■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
●の文章は、それについたコメントの引用です。
■対話が進行中です。 投稿日: 2013年8月8日
おかげさまでコメント欄には活発な対話が進行中です。私と同じように学会の真実に覚醒された方、そこから法華講に移られた方、現役の創価学会員の方による対話です。みなさん立場の違いを前提に、それぞれの意見を聞こうとする配慮のある方々ですので、とても意義深い対話がなされていると思います。おひとりだけそうした対話の趣旨を理解されないで自分の言いたいことだけを貼付けられる方がいらっしゃいましたので非表示とさせていただいています。
対話の内容はまだ平行線から脱していませんが、とても興味深い内容となっています。たいへんありがたいです。今後ともよろしくお願いします。
●木花(2013年8月9日 11:23)
サラマンダラさんへ
こんにちは!
サラマンダラさんのこと気になっていたので、コメント下さってありがたいです。
signifieさんとサラマンダラさんは宗教色の強い芸術は外道だから認めてはいけない、大聖人の教えに矛盾があると思われているんですよね。
でもそれは池田さんにそう教えられたからですよね。
とある法華講員さんも仰ってますが、日蓮正宗では芸術の見聞は禁止されていません。
音楽も建造物も文化なので、美術品として見て賛美するのは謗法にはなりません。
それを何度も言ってるのですが、伝え方が悪いのか理解していただけないようで・・・。
宗教色の強い芸術は外道だから認めてはいけないと思っているのはsignifieさんとサラマンダラさんで、私たちはそう思っていない。
日蓮正宗では整合性が取れているのに、signifieさんとサラマンダラさんは取れていない。
なぜ自分達が整合性が取れないのか、そこを考えたほうがいいのではないでしょうか。
日蓮正宗は関係ないと思います。
自分の器に創価の教義がは入っているから、いくら私やとある法華講さんがコメントしても、宗門の教えが入らない状態なのだと思います。
それでsignifieさんには創価の教えを捨てられないのですか。と言ったのです。
>法華経の敵を見ておいてせめずんは無間地獄疑いなし
この「せめずん」は相手を攻撃する事ではないです。
池田さんが表面的な解釈しか出来ず、攻撃することと勘違いしただけでしょう。
折伏は相手を納得させることです。
相手を納得させるには自分の人格や慈悲心にかかってくるので信心が大事と宗門では教えられています。
折伏は菩薩行であり、自分の仏性を開かせる修行です。
ですから菩薩界の次に仏界があるのです。
そもそも大聖人の教えを正しく理解している人は創価にいないので、そこで学んだものは大聖人の教えではありません。
それを学会員さんは大聖人の教えと信じているのです。
まずそこを壊さないといつまでも創価の教えというか指導を引きずってしまって、正しい解釈は入ってこないと思います。
学会員は一般の方と天地ほどの意識のずれがあるので、それを埋めることはかなり難しいことです。
signifieさんはかなり覚醒されてますが、全て覚醒された訳じゃないから苦しまれているのでしょう。
本当に覚醒したら苦しむこともないし、宗教を否定することもないと思いますよ。
●signifie(2013年8月9日 13:08)
木花さんへ
わかりました!木花さんのおっしゃることはほとんど理解できるのですが、芸術と日蓮正宗のことに関しては、どうも話がかみ合わないなと思っていました。それが今回の木花さんのコメントではっきりしました。
>signifieさんとサラマンダラさんは宗教色の強い芸術は外道だから認めてはいけない、大聖人の教えに矛盾があると思われているんですよね。
どうやらここのことろが完全に真逆に捉えられているようです。
私は創価学会からはほぼ完全に覚醒していると思います。創価の本尊ならその場でいくらでも破り捨てることができます。現に私が持っていた仏壇はこの手でたたき壊して燃えるゴミに出しました。私が持っていたご本尊は30年以上前に正宗の寺院でいただいたものだったので、その寺院にお返ししました。
何度も言うように創価学会は宗教ではないということがはっきりとわかったし、それ以上に創価学会は人の心を利用して金と権力を吸い上げるとんでもない社会悪だということを誰に対してもはっきりと断言することができます。だからこそこのブログを立ち上げたのだし、一人でも多く創価学会の恐ろしい真実に気がついてほしいと願っています。
