syuの日記・気まま旅

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新倉山 外国人旅行者にも人気の名所 さくら 富士山

2018-07-30 | 富士山麓日記
「親鸞」 1173-1262年     貧しい貴族の子
9歳で「慈円」出家・20年間比叡山で修行し、山を下りて「法然」の門に入る。法然、弾圧で、土佐へ流され、親鸞は、越後へ流された。
親鸞越後で結婚、以降布教、赦免され関東で布教後、寺でなく道場にて在家として、「教行信証・歎異抄」を残す。
遺骨を納めた堂が、後の「本願寺」。
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧で、「浄土真宗」宗祖。法然は、浄土教の僧。
親鸞は、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。
独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
親鸞の念仏集団の隆盛が、仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中での要出典と云う。
宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。これが、「浄土真宗の立教開宗」・「顕浄土真実教行証文類・教行信証」が完成。-寛元5年の1247年、とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

「稲田の草庵跡」- 西念寺本堂・1214年、(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、1216年「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。
笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。
親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、1224年、草稿本を撰述したと伝えられる。
東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残った。1272年、この地で没したとある。
関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれ、その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。
それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続していると云う。

                           親鸞像


「如来寺」  下吉田新倉  浄土真宗本願寺派、本山ー西本願寺。

本尊 阿弥陀如来(寺宝等ー古本尊、金剛大日如来 他)

               本堂・ 経 堂、庫裡、山門、鐘楼、1804年創建


如来寺は、「扶桑風土記」によると、
堂ヶ尾(堂顔)の地にあった観音堂を、709年、救願寺と改号し、菩薩戒を修する道場としたのが始めである。
弘法大師来麓の折、金剛界大日如来を賜り、真言宗として栄えたが、その後荒廃した時期があった。
1228年、時の住職浄円が聖徳太子旧跡巡拝中の親鸞聖人に帰依し、浄土真宗に改めたと云う。

   河口湖・浅川地区の外川弥兵衛も帰依し、法名浄心を賜る。1544年万蔵寺と改号、1718年如来寺と改め現在に至る。


「正福寺」 浄土真宗の寺。
                       正面


                       本堂


                       説明板


                         堂                     


                      親鸞布教の像


                       山門と鐘楼


                       入山川(宮川)


「新倉山浅間公園・神社」

三つ峠山は、御坂山地東端・山頂は河口湖と西桂町の境にある。南東は都留市の桂川渓流になる。中でも、屏風岩は岩登りで知られている。
三つ峠は、富士山の眺望が特に良い峠で「三つ峠の富士」としても知られている。
山頂は、開運山(1785m)御巣鷹山(1770m)毛無山(1740m)の3峰に分かれ三峰山とも云う。

                         マップ           


 山梨県富士吉田市は富士山麓の標高約650mから850mに位置する富士山北側の玄関口で、間近にそびえる霊峰は町中のどこからも望むことができます。 富士五湖エリアで随一を誇る富士山ビュースポット「新倉山浅間公園(忠霊塔)」は、その壮観な風景で国内外から訪れる人を魅了します。 特に春には、桜、富士山、五重塔という日本のシンボリックな風景を一枚の写真に収めることができるスポットとして訪れる人が絶えない。
 
                         富士山と桜

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「忠霊塔」-山梨県富士吉田市の新倉山中腹にある戦没者の慰霊塔が。

              公園内650本余りのソメイヨシノ・富士山と富士吉田市内が


                      咲くや姫階段ー388段ある。


「新倉山浅間神社」
                        境内


                        社殿

                        

