創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
この本の特徴は、戦前の思想家・大川周明の著書である『米英東亜侵略史』のテキストを2部に分けて再現し、その間に著者・佐藤優氏の解説を挟み込むという形式をとっていることです。
この形式は、佐藤氏が創価学会系の雑誌『潮』に記事を連載するときや、その著書「池田大作研究」を書いた時のスタイルと共通するものです。
さらに言えば、私がいろいろな本を読んでブログで引用する際に、記事の最後に【解説】として私見を述べていますが、そのスタイルにも通じます。
そこで、読者が読みやすく理解しやすいように、あたかも佐藤氏がこのブログを書いているかのように、私のブログのスタイルをまねて、この本の内容を再構成してみました。
必要に応じて、改行したり、文章を削除したりしますが、内容の変更はしません。
なるべく私(獅子風蓮)の意見は挟まないようにしますが、どうしても付け加えたいことがある場合は、コメント欄に書くことにします。
ご理解の上、お読みください。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
■第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
■第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
□第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
□第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
□あとがき
米国東亜侵略史(大川周明)
米英東亜侵略史 序
昭和16年12月8日は、世界史において永遠に記憶せらるべき吉日である。米英両国に対する宣戦の詔勅はこの日をもって渙発せられ、日本は勇躍してアングロ・サクソン世界幕府打倒のために起った。そして最初の一日において、すでにほとんどアメリカ太平洋艦隊を撃滅し、同時にフィリピンを襲い、香港を攻め、マレー半島を討ち、雄渾無限の規模において皇軍の威武を発揚した。
この小冊子は、対米英戦開始の第7日、すなわち昭和16年12月14日より同25日に至るまで、四方の戦線より勝報刻々に至り、国民みな皇天の垂恵に恐懼感激しつつありし間に行ったラジオ放送の速記に、きわめて僅少の補訂を加えたものである。
それは『米英東亜侵略史』と題するも、与えられたる時間は短く、志すところは主として米英両国の決して日本及び東亜と並び存すべからざる理由を闡明(せんめい)するにありしがゆえに、史実の叙述はただこの目的に役立つ範囲に限らざるを得なかった。ただしこの小冊子が、いささかにても大東亜戦の深甚な世界史的意義、並びに日本の荘厳なる世界史的使命を彷彿せしめ、これによって国民がすでに抱ける聖戦完遂の覚悟をいっそう凛烈にし、献己奉公の熱腸をいっそう温め得るならば、予の欣幸は筆紙に尽くし難いであろう。
昭和17年1月
大川周明
【佐藤氏による解説】
東京裁判で見せた奇行の“真意”
現在、大川周明という名前を聞いて、その人物像や歴史的役割がすぐに思い浮かぶ読者は、太平洋戦争や昭和期の日本思想に対する関心がとても高い人に限られると思う。極東国際軍事裁判(東京裁判)の初公判で、東条英機元首相の禿頭(とくとう)を叩いた背の高い老人ならば、当時の記録映像で見たという人もいることと思う。
今からちょうど60年前(1946年)の5月3日、東京・市ヶ谷に急ごしらえされた法廷で、極東軍事裁判が開始された。
大川周明は東条元首相等とともに「平和に対する罪」で起訴されたいわゆるA級戦犯の被告人として法廷に引き立てられてきたのだ。このとき大川は奇妙な行動をとる。
(中略)
大川周明の法廷での立ち居振る舞いについては、本当に精神錯乱状態に陥ったか、精神錯乱を装っているかについて、様々な議論がある。梅毒の原虫スピロヘータが大川の脳に回って発狂したのだという類の性感染症と結びつけて揶揄する見解や、あるいは裁判で死刑になるのが怖くなり、狂人を装ったのだという詐病説が一人歩きしている。
筆者自身、政治事件で東京地方検察庁特捜部、俗に言う「鬼の東京地検特捜」に逮捕され、小菅の東京拘置所の独房で512日間、弁護士以外の誰とも面会を許されず、新聞購読も認められない環境で暮らした経験があるので、大川の勾留生活についても、実感を伴いながら想像することができるのだが、獄中生活では拘禁反応が出て精神や身体に変調をきたすことはよくあるのだ。巣鴨の東京拘置所に収容されていた他の戦犯容疑者から、大川の奇妙な言動についていくつもの証言がある。
(中略)
大川自身、当時のことを次のように回想している。
私は乱心の結果、昭和24年5月上旬、巣鴨刑務所から本所の米国病院に移され、6月上旬にそこから本郷の東大病院に、そして8月下旬に更に松沢病院に移された。この数ヶ月の間、私は実に不思議な夢を見続けた。私はその夢の内容を半ば以上は明瞭に記憶している。然るにこの夢は、松沢病院に移るとほとんど同時に覚めてしまった。夢が覚めたということは、乱心が鎮まったということである。私が東大病院に移されたのは、恐らく私の病気が当分治りそうもないという診断の結果と思われるが、移ると同時に病気が治りはじめたのである。
心身に多少の変調があっても、人格異常者であっても、善悪の判断がつくと法廷が判断するならば公判は継続される。さらに、一旦公判の内容が理解できず、善悪が判断できないとの理由で精神病院に収容された者であっても、後に状態が回復すれば公判に復帰させるのが通例である。特にアメリカとしては、軍国主義のイデオローグ大川周明を断罪する目的をもっていたので、大川を公判に戻してもおかしくないのだが、そうはならなかった。この点についての筆者の見解は少し後で記すが、まず、大川の東京裁判観を紹介しよう。