そして宗教を基盤とした世界中の優れた芸術の厳然たる存在は、創価の教えに反しているから悩んでいるのではなく、創価学会や日蓮系の宗教では認められないものがあるのではないか。その矛盾をどう説明するのだろうかという疑問があるということです。ほんの少しだって学会の教えにとらわれていることはありません。まったく逆の立場で、この芸術との矛盾が解消されないかぎり、創価学会の教えは誤りだということになると思います。それはたとえば五重の相対や四箇の格言に照らしても、生命の永遠性を解いていない宗教が劣っていて、法華経だけが人間を救済する唯一の法であるとし、さらにその欄外でしかないキリスト教やイスラム教など問題にならないとするならば、世界中の人類が残してきた芸術はとるにたりないものにしかならないじゃないか。しかしそれはどう考えても日蓮の教えのほうに無理がある。私は宗教芸術を認めるか、日蓮の教え通り他の宗教を邪宗として否定するのかと訊かれれば、一も二もなく芸術をとります。それは厳然たる事実であり、崇高な文化であり、人類の遺産だからです。日蓮系の宗教から生まれた文化がどれほどあるでしょう。それ以外の宗教から生まれた芸術との比較ができるほどのものでしょうか?
木花さんおっしゃるのは今現在の日蓮正宗では他宗の芸術文化を認めているとのことですが、それは日蓮の教えとしてあるのでしょうか?「日蓮正宗では整合性がとれている」と仰っていますが、どの時点で他宗の芸術を認めるようになったのでしょうか。もしどこかの時点で変化したのであれば、それは整合性がとれていないということになるのではないかと思うのです。
話を整理しますね。
まず、創価学会に関して
私は創価学会は100%間違いだということに気づきました。創価学会の最高幹部たちは日蓮の教えを利用して多くの会員をだまし、金と権力を思いのままにしている。だから創価学会は日蓮の教えを、会員を思考停止させる手段として使ってきた。他宗に関わることはすべて法謗と決めつけて、学会の信仰だけを強制してきた。しかし学会にとって邪宗である宗教がすぐれた芸術を生み出してきたこと自体をどう説明するのか理解できないということ。ついでに「ガンジー、キング、イケダ」と題した本を出版するほど、学会にとっては外道でしかない指導者と自分を無理矢理並ばせて自慢する池田氏の行動も理解できません(笑)。
次に日蓮正宗に関して
私は日蓮正宗は宗教であると思っています。そして私は他の宗教と同様に宗教自体を否定していません。ただしいわゆる新興宗教は創価学会と似たりよったりだと思っていますが、それに関してとくに思い入れも反発する気持ちもありませんし、勝手にやってくださいといったところでしょうか。また正宗に関してもそれほど興味もありません。ですから木花さんがおっしゃるように日蓮正宗では他宗の芸術も認めているということに関して何も異論はありませんが、強いて言うならば、他宗であっても芸術的な面で仏像や賛美歌を鑑賞することが、日蓮の教えとしてどの時点で認められたのだろうかという素朴な疑問はあるなあということです。
木花さん、私は自分が信じていた創価学会のすべてが偽りであったということに傷ついたのであって、今は創価学会に何の未練もありませんし、創価学会の言ってることとやっていることの矛盾ならいくらでもあげることができます。それに何十年も気づかなかったことの悔しさと、まだ気づいていない人へなんらかのメッセージが伝えられたらという思いでこのブログをつくりました。何度も言いますが私は創価学会は批判しますが、日蓮正宗を批判する気はありません。私にとって日蓮正宗も日蓮宗も他の仏教もキリスト教もイスラム教も同じです。世界中の芸術を生み出してきた宗教は素晴らしいと思います。あえていうならば私は宗教によって昇華された人間の精神性を無視しての宗教芸術作品の理解は不可能だと思いますので、木花さんが仰るような宗教芸術を精神的な面と文化的な面にわけて鑑賞するということ自体、芸術に創作の面から携わっている私自身としてはなんとも納得はいきませんが、それはそれぞれの考えであって、まわりがとやかく言うことでもないと思っています。芸術はどのように見ようとも自由ですからね。
私は創価学会の考えが間違いであるということを証明するひとつの方法として、創価学会は邪宗として否定したきた宗教芸術の存在に対して何も答えられないのではないかという問いかけをしているのです。民音がグレゴリオ聖歌のコンサートをしたり、東京富士美術館でミケランジェロやルオーの展覧会などありえないでしょう。出品者のほうから願い下げでしょうけど(笑)。
●木花(2013年8月9日 17:03)
signifieさんへ
えっー!
