獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

池田大作“怪物”の正体 創価学会の略史 (その1)

2023-11-30 01:10:00 | 創価学会・公明党

池田氏のご冥福をお祈り申し上げます。

池田氏の逝去後、週刊文春、週刊新潮では池田氏と創価学会に関する特集を組みましたが、d-マガジンでは、そういう目玉の記事は載せないようです。
しょうがないのでコンビニで立ち読みしましたが、週刊新潮の記事は大したことないので、買いませんでした。
週刊文春の方は、興味深い内容を含んでいたため、購入しました。
池田氏と創価学会のあゆみが、良くまとまっているので、記録に残したいと思います。


週刊文春 11月30日号
特集:池田大作創価学会名誉会長“怪物”の正体

11月20日朝。首都圈にある簡素な一軒家の玄関から、白髪の高齢女性が姿を現した。記者が声をかけると、一瞥しただけで、言葉は返ってこない。
13年前の秋、同じように見知らぬ記者から声をかけられた彼女は、兄を「先生」と呼び、「もう別世界の人でございます。眩いばかりで」と静かに微笑んだ。妹が敬愛してやまない 兄は、その年の11月以降、ほぼ公の場に姿を見せなくなっていた。
今年11月15日の夜。創価学会名誉会長の池田大作が、東京都内の自宅で息を引き取った。享年95。老衰だった。近親者のみでひっそりと家族葬が営まれた。現世では別世界の人となった「先生」とは、別れの時だけでも兄と妹に戻ることができたのだろうか――。
国内会員は2022年時点で公称827万世帯。創価学会を国内屈指の巨大宗教団体に膨れ上がらせたのが池田だった。教団を支持母体とした公明党を設立し、国政にも影響力を保持し続けた。
権勢を恣にし、幾多の事件やスキャンダルで世を賑わせながら、95年の生涯を終えた“怪物”その実像に迫った。
1928年1月2日。現在の東京都大田区大森の地で、池田は海苔製造業を営む両親の元で産声を上げた。出生名は太作。大作に改名したのは結婚後のことである。
8人きょうだいの5番目。「年譜・池田大作」(第三文明社)によれば、池田が7歳の時、父がリューマチで寝込んで働けなくなり、家業の海苔作りを手伝い始めたという。戦争が始まると兄たちは出征し、一家の暮らしはますます困窮した。池田が創価学会に入信するのは、戦後まもない1947年の夏。19歳の時だ。創価学会のHPには、〈小学校時代の友人に誘われ、初めて創価学会の座談会に出席。そこで生涯の師となる戸田先生と出会い、その人格に感銘を受け、創価学会に入会しました〉と紹介されている。
戸田先生とは、後の創価学会二代目会長の戸田城聖のこと。未来のカリスマが師と出会いを果たす運命的な場面として語り継がれる 池田の「正史」である。
だが、そこには省略されている経緯がある。池田の入信には、彼が慕情を抱いた信者一家のある女性が深く関わっていた。前述の紹介文の中で〈小学校時代の友人〉と書かれた女性の妹だ。当の妹、三宅妙子は2010年、小誌に詳細な経緯を打ち明けていた。
「8月の暑い日でした。私の姉が小学校で同窓の彼を連れてきて、確かに、うちでやった座談会に参加したんです。後日、入信したのですが、ただその日、戸田先生はいませんでした」
代わりに池田は、その座談会で出会った三つ下の三宅に恋をした。二人は日比谷の有楽座で映画を楽しむなどデートを重ねたが、池田は手を握るのがせいいっぱい。純情な交際だった。
三宅が明かしてくれた秘話からは、等身大の若い池田像が浮かび上がる。
「彼とはお付き合いしましたが、私の方は、実はあまり燃え上がるものはなかったです。彼は『宇宙の星を宝石にしてあなたにあげたい』と言っていました。そういう大風呂敷を広げるのが彼の特徴でした」
池田は三宅の写真を大切に持ち歩き、手紙を渡されたこともあったという。
〈貴方と二人の間に永久に清らかに尊い結びの有る事を信じます〉
〈別れない!誰が何んと云っても永久に 別れない!〉
文字はやや右上がり、なめらかで独特な筆致で綴られた、熱烈な恋文だった。池田は座談会以降、三宅の家に度々遊びに訪れるようになっていた。
「うちの母が、もう少ししっかり信心するならと、彼を戸田先生がやっている会社に連れていって、紹介したんです。それが彼と戸田先生との出会いでした。母が着物に着替えて『これからこの子を連れて戸田先生に会いに行くのよ』と言っていたのを、今もよく覚えています」(三宅)
一方で、池田との淡い関係は自然消滅したという。
「私が会社の社員旅行で富士五湖に行った際、彼から後日、『さぞ楽しかったでしょう』と、皮肉めいた手紙をもらったんです。男性と行ったわけではないのですが、妬いているような内容でした。私が彼に執着しなかったこともあり、そのまま時が流れて、疎遠になりました」(同前)
当時の池田は、上昇志向を強烈に漲らせる若者でもあった。三宅は、池田から次の言葉をよく聞かされたと回顧している。
「いま僕は貧乏だけど、必ず指導者になって、世間を見返してみせるよ」