(中略)
大川は、東京裁判が、連合国の日本に対する復讐で、日本人が二度とアメリカ人、イギリス人などに歯向かわないようにする「教育」の場であることを正確に認識していた。日本は敗戦国であるから、連合国の「教育」を拒否することはできない。 しかし、それに全面的に付き合う必要はない。
米ソの記録が示す大川への敵意
そもそも東京裁判で大川がA級戦犯容疑者として起訴されたのは、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判で、ナチズムの理論家アルフレッド・ローゼンベルク博士が逮捕、起訴され、絞首刑になったことを踏まえ、日本でもファシズムあるいは人種主義理論の思想家を引っ張り出さなくてはバランスがよくないという必要に迫られたからとの憶測を、筆者はどうしても捨て去ることができない。本書に収録した『米英東亜侵略史』が太平洋戦争中の1944年9月に英訳されていたことも恐らくマイナスに作用したのであろう。
いずれにせよアメリカの大川に対する評価は偏見に満ちたものだった。アメリカが大川をどれくらい危険視していたかは、1946年3月2日にヘルム検察官が東京裁判被告人選定委員会に提出した報告書からもうかがうことができる。
(中略)
ヘルム検察官の報告書から見ても『米英東亜侵略史』がアメリカ、イギリスの逆鱗に触れたことは間違いない。国際スタンダードで、語学と地域事情に通暁した専門家を育成することが「スパイ学校を直接経営」したことになり、帝国主義化したアメリカに対抗するために、日本が植民地解放をスローガンに対抗戦略を構築したことが「日本がメシア的使命を果たすべきであるという邪悪な決意」とされ、日本の政治改革に真剣に関与したことが「血なまぐさいクーデターに日夜奔走した」ことにされてしまった。もっとも政治裁判とはそのようなものである。むしろ大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う。人であれ、国家であれ、激怒する場合は二通りしかない。全く事実無根の場合か、本当のことを指摘された場合である。『米英東亜侵略史』のテキストに目を通していただいた読者には、本書が決して捏造データに基づく煽動的な書物でないと理解していただけることと思う。大川が『米英東亜侵略史』で展開した言説が、事実をもとに構成された説得力に富むものであったから、アメリカがこれほど注目したのだ。
もっとも大川を危険視していたのはアメリカだけではない。ソ連も大川を日本軍国主義の主要なイデオローグであると位置付けた。
(中略)
ソ連は、マルクス・レーニン主義の図式に従い、大川を独占資本家の利益代表と描き出し、しかも日本人を「極東のアーリア民族」とする人種神話を作りだしたイデオローグに仕立て上げようとする。後に具体的に述べるが、大川は植民地主義に対抗し、中央アジア諸民族の復興のために1917年のロシア社会主義革命が与えた影響を肯定的に評価していたし、勢力均衡の観点からも、ソ連を米英の帝国主義に対抗する勢力として日本の国益のために活用可能と考えていた。強いて言えば大川は親ソ派なのだが、ソ連は大川のテキストにもあたらず、その軌跡についての事実関係を一切無視して断罪するのである。アメリカ人とソ連人の双方にこれだけ危険視された日本人思想家は、大川周明以外に見当たらない。
「大本営発表=大嘘」は本当か
日米開戦直後に行われた大川周明のラジオ放送は、緒戦の勝利で国民全体が高揚しているときになされたものであるが、その内容はきわめて冷静な事実認識・分析で占められている。大川はアメリカ人に対する敵愾心を煽るような感情的な発言を避けている。日本政府のそれまでの外交方針を厳しく批判している点からも、独善的な演説とは一線を画しているといえるだろう。
現在、日米開戦について関心をもつ人でも、当時の日本政府が開戦の理由をどのように説明したかについては知らないのではないだろうか。冷静に考えてみよう。「国民は騙されて無謀な戦争に突入した」、「大本営発表はすべて大嘘だった」というということは果たして実証されているのだろうか。
(中略)
筆者は、外交の世界では時には真実を語れない場合があることもやむを得ないと考える。当時、アメリカ議会が沖縄返還で追加的予算支出をすることを認めないという強硬な立場をとっていたのだから、このような密約がなければ沖縄返還自体が実現されなかったかもしれない。政府の行為が、国民のためによかれと思って行ったことでも、結果として国民に対して嘘をついてしまった場合は、後で嘘をついたという事実を明らかにすることが、国家に対する信頼をつなぎとめることになる。アメリカもロシアも外交文書や軍事文書の公開で、国家の嘘が露見することがあるが、情報公開による国民の批判を甘受する姿勢をとっていることは、アメリカやロシアの国家としての強さを示すものだ。日本の官僚は、「絶対に間違えない」という無謬性神話に取り憑かれている。密約問題で明らかになったように、大本営発表の体質は現在の日本政府にも存在するのである。しかし、現在でも大多数の国民は政府に騙されていると憤っているわけではない。この感覚から、戦時中の日本人が大本営発表の嘘に対する感覚を類推することができると思う。
(以下省略)
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佐藤優氏の著述の多くを割愛してあります。
関心のある方は、ぜひ本書をお読み下さい。
構成・文責:獅子風蓮