 
                   2.5mから分岐している「子育て神木」


「富士急行線 下吉田ー月江寺間」
古くから富士登山の拠点となっていた大月と吉田(現在の富士吉田市富士駅)は、八王子から大月まで延びて来た中央東線(中央本線)を結び、東京からの登山客らを運ぶために敷設された富士馬車鉄道と都留馬車鉄道による馬車鉄道を前身とする。両社は軌間が異なっていたため、途中で乗り換えが必要で、これを解消するため1921年に両社が合併し、大月 - 金鳥居上(後の富士吉田)間の軌間を統一・電化して電気運転を開始した鉄道。
馬車鉄道時代からの併用軌道では所要時間もかかり、急増する旅客をさばききれなくなったため、1926年に設立された富士山麓電気鉄道へ1928年に全線を譲渡し、1929年に新設の鉄道線に切り替えられ、馬車鉄道以来の軌道は廃止された。
これにより2時間かかっていた大月 - 富士吉田間の所要時間は1時間以下にと短縮され、富士山麓は東京からの日帰り観光圏内となった。
都留馬車鉄道は一時籠坂峠に至るまでの路線を有しており、明治から大正期まではそこから東海道本線(今の御殿場線)御殿場駅前までを結んでいた御殿場馬車鉄道と連絡していたこともあったと云う。

                          単線の富士急 

 
これで富士吉田は終わります。

織物で栄えた下吉田・月江寺へ

2018-07-27 | 富士山麓日記
富士吉田は、県南東部に位置し、人口5万人の都市、「吉田うどん」で知られているが、絹屋町であった。
織物で栄えた下吉田の中でも、本町通り(国道139号)の東側には絹織物問屋が軒を連ね「絹屋町」と呼ばれていました。毎月1と6のつく日に市が開催されると、全国から商人が集まって軒先で取引を行い、夜は西裏のまちを楽しんだと言われています。現在でもこの絹屋町界隈は“商人の町”という情緒ある街並みの雰囲気を感じることができます。

「富士山」
北半分をとりまくように位置する「富士5湖」-噴火で流出した溶岩が谷を堰き止めてできた云われている。
湖には、富士山の伏流水が湧出する。富士5湖の不思議な現象に、山麓に訪れる寒気と共に、山中湖と精進湖には、氷が張る。
西湖・本栖湖(精進湖とほぼ同じ高さ)氷結しない。湖面の温度差が要因か。

                       月江寺から見た富士山


富士山を一周すると、静岡県田子の浦・富士市・富士宮・人穴・朝霧高原・田貫湖・山梨県の本栖湖・精進湖・青木ヶ原・西湖・河口湖・富士吉田
忍野八海・山中湖・陸上自衛隊(須走)・静岡県の御殿場へ。


                      6月上旬、富士山は、雪が。


「月江寺」ー富士吉田・山号ー水上山。

       臨済宗妙心寺派 の寺・本尊ー地蔵菩薩・札所ー甲斐百八霊場第二十九番。


市域を流れる「宮川の北西岸」に立地。
「甲斐国志」によれば、かつては下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)の祈祷所であった天台宗寺院で、称光院と呼ばれており、後に廃絶したという。
甲斐国では中世に臨済宗向嶽寺派の本山である塩山向嶽寺(甲州市塩山)が開かれ各地に臨済宗を布教させていたが、開祖抜隊得勝の法嗣である絶学祖能は都留郡下和田(大月市)で花井寺を開いた後、上吉田において祥春庵を開き、富士道者から勧進して称光院を再興したと云う。
「称光院」は、臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たした。
甲斐国社記・寺記・では日本武尊以来の霊場であったとする伝承を伝えつつ、再興を室町時代の1395年、であるとしており、富士北麓の年代記である「勝山記」では、戦国期の享禄2年の1529年、月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。
寺領の寄進や安堵の書状は残されていないものの、1591年、には加藤光吉から下吉田に2石を寄進した加藤氏判物状の写があり、
「国志」によれば小林尾張守の孫某から田8石余を寄進され、1649年、将軍家光から寺領16石を安堵する朱印状を得たという。
江戸時代には下吉田の現在地へ移転する。寛永年間には江戸の海禅寺から禅心聖悦が入寺し、臨済宗妙心寺派に転派した。
祥春院や正覚寺など市域をはじめ各地に20か寺の末寺があり、10数軒の門前町を形成したと云う。
江戸期には、国学において廃仏論が主張され、月江寺では宝永3年の1706年、鎮守社としていた下宮浅間神社との鎮守争論が発生し、江戸後期には収束するものの明治初期に再燃し、県内では類例の少な廃仏毀釈の事例となっている。
江戸期、1726年、1836年、数次の火災により伽藍を焼失・江戸後期には伽藍が再建され、この際に造られた多くの「仏像」を有していると云う。



