことはできないというあきらめもあるし、また違った意味では、これから自分は自分の人生をどのようにしてくべきなのかという、今までよりも前向きな方向でものごとを捉えられるようになってきたように思えます。ですからこのブログにも創価学会の悪口を連ねるようなことはしないと思うし、コメントを解放しても、そのような学会に対する感情的な批判は遠慮していただこうとも考えています。
数ヶ月前に私は自宅のご本尊をいただいたお寺に返しに行きました。そのお寺の住職に私が創価学会の本当の姿にやっと気づくことができたことと、信仰自体をもう一度はじめから考え直す機会にしたいということ。したがって、このご本尊もお返ししたいとの旨を話しました。住職は大聖人の仏法を貫くことで創価学会のおかしさをひろく一般の人にも知ってもらうことがあなたの使命ではないですか、とおっしゃいましたが、私はとにかく信仰そのものを一から考え直さなくては立ち直れない状況にいます。ですから今だからといって日蓮正宗の信仰に向きを変えることはできそうにありません、といいました。住職は、まあ、気持はわからないでもないですということで、ご本尊を収めてくれました。その後私は家にある空っぽの仏壇をハンマーとノコギリでバラバラにしました。今までは手を触れるのも慎重にしていた仏壇を、ハンマーで叩き割り、ノコギリで切り刻みました。と同時に、それはこれまでの50数年にわたる信仰が間違いだったんだということを身を以て自分に言い聞かせるための儀式のようなものでもありました。いくぶん気持がスッキリしたような気もしましたが、そうそう気持がまるっきり切り替わるものではありません。学会のおかしさにはっきりと気づき、自分は見事にマインドコントロールされていたことがわかったと同時に、私はこのとりかえしのつかない過ちを前にして鬱病の症状が出始めました。最初はそれとは気づかなかったのですが、日常生活の中で次第に感情のコントロールができにくくなっていることに気づいたのです。妻の勧めもあって心療内科にかかると、やはり治療が必要なほどの鬱の症状が出ていました。それから薬物治療が始まりましたが、すぐに快復するようなものではないらしく、今でも薬の種類や量を調整しながら定期的に病院に通う日々を送っています。今思えば、鬱の症状が出たのは、このブログが荒れてきたころでした。このブログを通して、多くの方が同じような悩みを抱えていることを知り、そうした対話は自然と自分の気持の整理にもなっていたのでしょう。しかしこのブログにも心ない荒らしが登場し、皆さんとの対話ができない状況になってから、私の鬱の症状が悪化していきました。そしてその打開策としてご本尊をお寺にお返しして、仏壇を自分の手で切り刻むことで気持の整理をしようとしたのだと思います。その甲斐あってか、それから次第に鬱の症状は緩和されてきたように思います。まだ完治するまでには時間がかかるとは思いますが、一時期の仕事すらまともにできないほどの無気力な日々が続いた頃に比べれば、ずいぶんと快復しているように思います。そしてこのブログもなんとかして再開しようと頑張る気力も生まれてきたわけです。
これから、どのような形になるかは自分でもわかりませんが、少しずつ書き進めていきながら、できるだけ近いうちにコメントを受け付けられるようにしたいと考えています。
またこのブログを始めるきっかけとなった「白バラ通信」の高倉教授にも、このブログが再開できたことを喜んでいただいているようです。感謝します。おそらくはいつか戦後最大の宗教詐欺事件として創価学会の実態が明らかになる日が来るでしょう。それが一日もはやく訪れ、これ以上騙される人が一人でも少なくなるように願う次第です。
【解説】
シニフィエさんは、最後の記事で、ご本尊をお寺に返却したことを報告しています。
また、治療が必要なほどの鬱の症状が出たことを告白しています。
ともにブログが休止している間の出来事です。
シニフィエさんの心のうちは、さぞ苦しかったことでしょう。
お察しします。
本当は、鬱の症状が出ているときは、仕事や生活上の大切な決定はしない方がいいのですが、そのようなアドバイスは医師から受けなかったのでしょうか。
気になるところです。
創価学会の組織から離れるのはいいとしても、信仰を捨てることは、そんなに簡単に決めてはいけないと、私は思います。
獅子風蓮