獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「地の塩」その33)坂の多い大阪の風景

2024-12-23 01:47:34 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt56 - 日本を背負った人たち

2019年2月18日 投稿
友岡雅弥


大阪市は、東京23区と比べて、首長の傲慢さとかは同じなのですが、地理的に大きな違いがあります。その一つは、東京は坂が多い、しかし、大阪市内は坂が少ないこと。

東京は、あちこちに坂があって、わりと上り下りがあります。

でも、大阪市内は、北部はただただ平坦です。南部は坂がありますが、これがいたって単純。


例えば、新今宮から天王寺、難波から上本町、長堀から清水谷。大阪市内の地理をご存知なかたは、これらが、西から東へ直進する「通り」であるということはお分かりでしょう。

大阪市内の東西の道は「通り」、南北は「御堂筋」「なにわ筋」「四ツ橋筋」「堺筋」と「筋」です。

この大阪南部の「通り」は、すべて、かなりの勾配をともなった「登り坂」です。そして、坂を登りきって、さらに東へ進むと、こんどは、だらだらっとした「下り坂」になります。


大阪市南部は、真ん中を南北に小高い丘が貫いている構造を持っています。この小高い丘を上町台地と言います。

もともとは、この台地は半島で、東西に海が広がっていたのです。海に向かって南北に突き出た半島だったのです。

だいたい、弥生時代です。それが、淀川と大和川が運ぶ砂で、東が埋まり、湖となり、さらに、完全に平野となりました。そして、西側も少しづつ海に向かって陸地が広がっていったのです。

上町台地の上に、四天王寺がありました。ここからガーっと西にむかって下り坂があるのですが、四天王寺が出来たころには(だいたい聖徳太子のころ)には、まだその下り坂の向こうは海で、ここに、大陸や韓・朝鮮半島からの船が着いたのです。


四天王寺は、その人たちを迎える「海辺の迎賓館」の役割を果たしたのです。

鎌倉時代でも、まだ海がかなり近かったと見えて、四天王寺の有名な「石製の鳥居」 は、平左衛門尉の寄進とか言われていますが、平左衛門尉は、各地の「港」の支配権を持っていたらしいので、その関係があるのかもしれません。


江戸時代~明治となると、この四天王寺からの坂の下は土砂が堆積し完全に平野です。そこに「長町(名護町とも)」の巨大スラムが広がっていきました。

だいたい、水はけの悪い、じめじめとしたところには、スラムが広がります。


この四天王寺と長町スラムの間の急な坂は、逢坂。逢坂を下って、長町に入る手前は「合邦ヶ辻」と言われて、文楽や歌舞伎の「摂州合邦辻」、能の「弱法師」の舞台です。「合邦」の地名の由来は、仏教シンパサイザーの聖徳太子と、仏教排斥論者の物部守屋が、法について争った「合法四会」に由来するのではないかなぁと言われています。


ハンセン病となった主人公・俊徳丸の物語で、そのクライマックスが「合邦ヶ辻」で、今もここにある「閻魔堂」の由来記でもあります。もちろん、なんらかの事実が人々の口から口に伝承され、人の涙を誘う要素を付け加えられて伝説となったのでしょう。


さて、この坂、逢坂には、「立ちん坊」と言われる人たちが、うろうろしていました。


「立ちん坊」は、上方落語のマクラ(噺の本題への序章)でよく出てきます。

長ーくて、わりと急な坂です。坂の下のところで立って荷車が来るのを待っているのが「立ちん坊」です。坂が急で長いので、荷車を上まであげるのになかなか苦労する。そこで「立ちん坊」さんは、自分で縄を持っていて、荷車の前にかけて引っ張ったり、また後ろから押したりするのです。

かってに手伝うのです。仲仕からいえば、ただでさえ安い手間賃から、さらにいくばくかを「立ちん坊」にあげないといけないので、いやといえばいやなわけですが、それが 「いや」と断れないほど、苛酷な労働なわけです。

大森貝塚を発見したエドワード・モースが、このような記録を残しています。


「ある階級に属する男たちが、馬や牡牛の代わりに、重い荷物を一杯積んだ二輪車を引っ張ったり押したりするのを見る人は、彼らの痛々しい忍耐に同情の念を禁じ得ぬ」
――エドワード・モース


近代のヨーロッパでは、物流が飛躍的に発展したのですが、そのほとんどが馬(荷馬車)によるものでした。

しかし、残念ながら、日本は牛(岩手の塩や鉄を遠隔地に運んだ「塩べコ」は有名ですが) や馬による物流は未発達でした。


1902年(明治35年)、東京府(当時は東京都ではなく、東京府)の物流ですが、人力の荷車が、11万650台だったのに対して、荷馬車は3839台です。30倍!

一つの人力荷車は、だいたい500キログラムを運ぶのです。


日本の近代化は、司馬遼太郎が言ったようなエラい人たちの肩に背負われていたのではなく、モースが「同情の念を禁じ得ぬ」と語った、無名の人たちの「痛々しい忍耐」の上に背負われていたのです。

 

 


解説
前半は、大阪の街の地理が手に取って分かるような表現ですね。
まるで「タモリのブラタモリ」を観ているかのようです。

 

しかし、残念ながら、日本は牛(岩手の塩や鉄を遠隔地に運んだ「塩べコ」は有名ですが) や馬による物流は未発達でした。
(中略)
日本の近代化は、司馬遼太郎が言ったようなエラい人たちの肩に背負われていたのではなく、モースが「同情の念を禁じ得ぬ」と語った、無名の人たちの「痛々しい忍耐」の上に背負われていたのです。

庶民を見る友岡さんの目はどこまでも優しいです。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮



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