syuの日記・気まま旅

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池波正太郎と浅草

2015-03-16 | 気まま旅
都の東に流れる「隅田川」、秩父山地に源を発する「荒川」が、石神井川・神田川を合流させ、隅田川となり東京湾に注ぐ。1924年の大正13年
洪水調節のため「荒川放水路」が出来、北区の岩淵水門がら下流を「隅田川」と云うようになった。
平安時代は、墨田川・墨水・都川、、等で「墨田区」の名のもとになっている。
「大川」は、吾妻橋~下流浅草川・河口部を云う。両岸を墨堤・下流部を大川端ともよんだ。江戸時代は、運河が掘られ舟運が発達し混雑していたと云う。娯楽地域が発展し、文人墨客に親しまれた地域でもある。特に花見・川涼み・川開きの花火・屋形船・釣り・明治に入りボートレース・水泳場、、。
大戦後は、汚染騒ぎで公害問題になった。
「渡しと16橋」
江戸時代には、千住大橋・両国橋・新大橋・永代橋・吾妻橋の5橋。渡しは、汐入~勝鬨間18ヶ所。
関東大震災で白鬚・桜・言問・駒形・厩・蔵前・清洲・相生・佃大・勝鬨・尾竹で隅田16橋。架かる橋の形式もゲルバー・ローゼ・アーチ・箱など
水上バスで川から見るのも面白い。



推古天皇の時代、待乳山は、一夜にして地中より涌現、天から舞い降りてそれを護ったのが金色の龍。
その六年後の推古九年の601年、夏、十一面観世音菩薩の化身として現れた大聖歓喜天が早魃に苦しむ天下万民を救うことになる。
待乳山(古くは「真土山」とも書いたとある)の聖天信仰の歴史は浅草寺の縁起よりも古い。
大聖歓喜天は天部の神であるが、そのルーツはインドのガネーシャ神。密教の細部までは知らなくても、象頭人身の男天と女天が抱き合う姿には鮮烈なものがある。
金色の龍といい、この大聖歓喜天といい、イメージは伝説を色濃く染め上げ、その大聖歓喜天(秘仏)を祀った通称「待乳山聖天」は、
待乳山の頂上といっても現在小丘。東都随一の名勝とされ、北斎や広重が描いた景観は、今では難しい。

境内に、江戸初期の歌学者・「戸田茂睡の歌碑」
                    「あわれとは夕越えてゆく人もみよ
                            まつちの山に残すことの葉」

  

「池波 正太郎」1923ー1990、
戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」「真田太平記」など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名であった。

1957-直木三十五賞・19778-吉川英治文学賞・1986-1988-菊池寛賞に。
正太郎は、大正12年、東京市浅草区聖天町に生れる。
父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男。
関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳(1929年)まで同地で過ごす。
やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業。両親不和のためこの年に離婚している。

    

「本竜院・待乳山聖天」金竜山本竜院菜ある浅草寺の末寺・本尊ー歓喜天聖天・ー十一面観音(857年慈覚大師の作と云われる)
商売繁盛・夫婦和合の神様、浅草七福神(毘沙門天)

「円仁・慈覚大師」794 - 864、生地・下野国都賀郡、天台宗山門派、寺院ー立石寺、中尊寺、壬生寺、大慈寺、延暦寺その他全国に凡そ700箇寺といわれる。師ー広智、最澄、元政、義真 。著作ー「入唐求法巡礼行記」など。

    

境内の中のあちこちに見られる大根と巾着が、根の途中から二つに分かれている大根と巾着は「待乳山聖天」のシンボル。
体内の毒と煩悩を消す効果があるとして、大根を供えることは自らを洗い清めて頂く意味合いを持つと云う。
巾着は砂金袋を表しており、商売繁盛を願って、また、大根には身体を丈夫にし、二又が根元で引っ付くことから、良縁を成就させ夫婦仲良く末永く和合でいられますようにとの、願いが込められていと云う。

待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある。

  