                        山門


                      本殿ー2010年再建


                       富士火山石が


                       六道地蔵尊


「六道地蔵尊」
浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、また道祖神(岐の神)と習合した為、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。



                        富士山湧き水


                          池


「新倉山 (1180m)」
「御殿 (1184m)」・「 霜山 (1307m)」・「三角点峰「木山」 (1582m)」・「木無山 (1732m)」
「三つ峠山荘・ 四季楽園 (1730m)・ 三ッ峠山 (1785m)・ 屏風岩・ 八十八大師 (1590m). 馬返し (1310m)・ 股覗き・ 大曲り (1085m)
達磨石 (950m)・ 憩いの森公園・ 神鈴の滝・ 山祇神社・ 三ツ峠グリーンセンター (650m)ー富士急「三つ峠駅」。

                   屏風岩ルート 前方新倉山。


「大正寺」ー寶松山と号し、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院。

約750年前(文永年間)に祖門六老僧の随一源誓上人に創設・宗祖親鸞聖人御真筆の無碍光如来の画像を安置した草庵。

                        宮の下にあった。


文安年間の1440年、本願寺中興の祖の「第8世蓮如上人」が当地を御巡錫した際、藤原氏の末裔であった当国城山(本郡福地村字新屋の南にあり
城主の「遠山伊豆守重正」が蓮如上人に帰依し法名乗欽を賜り、その後、草庵に入り、ここを念仏道場として水石山新念寺と称したとある。

                文安3丙寅年(西暦1446年、約560年前)


第三代住職正念の時、寺号を新福寺と改悟号・1627年、本堂と庫裏を焼失し、1644年、寺基を現在地へ移転。
第五代住職正意の時、1668年、
                    号を大正寺と改めた。


                     山門・鐘楼


                      親鸞像


     初代より約560年、前身の草庵も含めれば約750年の歴史を誇る(現住職、第17代正尊)

 
          十二代住職正観の時(文化・文政年間)に鐘楼と庭園を建立


次回も浅間公園へ。

富士山 石灯籠が続く長い参道 北口浅間神社

2018-07-25 | 富士山麓日記
「伝説」ー葛飾北斎の北斎漫画より、前鬼・後鬼を従えた「役小角」
鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。
ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。
こうして、架橋は沙汰やみになったという。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。
富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。
続日本紀ー小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては、続日本紀・巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。
日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられていると云う。

「長谷川角行」-人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市人穴)。角行はここで修行。
1541ー1646年・江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれ、俗名、長谷川左近藤原邦武。

「伝記」ー角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にすると云う。
応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記されたと云う。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、1560年、
「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」という独特の呪符や曼荼羅を授かった。「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
後継者は、日行日玥、赤葉玥心、、前野月玥、村上月心と続いた。
村上月心の死後は、月心の二男、村上光清(1682年 - 1759年)の光清派と、月行劊忡から食行身禄・1671年 - 1733年)への身禄派がある。
そこからさらに清康派、伊勢派、出雲派など、俗に「八百八講」と呼ばれる多数の派を生んだと云う。
その中から、食行の女花子に連なるとする小谷三志が神仏混合を拝して神道の一派として不二道を成し、明治維新のころ、そこからさらに分かれて、
柴田花守率いる實行教と穴野半率いる扶桑教が生まれた。角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていったと云う。

「冨士教」-角行から村上光清に連なる系統(御法家)から、角行直系を称する冨士教が生まれ、冨士教は角行及びその直系の8代までが教えを記した「御巻き」という文書(御法家としての秘宝であるという)を保管しており、角行の直系の教えを教義としている。
「富士山」と「藤」(角行の姓にちなむ)が組み合わされた紋にも角行の直系と云う。

「金鳥居・かなどりい」-古くは「唐銅鳥居」と称し、唐から製法が伝わった金属ということで青銅のこと。
「唐銅鳥居」が訛って金鳥居となたっとされている。
金鳥居は「一の鳥居」という別称があり、金鳥居をくぐった先に続く吉田口登山道を登っていくと富士山頂に至るのですが、その道中の一番初めにある鳥居という。富士山の信仰登山者を迎え入れる「門」として、又俗界と富士山の信仰世界とを分かつ「境界」として建立し、金鳥居を歩いてくぐると、富士山の信仰の世界と考えられ、神聖な存在と云う。
記録によると、1788年に初めて建立され、幾度と暴風雨などの影響で倒壊と建立が繰り返され、現在の金鳥居は昭和32年に建立。