親族や学会幹部が集まり……

その宣言通り、池田は戸田の下で、みるみると頭角を現していく。三宅の母の紹介で、池田は戸田が経営する出版社の「日本正学館」に就職。売上不振により同社を畳むと、戸田は小 口金融の「東京建設信用購買利用組合」の破綻を経て高利貸しの「大蔵商事」を設立した。そこで営業部長の肩書を得た池田は、水を得た魚のように、辣腕を振るい始めるのだ。
創価学会に詳しいジャー ナリストの乙骨正生が補足する。
「大蔵商事時代の池田氏は『病人の布団を剥ぐ』という噂が立つほど、苛烈な取り立てをしたとされます。学会員から金を集めて、学会員に貸すなど、投資に運用する。つまり、学会員が増えれば増えるほど、収益が上がったわけです」
1951年、二代目会長に就任した戸田は「折伏大行進」と銘打った大規模な信者獲得活動を展開。そんな戸田を資金面から支えたのが池田の活躍だった。
池田が結婚したのは同時期の1952年5月。創価学会が宗教法人の認証を受けた年でもあった。お相手は、創価学会幹部で砂糖取引会社の役員だった白木薫次の次女・香峯子だ。
創価学会のエリート一族出身の香峯子は、池田と出会った頃、住友銀行に勤める行員だった。結婚式は中野区の寺院で行われた。
ここに、2枚の写真がある。1枚は、文金高島田を結い、色打掛を着た香峯子のワンショット。もう1枚は、新婚夫婦を中心に、約30人の参加者が写った集合写真である。
写真を保管していた年配の元学会関係者が語る。
「写っているのは、両家の親族や学会幹部たちです」
同じ場所で撮られた二人の記念写真は「池田大作 私の履歴書」(日本経済新聞社)などに掲載されているが、小誌が入手した集合写真は世に出ていない貴重 資料だ。
香峯子の半生記「香峯子抄」(主婦の友社)では、結婚前後の戸田と白木家の親族のやりとりがこう記されている。
〈叔母さん(香峯子夫人の母・静子さん)が、「大ちゃんは、大風呂敷なので」と。戸田先生はお笑いになって「大風呂敷でも、いまに見ていてごらん」と応じられましてね。とにかく「すごい男だよ」と〉
こうして生涯の伴侶を得た池田に大きな転機が訪れるのは、1958年。戸田が58歳で急逝したのだ。戸田の死の翌年、池田は創価学会理事に就任。そして1960年5月、32歳の若さで、第三代創価学会会長の座に上り詰めたのである。
池田体制の始まりとリンクするように、日本は戦後復興と高度経済成長の季節に突入。会長就任時、公称140万世帯だった国内会員の数は、右肩上がりで増えていった。その背景を、放送大学教授の原武史はこう解説する。
「戦後、創価学会に入信したのは、地方から都市部に流れ込んだ若い人たちが多かった。経済的に苦しく、疎外感を味わっていた彼らを取り込み、拠り所となることで信者を拡大していったのです。また、学会で教義をともに学ぶことが、敗戦後に高まった庶民の『学びたい』という意欲に応えた側面もあった」
時代も追い風となったのは間違いあるまい。だが、教勢拡大をもたらした最大の要因は池田の類まれな“人たらし力”だった。元埼玉県男子部書記長で、かつて「池田問題対策事務所」事務局長として池田に批判的な立場で活動した押木二郎さえも舌を巻く。
「池田氏はまるで、豊臣秀吉のような人たらしでした。人への気遣いにも長けており、インテリの人格者がコロッと池田氏の信奉者になるシーンを間近に何度も見てきました」
