獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(12)

2023-04-25 01:22:20 | 東村山女性市議転落死事件

柳原滋雄氏は中田光彦の名前で多数の文章を主に創価学会系の雑誌『潮』に発表しています。

Wikipediaによると、柳原滋雄氏は、早稲田大学在学中の1985年に、創価学会へ入会。
創価学会員である柳原滋雄氏の主張は大きなバイアスがかかっていると見た方がいいでしょう。

柳原滋雄氏は自身のホームページの中で「コラム日記」を書いており、「東村山市議転落事件」についても現在も積極的に記事をアップしています。

さっそく、「柳原滋雄のホームページ」からいくつか気になる記事をピックアップしてみましょう。

 


■東村山市議の闇12 空白の50分間(2022/12/07 水曜日)

この事件の真相を解くカギは「空白の2時間」と呼ばれてきた9月1日当日の午後10時40分から翌日0時30分にあるともされてきた。この用語は宇留嶋著『民主主義汚染』で最初に活字にされたと思われるものだ。

矢野穂積が朝木明代の所在確認のために東村山署に電話したと矢野本人が主張している時間が午後10時40分。だが東村山署に残された記録では翌日の0時30分という「誤差」があった。『民主主義汚染』では、矢野の主張する10時40分は虚偽で、実際に架電した0時30分まで「空白の2時間」があったと紹介している。

実際はその前にも、朝木明代と矢野穂積が弁護士に相談して帰ってきてから、矢野は地元の自治会長の会議に出席するために事務所を出て、朝木明代が単独で事務所にいた時間があった。矢野が9時10分に事務所に戻るとだれもいない状態で、転落事件はそれからほどない10時に発生。つまり矢野が事務所に戻った午後9時10分から翌日0時30分までが空白となっており、なかでも9時10分から10時までの50分間が事件のカギを握る重要な時間なのだ。その間に何が起こったのか。

NTTの記録などによれば、朝木明代は自宅に戻ったあと、9時19分に事務所に電話をかけ、「気分が悪いので少し休んで戻る」と告げたとされる。いずれにせよ午後10時には転落現場に明代の姿はあったわけで、草の根事務所は、朝木の自宅と転落現場の中間点にあった。明代は自宅を出て、いったん事務所に戻ってから転落現場に向かったと考えるのが、立地的には自然だ。事務所と転落現場は歩いて数分の距離。事務所に30分後の9時50分に戻ったとしても、なんら不自然さはない。

重要なヒントは、転落時の明代が靴をはいていなかった事実だ。また転落前の一人きりの時間帯に、外をふらぶらと徘徊していた様子も目撃されている。その中に彼女が万引きを行った洋品店周辺も含まれていた。明代は、自ら起こした万引き事件を気に病み、心虚ろな状況にあった可能性が高かった。

その明代が再び事務所に戻ったとき、矢野穂積と顔を合わせた際に何があったのか。推測にすぎないが、何らかの衝突めいたやりとりがあり、明代は靴もはかずにそのまま飛び出して行った。そう考えるのが最も理屈にかなう。

矢野にとっては、この時間帯のことを詮索される事態が一番まずかった。事件後、矢野が警察による事務所内捜査を自ら拒んだ事実がそのことを裏づける。事件直後に新聞記者の一人が、事務所に女性の靴があったのを見ていたとの話も残る。

当時の週刊誌記事は、明代の靴が事務所にも自宅にもなかったと平然と書いたが、それらは矢野の主張が正しいことを前提にした記述にすぎなかった。自らの利害のために平然と虚偽を並び立てるタイプの人間であることを何ら考慮しないで垂れ流した記事でしかなかったからだ。


■東村山の構図14 真相の推理(2023/02/13 月曜日)

1995年の転落事件は、朝木明代が自らの万引き事件に責任を感じ、突発的に行った「ためらい自殺」にすぎなかった。もし明代が病院に運ばれた後回復していたら、真相ははっきりしたはずだ。だがフェンスに胸部をしたたかにうちつけ、多くの失血を伴った転落は彼女の命を奪ってしまった。その死を自分本位に利用したのが矢野穂積だった。