日蓮正宗に問いかけているのではなく、創価学会に問いかけていたのですか?
それなら私はお答えする事はできないです。
私は学会員ではないので・・・。
ちょっと気が抜けちゃいました。
でもすこし意見を書かせて下さいね。
「生命の永遠性を解いていない宗教が劣っていて」とのことですが、
日蓮大聖人は他宗では救われないと仰ってはいますが、劣っていると教えてはいないです。
大聖人は衆生の救済のために立宗されたのですから、劣っているという解釈は間違っているかと・・・。
法華経以外は劣っていると教えているのは創価学会・池田さんの指導ですよね。
あと、大聖人の教えに芸術は認めないという教えがあるのですか?
まだ勉強不足でよくわかっていないのですが、そういう教えがあるのですね。
創価の話ですが、創価が文化事業を展開したのは海外に入り込むためではないかと思います。
海外ではカルト認定している国もあるので、文化を通せば入り込みやすいですから。
ロシアでは池田さんの顕彰買収が発覚しニュースになったそうですね。
日本と海外創価(SGI)の活動は全然違いますが、海外の学会員も騙されていて本当に可哀想です。
●signifie(2013年8月9日 17:53)
木花さんへ
すみません、私は日蓮正宗については勉強不足のようなので、これといって批判できるような知識も気持ちもありません。ですから単純に木花さんのおっしゃる生命観において「救われない宗教」と「劣っている宗教」との違いがよくわかりません。
五重の相対は教義の優劣を五つの基準に即してわかりやすく解いているというわけではないのでしょうか。それは優劣ではなく、救われるかどうかということでしょうか。それは優劣とは違うのでしょうか。それとも「他の宗教も立派だけど人々は救われないよ」っていう…なんだかよくわかりません。それから四箇の格言では「念仏を唱えるのはいいけど無間地獄におちるかもしれないよ、知?らないっと」「禅宗って頭よさげで謎めいてかっこいいけど頭割れちゃうかもね」って感じでしょうか。どうやら私は創価のご都合主義の教学しか知らなかったようなので、日蓮正宗における五重の相対と四箇の格言について教えていただけたら嬉しいです。またそれは日蓮宗との違いはあるのでしょうか。
●excommunicate (2013年8月9日 21:00 )
とある法華講の方からの
《学会に敵対する人物の不幸や打倒を祈るというのは本当ですか》
という問いに対してお答えします。まず背景や詳細がよくわかりませんので、お答えするのは難しいですが、まず、知りたいのは、その元学会員の方は、どういった会合でどんな形でご質問のようなことを経験されたのでしょうか。
経験されたのは婦人部の唱題会ですか?壮年部の唱題会ですか?少なくとも青年部の会合で、唱題会という名目で、ご質問のような光景は見たことがありませんし、そういった主旨で開催することもありません。
ただし、個人の仏壇にある御祈念版は個人の自由なので、何を御祈念されているか、そこには組織として踏み込むことはできません。
会員の中には、大恩ある学会を、供養を取るだけ取って無残に切り捨てた日顕や、同じく学会の手弁当で議員にまでさせてもらいながら、議員を辞めてから口汚く学会を罵る輩に対しては、破折の思いで『打倒』などの単語は使うかもしれません。
しかし、その意味は『大聖人の御精神に照らして間違っているから、改めなさい』という破折の精神からくる言葉でしょう。決してその人の不幸を祈るようなものではありませんし、学会指導においても、そのような指導は聞いたことがありません。
ゆえに、個人の意思で書いた『打倒』などの御祈念版のあるご自宅で、唱題会があったと推測しますが、いかがでしょうか。
御書《阿仏房尼御前御返事》に、
『涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。』
(通解)
涅槃経には「若し善比丘がいて、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処しなければ、当に知りなさい。是の人は仏法の中の怨である。若し能く駆遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり真実の声聞である」と。この経文にせめられて、日蓮は種々の大難にあうといっても「仏法の中での怨である」の誡まぬかれるために謗法を責めるのである。
とあります。『駆遣し呵責し挙処する』とは、『厳しくその責を咎める』ということなので、言論戦でそれをしようとすると、どうしても激しい単語が使われることがあります。
普通の会員では、日顕や竹入、矢野といった輩に直接会って破折することはできません。だから、祈りで破折するということはあると思います。
御祈念版ですから、短く要点をついて書かないと、だらだら『日顕、竹入、矢野などの学会破壊を企み、罵詈雑言する輩達が、一日でも早く自分の間違いに気がついて謝罪し、正しく日蓮仏法を行じてくれるよう御祈念します』とは長すぎるので、それを極端に短くして、『打倒!日顕、竹入、矢野』という風になってしまうのではないでしょうか。
それを言葉尻だけ捉えて、本質に肉薄せず、邪推の挙句、脱会されるのは大変残念でなりません。ただし、信教は自由なので、脱会する、しないは個人の自由です。一方、誤解を解いて頂く為に、脱会を考え直して頂けるか、その望みをかけて説得することはあるでしょうが、最終的には本人の自由意思です。
●signifie(2013年8月9日 22:07)
excommunicateさんへ
>会員の中には、大恩ある学会を、供養を取るだけ取って無残に切り捨てた日顕や、同じく学会の手弁当で議員にまでさせてもらいながら、議員を辞めてから口汚く学会を罵る輩に対しては、破折の思いで『打倒』などの単語は使うかもしれません。
私の父は戸田門下生として草創期の幹部でした。そして若くして公明党の議員に抜擢されました。衆議院の秘書もしていました。父はなにも好き好んで議員になったわけではありません。順風満帆な商売をやめさせられ、それでも広布のためにと秘書や議員として走り回りながら、生活をぎりぎりに切り詰め、毎年たいへんな額の財務をして、それでも絶対に愚痴一つこぼさない人でした。ある日突然脳溢血かなにかで倒れて亡くなりました。家族の誰も父の死に目には会えませんでした。学会員は公明党の議員に対して「俺たちが手弁当で議員にしてやったんだからな」って思っているのでしょうか。
●流れ星(2013年8月10日 08:30)
わたしが創価学会にいたころ(7年前)日顕打倒唱題会が最寄りの会館で定期的にありましたよ。
なにをうそぶいて平然とそのようなことをしら?っと言われるのか。。
各家庭の御本尊に置いて願うようにと印刷された日顕・竹入などのご祈念の厚い立て掛けて使うものも配られましたよ。。
創価学会総出でそれらの人の仏罰?を祈っていたことは明らかですよ。。
【解説】
木花さんとの対話の中でシニフィエさんは、
「何度も言いますが私は創価学会は批判しますが、日蓮正宗を批判する気はありません。」
と発言しています。
現在のシニフィエさんと意見が異なりますが、いつ頃からどのように変化してきたのでしょうか。
excommunicateさんが「仏敵打倒唱題会」への非難に答えて、
>決してその人の不幸を祈るようなものではありませんし、学会指導においても、そのような指導は聞いたことがありません。
などと答えていますが、これはごまかしのように聞こえました。
獅子風蓮