「戸田 茂睡」1629ー1706
江戸時代前期の歌学者。名は恭光。通称は茂右衛門。号は遺佚軒・不求橋・梨本など。
父は、徳川忠長の付人「渡辺忠」で、駿府城内で生まれ、忠長の改易に連座して配流(他家預かり処分)された父と共に下野国黒羽で過ごし、
その後江戸に出て、伯父戸田氏の養子となり三河国岡崎藩本多家に仕える。
その後は、浅草や本郷に隠棲し、余生は風雅を友とし、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張。
下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となる。著書には、最初の江戸の地誌「紫の一本」、堂上歌学の因習を攻撃した「梨本集」のほか、
「御当代記」「百人一首雑談」「僻言調」「島の跡」などがある。

待乳山聖天(境内)    戸田茂睡の歌碑                     東京スカイツリーが、
    

「隅田公園」
東京湾に向かって、右岸の台東区浅草、同区花川戸、左岸の墨田区向島。
春には桜が満開になり、夏には隅田川花火大会が行われる。

隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されていて、毎年さくらまつりが開催される。
約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗のはからいにより植えられ、江戸時代より花見シーズには多くの出店が列び賑わう。
子供の頃は、区立の隅田プールがあり、高台の飛び込み台もあり、泳ぎ終わって出ると必ず自転車売るアイスキャンデーを買うのが楽しみ。

桜橋                                           言問橋
  

「滝廉太郎」1879-1903 作曲家 東京 1898年東京音楽学校卒業
19歳でピアノの授業を受け持っている。文部省からドイツライブチ王立音楽院に入学、24歳で世を去っている。
「荒城の月」「箱根八里」など20曲を残している。

隅田公園・声楽曲「花」の碑
    

「市川団十郎(9代)」1838-1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
7代市川団十郎の5男。6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもどり9代を襲名。明治期を代表する役者で「劇聖」とよばれる。
演劇改良運動にとりくみ,活歴物という史劇を創始。新歌舞伎十八番を制定した。
66歳没。江戸出身。本名は堀越秀。初名は河原崎長十郎(初代)。前名は河原崎権十郎(初代),権之助(7代)。俳名は三升。屋号は成田屋。

雪の日の隅田に青く都鳥(子規)の碑                          助六歌碑」
    

江戸時代中期から浅草寺本堂裏手「奥山」には見世物小屋が多く、浅草寺の門前町として活況を呈している。天保の改革に伴って、中村・市村・河原崎
(後の守田)江戸芝居三座、娯楽の中心として栄える。
1873年の明治6年、浅草公園・上野公園・飛鳥山公園・芝公園・深川公園を江戸5公園に指定している。
浅草公園を一区観音堂・二区仲見世・三区伝法院・四区木馬館・五区花やしき・六区興行街と整理されている。中でも六区は大衆娯楽のメッカで
初の活動写真常設館「電気館」が出来ている。大正に入りオペラ・軽演劇・女剣劇などが続いた。

明治時代には、線路の上に車両をひいた馬が走る「馬車鉄道」が 運行したことも。
    

浅草七福神


浅草寺ー浅草観音は、聖観音宗総本山「金竜山浅草寺」と云う。
本坊は、伝法院。創建628年推古天皇時代、駒形の川底から1寸8分(5.5cm)の聖観音黄金像が漁師の網にかかり引き上げられた、村長「土師真中知」が自宅に安置し観音堂としたのが始まると云う。
現在の観音堂は昭和33年再建・雷門は35年・宝蔵門は39年・五重塔は48年に再建している。

境内での、ほうずき市・羽子板市・金竜ノ舞・白鷺の舞・花祭り、隣の浅草神社「三社祭り」5月は、東京三大祭りの一つ。

    

本坊の伝法院は、戦災からまぬがれ、寛永年間・小堀遠州作と伝わる庭園は見る価値がある。
浅草寺の雷門は、向かって左が雷神の像・右が風神の像が安置されている。
「浅草」は、東本願寺・ビューホテル[国際劇場跡)西浅草、国際通り・谷中、鶯谷言問通り・言問橋手前に馬道通り・雷門、吾妻橋が浅草通りで
浅草一丁目に仲見世、新仲見世・六区の演舞場辺りを浅草二丁目で占めている。

    

興行街の六区は、浅草の中心で全盛をきわめたが、映画の斜陽化と池袋・新宿・渋谷に押され演芸ホールを残すだけとなった。

    

今回で池袋~浅草コースの散歩は終わります。

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