以下は私の推測となるが、矢野と明代の間で最後にどのような会話がなされたかがより重要となる。その会話が明代がハダシで外に飛び出す行動を生んだと考えられるからだ。

「お前なんか、死んでしまえ」、あるいは「死んで詫びろ」と矢野が言い放った可能性は十分にある。売り言葉に買い言葉で明代が「死んでやる」と外に飛び出した可能性も濃厚だ。それは突発的な反応であったために、靴もはかずに飛び出し、ビルの高いところに昇ってみたが、実際は下を見て怖気づき、本能的に手すり部分にしがみついた。その結果、下までそのままズルっと落ちてしまったというのが現場の状況からの矛盾のない推察と思われる。
(以下省略)

 


解説
宇留嶋著『民主主義汚染』が今回の議論の論拠になっているようですが、宇留嶋氏とはどのような人物なのでしょうか。

ジャーナリスト宇留嶋瑞郎氏を「創価学会御用ライター」等と呼ぶことの検証

この記事を読むと、宇留嶋瑞郎氏を「創価学会御用ライター」と呼ぶのは適当ではないと言うことらしいのですが、学会系の『潮』に学会寄りの文章を多数載せていることは事実であり、私からみるとお抱えジャーナリストといえなくはないような。

さて、宇留嶋氏の指摘するところの「空白の2時間」ですが……

明代は自宅を出て、いったん事務所に戻ってから転落現場に向かったと考えるのが、立地的には自然だ。事務所と転落現場は歩いて数分の距離。事務所に30分後の9時50分に戻ったとしても、なんら不自然さはない。
重要なヒントは、転落時の明代が靴をはいていなかった事実だ。また転落前の一人きりの時間帯に、外をふらぶらと徘徊していた様子も目撃されている。その中に彼女が万引きを行った洋品店周辺も含まれていた。明代は、自ら起こした万引き事件を気に病み、心虚ろな状況にあった可能性が高かった。
その明代が再び事務所に戻ったとき、矢野穂積と顔を合わせた際に何があったのか。推測にすぎないが、何らかの衝突めいたやりとりがあり、明代は靴もはかずにそのまま飛び出して行った。そう考えるのが最も理屈にかなう。

ここが、柳原氏と矢野氏の間で一番の争点になるところでしょう。

このあたりに焦点を絞って、今後、他の資料を検証していきたいと思います。

それにしても、「推測にすぎないが」と前置きながらも、柳原氏は、「空白の2時間」に、再び事務所に戻った朝木さんと矢野氏の間に何らかの衝突めいたやりとりがあったとするのは、飛躍がすぎるのではないでしょうか。
柳原氏のストーリーとしては一番の悪は矢野氏で、矢野氏が朝木さんを罵倒したために、朝木さんが靴もはかずに事務所を飛び出し、ビルの上から飛び降り自殺をはかったというものです。
いくら気が動転していたからといって、たとえ罵倒されたとしても、市議会議員ともあろう人物が靴もはかずに事務所を飛び出したりするものでしょうか。
柳原氏の「推測」には、ムリがあるように思います。

Wikipediaによると、矢野氏は2021年11月30日に亡くなっています。
もう訴えられる心配がないから、矢野氏については何を書いても構わないと思っているのでしょうか。

柳原氏、卑劣です。

(このシリーズは終了)


獅子風蓮


東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(11)

2023-04-24 01:13:50 | 東村山女性市議転落死事件

柳原滋雄氏は中田光彦の名前で多数の文章を主に創価学会系の雑誌『潮』に発表しています。

Wikipediaによると、柳原滋雄氏は、早稲田大学在学中の1985年に、創価学会へ入会。
創価学会員である柳原滋雄氏の主張は大きなバイアスがかかっていると見た方がいいでしょう。

柳原滋雄氏は自身のホームページの中で「コラム日記」を書いており、「東村山市議転落事件」についても現在も積極的に記事をアップしています。

さっそく、「柳原滋雄のホームページ」からいくつか気になる記事をピックアップしてみましょう。

 


■東村山市議の闇5 朝木明代の万引きの背景(2022/11/24 木曜日)

朝木明代の娘である朝木直子と矢野穂積がいつ頃から親密性を深めたのかは定かでない。明代の死後、2人が恋人同然のいちゃついた姿でいるのを見て「不謹慎」と感じた市民がいたことも事実だ。ともあれ、東村山の人気市議だった朝木明代を含む「草の根」会派から3人を擁立し全員当選させるという目論見は破綻し、加えて、苦し紛れに行った議席譲渡には市民から猛反発する動きが出てきて、朝木明代への重圧は一層強くなった。