中心高は 9.88m、 明(柱と柱の間)7.9m、笠木巾 13.4m 柱の太さ0.88m・扁額には「冨士山」の文字が。


「御師」-平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。
熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をしたのが熊野御師であった。
熊野では当初参詣のつど両者間で契約していたが、次第に御師を「師」とし「先達」が率いてきた参詣者(道者)を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。
鎌倉時代には武士にも広まり、室町時代には農民などの庶民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢神宮[1]・富士講・松尾・三嶋・白山・大山などの御師も活躍した。特に出雲大社が源頼朝の御師を行った事は「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録を示したものに記されている[2][信頼性要検証]。
明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、1869年、に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。
御師側はこうした動きに抗議したものの、1871年、御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入、百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して「扶桑教」を結成するなど、宗教的な活動を維持しようと動きが。

                           御師・旧外川宿坊


富士山駅から南約350mの金鳥居から国道139号線に沿って御師の家・富士山登拝する人々の宿泊請負や登山指導をする神職で、建物は、「北口本宮
富士、浅間神社」に所属し、御師の住宅形態を残している。1861年頃の建築で、現在数十軒あるが、観光の一つに。

                             浅間坊


白衣を着け、鈴と金剛杖を手に集団登拝する人も。
                             番城屋


                            山神社碑


「北口本宮富士浅間神社」
139号線沿いで、富士駅から南約1.5kmに鎮座。
日本武尊が、現在地のやや南の「大塚丘」に創建したと伝わる。788年、「甲斐守 紀 豊庭」が現在地に造営したとある。

                        石灯篭が続く参道


                           鳥居




                           門楼


東宮本殿前には、老杉巨木の神木が。
                           社殿


                           舞殿


                           神木


                           狛犬


                           献上樽酒


                       富士山湧き水・橋を渡した水路が、




                          角行の立行石


「吉田の火祭」は、夏の富士山の山じまいのお祭りとして毎年8月26日、27日におこなわれる。
北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭り、元来、火祭は、浅間神社ではなく、諏訪神社の祭礼であり、「甲斐国志」においては、上吉田村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火を焚くとあり、上吉田の産土神であると記され、火祭は、諏訪神社の神主である佐藤家を中心とした諏訪神社の祭りで、浅間神社の社司や御師が関わるべき祭りでもあったと伝たわる。
26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は、参拝者で賑わう参道を下って表通りに出て、氏子町内を一円し、暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明70余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは夜遅くまで賑う。27日午後7時頃、2基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原を廻ると祭りは最高潮に。
27日を「すすき祭り」ともよんで、神輿と見物客とが一体になって、夕闇の境内を廻る。

      吉田の火祭り・島田市の大井神社帯祭・稲沢市国府宮はだか祭り「日本三奇祭」。


本州中央部・太平洋側に位置し我が国最高峰3776m。均整の取れた典型的な成層火山で世界遺産の「富士山」。
次回も下吉田方面へ。

あまちゃづる茶とクレソン鍋

2018-05-10 | 富士山麓日記
連休は都会の混雑を避け自然いっぱい山菜の採取に出かけました。
あまちゃづるが生い茂っているのです。湖にはクレソンがいっぱいです。

富士山はまだまだ雪を冠り美しい!

クレソンがたくさんです。豚肉とクレソンなべおいしい!



陣馬の滝 付近にアマチャヅルです。

アマチャヅルはなかなか見つかりません。でもここは密生しています。アマチャヅル茶がたくさんできます。





今年は早かった富士桜 満開!

2018-04-26 | 富士山麓日記
今年は2週間も早く富士桜が咲き始めもう散り始めました。4/22撮影
いつも連休に楽しめるのに・・・・。

富士山もまだまだ雪が残り美しい姿です。最近は外国の方々が多く富士山をみて歓声を上げています。

















山荘に咲く花々です。ずっと茶色だった庭がこれからは雑草に悩まされます。