石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第6章 父と子
(つづきです)
この年の11月9日、名古屋で布教中の日布が倒れたという連絡が入った。湛山は夜行で名古屋の病院に向かった。その後、沼津の別荘に戻って療養中の日布の病状が改まったのは12月5日。
「チチキトク スグキテホシイ」という電報に湛山は沼津に飛んだ。2日後の7日、日布没。享年75歳の大往生であった。
明けて昭和6年6月8日、東洋経済新報社の新社屋が日本橋本町一丁目に完成して、牛込の旧社屋から移った。
「明治28年に牛込の貸家で創刊された『東洋経済新報』は、明治40年には牛込天神町に社屋を建設した。そして手狭になったために今回の新社屋完成によって……」
落成式では次々に祝辞が述べられている。
新社屋は鉄筋コンクリート5階建てで地下に1階があった。
同じ頃、東洋経済新報社は経済倶楽部を設立させた。これは2、3年前から経済界から求められている講演会を効率よく開催するための組織であった。
経済倶楽部をその後、東京以外にも広げようという意見があって、大阪に関西経済倶楽部が設立された。続いて神戸、京都、名古屋にも広がり、さらに昭和17年末には合わせて34カ所に設立されるに至る。
経済倶楽部を経済知識の交流と研究、親睦を図る目的で設立されたものだが、それ以上に東洋経済新報社にとっては中央・地方を問わず経済界との結びつきが深くなり、経済界への影響力を強くしていった。
9月には柳条湖事件が勃発して満州事変の引き金になり、日本は戦争への道のりを歩み始めた。世論の大半は日本と満州とが一体になるべし、という主張であった。
それでも湛山は「満蒙を失えば日本は滅ぶ」という幻想のような見解に対して、
「人口問題は満蒙に領土を拡張しても解決しない。また国民が考えるほど満蒙は日本に対して資源を供給していない。満蒙がなければ日本の防衛が危ないというのは、イギリスがヨーロッパ大陸に領土を持たなければ国防が危ないというのに等しい。日本のアジアへの国防は日本海で十分だ」
と従来の論調を変えなかった。
湛山への反論は多かった。例えば『外交時報』の主張はこうであった。
〈今回の日本と中国両軍の衝突は、中国の満鉄破壊が発端であり、中国が悪い。日本軍の行動は、満蒙の権益と在満邦人の生命財産保護のための自衛である。最近の中国の排日・反日・侮日的な行動に対して日本と日本人が堪忍袋の緒を切ったのである〉
主張の勢いから言っても、多数派である背景から言っても、湛山の意見はいつまで経っても少数派のままであった。
(つづく)
【解説】
9月には柳条湖事件が勃発して満州事変の引き金になり、日本は戦争への道のりを歩み始めた。世論の大半は日本と満州とが一体になるべし、という主張であった。
日本は激動の時代を迎え、湛山は少数派ながら、自分の考えをブレることなく主張していくのでした。
獅子風蓮