朝木明代が東村山市内の洋品店で万引き行為を取り押さえられたのは1995年6月19日の午後3時すぎのことだった。盗ったのはわずか1900円のTシャツで、その場で店主に取り押さえられ、結果的には「未遂」に終わっている。だが店主によると発覚したのは2度目であり、1度目はまさか市議会議員がそんなことをするとは信じられないまま、見逃す結果になったという。そのため今度こそはと身構えていたところに案の定、明代が現れ、再び万引きを繰り返したというわけだった。

その場には複数の客がいて、客の勧めもあり、店主は東村山署に届け出た。その結果、軽微な万引き事件は朝木明代自身の取り調べに発展し、その後の転落死事件へとつながっていく。

死亡当時、明代には3つの重圧がかかっていたと推察される。一つ目は、議席譲渡問題に関する会派中心者としての責任。2つめが矢野穂積と娘である直子との関係性である。そして3つめに、この万引き事件という自身が起こした不始末の影響だ。この不始末行為に対し、矢野穂積から鋭い叱責が飛んだことは同人の性格を知る者なら容易に想像できる。

万引き事件は、上記の1と2などの要因から、ストレスに耐えきれなくなった明代が、自身の職業的地位も顧みずに起こしてしまった行動とみられる。


(つづく)

 

 


解説
朝木明代の娘である朝木直子と矢野穂積がいつ頃から親密性を深めたのかは定かでない。明代の死後、2人が恋人同然のいちゃついた姿でいるのを見て「不謹慎」と感じた市民がいたことも事実だ。

柳原氏はこう書いていますが、不確かな噂をもとに直子さんと矢野氏の間に何かあったかのような印象を与える書き方は許せません。

Wikipediaによると、矢野氏は2021年11月30日に亡くなっています。
もう訴えられる心配がないから、矢野氏については何を書いても構わないと思っているのでしょうか。

柳原氏、卑劣です。


獅子風蓮


東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(10)

2023-04-23 01:57:43 | 東村山女性市議転落死事件

柳原滋雄氏は中田光彦の名前で多数の文章を主に創価学会系の雑誌『潮』に発表しています。

Wikipediaによると、柳原滋雄氏は、早稲田大学在学中の1985年に、創価学会へ入会。
創価学会員である柳原滋雄氏の主張は大きなバイアスがかかっていると見た方がいいでしょう。

柳原滋雄氏は自身のホームページの中で「コラム日記」を書いており、「東村山市議転落事件」についても現在も積極的に記事をアップしています。

さっそく、「柳原滋雄のホームページ」からいくつか気になる記事をピックアップしてみましょう。


■東村山市議の闇4 矢野と朝木明代(2022/11/22 火曜日)

矢野穂積と朝木明代の関係については宇留嶋瑞郎著『民主主義汚染』(1998年)に詳しい。それによると2人が初めて知り合ったのは1975年。互いが30歳前後のときだったという。同書に次のようにある。「朝木明代と矢野穂積が親密な関係になっていくのはその翌年のこと」。さらに82年の終わりごろ、喫茶店の2階に活動拠点としての事務所を借りた。この場所は「矢野と明代の活動の拠点となっただけでなく、2人がプライベートな関係を深めた場所でもあったようだ」と意味深な表現で指摘している。このころ矢野が35歳、朝木明代が38歳だった。一方、転落死事件に対する逆の立場の人間だが、乙骨正生著『怪死』(1996年)では2人の関係について次のように書いている。

「誹謗中傷の極めつけにあるのがW不倫情報。朝木さんと矢野さんは、以前からW不倫関係にあり、2人が性交渉していた声が、事務所から漏れていたなどとの噂が、東村山市内では、創価学会・公明をはじめとする反『草の根』グループからまことしやかに流されているのである」

ここで私は2人が不倫関係にあったかどうかの事実を詮索するつもりはない。指摘しておきたいのは、乙骨正生という人物が自らの著作の中で、矢野穂積と朝木明代の関係性もしくは疑惑を端的に記述した事実であり、その後、矢野側が乙骨正生を名誉毀損で提訴した事実もなかったという経緯である。こうしたプライベートな関係は、実際は証明するのは簡単ではない。
(以下省略)