創価大出身の元信者タレントで、西東京市議会議員の長井秀和も、人心掌握術の一端を垣間見ていた。
「私が芸人としてテレビに出始めた頃、学会の芸術部を通じて池田氏からの伝言が届くようになりました。朝の視聴率が1パーセントもない番組でも『一緒に出てた人からこう言われていたけど、長井君は凄く頑張っているから、負けないで』といった具合です」
“人たらし力”だけではない。前出の押木は「池田にはなりふり構わない営業力があった」と指摘する。
「戸田氏は宗教性と商売っ気という『聖』と『俗』を両立させていましたが、池田氏にとっては宗教性はただの看板。『俗』だけをひたすら発展させ、持ち前の営業力で信者を増やしていったのです」
池田の世俗性が色濃く滲むのが、信仰の“数値化”だ。創価学会に詳しいジャーナリスト、山田直樹の解説。
「財務(寄付)の多寡は勿論のこと、信者を何人折伏したか、選挙で友人に投票してもらう『フレンド票』をどれだけ集めたか……。これが創価学会内での評価基準となりました。そして、結果を出せば『池田先生も喜んでいる』と褒め称えられ、組織の中で出世できる。学会では組織が細分化され、肩書きの数が膨大にあるのですが、それは出世して肩書きのランクが上がることが会員の励みになるからです」
池田の会長就任時には11人だった理事は、1969年には1700人にまで増加。それは理事の権限を広く分散させ、池田の権力を際立たせる結果を生んだ。
    ◆
本来、創価学会とは、日蓮正宗を信仰する信者の団体だ。戦前の名称は「創価教育学会」であり、日蓮正宗の信者を会員とする教育学の研究集団だった。
だが、巨大化した信者団体のトップに君臨する池田は、やがて神格化され、教祖の如き存在に変貌。組織の拡大路線と合わせ、様々な批判や醜聞にさらされてきた。象徴的な例が「月刊ペン事件」である。
「1976年、『月刊ペン』誌上に池田氏の女性スキャンダルが掲載されました。池田が愛人だった女性2人を公明党議員として送り込んだとする内容。創価学会は隈部大蔵編集局長を名誉毀損罪で刑事告訴しました」(元学会関係者)
池田も出廷した裁判では、愛人とされた女性宅で全裸の池田を目撃したという証言者が出廷。女性の義兄が小誌に実名で登場し、密通を証言するなどの“ドロ沼”裁判となった。
裁判は、一審二審ともに隈部に有罪判決が下る。隈部は最高裁に上告したが、死去によって審理は終了した。
女性問題だけではなく、たびたび注目を集めたのが、創価学会のカネの問題である。創価学会には毎年年末になると、全国の学会員たちから「財務」と呼ばれる寄付金が集まる。最盛 期は1年で3000億円近くが集まったとも言われ、95年の自民党議員の国会質問でも、創価学会の資産が「十兆円」と言及されたことがあるほどだ。
ベールに包まれた資金力の内幕が思いがけず垣間見えたのが、1989年6月の「捨て金庫事件」である。神奈川県横浜市の産業廃棄物処理場に、現金約1億7000万円入りの金庫が捨てられていたのだ。捜査で浮上したのが、創価学会で「池田大作の金庫番」と呼ばれた中西治雄だった。

(つづく)


解説

池田氏の人となりと創価学会の歴史が客観的にまとめられていると思います。


獅子風蓮



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