石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
■第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第6章 父と子
(つづきです)
昭和7年(1932)3月、望月日謙が身延山久遠寺第83世法主に選ばれ、その入山式に湛山も父・日布の入山式以来、身延山を訪れた。
4月には恩師の一人、田中王堂が東大病院で死亡する。
嬉しいことと悲しいこととが交互に湛山に訪れた年であった。
さらに翌年の1月には母のきんを失うことになる。
「仲の良い夫婦は3年以内に連れにくるというが、本当だね。お父さんは2年とちょっとでお母さんを迎えに来てしまった。よほど、彼岸がいいところなんだろうな」
湛山は弟と妹を前にそう語った。湛山はこの前後から、死は悲しみではない、と思うようにしていたのだ。そうでなければ、人生も半ばを越えてこれから増えてくるであろう「永遠の別れ」を乗り越えられない、と悟っていた。
「清沢君、こんな日本では本当の言論の自由はないし、政治が国民の福祉に寄与できることもないんじゃあないかな」
湛山は、内心の不満をお互いに親友と自負している清沢洌に打ち明けた。
「石橋さん、我慢することも大事ですよ。我慢しながら、自説を曲げずに、やがて必ず来るその時のために準備しておくことだと思いますよ」
「取りあえず、軍備縮小をもっと声高に唱える必要はあるな」
「気をつけてください。治安警察は重箱の隅をほじくりますから。言論の弾圧も徐々にひどくなりますよ」
清沢は長野県生まれ。湛山より6歳年下である。苦学して渡米し、在米邦字新聞の記者になった。大正7年に帰国し、「中外商業新聞」、次いで「朝日新聞」の記者になって昭和4年、独立して外交評論家になった。経済関係を重視した現実味のある外交を説き、軍国化する日本外交を鋭く分析し、批判し続けた。言論統制によって評論活動が困難になると、外交史の研究に力を注いだ。石橋湛山の盟友ともいえる存在であった。太平洋戦争の終戦を見ずに亡くなるが、戦中の日記は「暗黒日記」として死後に出版され、広く読まれた。
日中両軍が衝突した上海事変、井上準之助前蔵相が暗殺された血盟団事件、海軍将校による犬養毅首相暗殺の五・一五事件、国際連盟脱退、皇道派青年将校らによるクーデター未遂の二・二六事件など、暗い事件が昭和7年から11年までに次々に起きる。
湛山は、こうした世の中の動きに対して注意を払いつつ、主張をし、その一方で個人として我が道を行くことも忘れなかった。富士山麓の山中湖に三浦や高橋たち経済倶楽部の会員十数人で出資して建設した別荘山中湖山荘に滞在しては、冬場には子供たちとスキーを楽しんだ。夏は周辺のハイキングであった。
遊びらしい遊びをしないで過ごしてきた湛山にとって、子供たちと一緒になって楽しむスキーは下手でも面白かった。日頃、仕事仕事でほとんど自分たちの相手になってくれない父親が、一緒になってスキーに熱中しているのを見ると、湛一も、和彦も、歌子も嬉しくなって大声を上げてはしゃいだ。
(つづく)
【解説】
日中両軍が衝突した上海事変、井上準之助前蔵相が暗殺された血盟団事件、海軍将校による犬養毅首相暗殺の五・一五事件、国際連盟脱退、皇道派青年将校らによるクーデター未遂の二・二六事件など、暗い事件が昭和7年から11年までに次々に起きる。
日本を暗い事件が覆う中、湛山は時代に流されず、個人として我が道を歩むのでありました。
獅子風蓮