(つづく)


解説
「2人が不倫関係にあったかどうかの事実を詮索するつもりはない」といいながら、柳原氏は、矢野氏と朝木議員の間に不適切な関係にあったかのような印象を植え付けます。
乙骨氏は反『草の根』グループからまことしやかに流されていたW不倫情報(デマ)を批判的に紹介しただけなのに、そのことを疑惑の証拠のように言うのは明らかにおかしな言い分です。

Wikipediaによると、矢野氏は2021年11月30日に亡くなっています。
もう訴えられる心配がないから、朝木さんや矢野氏については何を書いても構わないと思っているのでしょうか。


柳原氏は、そうとう卑劣な人物のようです。


獅子風蓮


東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(9)

2023-04-22 01:36:17 | 東村山女性市議転落死事件

柳原滋雄氏は中田光彦の名前で多数の文章を主に創価学会系の雑誌『潮』に発表しています。

Wikipediaによると、柳原滋雄氏は、早稲田大学在学中の1985年に、創価学会へ入会。
創価学会員である柳原滋雄氏の主張は大きなバイアスがかかっていると見た方がいいでしょう。

柳原滋雄氏は自身のホームページの中で「コラム日記」を書いており、「東村山市議転落事件」について現在も積極的に記事をアップしています。

さっそく、「柳原滋雄のホームページ」からいくつか気になる記事をピックアップしてみましょう。

 


■東村山市議の闇3 キーパーソンとなる人物(2022/11/21 月曜日)

1995年の議席譲渡という奇想天外な方法を思いついた人間はだれか。当時「草の根」という名称の会派で選挙を戦った朝木明代、その娘の朝木直子、明代の政治的同伴者であった矢野穂積の3人の中でだれが言い出したのかは定かでない。もともと矢野は朝木明代の政治活動を下支えしてきた人物であり、このときも落選を契機に素直にその任務に徹し続けていれば何も問題は生じなかったはずだが表舞台に立ちたかったのだろう。いずれにせよ議席譲渡は朝木直子と矢野穂積2人による連携プレーの結果生じたものであり、2人に大きな責任があることはいうまでもない。平穏であったはずの東村山市議会に民主主義に反する行動を持ちこみ、無用の混乱に陥れた責任が彼らにはあるからだ。またその行動は、朝木明代の転落死事件まで一直線に結びついている構造が見られる。

矢野穂積は朝木明代の3歳下の1947年生まれ。矢野と朝木明代は市民運動を通して共闘する関係となり、議席譲渡問題が起きた際の年齢は、朝木明代50歳、矢野穂積47歳、朝木直子27歳だった。矢野穂積は地元では「訴訟マニア」として有名で、政敵に対して訴訟をチラつかせ、相手の批判を封殺することを常套手段としてきた。矢野の良心の呵責を欠いた行動はほかにもさまざま見られるが、サイコパス研究の世界的権威であるカナダのロバート・ヘア博士が考案したサイコパス・チェックリストで診断すれば、「サイコパス」(良心の呵責をもたない異常人格者)の類型に入ることは間違いない人物と見られている。サイコパスの行動は良心の呵責を欠いた「捕食者」そのものとしての行動であり、その観点からその後の経緯を見ていくと、非常にすっきりと理解できる構造がある。

その証拠に、矢野と朝木明代、矢野と朝木直子の間にはそれぞれサイコパス特有ともいえる関係性が観察された。


(つづく)

 


解説
矢野穂積氏に対して、柳原氏はサイコパスの類型に入ると断定している。
たとえ、訴えられた相手であったとしても、これは言いすぎではないでしょうか。

Wikipediaによると、矢野氏は2021年11月30日に亡くなっています。
もう訴えられる心配がないから、矢野氏については何を書いても構わないと思っているのでしょうか。


獅子風蓮


東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(8)

2023-04-21 01:29:22 | 東村山女性市議転落死事件

柳原滋雄氏は中田光彦の名前で多数の文章を主に創価学会系の雑誌『潮』に発表しています。

Wikipediaによると、柳原滋雄氏は、早稲田大学在学中の1985年に、創価学会へ入会。
創価学会員である柳原滋雄氏の主張は大きなバイアスがかかっていると見た方がいいでしょう。

柳原滋雄氏は自身のホームページの中で「コラム日記」を書いており、「東村山市議転落事件」についても現在も積極的に記事をアップしています。

さっそく、「柳原滋雄のホームページ」からいくつか気になる記事をピックアップしてみましょう。

 


■東村山市議の闇 1(2022/11/16 水曜日)

2022年は世界史においても日本史においても後世の歴史にとどめおかれる年となったようだ。2月にロシアがウクライナ侵攻を行い、世界を仰天させた。国内では統一教会を自らの欲得のために利用した政治家が暗殺された。だが2022年ほどではないとは思われるが、1995年も歴史の分水嶺となった年だった。1月に阪神淡路大震災が起き、3月にオウム真理教の地下鉄サリン事件が発生した。秋には宗教法人法が改正され、宗教叩きに利用された。多くの出来事が集中して起きた中、宗教が大きくクローズアップされたという点で、1995年と2022年は似通っている。このコラムでこれから連載を始める「東村山市議の闇」も、この1995年に関係して世に噴出した問題だった。きっかけは、東京西部の地方自治体、東村山市を舞台に起きた。1995年4月の統一地方選。東村山市議選で初当選した朝木直子が、自分の議席を意図的に返上する形で、次点で落選した矢野穂積に議席を譲渡した問題である。市民からはこんなイカサマ行為が許されるのかという民主主義の根幹にもとづく批判が沸き起こった。東村山のその後の問題の多くが、実はこのときの「議席譲渡」から始まっている。


(つづく)

 


解説
東村山市議会における「議席譲渡」問題は、乙骨氏の著書では次のように説明されています。

乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅱ章 その1

95年4月23日に投票が行われた統一地方選挙・東村山市議選に、「草の根」は朝木明代、朝木直子、矢野穂積の3氏を擁立、議会運営委員会への出席資格を得る3議席の獲得を目指した。結果は、朝木明代さんが2622票を獲得してトップ当選。朝木直子さんも1926票を獲得しての4位当選だったが、矢野氏は最下位当選者に52票届かぬ1249票で次点だった。
「草の根」全体の総得票数は、5797票(得票率率11%)で、これは3人当選の社会党の総得票数4593票(得票率8%)を1200票以上凌いでいる。だが、組織のない悲しさ、得票数は多かったが、それをうまく振り分けることができず、目標の3議席獲得はならなかった。
この結果を受けて「草の根」では、「ムラ議会」の改革を推進するためには、27歳と若く政治経験の少ない直子さんが議席を得るよりも、「東村山市民新聞」の編集長として議会の傍聴経験も豊富で、市政に精通している矢野氏が議席を得る方が、「草の根」を支詩してくれた市民の期待に応えることができると判断。直子さんが東村山市から転出することで当選を返上し、矢野さんに議席を譲ることにした。
(中略)
しかし、全国でも初めてというこの「当選返上」は、市民の間に賛否両論を呼び、マスコミも大きく取り上げるところとなった。
「当選人の繰上補充」を定めた公職選挙法第97条は、当選人が当選資格を喪失した場合、直ちに選挙会を開き、繰り上げ当選人を決めることを義務づけている。したがって、直子さんの転出による当選資格の喪失に伴う矢野氏の議席繰り上げは、公選法上はなんら問題ない。実際、東村山選挙会は、5月21日、直子さんの当選辞退と矢野氏の繰り上げ当選を認めている。
とはいうものの、繰り上げ当選はすんなり認められたわけではなかった。東村山市選挙会では、「草の根」の議席譲渡に反対する立場の政党推薦の選挙立会人から、「議席委譲は憲法に反する」などの異議が続出。4月28日と5月11日に開かれた選挙会がいずれも、立会人の妨害によって流会するなど、混乱を極めた。
(中略)
市民の追い風を満帆に受けての順調な歩みを続けてきた「草の根」にとって、「当選返上」問題は、初めての逆風だったといえる。

そして、乙骨氏は、次のように、中立的かつ公平な意見を述べています。

私は、議席譲渡に関して『草の根』の論理を擁護するつもりは一切ないし、理解できない。しかし、現在の『草の根』批判には、議席譲渡に対する批判と、これまでの活動に対する反発が混同されているのは否定できない。

私も、乙骨氏の意見に賛成します。

 

獅子風蓮